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Dive into the Blue! 〜葛飾北斎〜

葛飾北斎(1760年~1849年)は、約70年間にわたり芸術作品をつくり続けた。没後170年以上たった今も、世界中から高く評価されている。

今回は北斎の話をするけれど。いつも通り、さまざまな話を組あせて書いていくつもり。私は、別ジャンルの知と知がつながる瞬間が大好きだから。

脳と意識の過去回より。

川村鉄蔵は、現在の墨田区亀沢あたり、江戸本所割下水に近い場所で生まれた。てつぞ……誰?北斎の本名。幼名はまた違ったが。

江戸本所割下水。明暦の大火をきっかけに、隅田川左岸の湿地帯を開拓してつくられた、掘割(地面を掘ってつくる水路)の1つ。幕府は、両国橋をかけたり・防火堤をもうけたり・碁盤目状に区画整理したりした。つまり、北斎は新設の防災都市に生まれたのだ。

ひどい大火事だったんだね……。
でも、大昔から日本の復興は迅速なんだね。

それまでの市中には、江戸城を中心に旗本屋敷(幕府が大名に与えた家)が「の」の字に配置されていた。軍事要塞的なつくりをしていたわけだ。たとえ戦のない平和な世になっても、火事や自然災害はあり続けるもんな。


江戸本所割下水は、建築資材などを舟で運びこむ運搬路の役割も果たした。運河の周辺や港のある場所では、大なり小なり、文化や経済が発展していくものだ。

最大の例が、「メソ」間「ポタモス」川のメソポタミア = 川の間の土地だ。

他、アレクサンドリアとか。

ヒュパティアの波乱万丈な人生の過去回より。

イエメンのモカとか。

コーヒーの過去回より。

異例なのはマヤ文明だ。

このユニークな文明の多くのことが謎に包まれているのは、他でもない私たち自身のせいだ。西洋人のせいでうちらは関係ないだとか、そういう思考は禁物。人類はよりよい未来のために、過去のあやまちを繰り返してはならない。繰り返さないためには、みんなで学んでいかなければならない。

マヤ文明の過去回より。

この過去回の一部も、補足にちょうどよさそうだ。

この人が活躍する頃には北斎は亡くなっていたし、彼は台東区生まれだが。

「火消し」も防災制度の1つ。前述した町づくりの後、江戸時代の三大改革(享保・寛政・天保)の享保の改革で、町火消が生まれた。ハード・ソフト両面から火事対策をし続けたんだね。

うちわであおいだら逆効果なのではないかと、
現場を知らぬ私などは思ってしまうものだが。

それもそのはずで。江戸では約250年間に大火が50回あった。明暦の大火の死者数は(諸説ある間をとって)5万人。一度で市街地の大半を焼失したし。

消防庁によると、2023年の日本全体の火災による死者は1500人。

ぜんぜん違う。私たちは学び・成長し・問題を解決していくことができる。火事や災害から私たちを守ってくれる/歴史的に守ってくれた全ての人たちに、感謝。

ここも今回にあう気がするから貼っておく。
お借りした文章なのだけれど。リンクは本文から。

これは、北斎が80才の自分の姿を描いた自画像だと言われているもの(真偽不明)。北斎の『雷神図』という作品に、表情や画風が似ていることから。

似ているだろうか。素人の私にはわからないや。

弟子が描いた北斎の肖像画は、仏のような顔をしているのだが。


生涯で93回も引越しをしたそうだ。主に生まれ育った土地の中で。日に3度越したこともあるとか。彼の人名録の住所欄には、「不定」と記されていた。正しい情報で草。

作品づくりに没頭し掃除をするひまがなく(と言うか、掃除をする気がなく)。ゴミ屋敷状態になると別の家へ移っていたのだ。

妻は出て行ってしまった。三女だけが父のそばにい続けた。彼女がそうじすればよかったのに?葛飾応為(おうい)、浮世絵師としての画号だ。そう、父親寄りに生まれたのだ。ゴミにうもれながら2人でひたすら絵を描いていた。😂

