【讃岐秘話】細川家家臣 黒羽城主 永塩因幡守氏継の壮絶な最期と子孫たち: 長塩元親、永峰五郎右衛門、永峰杢左衛門、幻の黒羽城跡地
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トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ)です。
今回は、1467年、応仁の乱に細川勝元側として参戦し京都御所北側の相国寺で安富元綱らと共に壮絶な最期を遂げた永塩因幡守氏継(ながしお・いなばのかみ・うじつぐ)の生涯と子孫たち、幻の黒羽城跡地のお話しです。
室町時代の讃岐の情勢
室町時代の讃岐国は、幕府の要職である管領を輩出する細川京兆家が守護を務める「細川氏の牙城」でした。
しかし、細川氏自身は京都に在住していたため、現地では強力な守護代や有力国人が東西に分かれて統治していました。
讃岐の二大勢力(守護代)
細川氏の下で、讃岐は「東」と「西」に分けて分割統治されていました。
東讃岐守護代 安富氏
西讃岐守護代 香川氏
主な勢力図と対立構造
中央の細川氏の権威を背景にしつつも、在地では国人(こくじん)と呼ばれる領主たちが割拠していました。
東讃(安富氏の影響下)
寒川氏(さんがわし): 昼寝城を拠点とする有力国人。安富氏としばしば対立
永塩(長塩)氏: 阿波国境の黒羽城を拠点とし、安富氏を軍事・実務で支える。
西讃(香川氏の影響下)
香川氏: 西讃岐の守護代。天霧城を拠点とする。
奈良氏: 宇多津 聖通寺城を拠点とする。
香西氏: 阿野郡を領地とし、勝賀城に居城した有力武士
当時のパワーバランス
当時の讃岐は、以下のような多重的な支配構造になっていました。
頂点: 細川京兆家(管領)
実務代行: 安富氏(東)・香川氏(西)
在地拠点: 永塩氏(黒羽)、寒川氏(大内)、香西氏(阿野郡)

永塩(長塩)氏は、讃岐の東端に位置する黒羽で「東の守護代・安富氏」の右腕として、阿波と讃岐の国境警備、対立する寒川氏を監視する東門の番人という極めて重要な役割を担っていたことになります。
・西讃岐の守護代
・香西氏
永塩因幡守氏継の黒羽への派遣背景とその役割

室町時代中期、東讃岐の支配を担っていたのは細川京兆家の重臣であり、守護代を務めた安富氏でした。
しかし、安富氏は主君・細川勝元の側近として常に京都に在住していたため、実際の讃岐統治は代官である「又守護代」に委ねられていました。
このような中央集権的な支配体制の中で、在地支配をより強固なものにし、不在がちな安富氏を実務面・軍事面から補佐するために派遣されたのが、永塩因幡守氏継であったと考えられます。
永塩因幡守氏継が配置された「黒羽」は、阿波国へと通じる交通の要衝であり、当時の防衛戦略上極めて重要な拠点でした。
当時はまだ引田城が築城される前の時代であり、国境付近の安定は細川氏にとって最優先課題の一つでした。
特に、東讃岐の有力国人である寒川氏は、安富氏としばしば対立関係にありました。
寒川氏自身も細川氏に仕える身ではありましたが、その動向を監視し、阿波方面からの勢力と不穏な連携を取らせないための「楔(くさび)」として、信頼の厚い永塩因幡守氏継が国境ラインの直轄化を担ったのです。
こうした緊迫した情勢はやがて、室町幕府を二分する応仁の乱(1467年〜)へと繋がっていきます。
細川勝元率いる東軍の主軸として、永塩因幡守氏継は安富元綱らと共に戦地へと向かいました。
1467年(応仁元年)10月の「相国寺の戦い」において、永塩因幡守氏継は勝元の寵臣であり「細川四天王」の一人に数えられた安富元綱と運命を共にし、壮絶な戦死を遂げています。
以上の経緯から、永塩因幡守氏継の黒羽への派遣理由は、単なる一領主の配置に留まらず、安富氏の補佐、寒川氏の牽制、そして阿波・讃岐国境の防衛という、細川家における極めて重要な戦略的任務を帯びたものであったと結論付けられます。
・戦国時代の讃岐勢力図

【参考】
室町時代 (1338-1573)の末期、1500年の初頭ごろ、引田城は寒川氏の寒川元政(昼寝城主)の家臣 四宮右近の居城となりました。
・引田城の沿革


黒羽神社の建立(1467年):
応仁の乱という大戦に赴く直前、自らの領地の安寧と武運長久を祈願して永塩因幡守氏継は黒羽神社を建立しました。
現在も黒羽神社は黒羽の地に残っており、由緒書きの石碑に永塩因幡守氏継の名前が刻まれています。

