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【ファミリーヒストリー】細川京兆家の家臣 長塩備前守又四郎元親と永塩因幡守氏継の関係は? 阿波水軍 森家と永塩/長塩家の関係は?

こんにちは。

トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ)です。

今回は、私の曽祖母の先祖である戦国武将 長塩備前守又四郎について現段階で分かっている情報をまとめました。

香川県東かがわ市の『引田町人物史』の永峰家の家系図によると永塩因幡守氏継と長塩備前守又四郎元親の記載があり親子関係となっています。



この両者に関しては情報が限られている為、どなたか、永塩因幡守氏継と長塩備前守又四郎元親の出自、先祖、元々の拠点など何か情報をお持ちであればコメント欄から教えて頂けますと幸いです。

私の曽祖母が東かがわ市黒羽の永峰家 (永峰杢左衛門家) の出身です。また曽祖母の娘 ミヤコ(私の祖父の姉)がこの永峰家の永峰修一に昭和5年に嫁いでいます。


・永峰杢左衛門 (引田町人物史)


◆『引田町人物史』より

永峰杢左衛門。黒羽の人。祖は黒羽永峰家の元祖である永嶺宅本是則妙空(寛永八年(一六三一年)十月十五日没七八歳)、永峰五郎右衛門の子孫 興左衛門(元文四年(一七三九)七月一日没九〇歳)の別家である。屋敷も元祖の永嶺宅本墓碑の横にある。屋号は「お頭」。

三代 永峰杢左衛門は文政十一年(一八二八)に与頭を務る。(引田町社の棟札引田町教育委員会)

一族の黒羽村庄屋 西家 永峰五郞三郎に続き苗字をもつ有力者と思われる。

屋敷前には砂糖縮小屋を持ち「出口」と呼ばれ砂糖などで繁栄した。

・永峰家系図
①杢左衛門 ②久米七 ③杢左衛門 ④杢左衛門  ⑤直三郎 ⑥市次郎 ⑦栗太郎 ⑧義史


私の父は義史さんとはことあるごとに会っていました。小学生の頃、その息子さんに野球を教えてもらったことがあります。当時、高校野球部でピッチャーをしていた方でしたが無念にも若くしてお亡くなりになりました。






🔸永塩因幡守氏継とは?


永塩因幡守氏継 (ながしお いなばのかみ うじつぐ)の経歴について、全讃史、三代物語、引田町人物史などの記述をまとめました。

  • 生誕年: 不明

  • 生誕地: 不明

  • 先祖: 不明

  • 時代と生没年: 室町時代後期を生きた武将で、応仁元年(1467年)10月3日(新暦11月8日) に命を落としました。

  • 官位と主君:因幡守」という官位を持ち、細川勝元(讃岐国守護)を主君としていました。

  • 氏族: 永塩氏の出身です。父母や兄弟についての詳細は不明とされています。『引田町人物史』において長塩備前守又四郎元親との関係が掲載されています。

  • 拠点と役割:

    • 現在の香川県東かがわ市黒羽にあった黒羽城の城主でした。

    • 彼は、細川勝元の重臣であり東讃岐守護代を世襲していた安富元綱によって、引田城を居城としていた四宮氏の監視役として黒羽に派遣されたと推測されています。これは、当時の讃岐国における勢力図、特に地元豪族の寒川氏(引田城を領有)と外部勢力である安富氏の対立という背景があったためと考えられます。





🔸長塩備前守又四郎元親 (ながしお びぜんのかみ もとちか)とは?


「長塩備前守又四郎」という名前は、戦国時代の武将に関する記述で見られ、特に、細川京兆家(細川政元など)の家臣として活動していたことが複数の史料から確認できます。

「長塩又四郎」という名前で登場することが多く、その実名が「元親(もとちか)」であることも示唆されています。

具体的な活動としては、以下のような記録が見られます。

  • 細川政元(細川京兆家当主)の家臣として、評定衆の一員でもあったとされ、京兆家における有力な家臣であったと考えられます。

  • 明応2年(1493年)の「犬追物日記」には、「長塩又四郎」が細川京兆家の家臣として記載されています。

  • 明応5年(1496年)には、近衛政家宅を訪問し「対面」した記録が残されています。

  • 天文12年(1543年)には、本願寺証如が細川氏綱・藤賢兄弟、長塩又四郎、赤沢又三郎に音信を遣わした記録があり、彼らが細川氏綱方として活動していたことが伺えます。


また、永塩因幡守氏継の記事で触れたように、「永塩」と「長塩」は別漢字で記載されている資料もあるため、関連性も考えられます。永塩氏継の子孫が永峰姓に改姓したという説も存在し、長塩氏と永塩氏の間で何らかのつながりがあった可能性もあります。


