ありえない話
ありえないのにありうる。「ありえない」であり「ありうる」である。今回は、そんなありえない話をします。
長い記事なので、お急ぎの方は、以下の目次にある「ありえない話」と「まとめ」からお読みください。
*ありえない
「ありえない」という言い回しを、幻界、言界、現界の三つの界で考えてみます。
以下はそれぞれの界についての私のイメージです。イメージですから、個人的なものだと理解してください。⇒ 拙文「自分語について」
・幻界:思い、夢、まぼろし
・言界:言葉、文字、しるし
・現界:現実、世界、うつつ
いま頭にあるのは科学関連の文章でよくつかわれる「ありえない」という言い回しです。とはいえ、お断りしておきますが、学生時代の私はいわゆる数学をふくめて理系の科目が苦手でした。いまもそうです。
苦手な一方で、興味はあるので一般向けに書かれたさまざまな科学の分野についての新聞記事、書評、書籍の広告を読んだり、テレビの情報番組を見ます。ただし、数式が出てくると顔をしかめます。グラフも苦手です。
そんなわけで私が読んだり聞いたりするのは、文章、つまり文字で書かれた説明や解説に限られます。私にとって科学や数学は数字や記号ではなく、文字なのです。それらの分野には不案内な素人だからかもしれません。
(数字も記号も文字に含まれますが、正直言って、私はそこに目を注ぐことはまずありません。悪い癖です。反省もしています。)
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幸いにして、専門家ではない人たち向けの科学や数学の文章やテレビ番組は、とても丁寧に「分かりやすく」言葉や文字で説明してくれるので助かります。
いま「分かりやすく」と言いましたが、言葉や文字での説明を見聞きしても、私には「分かっていない」にちがいありません。「分かった気持ちにする」のに長けている人たちが文章を書いたり番組をつくっているのだろうと想像しています。
(そもそも「分かる・理解する」は確認できません。自分にも他人にもです。「分かっている・分かった」かどうか、「理解している・理解した」かどうかは、自己申告するしかありません。「分かった」とか「理解した」と言うのは簡単なのですが、言っている人の頭の中をのぞき込んで確認する方法はないために、そう言っている人の申告、つまり言葉を信じるか、または信じないしかないという意味です。⇒ 拙文「あいだにあるもの」)
科学という分野に限らず、言葉や文字による説明や解説にはレトリックが必要です。ここでのレトリックとは「目的に応じて話や文章をいじる技術」くらいの意味だと思ってください。
とりわけ最先端の分野での研究成果について素人が「分かる」なんて、それこそ「ありえない」話だ、と私は感じています。というのも、ちょっと踏みこんで詳しく調べてみると、科学におけるさまざま発見や説や理論は、ああでもないこうでもない、ああだこうが意外に多いからでもあります。
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たとえば、このあいだまでほぼ「常識」だったらしい「事実」や「真実」が疑問視されたり、新「事実」や新「真実」が発見されたり、別の「事実」や別の「真実」が主張されたり、場合によってはそれまでの「事実」や「真実」が根本からくつがえされる。そんなことが頻繁に起きています。
(※上の文では、常識や事実や真実が鉤括弧でくくられていますが、これも一種のレトリックです。「本当はそうではないですよ」とか「文字通りに取るところではありませんよ」とか「「事実である」と書いてあっても「事実である」保証はありませんよ」という感じを込めています。科学の話は、これくらい厳密にしないといけないのではないでしょうか。眉に唾をつける必要があります。ですから、この記事を読むときには、眉に唾をつけてください。)
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とにもかくにも、そういう「事実」や「真実」をめぐっての話の展開に、私はわくわくしないではいられません。ああでもないこうでもないや、ああだこうだや、物事の意外な展開が好物なのです。
「ところが」、「いっぽうで」、「それにもかかわらず」、「同時に」――なんて言葉をつかっての展開になると、たとえ分かりにくくて退屈な内容の話でも嬉しくなってきます。そのほうが人間くさい(人間らしい)じゃないですか。
非専門家向けの科学の歴史の話には、こうした人間っぽい展開がしきりに出てくるので、楽しく聞けたり読めたりできます。ライターや番組の制作者のプレゼンテーション、つまりレトリックに、私はまんまと翻弄されているようです。
私にとっては、物理学であれ天文学であれ医学であれ、人間のする事なす事について、普遍とか不変とか不偏なんて「ありえない」話なのです。私の中では、真実、事実、真理、普遍性、客観的という言葉には、常に鉤括弧が付いています。
