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【幻の黒羽城】東かがわ市の黒羽城 跡地を追う! 謎の武将 永塩因幡守氏継、応仁の乱で壮絶な最期を遂げる!

こんにちは。

平素より当サイトをサポート頂き有難うございます。トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ)です。

今回は、香川県の東端 東かがわ市黒羽(くれは) に室町時代にあった黒羽城(くれはじょう)の跡地についてです。

永塩因幡守氏継(ながしお・いなばのかみ・うじつぐ)の居城だった黒羽城ですが、跡地の位置も確定しておらず、城主の永塩因幡守氏継自身も謎が多い武将です。

ぜひ、ご参考ください。


🔸東かがわ市 黒羽 (くれは) の位置


香川県東かがわ市黒羽は香川県と徳島県のほぼ県境に位置しています。神戸市の三宮から車で約 1時間半くらいの場所にあります。

この地は江戸時代、讃岐三白の一つ 白砂糖(讃岐和三盆)の産地でした。

現在は三谷製糖が和三盆の生産、販売を続けています。

また、この地は元東大総長の南原繁、歌手の笠置シヅ子、瀬戸内寂聴の父、讃岐のエジソンと言われる久米通賢の出身地でもあります。


JR高徳線 讃岐相生駅







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🔸森啓成 (モリヨシナリ) プロフィール


ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント


神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。

大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事(北京オフィス所長)。 

その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。

アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。

現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。

観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。


【保有資格】

  • 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級

  • 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級

  • ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド


【メディア・研修実績】

香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載、瀬戸内海放送(KSB)、岡山放送(OHK)ニュース番組コメント。

観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。

四国運輸局事業コンサルタント、瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験面接官なども務める。


香川県登録通訳ガイドサイト



座右の銘は「雨垂れ石を穿つ」。




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🔸黒羽の歴史と地名の由来


香川県の東端に位置する東かがわ市。東の端と言うと僻地のようなイメージがあるかもしれませんが、香川県の中では、関西に一番近い場所に位置し、引田港は、昔から香川県の物資を関西方面に運ぶ際の風待ち港として栄えました。

その東かがわ市の中でも東の端に位置するJR讃岐相生駅周辺の相生(あいおい)は、明治時代に相生村として成立しました。

相生村は、1890年2月15日 、町村制施行に伴い、大内郡馬宿村(うまやどむら)、坂元村(さかもとむら)、南野村(みなみのむら)、黒羽村(くれはむら)、川股村(かわまたむら)、吉田村(よしだむら)が合併し、相生村が成立しました。

その相生にある黒羽(くれは)、この黒羽という地名は、大化(645年〜650年)の頃、呉(ご)の国の帰化人の技術者が、この地にやって来て機織りの技術と養蚕を伝えました。その報恩と感謝の気持ちを込めて、呉と羽二重(はぶたえ)の羽をとり、呉羽となり、それが、黒羽になったと伝わります。


黒羽の民に機織り技術と養蚕を教えた呉の帰化人の技術者の中には、この黒羽の地に住み着いた者もいたと推測されます。今から約1350年前のことです。

この呉の国の帰化人は、中国の三国時代に呉に住んでいた一族が、激しい戦乱で国を脱出し、日本に渡った人たちです。その行き先は奈良でしたが、その後、ヤマト王権の政策により、讃岐に派遣され機織りの技術や養蚕を地元の民に伝授しました。その一族が黒羽に住むようになり、地元に様々な面で大陸文化の影響を与えながら同化していきました。

そのことは、黒羽で古くから信仰されている神が毘沙門天、妙見神、弁財天、吉祥天など蕃神(外国の神)ばかりであることからも分かります。



※ 呉(222年 – 280年)

中国の三国(魏・呉・蜀)時代に孫権が長江以南の揚州・荊州・交州に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉(そんご)、東呉(とうご)とも呼ばれる。

222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。


※ 三国時代(184年-280年) : 中国の魏・蜀漢・呉による時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から西晋による中国再統一(280年)までを指す。


※ 大化 : 西暦645年から650年までの期間を指す。この時代の天皇は孝徳天皇。




・香川県の渡来人: 讃岐秦氏、綾氏




🔸謎の多い武将 永塩因幡守氏継とは?