・長塩元親書状




🔸「長塩備前守又四郎下」という記述について

「下」という文字が何を意味するのかは明確ではありませんが、史料の記述形式や文脈によっては、以下のような可能性が考えられます。

  • 署名や宛名の一部: 書状などの末尾に「誰々下」と書かれることがあり、その場合は「誰々から」という意味になります。

  • 区分や立場: 何らかの区分や特定の立場を示す場合もあります。

  • 転写時の誤記や省略: 史料の転写過程で一部が省略されたり、誤って記載されたりする可能性もゼロではありません。


いずれにしても、長塩備前守又四郎は、戦国時代の細川京兆家において重要な役割を担った武将の一人であったと推測されます。



🔸長塩備前守又四郎について


  • 細川京兆家の家臣: 複数の史料で確認できる事実、評定衆の一員であったという点も、その重臣ぶりを示唆しています。

  • 「又四郎元親」: 実名が元親である可能性が示唆されています。

  • 具体的な活動記録: 明応2年の「犬追物日記」、明応5年の近衛政家宅訪問、天文12年の本願寺証如との音信の記録など、具体的な活動が挙げられています。

  • 「永塩」と「長塩」の関連性: この点については、読みは同じ「ながしお」ですが、漢字が異なるため、血縁関係を断定することはできません。しかし、同じ地域に存在した可能性や、何らかの縁があった可能性は否定できないため、関連性も考えられます。




🔸大山荘の記録にみる長塩元親





🔸東かがわ市『引田町人物史』に見る長塩備前守又四郎元親




🔸東かがわ市黒羽の旧家 永峰家の家系図


永塩因幡守氏継 —- 長塩備前守又四郎元親 — 永嶺宅本妙空


永塩因幡守氏継は、応仁元年(1467年)10月3日に応仁の乱で討ち死にした。その37年後、長塩備前守又四郎元親は、家系図にあるように永正元年(1504年)に生まれたか、或いは亡くなったか。亡くなったとすると、年代的には親子として計算は合う。しかし、下記の大山荘には1508年とあり若干ずれがある。ただ、長塩備前守又四郎元親は1400年代後半から1500年代初頭に活躍した武将であろう。1504年に生まれたとは考えにくい。

永塩因幡守氏継の主君は、細川京兆家の細川勝元、長塩備前守又四郎元親の主君は、細川勝元の息子 細川政元。氏継と元親は親子二代に渡り細川京兆家に仕えたことになる。








細川政元


・東かがわ市黒羽 永峰家 家系図






永峰家当主 永峰市次郎の長女 永峰チヨが私の曽祖母


・ファミリーヒストリー




🔸細川家家臣一覧に見る長塩元親



摂津




🔸細川勝元、細川政元の家臣




細川勝元 細川政元(子)
安富元綱 安富元家(子)
永塩因幡守氏継 長塩元親





🔸長塩備前守又四郎元親のまとめ


長塩備前守又四郎元親:細川京兆家を支えた知勇兼備の評定衆

出自と系譜: 長塩備前守又四郎元親は、応仁の乱で細川勝元方に仕え、応仁元年(1467年)に討死したとされる永塩因幡守氏継の息子である。父の代から細川京兆家に仕える家系であり、姓は「永塩」から「長塩」へ、あるいは同族として異なる表記が用いられていたとみられる。後にこの一族が「永峰」姓に改姓した為、香川県東かがわ市に永峰姓が多い背景には、この家系の存在が深く関わっている。

細川京兆家における地位と役割: 彼の主君は、父・永塩氏継が仕えた細川勝元の養子であり、京兆家当主の細川政元である。彼は単なる武将に留まらず、細川京兆家の評定衆の一員であったことが確認されており、これは彼が主君の諮問に応じ、政務や軍事に関する重要事項を審議・決定する、中枢的な役割を担っていたことを意味する。京兆家における彼の地位は極めて高く、有力な家臣の一人として重要な発言権と影響力を持っていたと考えられている。

具体的な活動と特筆すべき事績:

  1. 武士としての実績: 明応2年(1493年)の『犬追物日記』にその名が見られることから、武芸に秀で、当時の武士の主要な行事に参加するほどの力量を持っていたことが伺える。これは、彼が単に政治的なブレーンであっただけでなく、武士としての実践的な能力も兼ね備えていたことを示している。

  2. 公家との交流と政治的影響力: 明応5年(1496年)には、当時の公家の最高位の一人である近衛政家宅を訪問し対面した記録が残る。これは、彼が武家としての活動だけでなく、公家社会との交流も持ち、細川京兆家を代表する人物として公武間の調整役や情報収集にも関与していた可能性を示す。その交友関係の広さから、彼の政治的な影響力の大きさがうかがえる。

