自分と別れて「自分」と出会う
長い記事なので、最初に「まとめ」を持ってきました。お急ぎの方は、とりあえず「まとめ」だけでも、どうぞ。
*まとめ
画面、紙面、鏡面には枠があります。その枠の中には意味(ストーリーやドラマ)のある影がうつっています。面は枠のある世界なのです。
人のこしらえた面状の世界は、枠のある世界だと言えるでしょう。さらに、枠のある世界は「分く」と「別く」のある世界だと言いたくなります。
いずれにせよ、画面、紙面、鏡面がわくわくする世界であることは確かです。だから人は見入り魅入られます。
「わくわくする」は、人のつくったものや人為的なことについて言うような気がします。
*
初めて鏡を前にしたときを想像することがあります。指を口にしている自分が、もう一方の手の指で「自分」を指している姿が浮ぶのです。いま自分と「自分」と書き分けたのには理由があります。
鉤括弧付きの「自分」は枠の中におさまっているからです。もちろん、鏡のことです。指をしゃぶっている枠の中の「自分」はやがて、しゃべる「自分」になるでしょう。
(そんな「自分」を、これから見届ける自分が(自分「も」と言うべきでしょうか)いる(「まだいる」と言うべきでしょう)のです。そうです、分裂が起こっています。「分ける・分く・分離」は「別ける・別く・別離」なのです。)
鏡に向かって初めて口にした、つまり初めてしゃべった言葉は自分の名前なのかもしれません。自分と「自分」がいるのですから。自分と同時に同じ振りをしている「自分」。
(自分と似ている「自分」とか、自分とそっくりな「自分」ではない気がします。自分の顔や姿は自分の目では見えないからです(この状況は一生続きます)。初めて鏡を前にした赤ちゃんに「自分の顔や姿に似ているとかそっくりであるという感覚」がある、とは考えられません。
赤ちゃんが注目しているのは「同じ」振り(あくまでも「動き」であって誰かとか何かという「名詞や代名詞」ではありません)なのです。しかも「あっちで同時に起こっている」振りです。まったく「同じ」振りを同時にしている、あっちに驚いているにちがいありません。その「同じ振りを同時にしているあっち」が、たぶん初めて(間接的に)目にする「自分」なのです。)
*
そうした体験がくり返されます。そばにいる人が「〇〇ちゃん」と口にしてもおかしくはありません。それをなぞって、真似て、赤ちゃんが「〇〇ちゃん」とあっちに向かって口にしてもおかしくはないでしょう。
こっちの自分とあっちの「自分」に、同じ名前が当てられているのです。「自分」と自分を分ける面と枠。自分と別れて「自分」と出会う。または、「自分」と出会って自分と別れる。その「自分」にだんだん馴染んでいく自分。
きっと、自分を忘れて「自分」に合わせていくようになるのです。自分を忘する、「自分」に和する。それは、世界を忘れて「世界」に合わせ、おさまっていくことでもあるにちがいありません。
赤ちゃんは世界を次第に分けていくことで、とてつもなく大きなものと「別れる」のかもしれません。そして、仲間のつくる小さな輪っか(サークル)に加わるのです。それが成長であり、ひいては成熟なのでしょう――。
(拙文「赤ちゃんのいる空間」より)
枠と型におさまるにつれて、人は「人」になるのかもしれません。
*うつす、うつる
画面と紙面と鏡面は「うつす・うつる」と相性がいいです。
・画面:映す・映る
・紙面:写す・写る
・鏡面:映す・映る
地面を忘れるわけにはいきません。人は地面をうつりうつす代わりに、画面と紙面と鏡面をうつしているのですから。
・地面:移す・移る、遷す・遷る
*
「映す・映る」と「写す・写る」は、「移す・移る・遷す・遷る」の代償行動なのです。
移と映と写では、移が困難だったり不可能だったりします。物理的な移動だからです。なんでもかんでも、移動できるわけではありません。
映すや写すは像や影や点や線や面を「うつす」わけですから、移すにくらべればいくぶん、場合によってははるかに容易だと言えます。
・「移す・移る」代わりに「写す・写る、映す・映る」。
文字(写)と像(映)が、現実(移)の「代わり」であると言えば分かりやすいかもしれません。
*
地面と似た言葉に大地があります。私は両者を次のようにイメージしています。
・地面(世界):分ける、知る・領る。領域、領土、領地、縄張り。ちをわける、地を分ける、血を分ける、知を分ける、痴を分ける。分ける、分かつ、分かる、知れる・知る、痴れる・痴る。うつす、うつる(移・遷、映、写)。
・大地(自然):流れ転じる。うつろう、移ろう、映ろう。
