沖縄的になれたのにならなかった日本をほっつき歩くーー目次
東京と京都のあいだを往復しながらぼくは気づく、
日本という国は長いあいだ「わかったふり」をしてきた。
他者を他者のまま引き受けるかわりに、
理解という名の身内化で包み込み、
距離を測ることを避けてきたのではないか。
沖縄を前にしたとき、その癖は決定的に露わになる。
「海洋国家になれたはずだったのに、なれなかった日本」。
その違和感を抱えたまま、ぼくは日本各地をほっつき歩く。
定家、漱石、三島、基地、島唄、観光、王権、そして自分自身。
日本文化の深層を支えてきた言葉と感情の構造を、
軽やかに、しかし執拗に問い直す。
これは沖縄論であると同時に、
「他者とともに生きるとはどういうことか」をめぐる、
日本人自身への不穏な自己批評である。
