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沖縄的になれたのにならなかった日本をほっつき歩くーー新大久保 

いかにして新大久保はこれ見よがしな多民族タウンになっただろう? もはや日本の中の外国である。この街を訪れる日本人は観光客になる他ない。よくぞこんなとんでもない場所が出来上がったもの。西葛西暮らしのぼくでさえも、さすがに新大久保はまずいだろと思いながらも、しかしこれほど食欲を刺激される街もそうそうない。私の理性はこの街を警戒する。しかし、おれの食欲はこの街を歓迎する。どうすればいい? まずは食欲に従ってこの街について語りはじめよう、あくまでもぼくの個人的視点に立って。

韓国料理を食べるならば辰家(ヂンガ)だ。
冷製トンチミ( 冬沈)、大根の水キムチの清楚なおいしさ。
豚の腸のなかに、もち米やら春雨やら香味野菜やらを詰め込んで、豚の血で固めてあるスンデ。
コリアン・オムレツ、チヂミ(=ジョン)。
そして、ソルロンタン(雪濃湯)、
おいしさは喩えようがない。

四川料理を食べるならば、駅そばの川覇王(センパオ)だ。

芽菜扣肉yá cài kòu rò 1280円+税がうまいんだ。
豚の三枚肉をチキンスープで蒸す。
正確に言えば、
かるく麻辣感をつけてチキンスープで煮てある芽菜(ヤーツァイ)を敷きつめた上に、
ネギと生姜と紹興酒とスープでもって、
(まず茹でて、次に揚げてある)豚の三枚肉を何枚もかぶせて、
ゆっくり時間をかけて、とろとろに蒸し煮してある。
豚の三枚肉のリッチな脂身がほどよく抜けながらその脂分が芽菜に移り、しかも同時に、芽菜の塩味をともなった野菜エキスが豚肉に浸透してもいて、結果、たいへん繊細かつデリケートな仕上がりのうまみが形成されていて、
何度食べても感動が薄れることがない。

ヴェトナム料理を食べるならば、山手線と平行する黒沢楽器店通りのヴェト・スーVIET XUAだ。
女性オウナー・シェフのアンさんは、ハノイの料理大好き少女がそのまま大人になったような人だ。

「カエルとタケノコの炒め物、ターメリック風味」
「殻つき牡蠣のロースト」
「豚耳とグリーンマンゴーのサラダ」
「蓮サラダ」
「豚の胃袋のチリソース炒め」
「豚子袋蒸し」
「豚ホルモンと高菜炒め」
「海老のビール蒸し」

蒸し山羊のレモン風味サラダ」
すべてがヴェトナムらしく、ヴェトナム料理らしい発想が、
料理の随所に息づいている。


ネパール料理を食べるならばナングロガルだ。
ネパール料理の質実なおいしさを活かしながら、
レストラン料理としてゆたかなメニューを構成してある。

BARA(パンケーキそのほか)
CHATA MORI(ネパーリ・ピッツァ)
CHOELA(マトンを煮てから、スパイスにマリネしたもの)
SEKUWA(マトンやチキンの串焼き)
VUTAN(羊の舌の炒めもの、ラム軟骨炒め、砂肝炒めなど)
CHILI(鶏と野菜のチリ炒め)
PAKAUDA(野菜のてんぷら)
MOMO(各種ネパーリ餃子)
CHOUMIN(ネパーリ焼きそば)
SUKUTI(干し肉=ジャーキーの炒めもの)

一流のネパーリ・レストランを作ろうと意図して、
ちゃんと見事に作ってしまう。
たいしたものである。
ネパール人の誇りがここにある。

そうかと思えば、まるでテントを張るように手狭な店をでっちあげ、
繁盛店が生まれもする。たとえばムスリム横丁入口の煎餅果子(Jianbing Guozi)である。具だくさんのクレープを900円で売る。ストリートフードの楽しさを味わえる。ただし中国人客たちに人気で、日本人客は肩身が狭い。「私、日本人ですけど、大丈夫ですよね」みたいな気兼ねした感覚。しかも、こういう感覚はこの店のみならず新大久保に薄く広く蔓延している。新大久保はもはや完全に乗っ取られているのだ。少なくとも、ぼくの眼にはそう映る。

大久保通り島村印章は店頭で広告する。金、朴、李、姜、刘(500円)。アイン、サムジャナ、ファン、武頼安、フズリェブリス、サルミラ、ウィクトリア。(カタカナ、ローマ字、漢字1200円)。ぼくは感心する、商売人はこうでなくてはいけません。とはいえ、これは新大久保の現実をまざまざと象徴している。

全盛期ほどではないものの、この街のBGMはやはりK-POPである。K-POPは「アメリカで、そして世界で、当ててやる、稼いでやる」という、マーケティングに基づいた戦略と情熱、そしてショウビジネスに要求する基準が高い。もっとも、同じ枠組のなかでやたらと多くのグループが量産されるので、ぼくにとっては賑やかできらびやかで退屈だ。とはいえ、公平に言えばぼくはそもそもEDMにほとんど不感症で、たとえばテイラー・スウィフトにオフィーリアの歌を聴かされても、不吉な予感とともに溜息をつくだけだ。そもそもどこの国のものであれヒットチューンの大半はティーンエイジャー向きのショッピングモールのBGMではあって、けっしてK-POPにとやかくはない。むしろ、K-POPの「当ててやる、稼いでやる」という情熱は韓国スウィーツや韓国コスメにも感じるし、ひいては美容整形の隆盛にも感じる。この貪欲さは健全であり、新大久保によく似合ってる。

余談ながら、去る1月14日、お茶目な高市早苗総理は李在明大統領とともに、BTSの「ダイナマイト」を流し、ふたりでドラムスを叩き合った。あれは高市総理のオフィーリアの歌だったのだろうか。あるいは自民党の? いいえ、その答えは解散総選挙が出してくれるでしょう。ごめん、あのシーンはぼくをたいそうよろこばせ、つい書き残しておかずにはいられなかった。

さて、いかにして大久保はこれ見よがしな多民族タウンになっただろう?

ここで起きているのは、

  • 国家が設計しなかった

  • 物語化もしなかった

  • 責任も引き受けなかった

その結果としての 「移民労働の自然発生的集積」 だ。敗戦後日本の“後始末をしなかった部分”が、時間差で噴き出している現象内側が空洞化した場所に、他者が入り込んできた空間。
移民労働者が勝手に作り上げ、いつのまにか逆に在住していたはずの日本人が半ば追い出され、むしろ好奇心旺盛な日本人が観光客として訪れるガイコクになっているのだ。


この極端な歪みは、日本が、純粋日本というありもしない妄想を固く守りつづけているからではないか。 そのフィクションの中心に、純粋日本という幻想の拠点、京都が君臨しているのではないか。いいえ、この話題に踏み込むのはまだ早い。

・表の顔:
 「日本は単一民族国家」「和を尊ぶ」「同質性」

  • 裏の現実:
     少子高齢化で労働力は足りない
     でも移民国家だとは言いたくない
     だから制度化せず、見ないふりをする

その結果、

移民は“街ごと”発生するしかなくなる

それが、新大久保であり、西川口であり、北池袋、アメ横なのだ。

これは多文化共生ではない。
多文化のゲットー化なのだ。

ぼくは西葛西に暮しているゆえ気がつかなかったけれど、
むしろ西葛西が例外的なのかもしれない。

つづく


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