マリー先生が説いた「本当の愛」とは?
はじめに。先日、仕事が忙しく間にあわず。今回はイレギュラーな曜日と時間帯の更新に。また【火曜の夕方】サイクルに戻します。
私が、生物(生物の進化)・宗教・歴史的人物・今今の世界情勢・絵画・映画・哲学・古典物語・アメリカとスイス以外の話をするとなると。残りは恋愛系しかないが。男女の話は2ヶ月ほど前にガッツリ書いているため、まだ多少胸焼けぎみである。
そこで。今回は、恋愛の愛寄りの話をしようと思う。これなら私も楽しく書けそうだ。意識して話題を変えないと、ずっと生物と宗教の話するからな私。
マリー・ルイズ・フォン・フランツという女性を知っているだろうか。知っていると答える人は多くないだろう。正直、そこまで有名な人物ではない。
彼女はユング派心理学者だ。

ミュンヘン生まれだが幼少期からスイスに住んでいたため、ボーリンゲン村でユングと出会ったのだ。はじめて2人が会った時、彼女は18才だった。

「時間の概念の典型的な基礎」

1998年に亡くなっているのだが。老齢の彼女へのインタビュー映像が残っていて。なかなか興味深い内容なのだ。それを紹介しようと思う。

集団神経症の時代ーー。例をあげればキリがないため、1つだけとりあげよう。
私は忘れない。女性芸能人の私信が公共の電波で読みあげられたことを。ラブレターだぞ。しかも内容が内容だった。それ(もちろん公開処刑したことの方)を異常だと思わず、嘲笑ったりした人たちのなんと多かったことか。ハッキリ言って、集団神経症だ。時代が違えば、そういう人たちが狼男だ魔女だと言って、人間を生きたまま火で焼いていたのだろうよ。
個々人の人格は大して成長していないのかもしれない、そういう恐ろしさの話だ。時代を経て状況を変えたのは、大勢の人々であることは間違いないが。いつ何時どうなるかわかったものではない、とも思う。先手をうったりして用心しておかねばならない。例)適切な教育や各々の学び
フランツ先生ではなくマリー先生と呼ぶことにする。ただの私の気分で深い意味はない。
彼女の著作には、以下のようなものがある。

私もこれ系の話をいくつか書いてきた。

おもしろそう。
マリー先生はこう断言していた。「本当の愛とは、相手の固有性を見て、その人自身になるのを助けること」
「本当の愛」私はこんな主語で何も語ることができない。きっと私は、人それぞれなどと言って逃げているだけで。答えを追求していないのだと思う。オリジナルなものでいいのだとわかっていながら、チャレンジしていないのだから。私は愛の何たるかを知らないのだ、と落ちこんでしまいそうだ。
改めて言葉をつむいでいけば。本当の愛について、こんな私でも理解を深めることができるだろうか。
突然だが。ずっと前から読んでくれている人も、最近読みはじめてくれた人も。ありがとう。読んでくれることと言うよりは、探求心あふれる仲間の存在自体に感謝する。
勉強は、一生あきないエキサイティングなあそびだ。オラわくわくすっぞ!という人がたくさんいたら、私はただただうれしいよ。
ベスト・オブ・子どもが聞いてもささらないが大人が聞くとささる歌だろ。私は関係ない話はしない。関係ない曲も貼らない。これは伏線だよ。
それぞれの人生経験に座学をあわせて、今日もおもろい何かを見に行こう。
マリー先生の中で、フィーリングは劣等機能なのだそう。だからハートに関する事柄を表現するのに一種の困難を覚える、と述べていた。
ユング心理学では、人間には4つの心理機能があるとされている。思考・感情・感覚・直観だ。
思考と感情が对になっていて。どんな人も、その内の一方を得意とし(優越機能)、もう一方を苦手とする(劣等機能)とされている。同じことは、感覚と直観にも言えるという話なのだろう。
その考え方の中では。思考が優越機能である人を思考型、感情が優越機能である人を感情型、と呼ぶのだ。
したがって。マリー先生は、自分が前者であると告白する意味あいで、感情が劣等機能の人間と言っていたのだ。ユング派心理学者だからね。
英語を用いた方がわかりやすいだろうか。思考は thinking だ。感情は feeling だ。「なんとなくしっくりこない」だとか。フィーリングによる判断。再度、日本語に戻してみよう。うん、「感性」だね。
思考機能と感情機能の違いを具体例で示す。
1日のデート・プラン。あらゆる選択肢をあらかじめ比べておいて、ベストだと思えるものを選ぶ場合。私たちは思考機能を使っている。その場の気分やノリで、次の行き先などを決める場合。私たちは感情機能を使っている。
僕は前者だ・私は後者だ、それぞれあるだろう。
みんな、使おうと思えばどちらも使えるのだが。放っておくとどちらか一方を多用してしまう。ついつい頼ってしまう方、それが優越機能だと。