永塩因幡守氏継(ながしお いなばのかみ うじつぐ)は、室町時代後期に活躍した、香川県東かがわ市にゆかりの深い武将です。

しかしながら、生まれた場所、生まれた年、先祖、親兄弟などは現時点では分かっておらず謎の多い武将です。


🔸永塩因幡守氏継の生涯と役割


永塩因幡守氏継は、以下の経歴を持っています。

  • 生誕年: 不明

  • 生誕地: 不明

  • 先祖: 不明

  • 時代と生没年: 室町時代後期を生きた武将で、応仁元年(1467年)10月3日(新暦11月8日) に応仁の乱で命を落としました。

  • 官位と主君:因幡守」という官位を持ち、細川勝元(讃岐国守護)を主君としていました。

  • 氏族: 永塩氏の出身です。父母や兄弟についての詳細は不明とされています。『引田町人物史』において長塩備前守又四郎元親との関係が掲載されています。

  • 拠点と役割:

    • 現在の香川県東かがわ市黒羽にあった黒羽城の城主でした。

    • 彼は、細川勝元の重臣であり、京都に居ながら東讃岐守護代を世襲していた安富元綱によって、寒川氏や敵対勢力の監視役と牽制の為に阿波と讃岐の境にある東かがわ市の黒羽に派遣されたと推測されています。これは、当時の讃岐国における勢力図、特に地元豪族の寒川氏と外部勢力である安富氏の対立という背景があったためと考えられます。



🔸室町時代と戦国時代の期間は?


日本の歴史における室町時代と戦国時代の期間は、学説によって多少の異同がありますが、一般的には以下のように理解されています。

室町時代

  • 始まり: 1336年 (建武式目制定) または 1338年 (足利尊氏が征夷大将軍に就任し、室町幕府を開府)

  • 終わり: 1573年 (織田信長が室町幕府15代将軍 足利義昭を追放し、室町幕府が滅亡)

したがって、室町時代は約235年~238年間続いたことになります。この時代は、南北朝時代(1336年〜1392年)を含んでおり、また、応仁の乱以降の時代は戦国時代と重なる部分があります。

戦国時代

戦国時代の明確な始まりと終わりについては諸説ありますが、最も一般的な解釈は以下の通りです。

  • 始まり: 1467年 (応仁の乱勃発)

  • 終わり: 1590年 (豊臣秀吉による小田原征伐、天下統一) または 1603年 (徳川家康が江戸幕府を開府) または 1615年 (大坂夏の陣で豊臣家が滅亡)

したがって、戦国時代は約120年~150年間続いたことになります。一般的には「応仁の乱から大坂夏の陣まで」とざっくり捉えられることも多いです。

まとめると:

  • 室町時代: 1336年(または1338年)〜 1573年

  • 戦国時代: 1467年 〜 1590年(または1603年/1615年)

戦国時代は、室町時代の後半に位置し、室町幕府の権威が失墜し、各地で群雄が割拠した混乱の時代とされています。

永塩因幡守氏継が討ち死にした応仁元年(1467年)は、まさにその戦国時代の幕開けの年でした。



🔸室町、戦国時代の讃岐



足利尊氏らの活躍で鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇の建武の新政が始まると、讃岐国には足利氏の一門である細川定禅が入った。

以後、南北朝時代を経て室町時代を通じて、細川氏が守護大名として讃岐国を支配した。

室町幕府内での政争に敗れて南朝に与した細川清氏は、従弟の細川頼之と戦い、敗れた(白峰合戦、現宇多津町・坂出市)。

讃岐国では、管領を務めた細川京兆家が室町期を通じて守護職を執った。このため阿波国人と同様に讃岐国人も中央へ出る機会が多く、香西氏、香川氏、安富氏、奈良氏の四氏は細川四天王と称されたという(南海通紀)。