・永塩因幡守氏継の主君 細川勝元
・細川勝元の副紋: 五七桐

応仁の乱と「相国寺の戦い」での壮絶な最期
1467年は応仁の乱が勃発した年ですが、その中でも「相国寺の戦い(相国寺合戦)」は、乱を通じて最大級の激戦として知られています。
相国寺での討ち死に:
1467年10月、細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍が、花の御所(将軍邸)に近い相国寺を舞台に死闘を繰り広げました。
氏継はこの最前線で安富元綱らと共に壮絶な最期を遂げました。
忠義の証:
遠く讃岐の地から京へ上り、主君のために命を捧げた永峰因幡守氏継の壮絶な最期は、まさに当時の武士の規範を体現しています。
相国寺の戦いの経緯
相国寺の戦いは、応仁の乱の中でも特に激しい戦闘の一つであり、東軍の細川勝元に仕える安富元綱が、山名宗全率いる西軍との間で相国寺をめぐる攻防を繰り広げました。
経緯
応仁の乱の勃発:
応仁元年(1467年)に細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の対立が激化し、応仁の乱が始まりました。
相国寺の立地:
相国寺は室町幕府にとって重要な寺院であり、東軍の拠点となっていました。
西軍の攻撃:
1467年(応仁元年)10月3日、西軍は大内政弘・畠山義就・一色義直らの軍勢を率いて相国寺に攻撃を仕掛けました。
安富元綱、永塩因幡守氏継の奮戦:
安富元綱、永塩因幡守氏継らは3000騎を率いて相国寺を守り、激戦となりました。
相国寺の焼失:
相国寺内の僧侶が西軍に内通して放火したこともあり、東軍は動揺し総崩れとなりました。
安富元綱、永塩因幡守氏継の戦死:
永塩因幡守氏継、安富元綱は奮戦しましたが、弟の安富盛継らと共に戦死しました。
戦いの激化:
相国寺の攻防は激しく、奪い合いが繰り返された後、一旦休戦状態となりました。
その後の応仁の乱
戦場の拡大:
相国寺の戦い以降、京都での大規模な衝突は減少し、戦場は山城周辺や地方へと拡大していきました。
乱の終結:
応仁の乱は文明9年(1477年)まで約11年間続き、約160,000人の東軍と約110,000人の西軍が戦いましたが、最終的に西軍が解体され終結しました。京都は壊滅的な被害を受け、室町幕府の権威は失墜し、戦国時代へと移行する原因となりました。
・永塩因幡守氏継→長塩元親→永峰宅本の歴史。摂津国守護代を歴任した長塩家の面々
「永峰」への改姓と帰農の歴史的意味
主君の敗北(あるいは戦乱の長期化)と当主の討ち死には、残された一族にとって大きな転換点となりました。
改姓の背景:
「永塩」の名を伏せ、「永峰」と改めたのは、戦乱の追及を逃れるため、あるいは心機一転してその土地に根を張るという決意の現れかもしれません。
帰農と土着:
武士が名字を変えて農民(在郷武士・庄屋層)となる例は多くありますが、これは「その土地を離れず、守り続ける」ことを選んだ結果です。
氏継から続く系譜のまとめ
主君
細川勝元(東軍総帥)
拠点
讃岐国黒羽城(現・東かがわ市黒羽)
信仰
黒羽神社(1467年建立)
最期
1467年 相国寺の戦いにて討死
後世
永峰氏に改姓、同地に帰農
歴史資料における永塩因幡守氏継の記述
永塩因幡守氏継の名が出てくる文献には、「全讃史」「三代物語」、「引田町史」などがあります。
全讃史
「黒羽城 永塩因幡守氏継、之に居る。応仁元年、細川勝元に従い、洛陽の相国寺に戦死せり。」


増補 三代物語
「黒羽城跡 永塩因幡守氏継の居城、細川勝元に属し、応仁元年十月三日、安富元綱と同じく、洛陽相国寺合戦に戦死す。」

引田町史
「黒羽神社 : 香川県神社誌、並びに、明治12年、村戸長 永峰安三郎による大内郡役所への書上に、応仁元年八月四日、永塩因幡守氏継公の創立。」



角川日本地名大辞典

・くれは 黒羽<引田町>
相生扇状地の扇頂部に位置する。矢野山・橘谷山・保田奥山などの低い山地と馬宿川右岸の小平野からな る。地名の由来は、地内の土が黒いところから「くろ はに」が転訛したものと思われる(新撰讃岐国風土 記)。また「三代物語」に呉服とも記すとあるところ から渡来人の服部が居住したことによるのではないか という説もある。室町末期、永塩因幡守氏継が黒羽城 に拠り、細川勝元に属し、応仁元年京都相国寺合戦で 討死したと伝える。
〔近世〕黒羽村 江戸期〜明治23年の村名。大内郷郡 のうち。引田郷に属す。はじめ生駒氏領、寛永19年か らは高松藩領。村高は、「寛永17年生駒氏惣高覚帳」2 07石余、「貞享元年高辻帳」185石余、「天保郷帳」279 石余、「旧旧国領」280石余。天保2年の家数128。年 貢は引田御蔵納。安永4年の八分米150石余・取米92 石余、租率は上所で6ツ7分、下所で5ツ4分(日下 家文書)。夏成は、寛政11年銀札145匁・大麦5石6 斗・小麦1石4斗、文化6年432匁・大麦3石6斗・