  3. 細川氏綱方としての活動と宗教勢力との関係: 天文12年(1543年)には、本願寺の法主である証如が、細川氏綱(政元の養子)やその兄弟と共に彼に音信を遣わした記録がある。この時期は細川京兆家内部で権力闘争が激化しており、彼が細川氏綱方として重要な立場にあったことを示す。また、当時強大な勢力を持っていた本願寺と関係を持っていたことは、彼の政治的影響力が宗教界にも及んでいたことを示唆しており、当時の複雑な政治情勢の中で、様々な勢力と交渉・調整を行う役割を担っていたと考えられる。

  4. 荘園管理と実務能力: 『東寺百合文書」には、彼の署名がある書状や荘園に関する契約状の案が残されており、特に「大山荘」といった具体的な荘園の管理や、年貢に関する契約など、実務的な側面にも深く関与していたことがわかる。これは、彼が単に戦略を練るだけでなく、経済基盤の維持・管理といった面でも重要な役割を担っていたことを示している。


長塩備前守又四郎元親は、父・永塩因幡守氏継の跡を継ぎ、激動の室町時代末期から戦国時代初期にかけて、細川京兆家の要職である評定衆として活躍した人物である。

武芸に秀で、公家や宗教勢力とも交流を持ち、荘園管理などの実務にも携わるなど、知勇兼備で多角的な能力を持つ、細川京兆家にとって不可欠な存在であったと言える。

彼の活動は、当時の細川京兆家の権力構造や、戦国時代の政治的・社会的な動向を理解する上で、非常に重要な手がかりとなる。


🔸永塩・長塩氏のルーツは? : 阿波を基盤とし、細川京兆家を支えた武家


永塩氏、そしてその後裔である長塩氏のルーツは、香川県東かがわ市周辺に深く関わりつつも、その本拠地は阿波国(現在の徳島県)にあった可能性が非常に高いと考えられます。

1. 阿波国に置かれた本拠地

  • 複数の歴史研究の記述によれば、長塩氏(および同族とみられる永塩氏)は、「一族の本拠が四国阿波などにあり」とされています。これは、彼らの家系が阿波国に重要な経済的・軍事的基盤を持っていたことを示唆します。

  • このことは、阿波国が室町幕府の管領家である細川京兆家の重要な本拠地の一つであり、細川氏が阿波に多くの家臣や地侍を抱えていた歴史的背景と合致します。

2. 細川京兆家への仕官と活動範囲

  • 永塩・長塩氏は、細川京兆家(細川勝元、細川政元)に二代にわたって重臣として仕えました。

  • 父:永塩因幡守氏継

    • 応仁元年(1467年)に京都で勃発した応仁の乱に細川勝元方として参戦し、討死したとされています。

    • 彼の活動拠点の一つとして、安富元綱(細川京兆家の有力家臣で讃岐守護代)によって讃岐国(現在の香川県)東部の黒羽(現在の東かがわ市)に派遣され、黒羽城主を務めました。これは、隣接する引田城の四宮氏を監視するという、戦略的に重要な役割を担っていたことを示しています。

    • この黒羽城の存在と永塩氏継の派遣は、阿波を本拠とする永塩氏が、隣接する讃岐東部にも勢力を広げていたことを意味します。

  • 息子:長塩備前守又四郎元親

    • 父の死後、細川政元に仕え、京兆家の評定衆の一員となるなど、その中枢で活躍しました。

    • 明応2年(1493年)の『犬追物日記』や、明応5年(1496年)の公家・近衛政家との対面記録、天文12年(1543年)の本願寺証如との音信記録など、畿内における彼の広範な活動が確認されています。

    • また、山城国上久世庄の荘園管理に関わる記録も残っており、阿波の本拠地と畿内の活動拠点を持ち、広範囲に活動する有力武士であったことが分かります。

3. 姓の変遷と家系の継承

  • 「永塩」と「長塩」は、同じ家系、あるいは同一の家が改称したと見られます。 引田町人物史の家系図でも、永塩因幡守氏継の息子として長塩備前守又四郎元親が記載されており、両者が親子関係にあったことを示しています。

  • そして、その後の時代には、香川県東かがわ市黒羽の地で、「永峰」姓として家系が存続し、私の曽祖母である永峰チヨへと繋がっています。これは、戦国時代の武士の家系が、その地域で帰農するなどして存続していった典型的な例と言えます。