戦国時代初期には讃岐国人と思われる香西氏が山城国守護代を務めるなど重職にも就いた。

戦国時代には讃岐国の分郡守護代である安富氏と香川氏が東西で大きな勢力を擁し、両者中間の香西氏、阿野氏、鵜足郡に長尾氏、奈良氏、羽床氏など中小豪族が乱立していた。

しかし安富氏は細川・三好氏の援助を受けた三木郡の十河氏に臣従し、若干の抵抗があったが讃岐国は三好氏の支配下に入った。

三好氏は三好長慶の弟である十河一存に讃岐国を任せた。真偽は不明だが、この時期に毛利氏が讃岐に攻め入った元吉合戦があったとされる。


土佐国を統一した長宗我部氏が三好・織田氏の内乱に乗じて讃岐へ侵攻する、これにより織田信長による四国攻めを招くことになった。

豊臣秀吉が四国平定に取りかかると讃岐へは宇喜多秀家を総大将とする豊臣軍が侵攻し、長宗我部元親が秀吉に屈服すると讃岐は仙石秀久に与えられ、その後は尾藤知宣、生駒氏が相次いで封ぜられる。当初は宇多津 聖通寺城に拠点が置かれたが、手狭のため高松に新城が築かれ拠点とされた。


・香川県の歴史




🔸応仁の乱と壮絶な最期


永塩因幡守氏継の人生は、日本の歴史を大きく変えた応仁の乱(1467年~1477年) と深く結びついています。

  • 参戦と討死: 彼は応仁の乱に細川勝元軍(東軍)として参戦し、安富元綱らと共に京都御所北側の相国寺(しょうこくじ) での激戦の末、壮絶な最期を遂げました。


  • 黒羽神社の創建: 自身の討死の直前、応仁の乱が始まった年と同じ応仁元年(1467年)8月4日には、まるで自らの最期を予期していたかのように、故郷の黒羽に黒羽神社を創建し、武運を祈ったと伝えられています。


  • 主君の永塩因幡守氏継なき後、永塩一族は、敵対勢力から逃れる為に姓を永峰と変え帰農し、身を潜めた。


  • 黒羽には同じように帰農した十河氏系の三谷家の総本家もある。瀬戸内寂聴(三谷晴美)さんは三谷総本家の分家(屋号:甚六)となる。


・『引田町人物史』永峰家の家系図

永塩因幡守氏継 — 長塩備前守又四郎元親 — 永嶺宅本




永塩因幡守氏継の生涯は、応仁の乱という激動の時代に、故郷の防衛と主君への忠誠のために奮闘した武士の生き様を象徴しています。



・1467年創建の黒羽神社


・京都御所北側の相国寺


・相国寺の戦い


・安富元綱


・応仁記




🔸室町時代後期の永塩氏一族


黒羽神社の創建と氏継の出自

  • 応仁元年(1467年)8月4日、現在の香川県東かがわ市黒羽に黒羽神社が創建されました。当初は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祀っていましたが、後に妙見大明神へと変わります。この神社の創建は、永塩因幡守氏継の命運が尽きる直前の出来事であり、彼が自らの最期を予期して武運を祈ったものと推測されます。


  • 永塩因幡守氏継は「因幡守」の官位を持つ武士で、細川勝元を主君とし、永塩氏の一族でした。




当時の讃岐国の状況と氏継の派遣

  • 室町時代後期の讃岐国では、細川勝元が守護を務め、東讃岐の守護代は安富元綱、西讃岐の守護代は香川氏が担っていました。

  • 安富元綱は細川勝元の家宰として京都に近侍していました。

  • 永塩因幡守氏継は、安富元綱によって、寒川氏や敵対勢力の監視役として、東かがわ市黒羽に派遣されてきたと推測されます。これは、当時の讃岐における勢力争い、特に外部勢力である安富氏と地元の豪族との対立という背景がありました。


