絶え間なく更新される「いまここ」
今回の記事は、「人にそっくり」のうち、以下に引用する部分を受けるかたちで書いたものです。
(人が、なぜ、人以外の何かに人と「同じ」を求めるのかと言えば、人はその何かになりたいからにほかなりません。人は自分以外の自分を求めているのです。
おそらく、これは赤ちゃんのときに体験した、鏡の中の自分との別れが原因です。目の前の「そっくり」は「同じ」ではない、「そっくり」は「自分」ではないという衝撃の体験です。
その体験がトラウマになっているのにちがいありません。
このことについては、いつか記事に書きます。私にとっては大切なテーマです。)
(拙文「人にそっくり」より)
目、指、自分
最近、私は自分というのは、目であったり指であったりするような気がしてなりません。
意識や知覚する自分が、世界を意識したり知覚するさいには、目と指が大きな役割を果たしている。言い換えると、視覚と触覚が意識と知覚のなかで大きな位置を占めている。そういう印象をいだいているのです。
耳と聴覚がないではないかと言われそうですが、中途の重度難聴者(重度の中途難聴者)である私には、日常生活を送るさいに聴覚は大切な役割を果たしていながら、いまひとつピンと来ないところがあります。
ですので、聴覚は今回は保留します。私にとっての聴覚の話は別の機会に書くつもりです。
夢うつつ
実は、今回の記事でいちばんお話ししたいのは、触覚なのです。視覚に比べると触覚はかなり冷遇されている気がします。不当に冷遇されていると言いたいくらいです。
・寝入る前の夢うつつ
・夜中に目が覚めたあとの夢うつつ
私は上の夢うつつの状態が好きです。たった一人でいる時間であり、たいてい薄暗いところで横たわっています。
夢うつつは実に気持ちがいいのですが、ふと不安になることがあります。 生きているのかな?
*
夜中のベッドでの夢うつつのさなかに、自分が生きているのかどうかを確かめるさいには、私は指で自分を触ります。
触れる自分と触れられる自分が一致したとき、生きていると感じます。感じられるのかもしれません。
何かが特別な出来事が起きたときに、自分が夢を見ているのかを確かめる仕草として、人差指と親指で頬をつねることがあるそうですが(私にはその癖はありません)、それと似ています。
いずれにせよ、指が自分の体に触れていることがきわめて重要な意味を持つと私は思っています。
視覚や聴覚にはない感覚なのです。当り前と言えば当り前なのですけど。
視覚よりも触覚
どんなときにも、どんな場合にも、何ごとでも、目で確かめるのがいちばん信頼できるのではないかという気がしますが、視覚だと見間違いが頻繁に起きます。
私の場合には、夜中に目を覚ますと、見間違いのたぐいをよく経験します。近視なので、眼鏡をしていないとよく見えないこともあります。薄暗いと特にそうです。
聴覚は当てになりません。補聴器なしではほとんど聞こえない私ですが、ベッドにいるときは補聴器を装用していないからです。
残る嗅覚と味覚は寝ているときには、まず関係ありません。第六感も自分の生存確認のためには頼りになりそうもありません。
となると、生存確認には、何と言っても触覚です。自分で自分に触れてみて、ああ、生きているわと感じるのです。
触れる自分と触れられる自分が一致する。生きている。
わざわざ脈を取って確認するまでには及びません。相手は自分なのですから。触れる自分と触れられる自分がいれば、それでよしとします。
そう言えば、脈を取るは、脈を「見る」とも言いますね。どういうわけか、そう言われています。
on(接触・密着)/off(隔たり)
一般論としてですが、目を閉じたり真っ暗な闇のなかで、一時的に視覚が失われたときに人が頼るのは、五感のうちのどれでしょう?
聴覚、嗅覚、触覚、味覚なのでしょうが、そのなかで最も外界との接触に直接的にかかわっているのは触覚であり、とりわけ指の感覚ではないかと私は思います。
闇の中ではよく手探りをしますが、それです。手の先には指があります。指はアンテナ(触角)なのです。闇では触覚に頼るしかありません。
・on(接触・密着):触覚・触感、味覚・食感。
・off(隔たり):視覚、聴覚、嗅覚。
視覚、聴覚、嗅覚では、対象や相手との間に隔たりがあります。いわば間隔のある感覚です。そばに取っ掛かるものがないのですから、よるべない知覚だとも言えるでしょう。
だから、よるべない自分を感じたとき、人は手を差し出したり、手探りのような動作をします。
その先には指があるからです。指で触れることで、世界(まわり)との隔たりを解消しようと懸命に努めるのです。もがき、あがくのです。
*
いつだったか、戦場でもがくような姿で亡くなった人の手と手を合わせて胸に置く様子を記録映像で見たことがあります。
死者にかぎらず生者においても、大切な場面で合掌するのは理にかなった仕草であると得心しないではいられません。
話を変えます。
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触覚や触感は皮膚や肌で感じる感覚ですから、全身の皮膚で感じることができるのでしょうが、夢うつつのさなかの儀式(自分の生存確認のことです)で私がもちいるのは、指、それも人差指です。
利き手である右手の人差指で、左手の甲に触れてさすります。指は、なかでも人差指(食指とも言います)は別格なのです。
もし触覚と触感が、「(自分が)する」と「(自分が)される」を同時に感じられる唯一の知覚であるなら、指は、人差指はその中心であるとさえ言いたくなります。
視覚では「見る自分」と「見られる自分」が永遠に引き裂かれている気がします。その自分と自分との不条理とも言える悲しい別れを知るのが鏡の前の体験にほかなりません。