4. 阿波水軍 森家との関連性

  • 私の曽祖父は、阿波水軍 森氏の支家であり江戸時代、武士だった高松藩 森家の出身であり、曽祖母である永峰チヨと婚姻したという事実は、永塩・長塩氏と阿波水軍森家が、歴史的に何らかの接点を持っていた可能性を強く示唆しています。

  • 同じ阿波をルーツとし、共通の主君(細川氏)に仕え、地理的に近い場所で活動していた両家が、時を経て姻戚関係を結ぶことになったのかもしれません。両家の間に協力関係や同盟関係、あるいは少なくとも相互認識できる関係性があったことを示唆する間接的な証拠となり得ます。


永塩・長塩氏のルーツは、阿波国にその主要な基盤を持ちながら、細川京兆家の家臣として、讃岐国東部の黒羽にも勢力を広げ、畿内の政務にも深く関与した武家であると言えます。

その家系は、後に「永峰」姓として香川県東かがわ市黒羽の地に存続し、現代まで続いています。そして、阿波水軍 森家との婚姻は、両家が阿波という共通のルーツと細川氏という共通の主君を通じて、歴史的に何らかの繋がりを持っていたことを示唆しています。



🔸阿波水軍 森家のルーツ


阿波水軍森家のルーツは、佐田九郎兵衛(または佐田九郎左衛門、当初は鎌田九郎兵衛)という人物に遡ります。

以下にその系譜と主な活動をまとめます。

  1. 始祖:佐田九郎兵衛(さだ くろべえ)

    • 出身地: 因幡国(現在の鳥取県東部)出身とされます。

    • 初期の仕官: 初めは鎌田九郎兵衛と称し、阿波国守護の細川氏に仕えました。

    • 阿波での拠点: 阿波佐田館(現在の徳島市国府町西黒田・国府町東黒田)38貫を領していました。

    • 改姓: 細川家を退いた後に「佐田」に改姓したとされます。

    • 転身と拠点: 後に三好氏(細川氏の有力家臣から台頭した戦国大名)に仕え、土佐泊(とさどまり、現在の鳴門市)に居城を構え、水軍を率いて勢力を伸ばしていきました。

    • 森姓への改称: 佐田九郎兵衛は、阿波入国に際して世話になった森飛騨守の氏称を請い受け、「森氏」へ改称したとされています。そして、長男の元村に森志摩守を名乗らせました。

    • 後世の祭祀: 没後、椿泊(阿南市)にある佐田神社に祀られています。これは、森家の先祖神として崇敬されていたことを示しています。

  2. 二代目以降の発展:

    • 佐田九郎兵衛の息子である森元村(土佐泊城主)が森氏を継承。

    • その後、二代目当主である森村春の代に、阿波国土佐泊から阿波国椿泊(阿南市)に本拠を移し、館(松鶴城)を構えました。椿泊は、陸路での行き来が困難な半島の突端に位置する小さな漁村で、水軍の根拠地として最適な場所でした。

    • 森氏は、蜂須賀氏が阿波国に入国する以前から阿波水軍の長として活躍。豊臣秀吉の朝鮮出兵や大坂の陣にも参加し、戦功を挙げました。

    • 江戸時代に入ると、徳島藩蜂須賀家の中老として参勤交代の海上移動などを担当し、明治維新まで阿波水軍の地位を世襲していきました。「森甚五兵衛」の名は代々当主に襲名された通称です。


阿波水軍森家のルーツは、因幡国出身の佐田九郎兵衛(鎌田九郎兵衛→佐田九郎兵衛→森氏)にあります。

彼は細川氏、次いで三好氏に仕え、阿波の土佐泊を拠点に水軍を組織・指揮しました。彼の代で「森」姓に改称し、その後の代々が阿波水軍の棟梁として、戦国時代から江戸時代にかけて活躍していくことになります。

森家のルーツは「佐田九郎兵衛」であり、阿波の地に水軍勢力として根を下ろしていったと言えます。



🔸阿波水軍 森家と永塩/長塩家の関係は?