私の中では、地面と大地のイメージは、世界と自然のイメージと重なります。
・世界:人の世界。名詞・名前、線引き、分類・分割・分断・分節・分配・親分・子分・身分・区別・差別・別離、地図。分ける・別ける、分かつ・別つ、分かれる・別れる世界。
・自然:名詞に相当するものがない。したがって、名詞・名前、線引き、分類・分割、地図もない。動きがあるだけ。流れ転じる。うつろう、移ろう、映ろう。
次に移りましょう。
*画面、紙面、鏡面
画面、紙面、鏡面――。
この三つの面に共通する点を思いつくままに挙げてみます。
・人工物。
・かつては高価で希少なものとして一部の人たちしか持っていなかった。
・いまでは大量生産が可能な複製として流通している。
・いまでは、コンパクト、ポータブル、パーソナル。
・枠がある。空間的な枠があるだけでなく、人は時間的な枠のなかで一定時間だけ利用している。
・枠の中は、分く・別く(わける・わかれる)世界。
・うつす、うつる。画面は主に映、紙面は主に写。いまでは、コンパクト、ポータブル、パーソナルな大量生産された複製として移も可能。
・人は画面と紙面と鏡面に広義の振りを見る。振り、身振り、動き、震え、揺らぎ、表情、仕草、合図、しるし。
・広義の振りとは、意味(ストーリー・ドラマ)のある影(文字・映像)。自然界の影には意味はない。⇒ 拙文「意味のある影、意味のない影」
・人は三つの面に顔面を向ける。面と向かう。
・見る、見入る、見入られる、魅入られる。
・こちら側を忘れないと向こう側を見入る(向こうに入る)ことができない。こっちを忘れないとあっちに合わせる(一つになる)ことができない。
・こっちを忘することで、あっちと和する。
・こっちの自分と分かれない(別れない)と、向こうに見える枠の中におさまる(収・納・治・修)ことができない。
*
以上をまとめます。
・画面、紙面、鏡面、地面には枠がある。大地と自然には枠はない。
・画面と紙面と鏡面では、枠があることを忘れないと、その枠の中に「うつる」もの(意味のある影)が見えない。⇒ 拙文「意味のある影、意味のない影」
*似ている、そっくり、同じ、同一
画面、紙面、鏡面――この三つの面に、人が求めているのは、「似ている」、「そっくり」、「同じ」、「同一」ではないでしょうか。それにしても、この四つはよく似ています。
*
私は「似ている」と「同じ」を次のようにイメージしています。
「似ている」は、生まれつき誰にも備わっている個人的な印象や体感であり、「同じ」は、誰かから教わった共有されている知識である、と。
また、こうも言えそうです。
「同じ」は、人が広義の「はかり」に、はかって(計・測・量)もらったり、人が自分たちで、はかって(議・謀・図・諮)決めた決まりだ、と。⇒ 拙文「決めた「同じ」、はかった「同じ」、はかられた「同じ」」
なお、「そっくり」は、各人が印象や体感としていだく「同じ」であり、「同一」は、世界でたった一つ、または一人しかないということだ、とイメージしています。
以上はどれもが私のいだいているイメージですから、個人的な思いであるとご理解ください。
*
似ていると真似ているは似ている
そっくりなくりにも 虫のあと
違っていると間違っているは違っている
瓜二つの瓜にも 爪のあと
*鏡界、境界、狂界
鏡面というと、私は鏡界と境界と狂界を連想します。どれも「きょうかい」と読みます。自分語も混じっています。
私にとって鏡ほど不思議なものはありません。それに匹敵するのは文字くらいです。文字と鏡は似ています。
猫に似ていなくて、猫でもないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。これが猫という文字です。
ただし、猫という文字は、猫という文字を学習していない人には猫ではありません。猫という文字を猫だと思うのは学習の成果だからです。
なお、猫に猫という文字を見せても猫だとは思いません。ちなみに、おサルさんも(尻尾のある monkey も、尻尾のない ape も)、猫という文字と猫というものを同一視しないし混同しません。
*
猫に似ているが、猫ではないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。これが猫の鏡像です(猫という文字との違いは文字にすると少しでしかありませんが、両者は大きく異なります)。猫の写真や猫を上手に描いた絵もそうでしょう。
こういうのは学習の成果ではないので、人であれば、どんな言語の話し手でも、猫だと思うにちがいありません。なお、猫とおサルさんについては知りません。尋ねたことがないからです。
