人に似ている
「似ている、そっくり、同じ(世界は言葉でできている)」の続きです。
似ている、そっくり、同じ、同一
「似ている」と似ている言葉を並べてみます。
似ている、そっくり、同じ、同一
このように並べるとなにやら順序があるように感じられるかもしれません。左から右へと「似ている」の度合いが強くなっているようです。
「似ている」程度がエスカレートすると「同じ」から「同一」にまで行ってしまうのではないでしょうか。
似ている < そっくり < 同じ < 同一
こんな感じです。
似ている
人はやかんに似ている――。
「似ている」という言葉は漠然として曖昧です。
・AはBとCが似ている。
・AとBはCが似ている。
このように、Cをはっきりさせるべきだと私は考えています。
(拙文「似ている、そっくり、同じ(世界は言葉でできている)」より)
人の顔はやかんに似ている。
人の顔はつるつるしたところがやかんに似ている。
このように具体的に書いていくと、「あれだ」と思う方がいるかもしれません。そうです。あれの一節です。
第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。
(夏目漱石『吾輩は猫である』より)
これくらい具体的に描写したり説明してくれないと、人のどこが、やかんにどう似ているのは相手に伝わりません。
やかんはつるつるしたところが人の顔に似ている。
やかんは人に似ている。
*
この小説が、想像上の猫の視点(「吾輩」という一人称)で書かれていることに注目したいと思います。人の顔がやかんに似ている点を(想像上の)猫の目から描写し説明しているのです。
人に似ている――は人の「特許」(比喩です)でも特権でもないという(人からの)視点です。「(人からの)」が決定的に重要です。
人は人以外にはなりえません。人以外のものの感覚や意識を「推しはかる」ことも「慮る」ことも不可能ではないかと思います。そうであれば、せめて「思いやる」努力をしましょう。
人に似ている(part 1)
「(想像上の)猫」ではなく、人から見た「人が似ている」の話をします。
「人に似ている」という言い方はいろいろできると思います。具体的に見ていきましょう。
*声が似ている
・声が人に似ている――。
生き物なら、オウムとかインコとか九官鳥でしょうか。人のつくったものなら、スピーカー、レコード、蓄音機、テープレコーダー、デジタル式録音機と再生装置とスピーカーでしょうか。
そんなふうに言えば、電話だって人の声に似ている(「似せてある」のですけど)ということになります。当然と言えば当然、屁理屈と言えば屁理屈ですが、要するに、人の声に似ているものはありふれているということです。
ありふれたものやことを、わざわざ言葉や文字にすれば、当り前に思われるにちがいありません。また角が立ちすぎて屁理屈に感じられることもあります。
さじ加減が難しいところです。
*
人のつくるもので人に「似ている」ものの多くは、人に「似せてある」、つまり「真似ている」ようですが、「似ている」と「真似ている」は似ているので、人はその区別が苦手です。⇒「「似ている」と「真似ている」は似ている」
自分でもわからなくなっているのではないでしょうか。自分のつくるものが結果として自分に似ているというのは意外に多くありそうです。
無意識に人に「似せている」。なんとなく人に「似せてしまった」結果として人に「似ている」。その人に「似ている」を、なんとなく見て楽しんでいる――。
この「なんとなく」を失ったら、その人は人でなくなってしまうほど、この「なんとなく」は、人には当り前でありふれた心もちになっていると言えるかもしれません。
*顔が似ている
・顔が人に似ている――。
例を挙げます。
人形。当り前ですね。
漫画やアニメに出てくる人。当り前ですね。
ぬいぐるみのクマ。当り前でしょうか?
漫画やアニメに出てくる動物や鳥や植物たち。当り前でしょうか?
*形や姿が似ている
・形や姿が人に似ている――。
例を挙げます。
人形。当り前ですね。
漫画やアニメに出てくる人。当り前ですね。
ぬいぐるみのクマ。当り前でしょうか?
漫画やアニメに出てくる動物や鳥や植物たち。当り前でしょうか? 声まで似ていませんか? 声だと「似ている」どころか、「そっくり」どころか、「同じ」ではないでしょうか?