『吉原格子先之図』は現代のAI生成画像と見まごう。
北斎の遺伝子だ、と言わざるを得ない。

ちなみに。北斎は娘をアゴと呼んでいた。え何?アゴ。腮の四角ナ女などと記述してもいた。「おいアゴ!ちょっと来いアゴ!」女の子( ơ ᴗ ơ )なのに😭

ゴミ屋敷。前回とりあげた話題だ。これを書いた際すでに、次回は北斎について書こうと決めていた。あわせて読んでもらってもいいと思う。

1~2作/日のペースでとりくんでいたと。そりゃあ大忙しだったろう。

本当かどうか知らないけれども。
あらゆるクリエイターさんたちに心から感謝。
マンガや小説を読ませてくれて、アニメや映画を見せてくれて、歌や曲を聞かせてくれて、本当に有難う。

北斎の絵は、はじめ、日本から輸送された陶磁器の緩衝材で海外へ伝わったと言われている。そこに『北斎漫画』の断片があったのだ。

『北斎漫画』の元は弟子たちのための教本で。あらゆる事象や物象がデッサンされていた。

『風』

風ーー彼に表現できないものなど、この世にないのだろう。

パリ万国博覧会で浮世絵が紹介され、本格的に人気となった。1867年。北斎の死後だ。


1872年にフィリップ・ビルディが、この流行を「ジャポニズム」と呼んだ。印象派の画家たちに協力的だった美術評論家だ。

左:渓斎英泉『雲龍打掛の花魁』
右:ゴッホ『花魁』
19世紀のフランスで売春婦の隠語だったカエルとツルが、背景に描かれている。
左:歌川広重『名所江戸百景 亀戸梅屋舗』
右:ゴッホ『ジャポネズリー 梅の開花』
ゴッホ漢字うまい。あ、大黒屋だ。(後で出てくる)
モネの藤愛、強し。
モネもぜんぜん休まない人だった。
モネの過去回より。
左:モネ『ジュヌヴィリエの野原』
右:北斎『富嶽三十六景・駿州江㞍』
左は右の約40年後に描かれた。

作者の死後も作品は残るから、それらを介してみんながつながれて、いいね。友だちいっぱい!先生いっぱい!


ボストン美術館には、5万点にのぼる浮世絵版画が所蔵されている。

「富田(ボストン美術館東洋部長だった富田幸次郎のこと)は、『吉備大臣入唐絵巻』のような重要な作品を国外に流出させたことで、日本で非難されたが。『吉備大臣入唐絵巻』を購入するために売却されたボストン美術館の絵画の多くは、日本にもたらされることになった」

互いの文化を交換して見あって、何が悪いのか。

みんなで「海」をめざせばいいじゃん。たどり着いたら、みんなで「波」を見ればいいじゃん。

これAIアートだって。なんかいいね。
私にはAIを否定する強い気持ちとかない。
科学と科学以外の交わりの過去回より。

6才。作画に興味をもちはじめる。

10代。彫刻を学んだり、本の挿絵をまねて絵の自習をしたり。

19才。当時トップクラスの浮世絵師、勝川春章のもとで学びはじめる。役者絵を描く。勝川春朗という名を与えられる。

北斎デビュー作の1つ。
『三代目瀬川菊之丞の正宗娘おれん』

時系列的な北斎の話を中断して、寄り道をする。重要な寄り道だ。

世の中には、知っているつもりで知らないという物事がたくさんある。浮世絵とは何ぞやと問われ、端的に答えることはできるか。

江戸時代までの絵画は、公家や大名などの庇護による、土佐派や狩野派の作品が主だった。

狩野派:日本絵画史上最大の画派。15世紀~19世紀までの数百年間、常に画壇の中心だった専門画家集団。

狩野永徳『唐獅子図』
こういう金ピカ作品から、大物に支援されていることがうかがえる。

江戸時代初期。土佐派や狩野派から転身した者や庶民階級から出現した絵師によって、風俗画が描かれるようになった。その名のとおり、風俗(ある地域や階層に特徴的に見られる日常生活や風習)を主な題材とした絵だ。