鏡に映った自分の姿を見て、大騒ぎする猫を見ることはあります。鏡に映った自分の姿を見て、知らん振りしているというか、ぜんぜん反応しない猫を見ることもあります。
実物・現物と影(文字・映像)間における同一視や混同とは無縁らしい、猫が聡明な生き物であることは確かです。
*
話を、鏡面と鏡界と境界と狂界に戻します。
鏡を目の前にすると必ず忘れるものがあります。それは鏡が面(平面)であること、鏡と自分とのあいだに面があるということ、その面が、さかい、さかいめ、境界であることです。あと、鏡の後ろには実物や現物がないことでしょうか。
それらを意識すると、鏡の向こうというか鏡の中にうつっているものを、落ち着いて、見ることができないのです。気が散るという意味です。
いま述べたことは、紙面にうつっている文字や紙面にうつっている像に似ています。画面にうつっている像や文字にも似ています。不思議でなりません。当り前なのかもしれませんが、私は当り前にこだわる人間です。
だから、noteで毎度こんな記事を書いているのだろうと思います。また、そんなふうだから、私には、鏡界、境界、狂界という連想が起きるのでしょう。
*鏡を前にしての体験と体感
赤ちゃんは動くものに興味を示します。目で追ったり目でなぞるのです。動くものというより動きと言うほうが分かりやすいかもしれません。
赤ちゃんにとって、興味のあるものは動きだけ。流れ転じる。うつろう、移ろう、映ろう――。そんなイメージなのです。
赤ちゃんは、物や人物や生き物の振り、つまり身振り、表情、仕草に興味を示しますが、それだけでなく、その動きを真似るような動きをします。同じ振りをするとか同じ振りを返すという感じです。
そして、自分の振りに対して動きが返ってくるととても喜びます。興奮して顔をしわくちゃにする場合もあります。動きを自分なりに真似ることで、相手や対象に働きかけ、その相手や対象が動きを返してくれると、ポジティブに興奮するという感じです。
*
そういう赤ちゃんの行動を観察しているとき、私は赤ちゃんが「同じ」を体感しているのではないかと思わずにはいられません。「似ている」でも「そっくり」でもなく「同じ」です。
その「同じ」という体感を、「一体感」とか「相手(対象)とひとつになっている」とか「つながっている」感覚と言い換えることもできるでしょう。
ただし、その「同じ」には、ずれがあります。「同じ」が同時に起きているのではないのです。
*
鏡を初めて目の前にした赤ちゃんを想像してみましょう。
初めて鏡を前にした赤ちゃんは、初めて同時に起きる「同じ」を体験しているはずです。何度も身振りや仕草や表情をくり返しているうちに、それまでに体験したことのない「同じ」だ(自分以外の人や物が相手ではない「同じ」だ)と気づくはずです。
きっとびっくりするでしょう。
鏡が手に届くところにあれば、手を伸ばして触れようとするにちがいありません。手に触れたとすると、さらにびっくりするでしょう。面なのです。ひんやりとしたかたい面。へばりつくかもしれません。へばりついて舐めようとしてもおかしくありません。
でも、それ以上進めないのです。向こうには行けないと理解するにちがいありません。
こっちとむこう。こことあっち。これとあれ――。こうしたイメージを言葉としてではなく、感触(指や唇や舌で触れる・舐める)として感じるのです。
見る(視覚)だけでなく、触れる・舐める(触感)で同時に「同じ」を感じているとも言えるでしょう。「いま・ここ」としての「見える」であり「触れる」なのです。
これが鏡の体験です。
さかい(鏡面)があるのに、まったく同時に、まったく同じ動きをしているものが目の前にあるのです。何と同じかと言えば、もちろん、こっち(自分)です。
*
私たちは、鏡に何を求めるでしょう? おとなの私たちです。
私たちおとなが鏡に求めるのは、そして鏡に見るのは、「似ている」とか「そっくり」ではないでしょうか? 「同じ」ではないはずです。「同じ」だと「分かっている・知っている」からにほかなりません。おとなにとって、「同じ」は知識なのです。
鏡に映っているのは、自分の似姿であって、その向こうに自分がいるとは考えていないからです。鏡を割って向こうに移ろうとすれば、狂っているとみなされます。
鏡界は、境界であり、狂界でもあるのです。人には越えてはならない線があります。その一つが、鏡面の向こうへ移ろうとすることです。そのように考えること、ましてやそれを行動に移すことは、人でなくなることだと言えます。
*
人はその越えてはならない線を越えたいという、抑えきれない願望を持っているのではないでしょうか?