*
確か自分が小学三、四年生のころです。学校で学年別に映画鑑賞に出かけた日のことです。映画はディズニー製作のアニメーションでした。午前中に映画を見終わり、児童たちは学校にもどりました。給食の時間が過ぎ、午後からは映画の感想をクラス内で話し合う特別授業になりました。
いい映画だった。いろいろな動物たちが出てきて楽しかった。出てきたうちではお母さんライオンがいちばん好きだ。絵がきれいだった。動きが自然で感心した。意地悪な人間が出てきたのが嫌だった。なかには悪い動物もいたけど、やさしい動物がたくさんいて感動した。あんな世界で暮らしてみたい。
クラスの児童たちの口からは、だいたい以上のような感想が出ました。ある子が挙手もせず着席したまま、こんなことを話し始めました。
「動物なんて一匹も出なかった。全部、人間みたいだった。だって―― 」
教師はその子の発言をさえぎりました。(……)
(拙文「幼なじみ」より)
「幼なじみ」は、私にはとても愛着のある記事です。お読みいただければ嬉しいです。
擬人、人に擬する
何を言いたいのかと申しますと、(人の)世界は人に似ているものに満ちているのです。(人の)世界にある人に似ているものぜんぶが人のつくったものだと言えるでしょう。
人は擬人の世界に生きているのです。とはいえ、そう考えると、人から擬人を取れば人ではなくなりますから、いい悪いで判断するのは現実的ではありません。
自覚しているに越したことはないのかもしれませんが、そこは人それぞれです。
*
言葉は人どうしが話すためだけにあるのではありません。世界、宇宙、森羅万象を相手に呼びかけ、話しかけるためにあります。
だから、歌や物語では、生き物や生きていない物たちや、物と言うよりも現象までが、人のように言葉を話します。
*
絵、漫画、アニメ、ゲームは歌と物語の延長上にあると言えば、今も私たちは歌を歌い、物語を語っていることがお分かりいただけるかもしれません。
人類は一貫して、太古から現在にいたるまで、擬人を基本とする呪術の世界に生きているのです。
(拙文「空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫」より)
人に似ている(part 2)
上の「人が似ている(part 1)」では、声と顔と形や姿が人に似ているという例を挙げました。つまり、五感のうちの、聴覚と視覚でした。
残る、嗅覚、味覚・食感、触覚・触感の例を見てみましょう。
*
*匂いが似ている
匂いが人に似ている――。
例を挙げます。
たとえば、人以外のものに、人と似た匂いを人が感じる(ややしくて、ごめんなさい)という場合が考えられます。
また、人に似せた匂い(体臭に似た匂い)を、または人がつけている匂い(香水や香料など)を、人以外のものに人がつける、というケースもありえます。人形とか人体に模した模型とかに……。あるいは人にはぜんぜん似ていない自然物とか人工物に……。
以上は、話がかなりややこしくなりそうなので、ここではこれ以上扱いません。
*
人どうしで匂いが似ていると感じる、という文脈での話に限定します。
具体的に、ある匂いが誰かに似ているとなると、香水のたぐいの匂いというか香りの話にもなりそうです。
体臭や、その人の仕事柄でその人の衣服に染みこんでいる匂いというのも、ドラマが感じられていい話ですね。人を対象にした、匂いによる連想や匂いが喚起する記憶。
残り香や移り香もいい言葉でありイメージだと思います。誰かがその場所に残した、あるいは何かに移した匂いで、別の人を思いだすという話です。
*味が似ている
これはありえますが、ここではパスします。
*感触が似ている
意味深ですね。ある作家の小説を思いだします。
川端康成作『眠れる美女』
話を少し変えます。
短絡的な言い方で恐縮ですが、次のようにも言えます。
「されている」を知らない、あるいは意識していない、または物を言えない相手や対象を、一方的に「する」――。
いま述べた行為や行動は、川端の作品だけに言えたり見られるのではありません。物語や話や小説だけでなく、演劇や漫画や映画やテレビドラマといった広義のフィクション全般についても言える仕組みだという気がします。
さらには、現在誰もが日常的に体験している、「する」と「される」、とりわけ「見る・見られる」「聞く・聞かれる」という状況についても言える仕組みだと私は考えています。