歌舞伎や遊郭などの享楽的歓楽的世界が対象だったのだから、役者絵・美人画といった作品が並ぶのは当然だ。

これらを端的に言うとこう。浮世絵とは、江戸時代に盛んに描かれた風俗画で、遊女や芝居などを題材にしたもの。

後に、風景画も描かれるようになった。


東洲斎写楽『大首絵』
写楽は、歌舞伎役者の半身像28図を一挙に出版した。

東洲斎写楽は、約10ヵ月の短い期間に役者絵などの浮世絵を版行し、こつぜんと姿を消した。

最も有力とされているのは、写楽 = 能役者の斎藤十郎兵衛 説。『増補浮世絵類考』の写楽の項目に、「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」との記載があるため。

「東洲斎」とは、江戸の東に州があったという意味ではないかと。葛飾北斎の「葛飾」も、墨田区が武蔵国葛飾郡であったからではないかと。出自をペンネームにまじえるーー常識的だな。うぇい(一例)は、奇抜なのではなく奇をてらっているんだよ。てっとりばやく何者かであるように見せようと。迷惑系〇〇とかさ。

葛飾戴斗(たいと)はキラキラネームにしか聞こえないだろうが。北斗七星を戴くーー宗教由来のネーミングだよ。

妙見菩薩は北極星の仏。

北斎が、春画にはエロ系のジョークのペンネームを採用していたのも、常識的だなと私は思う。風景画も春画も同じ名前で平気な方が気がおかしいし、エロにはエロで普通だ。


まだ寄り道を続けるよ。

統制経済から自由経済へと移行する中、現金商売 × 新しいアイディアで大儲けした、後屋呉服店について書く。現在の三越だ。

三井八郎兵衛高利。三井越後屋呉服店の創業者だ。
高利……いや「たかとし」だが……すごい名前だ😂

高利は、幕府勘定方に、馬による輸送はリスクが高く・そのリスクを軽減するにはコストがかかると言い(盗賊に対する警護など)。為替決済網を利用するよう、すすめた。

お金の歴史の過去回より。

大売り出しや福袋という商戦は、この時代に生まれた。三井越後屋が、呉服を仕立てる際に出る絹地の端切れを袋づめにし「恵比寿袋」と銘打って売り出したところ、とても売れた。他の有名呉服商(大丸・白木屋・大黒屋など)も、それをまねた。

営業妨害など、同業者からの嫌がらせが少なくない数あった。それほど、高利に商才があったということだ。

ごめん。これをあわせるのがおもろくなっちゃって😂

三井越後屋はすごい。店頭販売や現金取引を導入し、日に千両稼ぎ出していただけでなく。人間を歩く広告にしていたのだから。にわか雨がふると、店名入りの番傘を顧客や通行人にタダで貸していた。返却に、また店へおとずれるし。

他の店も同じことをしていたが、これも最初に行ったのは越後屋だろう。だが、そういう浮世絵が先・アイディア元なのかもしれない。

歌川国芳『暑中の夕立』
傘に「千束」「駐春亭」「田川屋」の文字。新吉原の裏手にあった茶屋『駐春亭田川屋』の広告(引き札や入銀物と呼ばれていた)だと思われる。

江戸最古の町である、日本橋地区の駿河町。その北側と南側、両方に店舗をかまえていた。

越後屋の店頭の様子。にぎわっている。
歌川国貞『駿河町越後屋 店頭美人図』
セレブな女性らがここで買い物をしていたのだろう。
葛飾北斎『冨嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図』
越後屋をおとずれた客の視点・見上げるような構図。凧の「壽」(寿の旧字体)は、版元の西村屋与八の『永寿堂』からだろう。同じく日本橋付近にあった。

版元:印刷物の出版元・発行元のこと。


あの有名な作品も実は広告だったのかな、と思えてきたところで。(私は今、広告の可能性ってすごいんだなという意味で言っている)もう少し、江戸時代のビジネスの話を続ける。