話が逸れてきました。
「ありえない」という言い回しを、幻界、言界、現界の三つの界で考えてみます――に話を戻します。
*辻褄を合わせる
前の章では、科学や技術という分野においても、その進歩や展開には、すったもんだや、ごたごたや、もつれやねじれが「ありうる」、逆に言うと、すっきりや、整然とや、すんなりなんて「ありえない」という話をしました。
つまり、学問としての科学も技術も、人間がやっている事(行為・出来事)であって、神のなされる業(わざ)ではないという意味です。
で、人はいったい何を人間らしく(人間っぽく・人間くさく)やっているのかと言うと、辻褄合わせなのです。
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結論から書きますが、その前に記事の最初のほうで書いた「まとめ」を以下に引用します。
・幻界:思い、夢、まぼろし
・言界:言葉、文字、しるし
・現界:現実、世界、うつつ
以下が、この章の結論です。
・人は主に現界と幻界の辻褄合わせを言界でやろうとしている。
・人は時々言界と幻界の辻褄合わせを現界でやろうとしている。
・人は時々言界と現界の辻褄合わせを幻界でやろうとしている。
・人は言界と現界と幻界とのあいだを行ったり来たりしている。
・人は言界での辻褄合わせの結果だけを伝え合い共有している。
では次に、以上の結論を説明します。
*
科学と技術という学問分野について言えば、「ありえない話」を「ありうる話」に転じるために、ああでもないこうでもない、ああだこうだしながら、予測や観測や理論化や実験や、実演・実技・実用・実業や、発見・発明・開発をおこなっている。そんなふうに私には見えます。
・ありえない話 ⇒ ありうる話
ありえない話というネガティブな話を、ありうる話というポジティブな話に転じるために、人(特に専門家のことです)は、「思い・夢・まぼろし」と「言葉・文字・しるし」と「現実・世界・うつつ」のあいだを行き来しながら、辻褄合わせをしている、つまり体裁を整えていく作業をしている――。
以上のように私はイメージしています。「勝手にイメージすれば~」ですよね。
正直言って、私もそう思いつつ、性懲りもなくイメージするごっこをやっています。私は堪え性がないように見えますが、意外に懲り性ではなく凝り性なのです。
こういうのが好きなのです。「こういうの」とは、いまやったルビをつかった言葉の綾取りのことなのですが、これも辻褄合わせにほかなりません。言葉を掛けながら、必死に辻褄合わせをしているのです。
*見えない思いではなく、見える文字を見る
私の個人的な辻褄合わせの喜びはさておき、科学や技術の分野の専門家が「ありえない」をどう見ているかについて、私の思うところを述べてみます。
科学や技術の分野の専門家が「ありえない」をどう見ているか――これを知るためには、文字(数字と記号を含みます)を対象にするしかありません。
専門家が現実(現界)をどう見たか(これは印象ですから幻界にあると言えます)や、現界を見てどう思ったか(思いも幻界にあります)と違って、文字(言界)は目に見えるからにほかなりません。
文字が見えるのは、人の外にあるからです。なお、残念なことに、言葉(音)は発したとたんに消えてしまうので、ここでは扱いません。
そんなわけで、
・人は言界での辻褄合わせの結果だけを伝え合い共有している。
のです。「言界での辻褄合わせの結果」とは文字、つまり文や文章です。
ちなみに、あなたと私のあいだにあるのも文字(文章)です。おたがいに文字だけを見ている、つまり文字を介しての仲なのです。文字友同士、文字に感謝し、仲良くしようではありませんか。
*なぜ「ありえない」と感じられるのか
物理学関連の文章(文字です)では、たとえば「AであってBでもある」みたいな言い回しが頻出します。これはありえない話だと言えますが、どう「ありえない」のでしょう? 次の三つの場合が考えられます。
・言葉や文字の語法や文法として「ありえない」
・現実における語法や文法として「ありえない」
・思考における語法や文法として「ありえない」
(※ところで上の三つのフレーズは文字数を整えてあります。これも広い意味でのレトリックでありプレゼンテーションなのです。もっともらしく(いかにありそうに)見せるために、こんな「(文字)数合わせ」(「辻褄合わせ」のもじりです)をしています。)
上の三つのフレーズを言い換えると以下のようになります。
・「AであってBでもある」は言葉や文字として「ありうる」のか
・「AであってBでもある」は現実の現象として「ありうる」のか
・「AであってBでもある」は思考手続きとして「ありうる」のか
つまり、
・「ありえない」話なのか、それとも「ありうる」話なのかを、言葉・文字として、現実の現象として、思考上の手続きとして、それぞれの場合で検討する。
ということなのです。単なる言葉の綾なのか? 現実世界で起きることなのか、または起きないことなのか? 論理的に筋が通っているのか?
