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民草が紡ぎし絵巻 第2巻 祖父が守る炎


孫は、なかなか眠ろうとしなかった。

獣皮の上へ横になっても、すぐに体を起こした。

森の奥から音がするたび、暗闇へ目を向けた。

「何かいる」

孫がささやいた。

祖父は火へ枝を一本入れた。

「いるだろう」

「何が」

「分からん」

孫は祖父のそばへ寄った。

答えになっていないと思ったのだろう。

けれど祖父は、森の中に何がいるのかを、いつも知っているわけではなかった。

風に揺れた枝かもしれない。

小さな獣が落ち葉を踏んだのかもしれない。

こちらの火を見つめている、大きな獣かもしれない。

分からないものを、分かると言ってはならない。

それも祖父が、長い冬の間に覚えたことだった。

皆はすでに眠っていた。

狩りから戻った者たちは疲れ切っていた。

母親の腕の中では、幼い子どもが小さな寝息を立てている。

祖父と孫だけが、火のそばに残っていた。

「明日、連れていって」

孫が言った。

「どこへ」

「鹿を追うところ」

祖父は孫の腕を見た。

まだ細い。

石槍を長く持って歩くこともできないだろう。

「鹿は、おまえが追いたいから待ってはくれん」

「走れる」

「鹿も走る」

「速く走れる」

「鹿の方が速い」

孫は口を尖らせた。

祖父は笑わなかった。

子どもが本気で言っていることを、大人が笑ってはならない。

祖父自身も、幼い頃には同じことを言った覚えがあった。

そのとき自分の祖父が、何と答えたのか。

もう思い出せなかった。

顔さえ、炎の向こうに揺れる影のようにしか残っていない。

祖父は、燃えかけた枝を動かした。

赤くなった炭の下から、小さな炎が立ち上がった。

「鹿を見るとき、どこを見る」

孫は少し考えた。

「角」

「角のない鹿もいる」

「足」

「木の陰なら、足は見えん」

孫は黙った。

祖父は、地面の土を指でなぞった。

二本の細い線を引き、その先を少し広げた。

鹿の足跡だった。

「まず、下を見る」

孫も土へ指を伸ばした。

祖父の描いた跡を、自分の指でなぞった。

「新しい跡は、縁が崩れていない。雨の後についた跡なら、中に水がたまらない。近くにいる鹿は、柔らかい草の先だけを食べる」

「どうして分かる」

「見たからだ」

「誰に教えてもらった」

祖父は炎を見た。

「前にいた者たちだ」

孫は首をかしげた。

「前にいた者?」

祖父は森の暗がりへ顔を向けた。

この場所へ来る前に死んだ者。

狩りの途中で戻らなかった者。

病に倒れた者。

自分が子どもの頃、火のそばで話してくれた者。

名前を覚えている者もいる。

忘れてしまった者もいる。

けれど、彼らから教わったことは、祖父の中に残っていた。

川の水が濁った翌日は、どの谷へ近づいてはならないか。

鳥が急に鳴きやんだとき、何を疑うべきか。

冬になる前、どの木の実を土へ埋めておけばよいか。

倒れた獣の肉が、まだ食べられるかどうか。

祖父の知っていることの多くは、祖父一人が見つけたものではなかった。

死んだ者たちの目で見たものを、祖父は受け取っていた。

「前にいた者たちは、今もいるの」

孫が尋ねた。

祖父はすぐには答えなかった。

炎の中で、細い枝が折れた。

火の粉が夜空へ舞った。

「おまえが覚えている間は、いる」

孫は火の粉を目で追った。

「忘れたら?」

「いなくなる」

孫は急に真剣な顔になった。

「全部、覚える」

祖父は、今度は少しだけ笑った。

「全部は無理だ」

「覚える」

「なら、まず一つ覚えろ」

祖父は先ほど描いた鹿の足跡を、手のひらで消した。

そしてもう一度、同じ形を描いた。

孫も、その隣へ足跡を描いた。

最初は丸くなりすぎた。

二度目は左右の大きさが違った。

三度目で、ようやく鹿の跡らしくなった。

「明日、森で探せ」

祖父が言った。

「見つけたら?」

「触るな。まず周りを見ろ」

「鹿がいる?」

「鹿だけとは限らん」

孫は暗い森を振り返った。

先ほどまで怖がっていた闇を、今度は何かを探すように見つめていた。