・戦国時代の讃岐勢力図



相国寺の戦いでの壮絶な討死

  • 応仁元年(1467年) に応仁の乱が勃まると、安富元綱は香川氏と共に讃岐の軍勢を率いて京都で転戦します。

  • 同年10月3日、戦局が西軍有利となる中、西軍は東軍の本陣である京都御所北側の相国寺に総攻撃を仕掛けました。これが相国寺の戦いです。

  • 東軍の安富元綱は3000騎を率いて相国寺を防衛しましたが、一部の僧侶が西軍に内応して内部から放火したことで東軍は総崩れとなりました。

  • 元綱は奮戦するも、激戦の末、弟の盛継と共に壮絶な戦死を遂げました。

  • 永塩因幡守氏継もまた、この激しい相国寺の戦いの中で、安富元綱らと共に討ち死にしました。相国寺の戦いは、応仁の乱の中でも特に激戦の一つとして知られています。



永塩一族のその後

永塩因幡守氏継が相国寺の戦いで命を落とした後、残された永塩一族は激動の時代を生き抜くために大きな決断をします。

  • 帰農と改姓: 永塩一族は武士の身分を捨てて帰農し、姓を永峰(ながみね)に改めました。日本姓氏語源辞典によると、これは「塩」を「峰」として改姓したと伝わります。

  • 身を潜める: 永塩氏の主君であった細川家の内紛や没落など、戦乱の世で身の危険を案じ、亡き者たちの菩提を弔うため、長く身を潜めることを選択しました。これは、当時の混沌とした状況を生き延びるための、一族にとって極めて困難で切実な手段であったと考えられます。

  • 江戸時代の復興: 江戸時代に入り世情が落ち着くと、永峰宅本(妙空)という人物により一族の復興が図られたと推測されます。

  • 黒羽中村での隆盛: その結果、黒羽中村の永峰一族は、東家が地主、西家が庄屋を代々勤めるに至り、地域の名家として地位を確立しました。

永塩因幡守氏継の短いながらも激しい生涯と、彼が命を落とした後の永塩一族が、その名を永峰と変えながらも故郷の黒羽でたくましく生き抜いてきた歴史が明確に浮かび上がります。





🔸「〇〇守」という官位について


ご質問の「〇〇守」という名称の付け方についてですが、これは律令制における官職名に由来します。

  • 律令制下の官職: 古代日本の律令制において、「国司(こくし)」 と呼ばれる地方行政官の最高位が「守(かみ)」でした。例えば、「因幡守(いなばのかみ)」は因幡国(現在の鳥取県東部)の国司の長官を指します。

  • 武士の官途名: 室町時代や戦国時代になると、律令制が形骸化し、実際の任官を伴わない名誉職や通称として「〇〇守」と名乗ることが一般的になりました。これを「官途名(かんどな)」と呼びます。有力な武士やその家臣が、自らの権威を示すためや、特定の国とのゆかりを示すために用いました。

  • 「因幡守」の意味: 永塩因幡守氏継の場合も、実際に因幡国の国司を務めていたわけではなく、「因幡守」は彼が名乗っていた官途名、つまり武士としての格式を示す呼称だったと考えられます。






🔸黒羽城と永塩因幡守氏継 : 歴史と謎


室町時代に阿波と讃岐の国境に位置した黒羽村(現在の香川県東かがわ市)にあったとされる黒羽城と、そこに居住したとされる武将、永塩因幡守に関して考察していきます。


室町時代の黒羽城と永塩因幡守


支配体制と城の役割:


室町時代、阿波と讃岐は細川家が統治していましたが、外部勢力の安富氏と国人の寒川氏は敵対関係にありました。普段は京都に居て細川勝元に仕える安富元綱の補佐役として永塩因幡守氏継は黒羽へ派遣されました。

永塩因幡守氏継の役目は寒川氏や敵対勢力の動きを監視し、また阿波と讃岐間の国境警備という役割がありました。




永塩因幡守の本拠地の謎と遺跡調査


永塩因幡守が黒羽に滞在中、どこを本拠地としていたかは、江戸時代から現在まで城郭研究家による調査が行われていますが、確実な証拠は見つかっていません。

  • 主な調査対象地と伝承:

    • 川股(かわまた)周辺:

      • 入口の立石橋手前の「原」や「定国」と呼ばれる地区には、「南門」や「北門」という地名が残っています。

      • 地元の古老の話では、昔、この地に栗を商う裕福な商人が住んでおり、広大な屋敷の出入り口が、それぞれの川側を「南門」「北門」と呼んでいた名残とされています。

    • 南山尾根西端:

      • 山の上に「石組羅」と思われる場所があります。

      • 残る石は、昔から「免場(めんば)」という地域の先祖の墓があった場所で、墓石が散乱したものであり、城跡とは関係ないと考えられています。

    • 観音谷(かんのんだに)奥の竹藪:

      • 大川郡誌に城跡説が掲載されましたが、1942年(昭和17年)の開墾時に瓦など城跡につながる証拠は見つかりませんでした。その後も再調査されましたが、同様の結果でした。

    • 殿屋敷(とのやしき)・古城(ふるじろ):

      • 黒羽村の地番がここから始まる場所で、かつては小高い台地で、菜切川が流れ、見晴らしも良かったとされます。

      • 「化粧池の趾(あと)」という古井戸があり、城主の下屋敷跡と伝わります。

      • この地域の水田の畔から見つかった五輪塔の材質(白粉石)が永塩因幡守の生きた時期と重なることから、関連性が議論されています。

      • 菜切川に沿った東側土手下一帯は、地元で古くから「古城」と呼ばれ、永塩氏の居城跡と伝えられています。菜切川を利用した堀があり、簡素ながらも城館の体裁をなしていたと推測されます。ここが、黒羽城の跡地と推測されます。

      • 背後の山上(観音丘)には、寒川氏や敵対勢力の動きなどを監視する物見櫓があったと推測され、現在は永塩因幡守氏継が残したとされる観音像を祀るお堂があります。

      • これらの三つの場所(殿屋敷、古城、観音谷)が地名として定着していることは、永塩因幡守氏継の居住と黒羽城の実在を裏付けるものとされています。

  • 城の終焉:

    • 一説には土佐の勢力(長宗我部元親勢)の攻撃で焼失したとされますが、永塩の生きた時代と侵攻の時代に開きがあるため、主のいない簡素な建物が百余年も存在したとは考えにくいとされています。自然崩壊した可能性が高いと見られています。




文献記録

  • 「三代物語」(1746年頃):

    • 黒羽城跡に永塩因幡守氏継が居住し、細川勝元に属していたことが記されています。

    • 応仁元年(1467年)10月3日、安富元綱と共に京都の相国寺合戦で戦死したことも言及されています。

  • 後続の郷土誌:

    • 「三代物語」の記述がそのまま踏襲されており、新しい情報は追加されていません。



🔸地元の伝承から黒羽城跡地を推定する


黒羽城跡地の推定地は複数箇所ありますが、地元の伝承に基づく黒羽城と永塩因幡守氏継の関連地をまとめると下記のようになります。

香川県の報告書によると観音谷が推定地にあがっていますが、実際に私は吉祥寺西側の階段を登って観音堂がある場所を訪れましたが、眺めの良い丘の上に位置しており、飲み水の確保の難しさや場所の狭さから、ここは城ではなく見張り台が置かれていたと推測します。


吉祥寺西側の石段を30mくらい登っていくと観音堂が見えてくる。



ちなみにこの観音堂に安置されている観音像は永塩因幡守氏継が奉納した像と伝わっています。



永塩因幡守氏継の下屋敷や黒羽城は移動や利便性を考えると黒羽の南方にあったと考えるより、より海に近い場所にあったと考える方が合理性があります。



  1. 殿屋敷(とのやしき)

    • 所在地: 現在は田畑になっており、黒羽城よりもさらに北、一番北に位置する。下記の地図で赤丸🟤

    • 役割: 永塩因幡守氏継が実際に生活を送っていた「下屋敷」(居館)があったと推測される場所。

  2. 古城(ふるじろ)

    • 所在地: 黒羽神社の北東

    • 役割: 黒羽城があったと推測される場所。つまり、永塩因幡守氏継が創建したとされる「城」の本体。地図上の青丸🟣

  3. 観音堂がある丘

    • 所在地: 吉祥寺の西側の丘の上。

    • 役割: 寒川氏が支配していた引田城の動きを監視するための「見張り台」。地図上の黄丸🟡






赤丸: 殿屋敷(永塩因幡守氏継の下屋敷)、青丸: 古城 (黒羽城跡地)、黄丸: 観音谷 (引田城の見張り台)