その一線とは、越えて移ることです。境の向こうに移ろうとすること。境界の向こう側を思い浮かべたり思い描くだけではなく、つまり「移る」の代わりである「映る」と「写る」という掟を破ること。禁を犯すこと。
こえる・越える・超える
やぶる・破る・敗る
おかす・犯す・侵す・冒す
くるう・狂う
たがえる・違える
はずれる・外れる
あやまる・誤る・謬る
一連の言葉が浮んできます。
*
境界・鏡界を越えて移ろうとしてはならないのです。移ろうとしても移れませんが、その代わりに狂界に落ちます。
でも、大丈夫。人はいい方法を身につけています。さきほど上で書いたことを、以下に引用します。
・「移す・移る」代わりに「写す・写る、映す・映る」。
文字(写)と像(映)が、現実(移)の「代わり」であると言えば分かりやすいかもしれません。
これがあれば、狂わずにいられます、たぶん。
「たぶん」としたのは、みんなでいっしょに狂っているのであれば、狂っているかどうかが判断できないからにほかなりません。
ヒトが、この星(大地や自然と言ってもいいです)を分けて分かち、知った(領った)つもりになっている限り、判断できないという意味です。
・地面(世界):分ける、知る・領る。領域、領土、領地、縄張り。ちをわける、地を分ける、血を分ける、知を分ける、痴を分ける。分ける、分かつ、分かる、知れる・知る、痴れる・痴る。うつす、うつる(移・遷、映、写)。
・大地(自然):流れ転じる。うつろう、移ろう、映ろう。
いまの世界情勢を見ていると、そして自然の状況を見ていると、「分ける、分かつ、分かる、知れる・知る、痴れる・痴る」のさかいが、きわめて曖昧で不明になってきている、つまり分からなくなっている気がしてなりません。
*自分と別れて「自分」と出会う
赤ちゃんは動きに興味をしめします。
・鏡と出会う前:こっちが振り(身振り・動き・表情)をして相手に働き掛けると、相手が振りを返してくれる。または、その逆。アクション(働き掛け)とリアクション(反応)には、時間的なずれがある。
・鏡の前での体験:こっちの振り(身振り・動き・表情)と向こうの振りが同時に起きる。同時進行していく。同期する。
これは赤ちゃんにとって大きな驚きにちがいありません。
こっちとあっちのあいだに鏡面という境界があるのに(鏡に手や足や舌や唇で触れるとかたい面があることに気づきます)、次のようなことが起こっているからです。
隔っているのに、ずれていない
off(隔たりがある)のに、on(動きはぴったり噛み合っている)
まったく「たがう(違う)」のに、まったく「同じ」(一致している)
合っていないのに、合っている(動き・同時・同期)
会っていないのに、会っている(対面・交わり合い・かかわり合い)
言葉にすると矛盾になってしまう、こうした一連のイメージの前提には、隔たり(距離)という、ずれ(たがい)があります。でも、時間的には合っているのです。
そもそも、点から点へ(地点から地点へ・時点から時点へ)のうつりである動きを知覚するためには、空間的な隔たりが不可欠なのです。これは視覚で知覚するしかありません。
点である目でなぞり、点である目が線(目線・視線)として追うのです。そこでは時間の推移も感知されます。地点から時点への移行です。
*
このときの赤ちゃんは、似ているやそっくりや同じではなく(ほかにも似ているものやそっくりなものや同じものがある)、同一(たった一つしかない)を体感しているのではないかと私は思います。
赤ちゃんは、その同一には、枠があることに徐々に気づいていくにちがいありません。鏡には枠があるのです。
それは自分(自分は枠には入っていません)ではなく「自分」(鉤括弧という枠に入った自分)なのです。
この「自分」には、ほかにも自分とは異なる特徴があることも気がついていくはずです。直接自分の目で見ることができる、言い換えると自分の目でしか見えない。こっちで触ることができる自分とは、隔たりがある、離れている、隔っている、ずれている(たがっている・違っている)。