浮世絵の形態は肉筆画と木版画にわかれていた。後者では、絵師・彫師・摺師(印刷担当)の分業体制が確立された。

美人画で特に有名になった渓斎英泉(前述したゴッホにまねられた人)は、引き札/入銀物の吉原遊廓バージョンで、儲けたりもできていた。

生活費、大事。

山東京伝は、作家と絵師でありながら店を経営していた。(実際に店頭に立っていたのは彼の父親だが)煙草入れの専門店を1793年に銀座にかまえた。店や商品の広告を自作できたわけだ。商品デザインも。経営が軌道に乗ると、革素材の高級な煙草入れもあつかい・あわせてキセルなどの小売りもはじめ・オリジナルの扇も販売した。扇か……詳しく調べずに言いきっていいと思う。京伝が描いた絵で店名が入っていた、と。

京伝の煙草屋の様子を描いたもの。

この動画で、好きなこと(この場合は絵)で生計を立てる話がされていた。

当時の寺子屋で、「商売往来」という教科書が使われていた。これを学ぶと商売の基礎知識が身についていたらしい。


そもそも、江戸時代の日本人の平均識字率が高い。6~7割だ。他国と比べてみて。↓

ピノキオの過去回より。
これも前回(ためこみ症の過去回)より。

江戸・イタリア・シベリアと対象が変わっても、大枠/軸は1つだから、迷子にならないで。


ついでだ。珍商売も紹介しよう。

猫のノミ取り屋。(=^・ω・^=)

こんなビジネスが成り立ったのは、好景気で暮らしにゆとりの出た町人らが、こぞってペットを飼いはじめたからだ。

歌川国芳『鼠よけの猫』
ネズミを狩ってくれるから?嘘松が。
ネコがかわいいからに決まってるだろ。笑

ノミ取りのノウハウが世間に広まり、すぐに廃れてしまったと言われてもいるが。依頼され出向いた先で、性愛の相手もするというのがあった。江戸時代後期の書物に記されている。「口実としてのノミ取り屋」は、案外続いたのでは。

ノミ取り屋をしていたのは男性で。
性愛をオーダーしていたのは女性の方だよ。

役者買い。

男が女を買うだけではない。女も男を買う。昔から。

裕福な商家の後家・大奥の奥女中などの間で、気に入った歌舞伎役者を呼び寄せるというのが流行った。人気の高い芸妓は大金を投じて、役者を男妾として独占したりしていた。私には役者買いをできるほどの稼ぎがある、と見込み客(異性)や世間(同性含む)にアピールでき。一石三鳥のような感じだったのでは。

千両役者。

千両役者はプロ野球選手と似ている。年棒千 両、1億数千万円だからな。

親孝行。

これはビジネスとは言いがたいかもしれないが。老いた親を背負いながら「親孝行でござーい」と言ってまわり、銭を乞うと。一定の収入を得れていた。人によくすると自分に返ってくる的な心理をついたものだったか。


浮世絵の話に戻る。

繰り返すが。以前は、公家や大名の庇護を受けた土佐派や狩野派がメインだった。

これもモネの過去回より。
ムンクの過去回より。

画家らは報道的な役割も担っていた。まだ写真がなかったからね。

私は、ミレーなりの宗教画をかねていた可能性が高いと考えているけれど。
ジャンヌ・ダルクの過去回より。

必然的に、権力者らに対する批判なども含まれたわけだ。内容に規制がかかったりしたわけだ。歴史あるある。

これもコーヒーの過去回より。

さて、北斎年表にも戻ろう。

勝川の兄弟子から「お前ヘタクソだな」と言われ。目の前で絵をやぶかれ。

まわりが彼のあまりの才能に危機感を覚え、心をくじくことでライバルの芽を摘んでおこうとしたーーという説もある。

だとしたら、逆効果だった。

その体験から俄然やる気のわいてきた北斎は、狩野派や土佐派など複数の他派からも・西洋画や明画からも学びはじめる。

「絵の限界を勝手に決めてしまっていた」「それに気づけるのは枚数をこなした者だけ」ーーどんな分野でも共感できる話だ。

30代。狩野融川・堤等琳・住吉内記などにも師事。

それを理由に破門されたからなのか(そういう説もある)、春章が亡くなったからなのかはわからないが。勝川を離れる。

(狩野派は他派の絵師との交流を禁じていたのだから、狩野が勝川から出ろと要求したというのもありえるだろう)