*
とはいえ、上で述べたように、ここで扱うのは文字です。文字だけです。文字は目に見える、目に見えるからおたがいに確認できるし共有もできる、という理由で、文字だけを扱っています。大切なことなので何度もくり返していますが、ごめんなさい。
文字だけを扱うからには、最終的には、字面(文字の顔)や、文字列としての体裁や、文字として見たり読んだときの印象が、説得力を大きく左右することを無視するわけにはいきません。
目の前に文字しかないのであれば、文字と文字列以外の何を整えればいいのでしょう?
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極端なたとえをすると、いま述べているいわば「文字至上主義」は、ある食品についての広告のコピー(文字です)の良し悪しが、その食品(物です)の商品としての価値を大きく左右するのと似ています。さらに極端な話をするなら、その広告の文章やキャッチフレーズ(文字です)を書く人は、必ずしもその食品(物)を試食していなくてもかまわないのです。
半分冗談はさておき(半分は本気で言っています)、文章が文字と文字列からなるものである限り、文章の書き方次第で、説得力が決まるというのは、分かりやすい話だとは言えそうです。
文章の説得力には、景気づけだけでなく、権威づけもまた重要な役割を果たすことはご存じのとおりです。お墨付きや推薦の言葉だけでその文章の価値を決めてしまう人もたくさんいます。ここにもいます。
*印象や思いや考えを文字にする
ここで、広義の「はかり」(道具・器械・機械・システム)に「はかる」作業を外部委託する形で得た(人は「わける」と「わかる」と「はかる」のうちで「はかる」が最も苦手です⇒ 拙文「わからないわけはわからない」)観察や観測の結果を見ながら、人が自分の印象や思いや考えを、どのように文字にしているかを見てみましょう。
さまざまな作業と操作と手続きがあります。
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思いつくままに書いていきます。
・事物の動き・ありよう・つくり・あらわれを、言葉と文字としるし(記号・図・グラフ・像)で、記述する、描写する、記録する。
・森羅万象(自然・宇宙・人の世界)について、とく・説く・解く、かたる・語る・騙る・カタルシス、うたう・歌う・謡う・謳う・唄う・唱う・詠う・詩う、ろんじる・論じる、論う・あげつらう、論く・とく、論る・はかる。
(※なお、上にある「カタルシス」ですが、古典ギリシア語由来のこの語が、国語辞典では「かたる」の近くにあったので、その語義を見ていたところ、あまりにも「かたる」と近いと感じたためにここに含めました。私は語の出自よりも語感を大切にしています。)
(※「論」の訓読については、大修館書店の「新漢語林 第二版」を参考にしました。)
・歌、散文、物語、小説。これらについては、一義的、両義的、多義的という言葉とイメージで説明することも可能。たとえば、一義的な記述を目指すには広義の散文があり、両義的と多義的な記述を意識したり意図するためには広義の歌という手段があり、一義的な記述と両義的な記述と多義的な記述を、部分部分でつかいわけることも可能な物語と小説がある、というふうに。
(※科学関連の文章で、一義的な記述を目指す広義の散文が意識されるのは言うまでもありません。なお、一義的な散文の極北は機械のマニュアルではないでしょうか。一対一に対応するくらいに、一義的でなければ機械は作動しないはずです。)