合っていない(離れている)のに、合っている(動きが同時・同期している)
会っていないのに(隔っている)、会っている(対面している・交わり合っている・かかわり合っている)
*
ややこしいですが、大雑把にまとめると以下のようになりそうです。
・「自分」という言葉と文字と像(面のあっち側)、自分というもの(面のこっち側)
・うつる影(言葉・文字・像)、うつす自分という物(物体)
どうやら、人は、自分という言葉と文字と、自分というものとの隔たりに振りまわされているようだ。もし振りまわされているとすれば、言葉の仕組みと人の習性(振りを演じてしまう)のせいではないか、と私は感じています。
(拙文「「自分」という言葉と自分」より)
*
赤ちゃんは、鏡の向こうに見える像が生きていないことにも薄々気づいていくでしょう。それでいて、同期しているのです。これは、擬人であり、魂とかかわり合うという意味で呪術でもあるでしょう。⇒ 拙文「空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫」
つまり、その同期が人間関係とは異なることを理解していくにちがいありません。似たものと言えば、影です。地面や壁にうつる影はこちらの振りと同期しますが、鏡の解像度にくらべるとインパクトは弱いと考えられます。
そのうち、赤ちゃんが成長していくにつれて、同じ振りを同時にするのではない、「同期する」ものと出会うでしょう。相手は機械(システム)です。ゲームはきわめて迅速に、つまりほとんど同時にこちらの動きに対してきわめて正確にきわめて適切な動きを返してくれます。
機械(システム)ですから疲れません。しかも正確かつ適切きわまりないリアクションをし続けます。そうなると、その機械(システム)に合わせようと、つまり同期しようとするのが人情ではないでしょうか。⇒ 拙文「つかれないものにつかれる」
現在であれば、その少し大きくなった赤ちゃんの親もゲームで育った世代にちがいありません。おそらく、その親の世代は、人類史上初めて、言葉と文字をきめて正確にかつ適切に、ずれなくつまり同期する形で返してくれる(もちろん疲れません)機械(システム)を体験した人たちではないかと思われます。
*自分を忘れて「自分」になじんでいく
赤ちゃんは、「自分」と出会ったことによって、自分と別れる方法をだんだん身につけていきます。自分を忘れて「自分」となじんでいくのです。
とはいえ、そう簡単に自分と別れられるものでもないし、容易に自分を忘れられるものでもありません。人は初めて鏡を前にしたときの体験と体感をずっと引きずって生きていくのではないでしょうか。
赤ちゃんとして人が初めて鏡を前にしたときの体験だけでなく、人類というレベルで人が初めて鏡を前にしたときの体感を、です。
*
鏡面という境界の向こうにはこちら(自分)と同じ振りを同時にする「何か」がいる。似ているのではなく同じ「何か」が向こう側にいる。
人は、その「何か」が「自分」だと後に教わる。その「自分」は自分の目では見えない。その意味では「自分」は教わった知識でしかない。言葉や文字でしかない。
「自分」は他人とのかかわりあい(関係性)の産物であるという言い方もできるだろう。「自分」とは自分を見て確認してくれる相手(対象・人・みんな・なかま・世の中、社会・世界)がいて初めて成立する制度、掟、決まりなのある、ということです。
*
自分は自分では見えない。自分は自分では決められない。自分を見てくれるもの、自分を決めてくれるものは、自分の外にある、こちら側の向こう側にある、こっちではなくあっち。
向こうに移れないことは忘れよう。向こうに移ろうなどという気を起こしてはならない。それはタブーなのある。
だから、写す、映す。移る代わりに自分を移す代わりに、写す、映す。