地元の呼び名、発掘物、伝承から黒羽城跡地を推定する
・黒羽城跡地の詳細
🔸殿屋敷(とのやしき)
所在地:
現在は田畑になっており、黒羽城よりもさらに北、一番北に位置する。下記の地図で赤丸🟤
役割:
永塩因幡守氏継が実際に生活を送っていた「下屋敷」(居館)があったと推測される場所。
陶器のかけらなどが見つかった。
🔸古城(ふるじろ)
所在地:
黒羽神社の北東。
役割:
黒羽城があったと推測される場所。つまり、永塩因幡守氏継が創建したとされる「城」の本体。地図上の青丸🟣
水路を堀とした建物だったと推測される。
🔸観音堂がある丘
所在地:
吉祥寺の西側の丘の上。
役割:
寒川氏の動きや敵対勢力を監視するための「見張り台」の役目。地図上の黄丸🟡
私が現地調査に行き確認。吉祥寺西側の道路をはさんだ石段を登ったところに観音堂がある。中の観音像は永塩因幡守氏継が寄進したと伝わる。
面積的に土地の平坦部分は狭く、曲輪跡もなく、城があったとは考えにくい。当時、寒川氏や敵対勢力の動きを監視する見張り台だったと考えられる。
この観音堂の南に位置する高速道路の更に南側に黒羽城跡があったとされる説があるが、地元での昔からの呼び名と伝承、発掘物などを考慮すると黒羽神社北東の水路に囲まれた黒羽神社の北東に黒羽城があったと考えるのが妥当だ。


永峰家一族のあゆみ
・永峰家家系図 (引田町人物史)
永塩因幡守氏継 → 長塩備前守又四郎元親 → → → 永峰宅本

・【讃岐秘話】東かがわ市黒羽の永峰家の先祖: 長塩元親の書状を読み解く。 国宝 東寺百合文書

・東家 永峰杢左衛門家の家系図

・海蔵院東海寺 (東かがわ市馬宿)

1. 武士としての源流(15世紀〜16世紀)
阿波細川氏の重臣として、軍事の要衝・黒羽城を守護した時代です。
永塩因幡守氏継(応仁元年没 / 1467年)
永峰家の系図の筆頭に位置する人物。応仁の乱にて主君・細川勝元に従い、京都相国寺で討死。
長塩備前守又四郎元親(永正元年没 / 1504年)
氏継の跡を継いだ戦国初期の当主。
・長塩元親 (長塩備前守又四郎元親)
🔸細川勝元、細川政元の家臣
細川勝元 細川政元(子)
安富元綱 安富元家(子)
永塩因幡守氏継 長塩元親(子)
・細川勝元の子 細川政元の家臣団
長塩元親のながある。永塩因幡守氏継の子は、長塩の漢字を使っている: 長塩元親(長塩備前守又四郎元親)




2. 土着と永峰家の創設(17世紀)
江戸幕府の成立前後、武士から地域の指導者へと転身しました。
永嶺宅本(寛永八年没 / 1631年)
黒羽永峰家の元祖。この代で「永峰」を名乗り、黒羽の地に定着しました。
初代 永峰五郎右衛門(延宝九年没 / 1681年)
宅本の嫡男。
代々「五郎右衛門」を名乗る西家を形成します。
3. 永峰杢左衛門家(東家)の繁栄(18世紀〜19世紀)
この家系は、本家から別家として独立し、地域屈指の有力者となりました。
初代 永峰杢左衛門(元文四年没 / 1739年)
本家の二代 永峰五郎右衛門の子。
「東家」として分かれ、屋号は「お頭(おかしら)」。
地域の有力者としての活動
三代 杢左衛門は文政期に「与頭(くみがしら)」を務めました。
屋敷の前には砂糖小屋を持ち、「出口」という地名で呼ばれるほど、讃岐特産の砂糖製造で繁栄を極めました。
・永峰杢左衛門家について