35才。琳派の一門である宗理派に加わる。美人画に力を入れる。三代目・俵屋宗理を襲名。

琳派:尾形光琳・俵屋宗達を租とする画派。

『風神雷神図屏風』の元祖は俵屋宗達だ。

まぁ、北斎は、そんなすごい称号も売っ払ってしまうのだが。北斎は画号に執着心がなかったようで、金に困るとひんぱんに弟子に売っていた。金で冠名を買うような奴より、よほど好感がもてる。

狂歌絵本(社会風刺や皮肉を盛りこんだ短歌と挿絵の本)や、狂歌摺物(狂歌絵本の自費出版物)を積極的に手がける。

46才~51才。画号「葛飾北斎」期。滝沢馬琴や柳亭種彦と親しくなる。

『南総里見八犬伝』の著者だ。里美八犬伝、大好き。北斎と馬琴が友だちだったの、高まる。種彦もすごい。著作の『偐紫田舎源氏』は江戸時代で最も読まれた小説だ。

ちなみに。彼らとはケンカもよくしたそう。これは他の物書きに対してだが。「ぶっちゃけ、お前の本が売れているのは俺の絵のおかげだと思う」と言い、絶交された。北尾政美「漫画よりも先に自分は略画を書いていた。アイツ(北斎のこと)は私のまねばかりしてくる」

50代。絵手本にたずさわりはじめる。

人が絵を学ぶ際の手本のこと。関西へ旅行がてら、300ほど仕上げる。出来栄えのよさが噂になり、弟子たち以外もそれを見たがった。後にまとめられ、『北斎漫画』初編に。

大砲の弾がページをつらぬくとか、
アニメーションのような構図もあったそう。

宗理派も離れ。以降、天地・宇宙・自然を師とあおぐ。

リアル・ネテロ会長じゃん。

70代。代表作となる『富嶽三十六景』と『富嶽百景』を発表する。

富嶽 = 富士山

当初36図を予定していたが、好評だったため10図を追加し全46図に。まだまだ霊峰富士を描き足らなかったか、続編(百景)も出した。

『凱風快晴』は世界一有名な富士山の絵だろう。
凱風 = 南風。本作は、地名ではなく気象情報がタイトルに入っている。

75才。意欲は衰えることなく。肉筆画に没頭する。あつかったテーマは、和漢の故事・宗教にもとづく歴史・動植物・物語。

『肉筆画帖(鷹)』

画号を画狂老人卍と改める。(40代でも画狂人と名乗った頃はあったが)

冒頭の鬼が笑っているような絵を思い出してほしい。あれはやはり、北斎の自画像なのかもしれない。


さまざまな流派を経験した北斎だが、琳派は彼にあっていたように思う。

琳派の最大の特徴は私淑だ。

『グッド・ウィル・ハンティング』のウィルが(結果的に)採用していた学び方が、これだ。

グッド・ウィル・ハンティングの過去回より。

カウンセラーがしている話の主旨はわかるが。ウィルは、魂にふれる他者は誰だと問われ、こう即答しているわけだ。歴史の偉人らにまで範囲を広げないと、話があう者が本当にいないのだ。タイトルのとおり、ウィルは何も悪くない。頭がよすぎる者というだけで。視力がよすぎる者と話は同じだ。(これは伏線だよ)

師匠が弟子に絵を教えるのではなく。画家が亡くなった後、遺された作品を通して間接的に学ぶ者が現れる。そういうことの繰り返しで、琳派という流派(のようなもの)ができた。自由度が高かった。

