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沖縄的になれたのにならなかった日本をほっつき歩くーー禅、鮨、そして場に身をゆだねて生きる風雅

前回ぼくはこう書いた。

健全な愛国心なんてものは、どこの国へ行っても生きてゆける人にしか、宿らないとぼくは思うのだけれど。しかし、日本人にはなかなかこの、勝手に生きるという発想と生き方が身につかない。(ぼく自身だって、怪しいものだ。)したがって、ポピュリズムは簡単に移民排除に傾いてしまう。移民抜きには日本経済はまわらないのに。

ーーしかし、こんな意見もまた新しさはどこにもなく、聡明で開明的な日本人の口からもよく言われてきたものである。

対照的に、仏教学者・鈴木大拙はまったく違う。Daisetzは19世紀末27歳で渡米し、以来アメリカ人に禅の精神を語り、西欧的なアイデンティこそが宿痾ではないのか、と問い続けた。かれの言葉は知識人、ビジネスマン、ひいてはすでにかれが日本へ戻っていた60年代にはヒッピーたちの心にまで届いた。これはいったいどういうことだろう? 大拙によって問いは反転する。「日本人はアイデンティティを持てない」のではなく、「そもそも“アイデンティティを持とうとすること”が病理では?」という問いが立ち上がるのだ。ただし、鈴木大拙はけっして日本とは何かを語ろうとしたのではない。そもそも鈴木大拙のフィロソフィの源流には、孔子、孟子、老子、荘子、荀子がいる。しかし、だからと言ってそれを東洋哲学の枠内だけで理解することもまたおそらく違う。むしろかれが翻訳しようとしたのは、「主体を全面に出さずに生きる感覚」そのものではなかったか。

日本橋浜町の明治座の裏手にある海さんという鮨屋の話をしよう。古びた小さなビル。一階はイタリアンバル。段差の大きい急勾配の階段を昇ると、入口の脇には自転車が置かれている。カウンター6席に、2人用2卓×2席。大将の大坂寿一さん(52歳)がおひとりでまわしている。しかも夜営業のみ。内装におしゃれっぽさもなければ、ドラマティックなライティングの演出もなし。ミシュラン攻略の意志もまるでなし。メディアに出たがる気配もさらさらない。おまかせコース1万1千円。店を支える常連さんたちが分厚くついていることが察せられる。

この日ぼくはいつもの女友達(工芸デザイナー)とふたりでこの店へやって来た。ぼくらは軽く雑談を交わし、白ワインで乾杯などして。まず、小皿で提供されたのがホタルイカの酢味噌和え、上品な酢味噌が風雅を感じさせてくれる。続いて小皿で長芋のワサビ漬け。歯ざわりとワサビ醤油の味わいがいい感じ。これが凄い。美しいガラス皿に色とりどりの刺身が飾られています。とろけるような本マグロ、上品な味わいの本マス、ほのかな甘みあるホウボウ、歯ざわりも軽快なフレッシュなトリ貝、絶品の〆サバ、食べてコリコリ楽しいカズノコ、彩りとしてのワカメ。新鮮な刺身は色とりどり美しく、味と食感の振り分けも楽しい。さまざまにおいしい。

さて、握りへと進んでゆきましょう! 握りのサイズは小さいけれど、しかし、それはさまざまなネタの違った味を楽しんでくださいなという大坂さんのもてなしの心意気。ぼくらは大坂さんに導かれながら、次つぎと食べてゆく。ホウボウの握り、ヒラメの握り、アジの握り。たのしいなぁ、おだやかで清楚な味わいでありながら、魚ごとの味の個性がたのしい。


サバの細巻き(シソとガリとゴマの風味!ガリの酸味も良いアクセントになっています。)コリコリした赤貝、むっちりしたクルマエビ(赤いその身は煮切り醤油でてらてら輝いています)、ここであったかい茶わん蒸しが登場!(幸福感を漂わせるうまみたっぷり卵色のフランのなかに、シイタケ片、トリとコンブのうまみが染みわたり、ユズの清楚な香りが心地よい。)続く中トロは昏く赤いその身を煮切り醤油でてらてらてら輝かせ、まったりおいしい。北方領土の、とっろとろの雲丹の軍艦巻き。うまいんだ、これがまた。ホタテも頼んじゃお、でかいんだこれがまた。肉厚で、ホタテのほのかな甘みが上品で。続いてアナゴの握りがまた酒飲みの舌を甘やかす。澄み渡って気品あるホウボウの粗汁(お澄まし)堂々たる一流割烹の味わいです、おれの好きなヤマゴボウ巻きも頼んじゃお。梅シソ巻きもも♡ 大坂さんの明るくたのしいトークを楽しみながら、ぼくらは白ワイン2本も開けちゃって、一流の鮨のよろこびにひたりまくった。


ぼくを愉快にさせるエピソードは、google のこちらのお店のレヴューがまず3人の外国人の感動の声からはじまることだ。(なお以下原文はすべて英語でぼくが翻訳した。)Paul Allenさんは感謝の言葉を述べる、「シェフはぼくを温かく迎えてくれた、ぼく自身はざわついた夕食になるだろうな、とあきらめていたにもかかわらず。陽気な雰囲気のなかで、常連客たちは気さくに会話を交わしながら、ぼくにお気に入りのメニューを惜しげもなく披露してくれる。そのおかげでぼくはさまざまな料理を堪能することができた。寿司の質は格別だ、ウニが個人的なハイライトだ。」


続くDaniel Vasquezさんは歓喜の気持ちを隠さない。「この店はゼッタイ楽しい。開店してすぐに現れたわたしを出迎えてくれたのは、最高に親切な人だった。予約はしていなかったのだが、シェフに"どうぞ、座ってください"と言われ、シェフはわたしの好みを訊きはじめた。言語の壁はあったけれど、シェフが通訳を使うおかげで、われわれは言語の壁を乗り越えることができた。(訳註:通訳とはポケトークのこと。自分と相手が話す言語を70言語に翻訳し、音声と字幕でリアルタイムに伝えてくれる名刺大のソフトです。)しばらくして、一団が部屋を埋めはじめた。そのうちの何人かは英語を知っていて、コミュニケーションを助けてくれた。」

かれらが異国の地で、ほんものの鮨に到達できたことのよろこびが伝わってくるではないか。大坂さんはまったく英語ができないのに、その愛嬌とポケトークと、そしてすばらしい鮨職人のウデで、外国人客をも魅了してしまう。結局ね、いちばん大事なものは言語能力なんかじゃない、むしろ愛と愛嬌、そしてたとえば、サイコーの鮨が放つ魅惑の力なのだ。

そして、もしもさらに踏み込むならば、おそらく欧米人の客たちは、大坂さんの鮨を通じて、自我から解放されるよろこび、自己主張よりも、場に身を委ねる生を味わっているのだ。ぼくはこの問いに引き寄せられる。

鈴木大拙がアメリカで語り続けた禅も、
日本橋浜町の小さな鮨屋で大坂さんが黙々と握る鮨も、
じつは同じ地点を指しているのではないか。
それは「何者であるか」を証明しなくても、
世界と十分に深くつながれるという地平だ。

欧米人の客たちは、異国の鮨屋で、
日本文化を理解したのではない。
かれらはほんのひととき、
自分が自分であることから解放される経験をしたのだ。

もしそれが可能なら――
日本は、アイデンティティを声高に叫ばなくても、
すでに十分に開かれているはずなのだ。

つづく


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