(※一方で、一般読者向けの科学雑誌などでは、「これは詩の一節ではないか」と思うほど、情と感覚に訴えるフレーズを見かけることがあります。私の印象では、宇宙の話、天文学、生物学関連の文章に多いのですが、これは擬人(擬人法)と関係がありそうです。いま述べた分野では事物のネーミングからして擬人法が用いられています。星や星座の名前や植物の名前が好例です。いい意味でも悪い意味でも、あだ名に近いのです。)
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唐突に聞こえるかもしれませんが、いま私の頭にあるのは、ジル・ドゥルーズとガストン・バシュラールの一連の著作です。
簡単に言うと、哲学者だったドゥルーズがどうしてあれだけ文学作品を対象にした論考(印象に残っているのは『意味の論理学』におけるルイス・キャロルとアントナン・アルトーの扱いです)を書いたのか、そして理系でもあるような文系でもあるような立ち位置にいたバシュラールという人物がどうして文学作品のうちで特に詩的な作品に傾いていったのかが、私なりになんとなく分かるような気がするのです。
(拙文「「面」について」より)
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・観測および観察した結果を(に)、もす・模す(似せる、まねる)、ぎす・擬す(擬態する、なぞらえる、たとえる)、よそおう・装う・粧う(振りをする、演じる、それらしく見せかける)。
・感、観、覚。直感、直観、直覚を働かせる。
・理に傾く、情に傾く。専門家ではない読者に向けての文章では、理と情の両方の要素と姿勢が必要。
・叙する。叙情、叙事。
・あらわす・現す・表す・顕す・著す。
・のべる・述べる・宣べる・陳べる、伸べる・延べる。のばす、ひろげる。
・しるす・記す・誌す、印す・標す・徴す。
・しる・知る・領る、しれる・知れる・痴れる。
・うつす、写す・映す・移す・遷す。
・わける・分ける・別ける。分割、分離、別離、分断、分類、分析、区別、差別、分岐、分別(ぶんべつ)、分解、分節。
・わかる(分・解・判・別)は人の思いであり、自己申告制。解釈、判断、判定、判別、理解、誤解、曲解。
・はかる(測・計・量)は、広義の「はかり」に外部委託。議・謀・図・諮は人の得意とする「はかる」。計測・計数・計算・計量・測定・観測は「はかり」が得意。目測・目分量・見積もる・見込む・見立てる・見極める・観察・傍観・達観・諦観なら、人でも(または人だけが)できそう。
・掛ける・たとえる・こじつける:別物である事物同士や、事物と言葉と文字とイメージをたがいに、掛けたり、たとえたり、こじつける。要するに、別物同士をたがいに当てたり置き換えたりする。別物同士である事物を文字にする(本来はありえない奇策である)文章づくり(作文)では、必須かつ必至で必死の作業。
*修辞学、詩学、文章論
実は、今回は科学関連の文章のレトリックについて考えてみるつもりだったのです。でも、やろうとしているうちに、これは大変そうだと気づいたので体調を考慮してあきらめました。
もう少し詳しく言いますと、以下の記事の続きをする予定だったのです。
で、思ったのですが、数学はレトリックである、つまり言葉の綾であるなんて言えそうじゃありませんか? なにしろ、数字や言葉や記号や数式(そういえば数式が美しいというレトリックを聞いた覚えがあります)やグラフをもちいています。
要するに「「何か」の代わりに、その「何か」ではないもので済まして澄ましている」という置き換え(すり替えでもいいです)の仕組み、つまり比喩(比喩です)の体系なのです。
(……)
でも、数学はレトリックだなんていうと数学にケチをつけている気配が濃厚なので、数学は修辞学であるはどうでしょう(ガストン・バシュラールみたいに詩学(la poétique)も捨てがたいです)。「数学という名の修辞学」とか「数学の修辞学」なんてかっこよくないですか?