現代社会は、理性や論理、もっと言うと知性を重視しがちだ。フィーリングで判断することを劣ったことであるようにとらえている人が、非常に多い。(言語化できるとカッコイイとかね。私も、作家さんや漫画家さんには、天上人だーーと思うが)
これは、感情機能に意識を向ける人が少ないということも意味するだろう。
マリー先生はさらに言いきっていた。「感情機能が未熟な場合、強烈で極端な感情しか経験しない」
正直、これだけではピンとこない。
足しになるかわからないが。過去回から文章をもってきてみる。



(マリー先生はこんな言い方はしていなかったが)どちら派でも、日常的に使うのなら、その機能を鍛えろよということなのではなかろうか。自分の人生もよりよくなるし、まわりにもいい影響を与えたいだろ、的な。
では。感情機能が発達/フィーリングが洗練されていくと、どうなると言うのだろう。
それぞれの固有性を愛せるようになる、のだそう。
前提として、他者の固有性が見えていなくてはならないだろう。そもそも、そういう能力のある人でないとならないだろう。
熟達すると、さまざまな細かい違いを感じわけられるようになると。たとえば、人の本心と偽りをだ。たとえば、優しい人と冷酷な人をだ。
たしかに、それはフィーリングを通して行われるような系統に思える。論理的思考によってではないように思える。
フィーリングによる識別能力とでも呼ぼうか。
人間は固有の個人になっていけばいくほど(ユング的に言うと個性化を達成すればするほど)、他者も固有の人間として見えてくるもので。おのずと、十把一絡げの見方をしなくなるという説がある。
世界的に人気になったのが記憶に新しい作品。0時までのタイム・リミットを一度きりの人生にたとえる彼女も、「本当の私の理想」について言及している。
「灰になるまで踊っていよう」私の一生尽きるまでというのを灰と表したのは、『灰かぶり姫』からだ。(先ほど貼ったシンデレラの過去回で詳しく書いた)
ビビデバが人生を一瞬にしてとける魔法と呼んだのは、また物語にあわせてだが。「2人魔法をとらえるの」「ただの1秒が永遠より長くなる魔法」多くの詩が、恋を魔法と呼んでいるようだ。
ついでに、恋愛ソングをもういくつか貼っていく。私に何か書くことがあるものを。
Where is the moment when we needed the most? You kick up the leaves and the magic is lost.
魔法というキーワードが印象深い曲と言えば、私的にはこれだ。
幼い頃はみんなで同じ話ができたのに。どうしてもうあの話をしないの。私をおいていかないで、ではない。私のいる場所が「正しい」のだからみんな戻ってきて、だ。ーーそんな気持ちになる。(考えすぎ?私はなるのだから仕方ない。主語も we だし)
MVの構成は同じだが、内容が出逢いと別れで真逆。私はこのMVの女性が好きなのだ。(『ハンニバル』にあるレクター博士がラスベガスに住むわけがないというネタのように笑)歌っているセレーナ・ゴメスさんではなく、Mirella Cardoso さんが。



私もこれと同じ感じで写真を撮ってもらいたい。



「答にならぬ “高い無料” の論理で 嘘を嘘だといなすことで即刻 関係のないヒトとなる」。なってしまう。おっしゃるとおりだ。本質のさらに向こう側のことを歌う、最高にクールなオンナだ。

美しいメロディーの失恋ソングで、私は好きだ。和訳のついているものを貼る。
本気に愛した人と別れた男性の心情とは、たいがいこんなものなのかもしれない。ドリーミーな話をし出す定期。女性は、忘れる時は信じられないほどドライに秒で忘れるからな。片側が夢の中においていかれる構図になるのも、必然か。怖いたとえだが。相手の頭部だけすげかえてもそれを気にせず交際できるかのように、新しい人へきりかえられるのが、女という生き物だ。
この作品で表される傷は美しい傷だ。私は言うて孤独というものが好きだから、こんなふうに思うのかもしれないが。ひとりはいい。人としゃべっていたら聞こえなかったはずの音が聞こえ、人を見ていたら目がいかなかったようなものに目がいくでしょう。
けっこうポルコ寄りなんだよな。女のくせに。



若い女も中年の女も同じ想いをするのだから。
このくらいにしておこう。
本線に戻る。
もう一度書く。
人間は固有の個人になっていけばいくほど、他の人も固有の人間として見えてくるもので。おのずと、十把一絡げの見方をしなくなるという説。
これは直感的に正しいように思える。
世間で炎上した物事の、批判の内容をざっと見ると。8割は十把一絡げの評価で(世間のルールから外れているからダメと繰り返し唱えられていて)、相手の固有性に触れていない。つかめていないのだろう。
過去回で、何か関連性のあるものはないか。




ちなみに。個性化とは、ユング心理学で重視されている概念で。人間は成熟していくにつれ、その人にしか体現できない唯一無二の存在になっていくというものである。
いわば、真の個性。
世阿弥の考え方(とても現代的)に似ている。日本人は本当にすごい。彼が生きた時代、ヨーロッパはルネサンス期。Go back to Greco-Roman culture. だぞ😂 いや、ルネサンスはすばらしいムーブだけどね。


真の花は、それまでの土台をもってして30才頃に咲くものらしい。40代後半には、真の花をもっていても具体的なやり方を変えなければならなくなると。
万人にわかる非常に現実的な考察だよね。