・引田城と黒羽の位置関係




🔸当時の地域情勢と永塩因幡守氏継の役割


  • 勢力図:

    • 讃岐の地元豪族である寒川氏が昼寝城を居城としていました。

    • 一方で、外部から派遣されてきた安富氏(細川氏の家臣)と、同じく細川方である永塩因幡守氏継は寒川氏と対立する関係にありました。

  • 永塩因幡守氏継の派遣目的: 永塩因幡守氏継は、寒川氏の動きを監視し、その勢力を牽制するため、そして阿波と讃岐の国境警備役として黒羽へ派遣されてきたと推測されます。

  • 要確認: 歴史的裏付け: 江戸時代の軍記物語『南海通記』には、引田城が応仁年間(1467年~1469年)に寒川氏が領していたという記述があり、この当時の状況を裏付けています。→ 1467年時点では引田城はまだ築城されていなかったのではないか? 寒川氏家臣の四宮右近が引田城に居城するのは1500年以降。


地元で、昔から殿屋敷、古城と呼ばれている場所が永塩因幡守氏継の下屋敷と黒羽城跡地と考えるのが最も妥当性があります。何の根拠もなしに、地元に住む人々が、それらの場所を殿屋敷や古城(ふるじろ)とは呼びません。

永塩因幡守氏継が、細川方の戦略的な目的のために黒羽に派遣され、短期間で城を築き、監視活動を行っていたという一連の流れが、より鮮やかに理解できます。地元に伝わるこれらの情報が、歴史の背景を深く読み解く鍵となります。


🔸永塩因幡守氏継の記載がある文献



永塩因幡守氏継の名が出てくる文献には、「全讃史」「三代物語」、「引田町史」などがあります。


全讃史

「黒羽城 永塩因幡守氏継、之に居る。応仁元年、細川勝元に従い、洛陽の相国寺に戦死せり。」



三代物語

「黒羽城跡 永塩因幡守氏継の居城、細川勝元に属し、応仁元年十月三日、安富元綱と同じく、洛陽相国寺合戦に戦死す。」



引田町史


「黒羽神社 : 香川県神社誌、並びに、明治12年、村戸長 永峰安三郎による大内郡役所への書上に、応仁元年八月四日、永塩因幡守氏継公の創立。」



角川日本地名大辞典



・くれは 黒羽<引田町>

相生扇状地の扇頂部に位置する。矢野山・橘谷山・保田奥山などの低い山地と馬宿川右岸の小平野からな る。地名の由来は、地内の土が黒いところから「くろ はに」が転訛したものと思われる(新撰讃岐国風土 記)。また「三代物語」に呉服とも記すとあるところ から渡来人の服部が居住したことによるのではないか という説もある。室町末期、永塩因幡守氏継が黒羽城 に拠り、細川勝元に属し、応仁元年京都相国寺合戦で 討死したと伝える。

〔近世〕黒羽村 江戸期〜明治23年の村名。大内郷郡 のうち。引田郷に属す。はじめ生駒氏領、寛永19年か らは高松藩領。村高は、「寛永17年生駒氏惣高覚帳」2 07石余、「貞享元年高辻帳」185石余、「天保郷帳」279 石余、「旧旧国領」280石余。天保2年の家数128。年 貢は引田御蔵納。安永4年の八分米150石余・取米92 石余、租率は上所で6ツ7分、下所で5ツ4分(日下 家文書)。夏成は、寛政11年銀札145匁・大麦5石6 斗・小麦1石4斗、文化6年432匁・大麦3石6斗・




●黒羽大獅子 映像




🔸香川県中世城館跡詳細分布調査の報告内容


報告内容

黒羽城跡

●時代 : 不明

●所在地 : 香川県東かがわ市黒羽

●緯度経度: 34.202722, 134.406333

●調査年: 2001年


遺構概要

県報2003 : 曲輪(くるわ)+平坦地+土橋

城主 : 永塩因幡守氏継

地名:

「古城(フルシロ)」

「殿さん屋敷」

「南門」

「北門」

「保田池」

「出口」 →  黒羽 永峰杢左衛門

<立地>

丘陵尾根先端(標高110m、比高80m)。

<現況>

山林。

<保存状況>

良好。

<城跡推定地>

黒羽城の推定地4ヵ所あり。

2ヶ所は平地。

1ヶ所は小高い神社(毘沙門庵向かい)。

山側尾根上の1ヶ所で城の痕跡らしきものあり。

尾根末端の小高い神社に五輪塔あり、現在移転。

●相生小学校跡 東側の道路を南へ約850m進むと、毘沙門天を祀った吉祥寺へ辿り着く。吉祥寺東側に、標高約30mの小高い山があり石段を登ると観音堂があり、ここが黒羽城跡と推定地の一つである。

『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』では黒羽城の推定地は四ヶ所あると書かれている。

一ヶ所目は上記にある『観音堂が鎮座する標高約30mの小山』。

二ヶ所目は、『山側尾根上(橘谷池北約180m』。

三ヶ所目は吉祥寺北の菜切川東堤防の下にある『殿さん屋敷』『化粧井戸』の地名がある所。

四ヶ所目は『新選讃岐風土記』にある下内にあり、田畑に開墾されている場所。

『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』では二ヶ所めを城跡として有力視している。

遺物概要

発掘概要 :

県報2003: 2001年踏査。

その他概要 :

『全讃史』。

『増補三代物語』。

『古今讃岐名勝図絵』。

『讃岐国名勝図会』。

『新撰讃岐国風土記』。

『讃陽古城記』。

『日本城郭大系第15巻香川・徳島・高知』(新人物往来社 1979)。

『引田町史』(1995)。

『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』(県教委 2003)。

県報2003、30-3010-02。




🔸グーグルマップ上の黒羽城跡

グーグルマップ上の黒羽城跡は、『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』では上記の二ヶ所めを城跡 (『山側尾根上(橘谷池北約180m』)を黒羽城跡としているが、これまで考察してきた通り、移動の利便性と永塩因幡守氏継の黒羽滞在の目的や生活の利便性を考慮すると、ここより北の古城、殿屋敷が永塩因幡守氏継が居住した場所と考える方が妥当性があり、また地名も残っている。




🔸応仁記における相国寺の戦いの内容


「応仁記」には、応仁元年(1467年)10月3日から4日にかけて京都の相国寺で起こった「相国寺の戦い」が詳しく記述されています。

この戦いは、応仁の乱の中でも最も激しい戦闘の一つとされており、細川勝元率いる東軍と、山名宗全、畠山義就、大内政弘らが率いる西軍の間で繰り広げられました。

戦いでは、東軍の本陣が置かれていた相国寺が西軍の猛攻を受け、寺の一部僧侶が西軍に内応して火を放ったことから、相国寺は大部分が焼失しました。

両軍ともに甚大な犠牲者を出した消耗戦となり、この戦い以降、京都での大規模な衝突は減り、戦場は地方へと拡大していきました。

安富元綱の記述

  • 安富元綱(やすとみ もとつな): 「応仁記」には、細川勝元の重臣である安富元綱が相国寺の戦いで重要な役割を果たしたことが詳細に記されています。元綱は東軍として3,000騎を率いて相国寺の防衛にあたりましたが、西軍の猛攻と寺内からの放火によって劣勢に陥り、弟の盛継とともに壮絶な戦死を遂げました。彼の死は、主君である細川勝元や東軍の諸将に大きな落胆を与えたとされています。



🔸「讃州細川記」の内容


「讃州細川記(さんしゅうほそかわき)」は、讃岐国(現在の香川県)を拠点とした細川氏(特に細川讃州家)に関する歴史書と考えられます。

細川頼之が青野山に陣を置いたことなどが記されています。これは、細川氏の讃岐での活動や、その家臣団に関する記述が含まれている可能性が高いことを示しています。

中世の讃岐における国人・土豪層や、細川氏に仕えた家臣団(安富、香川、香西、有岡、前田などの名)についても言及されており、細川氏の歴史や讃岐国の動向を知る上で重要な史料であると推測されます。



🔸細川勝元、細川政元の家臣

細川勝元 細川政元(子)
安富元綱 安富元家(子)
永塩因幡守氏継 長塩元親






以上

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