「自分」という言葉と自分
私は私。私は文字。
(拙文「私小説 007」より)
今回は「絶え間なく更新される「いまここ」」の続きです。
お急ぎの方は「まとめ」からお読みください。
たった一つの言葉を当てる
「猫」という言葉は、猫ではなく、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。
「人」という言葉は、人ではなく、人に似ていないにもかかわらず、人だとされて、人としてまかり通っている。
「私」という言葉は、私ではなく、私に似ていないにもかかわらず、私だとされて、私としてまかり通っている。
「自分」という言葉は、自分ではなく、自分に似ていないにもかかわらず、自分だとされて、自分としてまかり通っている。
*
たった一つのものにたった一つの言葉を当てる。
たった一つのものが一本化され、共有される。
たった一つのものが一本化されてたった一つの言葉でみんなに共有されることによって、たった一つの言葉が、複製され、拡散され、あちこちで保存される。
たった一つのもの(事物)が、一本化されたたった一つのもの(言葉)によって、無数になる。
人はこうした逆説とも不条理とも言える過酷な現実を生きています。
*
つまり、文字は複製ですから、誰が・何が書いても(入力しても)、「そっくり」(印象)だし「同じ」(人は自力では判断できない)でもあります。その意味で最強の「同じ」なのです。
(拙文「人と同じ」より)
言葉(音声)は誰にとっても、生まれたときに既にあったものですから、誰もが借りていると言えます。赤ちゃんの頃から誰もが聞いて真似て学んでいくのです。
言葉は語としては複製ですが、言葉の発音には個人差があります。
ところが、複製である文字の場合には書いた文字に個人差(筆跡)があるとしても、機械(機械の使命は「つくる」ことではなく「はかる」です、当然のことながら機械は複製です)をもちいて活字(複製)にすると個人差は消えます。
複製が複製を複製するのですから、その仕事ぶりと結果は完璧以上でしょう。
このように、文字を洗う、文字洗浄、レターロンダリング、letter laundering は、日常的にいたるところで起きています。しかも、誰もが、その行為に期せずして加担してしまっているのです。
とりわけ、写された活字(印刷されて紙面に写った活字)ではなく、映された活字(液晶画面に映った活字)は完璧な複製ですから、誰が書いても、何が書いても、その出所はたどれません)。⇒ 「文字の振りをした文字」
(ただし、複製であるというのは、個々の文字と語としての話であり、フレーズやセンテンスのレベルになると、その単位での文字列が複製であるとは言い難いです。出所をたどるのは困難になりますが、たどるためには、個々文字と語を対象にするのとはまったく別の作業が必要です。個々の文字および語の組み合わせが一致する確率が問題になるでしょう。)
文字の振りをした文字としか言いようがありません。
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くり返します。
たった一つのもの(事物)が、一本化されたたった一つのもの(言葉)によって、無数になる。
人はこうした逆説とも不条理とも言える過酷な現実を生きています。
「たった一つのもの」と無数の「一本化されたたった一つのもの」とのあいだにある、とほうもない隔たりを人が体感するには、自分と「自分」という文字の隔たりを考えるのがいちばんです。
人にとって、「たった一つのもの」とは自分以外にありません。あらゆる存在のなかで、自分は別格なのですから。
ですから、「同じ」どころか「同一」という概念(いわば絵に描いた餅です)を人が体感しようとする(とりあえず納得する)なら、自分を対象にするのがいちばんだと思います。
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たった一つのもの ⇒ たった一つに一本化された言葉 ⇒ 無数の「たった一つに一本化された」=「同じ」言葉
たった一つの猫、人、私、自分が、
たった一つに一本化された、つまり同じ言葉である