いずれにせよ、修辞学という言葉は、数学という厳めしい字面とイメージに「限りなく」ぴったりに「見えて」きました。論理ではなく印象の問題なのです。
(拙文「【レトリック詞】数学の修辞学、数学という修辞学」より)
*
簡単に言いますと、(科学というものではなく)科学についての文章にしろ、(数学というものではなく)数学についての文章にしろ、数字と記号を含む文字からなる文章なのですから、文章として眺めて、そこにつかわれている言い回しや、言葉の綾や、比喩をふくむ広義のレトリック(文章を綴る上での技法)について考えてみようという話なのです。
たとえば、数学のある分野では、方程式をグラフに描くと曲線になって、その曲線の微小な部分を拡大すると直線に見えるというような話があったように記憶しています。
理屈というのには、あまりにも適当でいい加減に感じられて、一種の面白いお話として私は受けとめてきました。そのようにつづられている数学についての文章を、
・詩(韻文・歌う)の文章や
・小説(散文・個人が文をつづる)の文章や
・物語(伝わってきた話を受け継ぐ形で語る)の文章と同じように
眺めて、目に付く部分について文字(言葉)を重ねてみたいという思いが私には強くあるのです。
*
頭にあるのは、大学時代にお世話になった豊崎光一先生のなさったお仕事です。
豊崎先生は哲学書と呼ばれるであろうテクストを、文学作品を読むときと同様の手法で丹念かつ精緻に読んでいました。その手際は斬新で、目を開かれる思いがしました。残念ながら故人です。その著作は現在では入手しにくいみたいです。
現代思想に頻出する固有名詞(人名)をキーワードに、豊崎先生の主要な著作を概観してみましょう。
たとえば、ミシェル・フーコー論である『砂の顔』、そしてジャック・デリダ論である『余白とその余白または幹のない接木』と「アナグラムと散種」においては、まるで詩や小説を相手にするように――論を読むというよりもむしろ歌や詩を読み、同時に詠む手つきで――、丹念に言葉の修辞(特に比喩)に注目しながら批評が展開されていました。
(拙文「病室の蛍」より)
いま、豊崎先生のお仕事が(断片ではありますが)しきりに頭に浮ぶのです。先生が実践されていたような「手つき」と「手際」で、科学関連の文章を眺めて、読むだけでなく詠んでみたいという思いがこみ上げてきます。
とはいえ、大変な作業になりますから、私には無理です。一つ言えるとすれば、仮にその作業をするとすれば、以前に蓮實重彥先生の文章を眺め、読み、詠もうとした一連の試みと似たものになるにちがいありません。
以下は、そうした記事のリストです。
・「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」
・「であって、ではない(反復とずれ・03)」
・「宙吊りにする、着地させない」
・「立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)」
・「表、目、面」
・「とりあえず仮面を裏返してみる(断片集)」
・「読みにくさについて」
・「読みやすさについて」
・「「ここには何もない」という「しるし」」
・「名づける」
・「何も言わないでおく」
・「振りをする振り、語ることで騙られてしまう」
・「であるのにでない/でないのにである、あるのにない/ないのにある」
もう無理です。上の記事でやったようなかたちで、文章に文字を重ねていくだけの体力はもうありません。
文字と心中する気持ちはありません。いまでは言葉(音)のほうが愛おしいです。
*
それはそうなのですけど、もし科学関連の非専門家向けの文章を対象に、文字を重ねるとすれば、次のような文章の特徴に注目することになるでしょう。
・科学関連の文章に登場する和語です。ゆらぎ、やぶれ、かさなり、かさねあわせ、なみ、ひも、うねり、などが浮びます。こうした大和言葉を用いた理論や説や現象のネーミングは漢語でも可能なはずですが、和語が選ばれているのは実に興味深いです。個人的にはイメージがリアルに体感できるので、好きです。
・文章で用いられている比喩が面白いです。たとえば、トンネルや壁や膜といった譬えが思い浮びますが、どうしてそういう比喩が選ばれているのかについて、私は詳しくありません。あと、〇〇説・〇〇論(理論)・〇〇効果・〇〇現象――といったネーミングの〇〇にはよく、比喩がつかわれている気がします。
・寓話(ここでは寓意を用いた両義的だったり多義的に感じられる物語ぐらいの意味です)みたいな話があります。たとえば、猫や箱をつかった、たとえ話が浮びます。ほかにもありそうですが、私は知りません。
*
科学関連の文章では次のようなことが行われている気がします。
・事物と言葉と文字とイメージを、置き換えて、ほのめかす