聴覚においては、自分の話す・放す・離す声を「聞く自分」は「聞かされる自分」であると同時に話され・放され・離されていくしかないようです。
話す自分である声は刻々と消えていきます。話す自分が自分を放し離していくのです。
*
そのように考えるとき、鏡の前で黙々と自分の顔に指で触れていく化粧という行為(私にはその習慣はありませんけど)が、象徴的で儀式めいたものに感じられてなりません。
更新されつつある自分と自分とのずれを、目と指で刻々と確認するのですから。
ことわけ、ことわり
・ことわけ【事訳】
①事柄のわけ。事柄の理由。
②いいわけ。弁解。
・ことわり【断り】(「事割り」の意。⇒理(ことわり))
①物事の理非をわかち定めること。判断。判定。
②申しわけ。言いわけ。
・ことわり【理】(物事の理非を分かち定める意から。⇒断り)
①道理。条理。
③理由。わけ。
④当然のこと。もっともなこと。
主体、客体、身体という「ことわけ」や「ことわり」が曖昧になる「点」に指があるような気がしてなりません。
指とは、きっと「点」であり「線」であり「面」でもあるのです。そのどれでもあり、そのどれでもない感じ。分けられないという意味です。
事割りは言割り、事訳は言分けでもあります。言葉で説いても解けないのは溶けているからだと思います。
点と線と面、それぞれの性質が同時にあるような気がします。三つが同時にあるということはどれとも言えない感じ。
ここであえて「ことわけ」するなら、点は指(なでる・さする・まさぐる)、線は目(たどる・おう・さす)、面は皮膚(ひろげる/ひろがる・のべる/のびる)だと言えるかもしれません。
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「ことわけ」と「ことわり」のために、和語を漢語で「わけて」みて、「わり」きれるかどうかを見てみます。
なでる(撫・摩)
さする(摩・擦)
まさぐる(弄)
たどる(辿)
おう(追・逐)
さす(指・差・射、刺・挿・注・点・鎖)
ひろげる/ひろがる(広・拡)
のべる/のびる(伸・延)
和語の音が漢語の文字(漢字)にわけられて、わかったような気になります。
わけてわかったような気分になるのもいいですが、わけずにわからないままでいるのも捨てがたい感覚だと私は思います。説かず解けず溶けている感覚です。
だから、夢うつつが大好きなのかもしれません。
絶え間なく更新される「いまここ」
指が点である(同時に線と面でもある)というのは、触覚には基本的に「いまここ」しかないからにほかなりません。
たとえ、なでたり(撫・摩)、さすったり(摩・擦)、まさぐったり(弄)しても、「いまここ」の絶え間のない更新なのです。
更新ですから、「いまここ」はたちまち「いつかどこか」へと過ぎ去っていきます。それでいて「いまここ」は「いつかどこか」へと向ってもいるのです。
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視覚、つまり目はどうでしょう。
目は線でもあります。目は、外にあり、隔たったところにある線の形に沿って動き、自らが線(目線・視線)となってかのようです。
目は、線をたどり、線としてたどることで、最終的にはおそらく面としての俯瞰を目指します。
指が点であると同時に線と面でもあるとするなら、そうした俯瞰への指向があるのかもしれません。
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面である皮膚となると、それが感じるのは全身的なまぼろし感とか気配(空気・雰囲気)に近い気がします。
一方で、面としての皮膚には枠があります。全身と言っても、身体という枠内での話ですから有限なのです。
on(接触・密着)である触覚ではありますが、接触と密着は常に起きているわけではありません。対象と相手との間には隔たりがあります。
限界と隔たりが前提にあるために、面は観念的でもあります。
触覚(面・点・線)にも記憶や予測・予感があるとすれば、面白いでしょう。
面としての触覚に、人がパソコンやスマホの画面を相手に目指す俯瞰願望や世界との一体感に相通じるものを感じます。
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気になるのは鏡です。面(顔面・皮膚)をうつす面(鏡面)だからにほかなりません。鏡面は鏡界であり境界でもあります。
超えられそうで越えられないさかいなのです。鏡を覗きこむ者は引き裂かれ別れさせられています。それが鏡を前にしての無慈悲で残酷な体験なのです。
しかも、この鏡面の掟は、広義の影と像のうつる、ありとあらゆる面に適用されるかような様相を呈しています。
地面、水面、川面、絵画、壁画、板、屏、羊皮紙、紙面、盤、版、写真・フィルム、スクリーン・銀幕、幕・膜、譜・譜面、図面、プレート、札(ふだ・さつ)・幣、画面……。
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目の前の「そっくり」は「同じ」ではない。目の前の自分は自分ではない――。
赤ちゃん、あるいはこどものときに体験したこのトラウマを、人はおとなになっても引きずりつづけます。生きつづけるためには、忘れて気づかずにいるしかないのです。
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冒頭で述べたとおり、今回は「人にそっくり」という記事の一部を受けるかたちで書きました。まだ話は続きますが、体調を考慮して、今回はここでとめておきます。
(つづく)