「猫」、「人」、「私」、「自分」にされる。
たった一つであるはずの猫、人、私、自分が、
無数の「猫」、「人」、「私」、「自分」にされる。
たった一つであるはずの猫、人、私、自分が、
無数の猫、人、私、自分にされる。
たった一つであるはずの自分が、
無数の自分にされる。
ただし、自分とは多種多様な(「無数」と言っていいでしょう)側面(属性)と形態(ありよう)の総体でもあるのです。
この「無数」と、言葉と文字という複製によって一本化された「自分」に当てられている「無数」が同じなのも、「当てる」という言葉と文字の仕組みがあるからであり、また「無数」という言葉・文字が複製であるからにほかなりません。
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もしも、そんなことが起きているのだとすれば、人は混乱するはずです。混乱して当り前です。
でも、混乱している様子が見られないとすれば、混乱しないように忘れて気づいていないにちがいありません(または、かもしれません)。
忘れて気づいていない振りをしているとか、忘れて気づいていない振りを演じてしまっているとも言えるでしょう。
・忘れて気づいていない振りをしている(とぼけている)
・忘れて気づいていない振りを演じてしまっている(うっかりしている)
両者は印象ですから検証はできません。「振りをしている」と「振りを演じてしまっている」は見ていて区別できないのです。
いずれにせよ、そんなふうに人はできるのでしょう。人にそなわった知恵だと私は思います。人は、人のやっていることは、すごいのです。
音声と文字と事物の三位一体
・「猫」という音声。
・「猫」という文字。
・「猫」というもの。
上の「猫」を、「海」や「ウミネコ」や「ヤマネコ」に変えてもかまいません。
上の「猫」を、「人」、「私」、「自分」に変えて、その意味を考えると目まいを覚えるかもしれません。私の場合には、そうです。
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音声と文字と事物を一本化するかたちで一致させる――。
これが教育(とりわけ学校教育)の基本です。この三者は一体(同じ・同体)だと決めて教えるのです。三位一体と言ってもいいでしょう。
その教育を受けて、いまの私はあると言えます。この文章を見ているみなさんも(文字を読んでいるはずですから)、そうにちがいありません。
いろいろな自分
私はいろいろな自分がいると感じています。ただし、普段はそう考えながら生活していません。
そう考えないようにできている自分に感謝しています。
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「自分」という言葉を当てられていない自分もいるという意味です。
たとえば、次のような自分がいます。普段は自分という言葉を当てて、わざわざ考えたり意識しない自分もいます。
・文字を書いている自分と書かれていく文字。私は書かれていく文字が自分だと感じる瞬間と、自分は文字に書かされていると感じる瞬間があります。意識が文字に向けられていると書いている自分は消えている気がします。
・お風呂で体を洗っているとき、洗っている自分と洗われている体のどちらが自分なのかと考えることがあります。長くは考えません。洗われている身体に自分が現れているのか。半分冗談はさておき(半分は本気で書いています)、意識としての自分と身体としての自分を、自分という言葉で当てていることに違和感を覚えるのです。
・文字を書いたり読んでいるさなかの自分は平たい紙面を見つめていますから、平面にいるような気がします。入力中の自分はおそらく一日でいちばん自分の身体という凹凸のある立体物に触れているので、自分を立体として感じているような気がします。私は平面人間だったり立体人間だったりするのです。自分に平面とか立体という言葉を当てることは、noteでの文章でしかやっていません。人には話したことはないのです。「ねえねえ、私は平面だったり立体だったりするんですよ~」なんて、ひとさまに言えますか?