・事物と言葉と文字とイメージを、すり替えて、におわす
・事物と言葉と文字とイメージを、掛けて、説得する
つまり、文章化という作業では、まったく異質で別な物(事)同士を、つなごうとするのですから、上で述べたような身振り(行為)が起きているのでしょう。
*AでありBである
たとえば、「ありえない話」の一例として、「Aであり(同時に)Bである」というフレーズや言い回しを考えてみましょう。AとBがまったく異質な物や事であったり、別物同士である場合の話です。
*
文字として眺めている限りでは、「Aであり(同時に)Bである」というフレーズは、言界(言葉・文字)であれば、禅や東洋哲学や東洋の宗教の経典に「ありうる」ものです。西洋だと、神秘主義や異端的な思想を除いては「ありえない」語法のフレーズかもしれません。
(なお、イスラムやアメリカ先住民やアフリカやオセアニアなど(大雑把な言い方で申し訳ありません)の思想や宗教については知りません。無知を恥じてはいますけど。私は探求者でも研究者でも何かの専門家でもないので、自分の出会ったものやことを見つめたいと思っています。)
とはいえ、言葉と文字をつかえば、何とでも言えるし書けますから、世の中にはいろいろな人がいる以上、「AでありBである」という言葉遣いや話は意外にたくさん例がありそうな気もします。
私も「暑がりで寒がりなんですよ」とか「それはですね、イエスでもノーでもあります(汗)」なんてよく口にします。煮え切らなくて、うじうじした性格なのです。
*
現界(現実・自然・人の世界)では、「AでありBである」現象を五感で知覚したと主張する人がいてもおかしくはありません。いずれにせよ、何かを知覚したという話は、言葉と文字としてだけ伝えられる(言葉をつかえば何とも言えるし文字をつかえば何とでも書ける)からです。
以心伝心とかテレパシーや直観や直感で他人に伝えられるということは考えにくいです。少なくとも私には考えられません。ただし、「伝えられる」とか「考えられる」と言ったり書くことはできます。言葉と文字の世界(言界)では何でもありなのです。
幻界(思い・夢・まぼろし)においては、これまた何でもありだと思います。私の場合には、夢(ときには夢うつつ)は、「AでありBである」と同時に「AでもBでもない」と同時に「何でもない」に満ちた世界だという印象が強いです。
ただし、夢(幻界)は記憶(幻界)として語る(言界)しかなく、自己申告制である点を忘れるわけにはいきません。つまり、夢は限界(言界や幻界や現界というよりも)なのです。
いずれにせよ、現界と幻界は言界で辻褄合わせをするしかありません。人の外にある言葉(すぐに消えます)と文字(消さない限り残ります)としてしか、他人には確認できないし、共有されない点を忘れてはなりません。この点を忘れると、ただでさえ適当な話が、それに輪をかけたいい加減な話のやり取りに終始することになります。
というか、げんかいげんかいみたいにわけるなんて――こういうことは真剣にやるべきことではないのです。
わけるたわけ わかったとたわける
言葉は言葉であり、文字は文字であり、その言葉と文字が指し示したりほのめかす(そんなことがあればの話ですけど)、現実でもまぼろしでもありません。
*ありえない話
ありえない光景(現界)や、ありえないという思い(幻界)や、ありえない話(言界)は、意外にありうることとして身近に起きている気がします。
誰もが日常的に体験し体感もしているという意味です。たとえば、今回の記事で取りあげた「Aであり(同時に)Bである」という「ありえない」話がそうです。
何の話かと申しますと、お察しの通り、文字のことです。私の記事はたいてい文字の話ばかり書いてありますが、今回も話は文字に行き着きました。
猫に似ていなくて、猫ではないのにかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。それが文字です。
猫という文字は、「猫であり(同時に)猫ではない」のです。猫という文字が猫でないことぐらい誰でも知っているし分っているにもかかわらず、猫としてまかり通っています。
そもそも、いちいち「猫というもの」と「猫という文字」と言ったり書いたりして区別する人がいますか? 星野金太郎飴くらいではないでしょうか。というか、星野金太郎飴でも、普通は日常生活で、いちいちつかいわけていません。それくらいの常識はあるようです。
ぶっちゃけた話が、日常生活に差し支えるからにほかなりません。
*
話を戻しますが、猫という文字は、「猫であり(同時に)猫ではない」のです。猫という文字が猫でないことぐらい誰でも知っているし分っているにもかかわらず、猫なのです。
これは、以下の三つを同じだという教える教育の成果であり賜(たまもの)なのです。
・猫というもの(事物)