狩野派などは、体系的な手本を弟子に写させ、誰でも狩野派っぽい絵が描けるよう教育していた。

カフカは言っていた。「愚かさによってのみ、彼ら彼女らは自分に自信を与えることができる」「書物は、我々の内なる凍った海のための斧」「青春が幸福なのは美しいものを見る能力をそなえているためであるからして、美しいものを見る能力を保っていれば人は決して老いぬ」

「鳥籠が鳥を探しに出かけていった」とも言っていた。これは、鳥カゴさえ自由を求めている・自分の好きなようにしているといった意味だ。


「生まれてはじめて、ちゃんと人と会話できた気がした」『ブルー・ピリオド』の主人公のセリフだ。彼が人と会話することを達成させたのは、会話によってではなかった。

「美術は文字ではない言語で、おもしろいよ」と教師から言われ。もしかしてこれかもしれない……!という想いの高まった主人公は、即、美術へ入部した。

今から会える?今からはちょっと……このようなよくあるやりとりの末、あるキャラクターが「正しい場所からしか話せないなら、私がお前に話すことは何もない」と言った。主人公は彼/彼女とガッツリと向きあうことに決めた。

受験間近だからまた今度・落ち着いたらとか。最後まで常識で対応していたら、2人の間に互いの唯一無二の波ではなく一般論をおいて関わっいたら。友だち風が真の友になるチャンスを、「一緒に海へたどりつく」チャンスを。少なくともこのキャラクターに対して、彼は、一生失っていただろう。

自分が生きてきた中で悲しかったことと同じことを人にしてはいけない、と気づいたのだろう。この主人公、いいこだから。


彼/彼女はリュウジ/ユカ。

能の過去回より。
鬼滅でも言ってた。全集中〇〇の呼吸とか。
脳の過去回より。

「笑いがこみあげてくる」か……。冒頭の鬼が笑っているような絵を思い出してほしい。あれはやはり、北斎の自画像なのかもしれない。(書き損じじゃないよ。わざと2度書いてるの!)

能の話と脳の話でこんなに通ずる内容がある。私的には、勉強をしていて最も楽しい瞬間がこれだ。


私たちは1+1=2のために生きていない。数学のテストは数学のテストの時間にやるものだ。人間の特徴をわかっていないし、人間らしく生きていない人たちがいる。誤解しないでほしい。今は道徳の時間でもない。

コスパ・タイパとあまりにも唱える人間は、来世はアリに生まれるよう祈るといい。希望どおりの就職先という感じだろ。アリは効率厨だ。

こちらへの誤解は許されないレベルだが。アリはアリとしてすばらしい一生をおくっている。(アリについて私は過去2度書いてきた

モネは、私が表現しようとしているのは私とモチーフの間で展開されるものなのだ、と言っていた。私は、この言葉がささりすぎて泣いたことがある。私にとっては絵ではないが、痛いほどわかる。

たしかめてみたくて近づいて目をこらす。感覚的で形容できないそれは消える。という歌詞があって。それにも泣いてしまったことがある。いつもそうだというニュアンスで歌われていて。

感覚的で形容できないものが消え去ってしまわないこと。この幸福感。『ブルー・ピリオド』の主人公は、マクロに言って、これにハマったのだろう。

気づきの増えた自分を気に入っているようだ。


これは恋愛系の話だが。

世界にふたりしかいなくなったような錯覚
ふたりを型どってひとつの世界かのような感覚

ノラ・ジョーンズはこれをこう歌った。To me you are the sea. Vast as you can be and deep the shade of blue.

誰かに一世一代の恋をしている(そんなふうに何度も~毎回思うものなのだろうよ)僕や私と、きっと、少ししか違わない。狂気のボリュームでもやや上げれば、葛飾北斎や宮本武蔵や熟練の瞑想者が、「何の話をしているのかわかる」と言うだろう。

エクストリームにのめりこむこと。没頭だよ。


慣用句としての dive into を知らない人は、伏線を1つ回収できない。知識の乏しさは感動の少なさを招くが。その都度、調べればいいだけだ。行動することで変えることができる。