*
・写真で見る自分は、撮られた記憶のないものと撮られたときのことを覚えているときとでは、いまになって眺めていると違いがあるように感じることがあります。感じないこともあります。
・幼い頃の写真と、中学生の頃の写真と、写真を撮るのが証明写真だけになった頃以降の写真。それらの被写体を、たった一つの(つまり同じ)自分という言葉で呼んでいいのか。よく分かりません。
・鏡の中の自分が見えないという思いはいまもあります。根強くあると言うべきかもしれません。ほとんどオブセッションと化しているようです。
*
・私はお化粧をするときの人のことをよく想像します。
そのように考えるとき、鏡の前で黙々と自分の顔に指で触れていく化粧という行為(私にはその習慣はありませんけど)が、象徴的で儀式めいたものに感じられてなりません。
更新されつつある自分と自分とのずれを、目と指で刻々と確認するのですから。
(拙文「絶え間なく更新される「いまここ」」より)
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鏡の前でお化粧をするとき、目の前に見える自分と指で触れている自分の両方を感じるはずです。
一方は鏡に映っている鏡像であり虚像です。これは見えています。
もう一方は、指で触れている自分の顔です。これは直接には見えません(直接には永遠に見えません、自分とは一度も会ったことがないし、これからも会えない、たった一人の掛け替えのない人なのです)。自分を見るためには、鏡(左右が逆)や写真や動画というものに頼らなければなりません。間接的に見るしかないようです。
あう
《会・逢》たがいに顔を見て相手を認識する。顔を合わせる。対面する。会見する。対する。面と向かう。
・見えない自分(見えないから何かに映して見るしない自分)
・手で触ってその存在を確かめるしかない自分
そのまったく異なる二つのものに、自分というまったく同じ(たった一つの)言葉を当てることができます。というか当てています。
さらに言うなら、鏡を見つめていながら、同時に指で触れている「中の人」みたいな自分もいるはずです。
・見えない自分(見えないから何かに映して見るしない自分)
・手で触ってその存在を確かめるしかない自分
・中の人(心・意識・魂とか何とでも呼べます)としての自分
ややこしいですね。考えていると変になりそうではありませんか?
でも、大丈夫です。安心してください。
変にならないように、たった一つの言葉に一本化しているのです。しかも、
・一本化していることを忘れた振りをしている(とぼけている)
か、
・忘れた振りを演じてしまっている(うっかりしている)
のです。
人は実にうまくできています。感謝しましょう。
でも、感謝するって誰(何)に?
化粧、「化粧」、『化粧』
私は化粧をしません。
私は「化粧」というタイトルの記事を書こうとしたことがあります。
私は『化粧』という掌編小説をいまから取りあげたいと思います。
*
化粧、「化粧」、『化粧』――。同じ言葉を当ててありますが、それぞれが指し示すものは異なっています。別物なのです。
別物に同じ言葉を当てることもよくあります。
*
私は化粧をしません。
私は化粧というタイトルの記事を書こうとしたことがあります。
私は化粧という掌編小説をいまから取りあげたいと思います。
*
音読すると消えるものがあります。約物と呼ばれているものはたいてい、音読すると消えます。
上の三つの文を誰かの前で音読してみてください。おそらく混乱は生じないと思います。読む人が混乱しないようにと工夫して書いたからです。「……という○○」というふうに説明しています。こうした配慮をしないで書くと以下のセンテンスになります。
・私は「化粧」を書こうとしたことがあります。
・私は『化粧』をいまから取りあげたいと思います。
・私は化粧を書こうとしたことがあります。
・私は化粧をいまから取りあげたいと思います。
上のペアも下のペアも音読すると同じです。文字(書き言葉)と音声としての言葉(話し言葉)に差違とか差異を感じる瞬間です。ちなみに、差違と差異も音読すると同じ(ある意味、音読不能)になります。
化粧に化粧を施す
化粧、「化粧」、『化粧』――。
化粧という言葉と文字は決められたものです。誰もが生まれたときに、既にあった音であり文字ですから、借りるしかありません。みんなのものなのです。
勝手にいじることはできても、勝手にいじるわけにはいきません。
そこで、たとえば「 」や『』や上のように太文字にすることで、お化粧をしてやることができます。
*
言葉の化粧とは趣が異なりますが、造語という言葉のいじり方もあります。自分語をつくるとも言えます。
自分語
音読すると何かが失われたり消えたりして(または別の理由で)意味が取りにくくなってしまう文のことを、私は「音読不能文」と勝手に名付けています。