*
一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く。
↓
一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く、一方的に相手のにおいを嗅ぐ、一方的に相手に触れる、一方的に相手の体内へ自分の体の一部を差し入れる。
このエスカレーションですが、ぶっちゃけた話が、人類のやっていることなのです。他の生きものや生きていないものに対してだけでなく、人類同士でも、です。
(拙文「人というよりもヒト(する/される・03)」より)
上の引用文で「川端」とあるのは、川端康成です。
もう少し引用します。同じ記事の冒頭の部分です。
「相手に知られずに相手を見る(する/される・01)」で触れた川端康成の一部の作品に認められる傾向がエスカレートするさまを、ここで再びまとめてみます。
・『雪国』(1948年・完結本出版)
一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く。
↓
・『眠れる美女』(1961年・出版)
一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く、一方的に相手のにおいを嗅ぐ、一方的に相手に触れる、一方的に相手の体内へ自分の体の一部を差し入れる。
今回は、「一方的に見られる対象」が作品ごとに変わっていくさまを見ていきます。「相手」ではなく「対象」としたのは、人間とは限らないからです。
(拙文「人というよりもヒト(する/される・03)」より)
「人というよりもヒト(する/される・03)」は、『眠れる美女』という作品を川端の一つの到達点として見ようという趣旨で書いた記事なのです。
匂い、感触だけでなく、味についても、間接的ながら触れています。興味のある方は、ぜひご覧ください。
*
いつか川端の『眠れる美女』について書きたいという気持ちはあるのですが、それだけの体力と気力がいまのところはないのが残念でなりません。もっと元気になりたいです。
生半可な態度では読書感想文は書けない。私にとってはそんな作品なのです。
『眠れる美女』は、ある意味反人間的な色彩の濃い作品(あってはならない作品)だと言えますが、その反人間的な部分を人間的な見地から書いてみたいと思っています。
(作品における記述という点からは大きく異なりますが、厭世・厭人・反人間という点では、川端康成の『眠れる美女』と夏目漱石の『吾輩は猫である』は似ていると私は感じます。)
この作品の記述を逆手に取って逆転させ反転させたいのです。不可能というか徒労というか、きわめて困難な試みになるのは承知のうえで、そう思っています。
人というよりもヒト
何かが「人に似ている」という場合には、その視点が大きな意味を持つのではないかと思います。
・人から見ての「人に似ている」という感覚:
たとえば、人形(にんぎょう・ひとかた・ひとがた)。
・個人としての人どうしからの「誰かに似ている」という感覚:
たとえば、「あの人は亡くなった母に似ている。話し方も顔つきも歩き方も」。
・(想像するしかありませんが)ヒト以外の生き物から見ての「ヒトに似ている」:
これは、ヒトと接する機会が多い生き物(ペット・飼育・栽培・ヒトの近くで生きている)場合が考えられます。推しはかるとか慮るしかありません。つまり、ヒトの側から歩み寄るしかなさそうです。この星でのヒトのありようから考えるなら、です。上で述べた「思いやり」のことです。
*
人類は擬人によってここまで来たという思いが私には強くあります。馴致を基本とする縄張り(対他の生き物と人どうしの両方の意味です)という線引き(to tame)だけでなく、名付けを基本とする言語や分類という名の線引き(to name)が頭にあるからです。
この点については、お話ししたいことがたくさんあります。その多くは、「決めた「同じ」、はかった「同じ」、はかられた「同じ」」に書きましたので、お読みいただければ嬉しいです。
ところで、この記事のヘッダーの写真ですが、初めて見た瞬間、私は涙がとまりませんでした。左半分と右半分の対照に打たれたのです。そのときの私は両者にヒトを見ていたにちがいありません。思いやるのは難しそうです。