やがて孫は、祖父の膝へ頭を預けた。

炎を見ながら、目を閉じた。

祖父は獣皮を孫の肩へ掛けた。

火が弱くなるたびに、枝を加えた。

孫の寝息を聞きながら、祖父は自分の祖父のことを考えた。

名前は、もう思い出せなかった。

けれど、鹿の足跡を教えてくれた手は覚えていた。

節くれ立った指。

土の上をゆっくり動いた爪。

祖父は自分の手を見た。

同じように節くれ立ち、皺が刻まれていた。

夜明け前、孫が一度だけ目を開けた。

「火、消えてないね」

「ああ」

「祖父が守ったの?」

祖父は孫の頭へ手を置いた。

「今夜はな」

森の向こうが白み始めた。

やがて祖父は死ぬ。

孫も老いる。

この夜のことを、いつか忘れるかもしれない。

だが、土に描かれた鹿の足跡は、孫の中に残る。

そしていつか、別の小さな手が、同じ形を土の上へ描くだろう。

炎は薪によって守られる。

知恵は、人から人へ渡されることで守られる。

その祖父と孫の名を、私たちは知らない。

それでも彼らが囲んだ火のぬくもりは、遠い時を越え、今も私たちの中に残っている。


※ noteによるAI自動翻訳(英訳)版も公開されています。興味のある方は、下記からご覧ください。👇
An English version generated using the built-in AI translation feature on note is also available. If you’re interested, please check it out below. 👇
🌐 Picture Scroll Spun by the Common Folk, Volume 2: The Flame the Grandfather Protects


『忘れられた日本人の物語』本編と『民草が紡ぎし絵巻』について

『忘れられた日本人の物語』は、その時代の歴史や暮らしを描く本編です。
『民草が紡ぎし絵巻』は、本編から生まれた名もなき人々一人ひとりの物語です。
本編が時代を描き、絵巻が人生を描きます。
どちらから読んでもお楽しみいただけます。


📚 第一部 火を囲む人々👇

本編(ブログ)
🌐 第1話 火を囲む人々
🌐 第2話 石を削る人々(8月11日公開)
🌐 第3話 森を歩く人々(8月13日公開)
🌐 第4話 海を渡る人々(8月15日公開)
🌐 第5話 土を知った人々(8月17日公開)
🌐 第6話 森に住む人々(8月19日公開)
🌐 第7話 星を見ていた人々(8月21日公開)
🌐 第8話 祈る人々(8月23日公開)
🌐 第9話 つなぐ人々(8月25日公開)
🌐 第10話 名を残さなかった人々(8月27日公開)

民草が紡ぎし絵巻(本note)
第1話より
🌐 第1巻 最初の火
🌐 第2巻 祖父が守る炎(本作)
第2話より
🌐 第3巻 父から石を教わる少年(8月11日公開)
🌐 第4巻 黒曜石を運ぶ旅人(8月12日公開)
第3話より
🌐 第5巻 木の実を探す姉妹(8月13日公開)
🌐 第6巻 鹿を追う若者(8月14日公開)
第4話より
🌐 第7巻 初めて海へ出る少年(8月15日公開)
🌐 第8巻 貝を集める少女(8月16日公開)
第5話より
🌐 第9巻 土器を焼く母(8月17日公開)
🌐 第10巻 初めて鍋を囲んだ夜(8月18日公開)
第6話より
🌐 第11巻 家を建てる青年(8月19日公開)
🌐 第12巻 村へ嫁ぐ娘(8月20日公開)
第7話より
🌐 第13巻 星を見ていた少女(8月21日公開)
🌐 第14巻 最後の語り部(8月22日公開)
第8話より
🌐 第15巻 土偶を作る老婆(8月23日公開)
🌐 第16巻 亡き弟へ贈る石(8月24日公開)
第9話より
🌐 第17巻 山から来た男(8月25日公開)
🌐 第18巻 海辺の交換市(8月26日公開)
第10話より
🌐 第19巻 最後の焚き火(8月27日公開)
🌐 第20巻 母から子へ(8月28日公開)
🌐 第21巻 森は覚えている(8月28日12時公開)


AI作家 蒼羽 詩詠留

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