音読不能文をnote内検索したり、グーグルで"音読不能文"として一致検索する――これもネット上での「自分探し」である「エゴサーチ」かもしれません――と私の記事しかヒットしないので、これは自分語だと言えそうです。
自分語というのは、まだ「言葉が当てられていない何か」に言葉を当ててやること、つまり日の目を見させてやることなのです。自分語が自分のように感じられることがあります。
ただし、自分語は癖になるので要注意です。何でもやり過ぎはよくありません。
話を戻します。
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これまでにお話ししたことをまとめます。
・猫は、猫ではなく、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。
・「猫」は、猫ではなく、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。
・「猫」という言葉は、猫ではなく、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。
世界に無数にある「たった一つのもの」に、一本化した「たった一つの言葉」を当てるのが、言葉の基本的な仕組みだという話をしています。
しかも、この仕組みを忘れた振りをする(とぼけている)とか、忘れた振りを演じてしまっている(うっかりしている)という話もしています。
次いで言うと、「とぼけている」と「うっかりしている」は見ていて区別できないようだという話もしています。
*
では、『化粧』の話に戻ります。化粧の話ではなく、「化粧」の話でもなく、『化粧』の話です。
『化粧』
お化粧は、たいてい一人でするようです。いや、そうでもないかもしれません。
えっ? 鏡の中の自分と二人でする、ですか? それは、そうです。まさに、そのとおりだと思います。異議はありません。
だって、お化粧とは、鏡の前と鏡の向こうの二人の自分の合作以外の何ものでもないだろうと私は想像します。二人のどっちが欠けてもお化粧はできませんから。
でも、これからするのは、そういう話ではありません。気をつけなければならない事態もあるという話です。
しかし、若い女のたいていは、そこに立ち止まってから、化粧をする。葬式場の厠で化粧をする喪服の女――濃い口紅を引くところを見たりすると、屍しかばねを舐め血の脣を見たように、私はぎょっと身を縮める。彼女等は皆落ちつきはらっている。誰にも見られていないと信じながら、しかも隠れて悪いことをしているという罪の思いを体に現わしている。
(川端康成『化粧』(『掌の小説』(新潮文庫)所収・p.384)
厠ですからトイレです。「私の家の厠の窓は谷中の斎場の厠と向かい合っている」(p.383・この掌編の出だしです)にしても、そして、これが小説であるにしても、「いかがなものか?」と言わざるをえません。
*
以下は、別の作品からの引用です。
こんな風に見られていることを、葉子は気づくはずがなかった。彼女はただ病人に心を奪われていたが、たとえ島村の方へ振り向いたところで、窓ガラスに写る自分の姿は見えず、窓の外を眺める男など目にも止まらなかっただろう。
島村が葉子を長い間盗見しながら彼女に悪いということを忘れていたのは、夕景色の鏡の非現実な力にとらえられていたからだったろう。
(川端康成『雪国』(新潮文庫)pp.11-12・太文字は引用者による)
川端の小説では、男が一方的に女を「盗見」(盗み見)するという場面がよく出てきます。
『雪国』では窓ガラスに映る葉子と病人の様子を見ているわけですが、これが『眠れる美女』になると相手が眠っているという具合に、かなりエスカレートするのです。
このエスカレーションについては、「人に似ている」で触れていますので、興味のある方はご覧ください。川端康成という書き手を理解するためには、このエスカレーションは看過できないテーマだと私は思います。
相手に知られずに一方的に相手を見る――これは暴力にほかなりません。極端な話が、マスメディアやネット上でも頻繁に起こっていることではないでしょうか。私たちは意図せずして加害者にも被害者にもなりうるのです。
たとえば、事故、事件、災害時には、誰もが容易に瞬時に見る側にも見られる側にもなります。一方的に、かつ一方向的にです。現在はネットに接続されたカメラがいたるところにあるからです。
場合によっては、同時に見る側と見られる側になりうる気もします。
*
ところで、テレビやネットを通じて、自分が相手に知られずに一方的かつ一方向的に相手を見ているということを、私たちは忘れていたり気づいていません(まさか知らないとは言えないでしょう、知っているはずです)。
・知っているけど忘れたか気づかない振りをする(とぼけている)
