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沖縄的になれたのにならなかった日本をほっつき歩くーー現代日本文学はキラキラ日本の虚構性を暴く

けっして日本文学に限ったことではないけれど。文学は(世界文学を視野に収めつつ)せめて百年ていどの厚みのなかで考えなくては、ろくなことにならない。それは世界の常識というもので、だからこそPenguin 版のNatsume Sōsekiの"Sanshirō"には、Murakami Haruki によるイントロダクション”The (Gently)Sweet Smell of Youth"を添えて、出版される。そういう意味で、文学談義が過度にあてにならない気まぐれな現代に傾くことはあまりにも視野狭窄で危険だ。しかしながら、それであってなお、鴻巣友季子『なぜ日本文学は英米で読まれているのか』(ハヤカワ新書)が、重要なことを言っていることもまた事実ではあって。公平に言って、この両義性を見逃してはならないでしょう。

前章で述べたことを繰り返そう。この本は近年英語圏では、村上春樹のみならず、日本の現代小説が英訳されて大いに読まれ、評価されてもいることを翻訳家の立場からレポートした本である。この本で紹介された英訳されたヒット作を読んでぼくは気づく。日本の現代文学は、英語に翻訳されることで、不気味な抽象性を帯び、脱歴史的なディストピア性を獲得する。村田紗耶香の『コンビニ人間』は非正規雇用の現実を伝える。川上未映子の『黄色い家』は家族の解体、疑似家族、犯罪への傾斜を描く。王谷晶の『ババヤガの夜』はヤクザの世界に引き寄せられた闘う女ふたりの友情を描く。いずれも、剥き出しの残酷な現実のなかで生きる者たちの物語である。逆に言えば、日本語で読んでいるときは、この現実にすっかり馴染んでいるので、小説が備えている挑発的な告発が薄れてしまう。

では、日本社会のどんな現実が、それを生み出しているだろう? 答えは言うまでもない。非正規雇用。貧困。性・家族・労働の空洞化。孤独。はやいはなしが社会全体が非人間的になっているのだ。もちろんそれはけっして日本だけのことではなく、多かれ少なかれ世界的な現実である。しかし、もしかして日本はこの方向において、世界の先を行っているのではないだろうか。だからこそ、いま、英語圏で「脱歴史的な日本文学」を欲しているのだろう。

興味深いことがある。かつて石原慎太郎は、川上未映子の『乳と卵』に対して、苦虫を嚙み潰したような表情で否定したものだ。見たくない現実が描かれているからだろう。これは、カンヌ国際映画祭で最高賞・パルムドールを受賞した映画『万引き家族』に対して、安倍晋三総理はなんの祝福も送らず沈黙を守ったこと。そこで林芳正文部科学相が国会で「是枝裕和監督を文科省に招いて祝意を伝えたい」という考えを示したものの、しかし、是枝監督は「公権力とは潔く距離を保つ」として祝意を辞退したことと、一対の反応に見える。

クリスマスの都心はキラキラに輝き、街にはワムや山下達郎、ビング・クロスビーの歌が流れる。しかし、もはや日本の現実はファンタジーではけっしてラップしきれない。日本でディストピア小説が量産されることも当然である。しかし、他方でぼくは思う。ディストピア小説とて量産の果てには飽きられる。そのとき人はどんな小説に手を伸ばすのだろう? 癒しの小説とてたくさんあるじゃないか? だが、それとてディストピア小説とワンセットではないか。


ディストピアが描かれるということは、そこにまだ「驚き」があるということだ。だが、もし社会の歪みが日常化し、痛みが風景に溶け込んでしまったとき、人はそれをディストピアとしてすら認識しなくなる。日本の現代文学が描いているのは、まさにそのきわどい地平ではないだろうか。

ここで、ぼくは沖縄のことを思う。沖縄は、日本社会がようやく直面しはじめた非正規、貧困、家族の解体、基地、暴力、死といった現実を、ずっと前から生きてきた場所だ。沖縄にとってそれらはディストピア的未来ではなく、現在進行形の現実だった。にもかかわらず、沖縄の文化は、徹底して生き延びるためのユーモアと、歌と、身体性を失わなかった。

日本本土はどうだったか。高度成長と消費社会のなかで、問題を先送りし、ファンタジーで包み込み、いざとなればたとえばラフカディオ・ハーンに教えられた「美しい日本」を演出することで、現実から距離を取ってきた。その結果、いま、ようやく直面しはじめた現実を、ディストピア小説というかたちでしか語れなくなっている。

つまり、日本は沖縄的になれたはずなのに、しかし沖縄的になることを拒み続けた。そのツケが、いま、文学のなかで噴き出しているのではないだろうか。

つづく


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