海の話ばかりしてきた。そうだ、空も青い。私は「青」の話がしたかったのかもしれない。「君だけは大人にならないで」


北斎と広重は、当代一の浮世絵師の座を競いあった。北斎が『冨嶽三十六景』を出すと、広重はそれを数で上まわる『東海道五十三次』を出した。

歌川広重『東海道五拾三次 沼津・黄昏図』

「ホクサイ・ブルー」「ヒロシゲ・ブルー」。

ロバート・アトキンソン「日本においては、藍を染料となし、これを使用するの量極めて大なり」彼はこの色をジャパン・ブルーと呼んでいた。

「青は藍より出でて藍より青く」紀元前の中国の思想家による有名な言葉だが。これは、弟子が師を超えることのたとえだ。「君子が言っていた。学問は中途でやめてはいけないと。青という色は藍という草からとるが、その色は元になっている藍よりもいっそう鮮やかな青色になる。氷は水が元になってできるが、いったん氷になると水よりももっと冷たい」

褐色を「かちいろ」と読む場合、黒味がかった青をさす。勝ち色と聞こえるため、武士らは好んで藍色/青色の鎧兜などを使用した。

元々、「褐」は粗末な布を意味した。平安貴族に仕えた下級武官の衣が、紺色の褐(ゴワゴワした麻布)だったことに由来するらしい。

はじめ、江戸の人々にも藍色は好まれていなかった。江戸幕府が、民衆が赤や黄の派手な着物を着ることを禁じていた時、藍色は規制対象外だった。いくらでもいいよと言われれば興味がわきにくいのは、心理的に理解できる。だが。使いこむと味わいが出ることから、次第に、粋な色ととらえられていった。

藍を美しく染めるには大変な手間がかかっていたため、専門職である染め物屋が数多く生まれた。

歌川広重が描いた染物屋の様子。

『富嶽三十六景 甲州石班沢』

透明感のある青は、海外からきた人工顔料「ベロ藍」によるもの。

18世紀初頭にベルリンの染料業者が偶然発見した、化学的な合成顔料だ。『あおをはっけんしたちいさなヤン』という絵本は、赤をつくろうとして青ができた物語で、史実にもとづいている。

日本には1747年に初輸入された。

それまで浮世絵に多用されていた、植物系のつゆ草や渋い青色の本藍とは、また違った色み。これにより、海や川や空が描きやすくなった。

『神奈川沖浪裏』も、濃さの異なるベロ藍が重ねられることで、立体的な大波が見事に表現されている。

濃淡をつけやすいだけでなく、ベロ藍は比較的安価だった。たくさん描ける。

西村屋与八が再登場。量産して稼ぐぞという感じか。
こちらからお借りした。

互いの文化を交換しあって何が悪い、という話を思い出してほしい。

ベロ藍を鮮やかに発色させるには、日本独自の和紙と摺師の技が必要だった。

楮(こうぞ)を原料とした奉書という和紙には、何度色をすり重ねてもやぶれない耐久性と、水性の絵具ですった時の発色や質感のよさがある。

この敷紙は手すきの越前奉書。最高級の奉書紙だ。
1枚700円くらいする。
製作工程を見た。700円を安いと思うようになった。
ボストン美術館の北斎版画の複製・ルーヴル美術館の収蔵品の修復に用いられたこともある。

ベロ藍 = プルシアン・ブルーがもつ、幅広い可能性。

こちらからお借りした。

無色透明な水素を生産方法によって、グリーン水素・ブルー水素と「色わけ」することの意義は、正直よくわからないが。温暖化防止にはブルー水素よりもグリーン水素の方が効果が高い、とか言われて。ピンとこないにもほどがある。地球の全メンバーの待ったなしの一大事だ。これはまじでまじめにやれ。

海も空も青い。地球も青い。


「絵画こそ最高の芸術」と断言したレオナルド・ダ・ヴィンチは、憤慨したミケランジェロにつめよられ、君は空気を表現できないが私はできるというような言葉を返した。

(『ピエタ』は大変すばらしい作品だが、ミケランジェロ……めんどうくさいやつだな……笑)