🔸永峰杢左衛門家について
永峰家は「東家」と「西家」の系統に分かれます。東家が地主、西家が庄屋です。
永峰杢左衛門家が東家です。
その関係から杢左衛門家直系子孫の永峰義史さんは不動産業を営んでいました。義史さんの息子さんは高校野球部でピッチャーをしており、私は野球を教えてもらったことがあります。義史さんは時々、うちに来ていました。
元祖:
黒羽永峰家の元祖は永嶺宅本(寛永8年/1631年没、78歳)です。
屋号:
「お頭(おかしら)」と呼ばれていました。
役職と地位:
三代目の杢左衛門は文政11年(1828年)に与頭(くみがしら)を務めました。
同じ一族で庄屋を務めていた「西家」の永峰五郎三郎に続き、苗字を持つ有力者であったと記されています。
経済基盤:
屋敷前に「砂糖締小屋」を持ち、「出口」という通称で呼ばれ、砂糖産業で繁栄を極めました。
4. 永峰杢左衛門家直系からチヨ、ミヤコへ(近代)
戸籍資料(明治32年3月付)
永峰杢左衛門直系子孫 永峰市次郎の長女 永峰チヨは高松藩普請方 森喜平と阿波碁浦御番所役人八田家の八田キヨの長男 森虎太郎と結婚。
八田家は1641年から1872年まで231年間、碁浦御番所役人を世襲した禄持ちの家系。伊能忠敬や久米通賢、松浦武四郎らも訪れた記録が残っている。
八田家の詳細
森喜平の二女 森トヨは東かがわ市黒羽の十河氏系三谷家の三谷磯八に嫁いだ。この三谷家からは瀬戸内寂聴や町会議員らが出た。三谷家は讃岐国造を祖とする植田家の分家(十河、神内、三谷に分かれた)。三谷家の拠点は高松市三谷町で三谷城、王佐山城を居城とした。1584年頃、三谷景則の代で黒羽に来た。
瀬戸内寂聴さんの先祖の詳細
ちなみに、笠置シヅ子さんは黒羽の三谷家で生まれたが、生後間も無く大阪の亀井家(東かがわ市引田出身)の養子となった。
曽祖父 三谷四郎兵衛 製糖業を営む豪農
祖父 三谷栄五郎(養子)
父 三谷陳平(東大総長 南原繁の幼馴染) 谷口鳴尾
笠置シヅ子 (亀井家の養子に。1914年 - 1985年)
笠置シヅ子さんの生家の屋号は”黒茂”で、現在は、分家の”孫黒茂”である三谷製糖が讃岐和三盆の製造を受け継いでいる。

・歴代 杢左衛門 → 永峰直次郎(明治16没)→ 市次郎(長女 チヨ) → 栗太郎 → 修一 (チヨの七女 森ミヤコと結婚)→ 義史 (白鳥東山の庄屋 朝倉家と婚姻)

・永峰チヨの七女森ミヤコは1930年にチヨの実家に嫁いだ。

代々の継承:
杢左衛門の名は、杢左衛門(安政五年没)→ 直三郎(明治十六年没)と継承されます。
永峰 市次郎 (大正元年没)
杢左衛門家の直系。
永峰 チヨ(明治5年生)
市次郎(市太郎)の長女として誕生。戸籍に「長男 虎太郎 妻 チヨ」とあり、高松藩 森喜平の長男 森虎太郎へ嫁いだ。
系譜のまとめ:永塩因幡守氏継から永峰チヨへの直系図
永塩因幡守氏継(室町武将・黒羽城主)
長塩備前守又四郎元親(戦国武将)
(数代略)
永嶺宅本(永峰家元祖・1631年没)
初代 五郎右衛門(東家本家)
二代 五郎右衛門
初代 杢左衛門(ここから西家・別家)
(杢左衛門を代々襲名・与頭・砂糖製造で繁栄)
直三郎(1883年没)
市次郎 (1912年没)
永峰 チヨ(1872年生・森虎太郎に嫁ぐ)
永塩因幡守氏継、永峰杢左衛門、永峰チヨの子孫たち
🔸永峰チヨの三男
森静雄は日中戦争中に戦死。生まれてくる長男の顔を見ずに27歳の若さで亡くなった。
🔸永峰チヨの六女
森トメノが神戸新聞からインタビューを受けた際の記事


🔸永峰チヨの七女
七女の森ミヤコは、チヨの実家に嫁ぎ、永峰修一と結婚した。

🔸永峰チヨの孫
日中戦争中に戦死した三男 森静雄の長男 森功は父についで戦後間も無い幼少期に母も亡くし日本中が疲弊している中で筆舌に尽くし難い辛酸を舐めた。10代で家を飛び出し単身、神戸に渡りホテルの皿洗いを始めた。旧神戸オリエンタルホテルで西洋料理人となり昭和天皇や皇太子(今の上皇)に料理を献上した。
以上