・猫という言葉(音声)
・猫という文字(点と線からなるかたち)
文字で興味深いのは、文字であることを忘れないと文字は読めないことです。
これは以下の辞書の語義を見ると分りやすいかもしれません。
みなす【見做す・看做す】
①(実際はそうでないと知った上で)それとして見る。見立てる。
②(実際はどうであるかにかかわらず)そういうものとして扱う。同類と考える。
この語義は、しれっと、すごいことを言っています。
・(実際はそうでないと知った上で)
・(実際はどうであるかにかかわらず)
ですよ。いま読みかえしても、すごいなあと感心している自分がいます。
もう少し踏みこむと以下のようになります。
・「猫」という言葉と文字が猫というものでないことなんか、知っているし分かっているのに(つまり、見なしているのに)、「猫」を目にすると猫を見たり感じたり思い浮かべてしまう。つまり、「猫」という言葉を耳にしたり、「猫」という文字を目にすると、一時的に、あるいは短期間、または長期間、見なしていることを忘れてしまうのです。
・見なしているはずなのに、見なしているのを忘れてしまう。
・であるはずなのに、であることを忘れてしまう。
・でありながら、ではなくなってしまう。⇒ 拙文「「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」
・であって、ではない。⇒ 拙文「であって、ではない(反復とずれ・03)」
・見なすとは、忘れること。
・「分かっちゃいるけど、やめられない」
・「どうにも、とまらない」
理屈を付けるとそうなりますが、ありえない話であることは確かでしょう。この「ありえない」話は理屈をこえているのです。
ヒトはこれ以外にも数々の「ありえない」を日々生きているにちがいありません。でも、きっと忘れて気づかない気がします。都合の悪いことや、思い出しても得にも、また徳にもならないことは、あっさりと忘れる、たくましい生き物なのです。
*
以上、文字(紙面上の影)について述べたことは、前回の「自分と別れて「自分」と出会う」でお話しした、画面上の影である映像と鏡面上に現れる影である鏡像についても言えそうです。
(※いや、紙面上の文字と画面上の映像と、鏡の前での体験を同列に扱うべきではないのかもしれません。鏡を前にすると、文字や映像とは異なる、ありえないことが起こっているからです。
それはかつて私にとって、きっと初めての「Aであり(同時に)Bである」だっただけでなく、むしろ、(さきほど夢について述べたように)「AでありBである」と同時に「AでもBでもない」と同時に「なにものでもない」である気がします。
空間で会っているわけではないのに、時間で合っているからです。異なる「場」での同期のことです。鏡を前にして目にする(光学的な)同期は、電網と常時つながっている機械仕掛けの画面で、それと似たもの(双方向的な反応)が見えるようになっていますが、両者が同じかどうかは分りません。よく似ているとは思います。)
話を紙面(文字)と画面(映像)に戻します。
対象が物であるのを忘することなしに対象にうつる影に和することはできません。対象が面であること、同時に面にうつる影であることを忘れない限り、「向こう」は(たとえ見えたとしても)現れてくれないし、こちらにうつって来てくれはしないのです。
ひょっとすると、いましているのは、魂の話なのかもしれません。鏡の前で「まねる」ことで「まねく」、「よぶ・呼ぶ」ことで「よる・寄る」のですから。「うつる・うつす」とは、おそらく「まねく/まねる・よる/よぶ」でもあるのですから。
*まとめ
猫――。猫に似ていないし猫でもないのに猫。猫という言葉と猫という文字のことです。
生きていないものに生きているものを感じる(「生きていない」であり同時に「生きている」であるが、ありえる)世界に、人は生きています。
言葉を話す猫――。説話や物語や小説や漫画やアニメやゲームにはいます。猫という言葉と猫という文字が当てられています。
人ではないものを人ではないと知っているし分かっていながら、人と見なす(「人ではない」と同時に「人である」がありえる)世界に、人は生きているのです。
このように擬人を基本とする呪術の世界に、人類は太古から一貫して生きています。これは恥じることでも恥ずべきことでもありません。
ただし、その世界は「人であり」が「人でなし」でありうる、あやうい世界でもあります。人の魂はもちろん、森羅万象にやどると人が感じる魂をうやまう気持ちをなくしたとき、ヒトは人でなくなるにちがいありません。それこそ、恥ずべきことではないでしょうか。
*
ここまでお付き合いくださり、どうもありがとうございました。
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