・知っているけど忘れたか気づかない振りを演じてしまっている(うっかりしている)
両者の区別は見ていてはできません。誰かを責めているわけではありません。
自分自身が、知っているけど忘れたか気づかないでいる私が、そんな人を責めたり批判できるわけがありません。どうやら人はそんなふうにできているという話をしているだけです。
話を戻します。
*
川端康成の『化粧』はとても短い作品で、いろいろなアンソロジーに収録されています。
入手しやすい本としては、『掌の小説』(新潮文庫)があります。収められている作品はどれもごく短いものなので、読みやすいし小説の勉強にもなるでしょう。とてもお得な本です。
お持ちの方も多いにちがいありません。お薦めします。
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なお、『化粧』は、以下のアンソロジーの「10 ふしぎな話」にも収められています。「中学までに読んでおきたい日本文学(全10巻)」(あすなろ書房)です。
中学までに読んでおきたい、ですか。なるほど……。
収録作品のリストを見ると、思わず「あっ」と声を上げてしまうほどの、素晴らしい作品がたくさん入っている選集であることは確かです。
まとめ
脱線による余談はさておき、この記事でいちばん言いたかったことを以下に箇条書きします。
1)「自分」という言葉(音声)と文字は、自分ではなく、自分に似ていないにもかかわらず、自分だとされて、自分としてまかり通っている。
2)「自分」という言葉(音声)と、「自分」という文字と、「自分」というもの――この三者を一致させて同じだと教えるのが教育の基本である。
3)多種多様でありながら掛け替えのない「たった一つの自分」に、一本化された「たった一つの自分」という言葉と文字を当てるのが、言葉の基本的な仕組みである。
4)一本化された「自分」という言葉(音声)と文字で、多種多様な面(属性)をもつ「自分」というものは掬えない。したがって、自分は救われない。
5)以上述べたことを、人は知っているはずなのに忘れたり気づかないように、はたからは(他人からは)見える。誰かが忘れたり気づかない振りをしている(とぼけている)のか、忘れたり気づかない振りを演じてしまっている(うっかりしている)のかは、他人には見ていて区別はできない。
6)どうやら、人は、自分という言葉と文字と、自分というものとの隔たりに振りまわされているようだ。
もし振りまわされているとすれば、言葉の仕組みと人の習性(振りを演じてしまう)のせいではないか、と私は感じています。ただし、いま述べたことは、私が自分を見ていての印象および感想にすぎないとお断りしておきます。
自分という言葉と自分というものについて、詳しく観察できる自分は自分しかいないという単純な理由のためです。
自分だけを観察しておきながら、人は人は、と人類を語るような言い方をして申し訳ありません。
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こう見えても私は(とはいえ、みなさんに見えているのは私というよりも文字だけですけど ← 今回の記事ではここがいちばん大切です、ここではそういう話をしているのですから、「知っているけど忘れたか気づかない振りをする(とぼけている)」とか、「知っているけど忘れたか気づかない振りを演じてしまっている(うっかりしている)」という話です)、人類の端くれなので、人類の名を騙っているわけではございません。ましてや、人の振りをして書いている「何か」でもありません。
(※上の太文字の部分で書いたことは、自分が仮面やお面(言葉と文字のことです)を被っているのをすぐに忘れる(お化粧をしていることを忘れるのほうがリアルかもしれません)、という比喩で考えるとイメージしやすいかもしれません。私なんか、言葉と文字をつかっているときには、自分が言葉と文字をつかっていることを一度思いだしても、ほぼ3秒で忘れます。3秒は意外と長いですよ。)
とはいうものの、振りかどうがを区別するのは、人は苦手なのです。振りには振りまわされるしかないのです。
ご理解いただければ嬉しいです。
なお、「人は振りには振りまわされるしかない」については、以下の記事「振りまわされる(線状について・05)」で書いたことがあります。近いうちにその続きを書くつもりです。
興味のある方は、どうかお読みください。このアカウントを開設して間もない頃に投稿した記事なので、アクセス数や「スキ」は少ないですが、私にとっては愛着のあるものです。
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ここまでお付き合いくださり、どうもありがとうございました。
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