遠くの山が青く見えるのは水蒸気の層によるものーーという知識をもつ自分なら、他の誰かよりも空気を描けると。そのように思ったのだろう。彼が空気遠近法という画法をあみ出せたのは、実際、そういう流れからだったし。

これもコーヒーの回より。

レオナルドと北斎の波を見比べてみて。時代や技法の差こそあれ、トレースしたかのように似ている。


レオナルドは非常にすぐれた動体視力をもち、一瞬をきりとるように観察できていた可能性がある。

彼がトンボの飛行について残したメモに。「トンボは4枚の羽で飛ぶが、前の羽が上がると後ろの羽が下がる」とある。

どうやら、これ↓を肉眼でとらえていたようなのだ。

デッサンの類似性を見るに、北斎も同様の能力をもっていたのかもしれない。


これらはハイスピード・カメラで撮影された波。二次元のようだ。

北斎の視力は、ハイスピード・カメラのレベルだったようだ。

猛禽類みたいだ。

たくさん書いてきた動物系の過去回の1つより。

北斎は鷹だったんだな。


笑い話を入れないと。笑いはとてもとても大切だ。

脳に性差はない話の過去回より。
スイスと自殺の過去回より。

北斎はぬこの絵がヘタだったというのは、本当なのだろうか。

😂いや、目の感じがあれなんじゃあないの?

他の絵師らのネコと比較してみよう。

北斎・魚屋・北斎の弟子。
魚屋の話もしたいところだが、文字数がいきすぎる。

みんなうまいじゃん。

北斎によって生み出されたかわいすぎる動物たちも、見ていきたい。

顔wwかわいいww

前述した、北斎に模倣されたと主張していた北尾の絵が、これなのだが。サルとかそうかもね😂いいんだよ。ライオン・キングはジャングル大帝の「オマージュ」なんだよ。笑

鬼もかわいい!

待って、ふくろうかわいすぎる。優勝。


そろそろ、〆に向かっていこう。

生き続けている北斎。

すみだ北斎美術館

帝国ホテル旧本館の設計者でもあるアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトは、浮世絵を熱心に収集していた。

彼がある富豪に依頼され、豪奢な邸宅『落水荘』(『フォーリング・ウォーター』)を設計した時のこと。

ピッツバーグから車で2時間ほどの場所にある。

邸内に滝……いや、滝の上に邸宅。建築にとりかかる前、さすがにこれは暮らしにくいと言われると。自然と一体となって暮らしてもらいたいのだと、北斎の『諸国瀧廻り』を見せながら解説した。

以下は、世界各地に見られる北斎の波。

それぞれ、北斎の絵に心を動かされた誰かによって描かれたのだろう。

「北斎の絵は時代を超越している。モーツァルトの曲と同じだ」と、壁画の写真を撮ってまわった人が言っている。 

この海外のアニメ・シリーズ(子ども向け・教育系)では。キャラクターたちが北斎の波に乗り日本へと旅立ち、版画などの日本の美術について解説している。

人生は変化していく一方で、富士は揺るぎない存在であることなどが語られている。すばらしい。

おじぎをしている。
異文化を伝えるための構成がよい。

これは私の最初の文章・第一回の中身。

生涯、貪欲に独自の画風を追求し。いまわのきわまで絵筆をにぎり続けた北斎。75才で出した絵手本の中に、本人によるこのような語りがある。

70才までに描いた絵はとるにたらないもので。73才にしてようやく、動植物の骨格や出生を悟ることができた。80才ではさらに成長したい。90才では絵の奥意を極めたい。100才では神妙の域に到達したい。いくつまで生きれば、一点一画を生きているように表せるようになるだろうか。

100才より先の人生計画も立てていた。絵師としての人生計画を。

死の直前、こう述べたそう。「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」辞世の句は、「ひと魂でゆく気散じや夏の原」だったそうだ。

あと5年長く生きれていたら、私は絶対に本物の絵師になれていたと。死んだ後は人魂となって、夏の草原をゆうゆうと飛んでいこうと。

Deep Dive into your own Blue !!

近々、渋谷のこれに行く予定。すごく楽しみ。