親や世間が求めるような自分になろうとしている人・すでにそのように生きている人は、まだ、自分自身として生きるという段階にいたっていないと。
もう世阿弥の話ではないが。彼もまぁ似たような発想をもっていただろう。私個人は、それを何か悪いことのようには思えないが。それはそれで立派なことだと思うが。
自分の固有性を悟りそれを活かすという、自分にしか生きれない人生を想像できていないから、創造できないのだと。
あーね。まだ少し納得した。私の知識内で言うと、これか。

これも伏線。


マリー先生もこう言っていた。真の意味での個人になれた者は、他人の個性化をうながすことも可能だと。
相手に相手自身であってほしいと願う心。マリー先生は、患者と接する心理学者にとって、これが最も重要なことだと語っていた。患者の中にいる正真正銘のその人を心理学者が愛せるかどうか、の話をしていた。
それが本当の愛なのだと。
本当の愛こそが、相手の心をまるい状態にし・相手に見栄をはらせないようにするそうだ。
自分の好みや要求にそって他人を変えようとしない、だとか。そういった類のことだろうか。
私は、どうしても、前提として必要な状態について考えてしまう。相手の真の個性から出るものとそうでないものを全く異なって感じるためには、先に相手の真の個性を熟知していなければならないだろう。
1つ気になることができた。どうやら、愛は、感傷的になることや礼儀正しくすることなどとはあまり関係がないらしい。
禅のある話を思い出した。
修行僧が師からひねった問いを出され、本心からの返答ができなかった時。師が修行僧をパシンッと叩き、その衝撃が修行僧の核を揺さぶった。という話だ。
ZEN と言えばジョブズだろ。


ジョブズの話とマリー先生の話、思った以上にシンクロ率が高いな。


これを考慮に入れると。また見えるものが変わってくる気がする。
愛とは、全てを許す系のものではないように思えてくる。マシュマロのようにやわくも、チョコレートのようにあまくもないように思えてくる。




男性キャラクターの方はこんななのに。


女性キャラクターの方はこの調子。
ロマンチストとリアリストでより痛い目を見るのは、前者の方。これはどうしようもないことかもしれない。
チョコレートつながりではじめた話で、やや脱線してしまったか。
続ける。
本当の自分をないがしろにしたりしている人には、それは本当のあなたではないだろうがと、説教をしなければならないのかもしれない。
何をしても許していては、その人は自分らしく開花していかないように思える。その逆も然りで。何をしても怒っていては(ささいなことにめくじらを立てたりしていては)、その人はまた自分らしく開花していかないように思える。
愛の何たるかを少しは追求できたのではないだろうかーーというところで終わりにしては、もったいない。
知と知・体験と体験・知と体験がリンクして拡がっていく瞬間にこそ、醍醐味がある。

過去回の内容をもってこよう。




もう1つもってこよう。




伏線は全て回収しないとね。

文武両道かつリーダーで心も強い。流川さんはシュッとしているが(私も日本人の涼しい目元は好きだが)。いい男なのは彼だ。性別は関係ないため、優秀な人類と言いかえておこう。
みんながそれぞれに、好きな道を極めるとよかろう。


ヘーゲル、言ったな。「もちろん女性も教育を受けることはできるが。女性の精神は、高等科学・哲学・ある種の芸術には適応していない。男性と女性の違いは、動物と植物の違いと同じである」と。
いや、言ったなコノヤロー!的な笑い話だが。動物と植物?雰囲気でものを語るな。男性と女性と動物と植物に謝れ。この全方位バーサーカーが。

十中八九、「脳には」差はないぞ。
ハイエナのメスには、特に謝れ。
女はバカじゃない。男もバカじゃない。もしくは。女はバカだ。男もバカだ。恋愛などしようものなら、みんなバカになる。人間はそのようにすばらしい。
言語化?つまりは、言葉が要るということだろう。言葉は、時に、仲をひきさいてしまうくらいだ。言葉など必要としないもののすばらしさをよけいに感じるだけだ。たとえば恋。たとえば愛。
リアリストというわけではないが、マリー先生のようにフィーリングが劣等機能な私など、さもおかしそうな人生の失敗だ。すこぶるくだらない。墓に、自分で書いた作文でも入れてもらうつもりか。私自身のことだ。マリー先生はきっと、バランスのよい人なのだろうから。
現に。「僕は風になる」だとか「君は猫になった」だとかの感情表現に、比喩ということをとびこえて、吹きそうになってしまう側面が私にはある。風に何ができるんだよアホか・猫になってなどないだろアホかと。あきらめた自分をキレイになぐさているなよと。千の風になる話はいいのだ。死んでいるからな。「(墓に)眠ってなんかいません」いいね。愛が時を超えていくとまで歌われれば。あ、その話する?と思うが。ノーラン監督など、それな!と言いそうだ。
ノーラン監督があのレベルの頭脳で、好きな映画はワイスピとか言い出すのも。テキストの可能性をとても信じている私がこういうことを言うのも、矛盾ではない。