*
境界を越えるささやかな方法がないわけではありません。それは鏡を前にして自分の顔に触れてみることです。触覚・触感には「いま・ここ」しかないからです。
圧倒的な力を持つ視覚が知覚している「いま・ここ」、つまりこちらの振りと同時に起きている振り(身振り・仕草・表情)に対抗できるのは触覚・触感くらいしかない気がします。
鏡を前にして自分の顔、とりわけ目のあたりに指で触れてみると、同時に同じ振りをしている、つまり見えている自分だけでなく、指の先という目に匹敵するくらいセンシティブな先端で感じている自分がいるはずです。
もう一歩進んで、目を閉じたり開けたりしてみるといいでしょう。二つの自分(二人の自分ではなく)のあいだを行き来できるかもしれません。
*
さらに進んで、目を閉じたまま、まぶたに指の先で触れ続けるのもいいかもしれません。圧倒的優位を保つ視覚へのささやかな抵抗と反逆です。
on/off、接触/距離、くっつく/はなれる――。
視覚は距離なしには成立しない知覚なのです。そこが触覚・触感との大きな違いだと言えるでしょう。
圧倒的な優位を保っている視覚と目に対し、指と触覚・触感の立ち位置はどうなっているでしょう?
触る、触れる、撫でる、なぞる、叩く――こんなふうにして、指、とりわけ人差指は、ひたすら面をいじることで目と視覚に従属し奉仕しています。超センシティブで器用なだけに、こき使われているのです。
私は健気な人差指がかわいそうでなりません。
*しゃぶる・しゃべる、指を口にする・言葉を口にする
鏡を前にする赤ちゃん。
指をしゃぶっている自分が指をしゃぶっている自分を見つめている。こっちと同じ振りをしているあっちと目と目が合う。
口にしている指を出してあっちを指す。舌と唇から離れた指が向こうを指す。さっきまでしゃぶっていた指が、指している指を指している。
指を近づける。指と指が合う。冷たくてかたい面に指が触れる。
枠の中にいるあっちの笑みが消えてゆがむ。
そのとき、赤ちゃんは自分と別れて「自分」と出会っているのかもしれません。そんなことをこれからもくり返すにちがいありません。
さっきまでしゃぶっていた指が指す指へと変わっているのを目にしているはずです。
「〇〇ちゃん、もういいでしょ」
そんな声が背後からしてもおかしくはないでしょう。それに対して、赤ちゃんはなにやら口にするかもしれません。
しゃぶるがしゃべるに変わるなんて言いたくなります。⇒ 拙文「しゃぶるとしゃべるは似ている」
しゃぶっていた指が「自分」を指し、しゃぶっていた口が何かをしゃべっている。もしそんなことがあったとすれば、その「漏れ出た」音がその子の名前であっても不思議はないだろうなんて思わずにはいられません。
さらに、「言葉は「出る」、文字は「現れる」」なんて言いたくなります。⇒ 拙文「それは遅れてやって来た(世界について・03)」
しゃべり始めた「自分」が文字を教わり、文字の「自分」になるのは、もう少しあとになるでしょう。文字は遅れてやって来ます。おもむろに現れるのです。
遅れてやって来るとは言え、文字との出会いは大きな変化をもたらします。やがて、目の前のさまざまな面(教科書やノートやプリントやタブレット)と、少し離れた大きな面(黒板やスクリーン)と向き合う日々が続きます。
・「現れるもの」は、いったん現れたら、しばらくそのままの形でいる。つまり、居すわる。しつこく、そのまま居すわり続けることもある。抽象的。視覚的。しつこい割には、とりとめがない。非日常的で気難しい。不在であっても遍在感を漂わせている主人(あるじ・おやじ・ぬし)という感じ。
(拙文「それは遅れてやって来た(世界について・03)」より)
面はそれだけではありません。地図、年表、スケジュール表、カレンダー、成績表、証書、アルバム、辞書、事典、図鑑、ネームプレート(名札)――。
*
ここまでお付き合いくださり、どうもありがとうございました。