阿波水軍 森家と永塩・長塩家(後の永峰家)が、阿波国で何らかの関係性を持っていた可能性は非常に高い
と考えられます。

当時の武家社会の構造や地理的・政治的状況から推測できます。

その可能性を裏付ける要因をまとめます。

  1. 阿波国を共有するルーツ/拠点:

    • 永塩・長塩家: 「一族の本拠が四国阿波などにあり」という研究記述があり、阿波国にルーツまたは重要な基盤を持っていた可能性が高いです。

    • 阿波水軍 森家: 始祖の佐田九郎兵衛が阿波に入国し、土佐泊(後に椿泊)を拠点に水軍を組織・発展させており、阿波国が明確な本拠地です。

    • 同じ地域(阿波国)を活動拠点としていたという点で、接点が生じる必然性があります。

  2. 共通の主君「細川氏」:

    • 永塩・長塩家: 細川京兆家(勝元、政元)に二代(永塩因幡守氏継、長塩備前守又四郎元親)にわたって重臣として仕えました。

    • 阿波水軍 森家: 始祖の佐田九郎兵衛は当初、阿波国守護の細川氏に仕え、後に三好氏(細川氏の有力家臣)に転身しています。

    • 同じく細川氏という共通の主君、あるいは細川氏とその家臣である三好氏という関係性の中で、両家が協力関係にあったり、連携を求められたりする機会があったと考えられます。

  3. 地理的近接性と連携の必要性:

    • 阿波国と讃岐国東部(東かがわ市黒羽)は地理的に非常に近く、海上交通も盛んでした。

    • 永塩因幡守氏継が黒羽城で四宮氏の監視役を務めていた際、海上からの情報収集や、必要であれば海上での兵站・輸送、あるいは援護が必要となる場合も考えられます。

    • 阿波水軍森家のような海上勢力は、陸上勢力との連携が不可欠であり、陸上交通が未発達な時代において、水軍は兵の輸送や物資の補給、情報伝達において重要な役割を担っていました。

  4. 後の婚姻関係:

    • 明治時代に、永峰チヨ(永塩・長塩・永峰家の末裔)と森虎太郎(阿波水軍森家の支家)が結婚しているという事実は、両家の強い関係性を示します。

    • 何百年もの時を経ているとはいえ、全く無関係な遠隔地の家系が突然結びつくよりも、歴史的に何らかの接点や地理的・社会的な近接性があった家系同士が最終的に婚姻を結ぶことになったのかもしれません。戦国時代から江戸時代にかけて築かれた関係性や地理的近接性が、明治以降の婚姻にも影響を与えたと考えるのが合理的です。


阿波水軍 森家の支家と永塩・長塩家が、同じ阿波をルーツとし、共通の主君に仕え、地理的に近い場所で活動し、最終的に姻戚関係を結んだという点から、何らかの形で協力関係や同盟関係にあった可能性、あるいは少なくとも互いの存在を認識し、連携し得る関係性を持っていた可能性は極めて高いと言えます。

これは、日本の地方史における武家の繋がりと、その後の時代への影響を示す興味深い事例と言えるでしょう。




🔸森家と永峰家、三谷家、赤沢家の共通点は戦国武将だったこと。 森家と八田家、赤沢家、永峰家は阿波にルーツを持つ。


深く調査していくと、私の先祖は阿波、そして戦国武将時代の繋がりを基に江戸、明治期に婚姻関係を結んでいったことが垣間見えます。

🔹高松藩 森家: 阿波水軍 森家の支家。森権平久村一族。森権平久村の母は阿波の赤沢家 赤沢伊賀守の娘。

🔹森家の先祖代々の菩提寺は阿波の赤沢家 赤沢信濃守宗伝(板西城主)の子が開基した海暁閣 勝覚寺。赤沢信濃守は、長宗我部元親軍と戦った中富川の戦いで討ち死にし、その子が讃岐に逃れ、勝覚寺を開基した。

🔹高祖母の八田キヨ: 徳島藩 碁浦番所役人を200年以上務めた八田家当主の長女。八田家は讃岐と阿波の境の海沿いにあり、沿岸の警備も務めていた為、徳島藩の海防を260年以上務めた阿波水軍 森家とも繋がりがあった。特に阿波水軍森家の初期の居城地だった土佐泊と碁浦は地理的に近い。

高松藩で普請の仕事に従事していた森義右エ門の長男で私の高祖父の森喜平と八田キヨは元治元年に結婚した。長男 森虎太郎は永峰チヨと結婚、その娘の森ミヤコは永峰家に嫁いだ。森喜平と八田キヨの長女 森トヨは東かがわ市黒羽の三谷宗家に嫁いだ。
 
🔹高祖父の長女 森トヨ: 東かがわ市黒羽の三谷宗家へ嫁いだ。三谷家は十河氏系の武士で帰農。瀬戸内寂聴さんは分家の三谷甚六の末裔

🔹曽祖母の永峰チヨ:  永塩因幡守氏継、長塩備前守又四郎元親の末裔。永塩家が帰農して永峰姓へ改姓。永峰チヨの娘 森ミヤコは永峰家へ嫁いだ。





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🔸著者のプロフィール


森啓成 (モリヨシナリ)

ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント


神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。

大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事(北京オフィス所長)。

その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。

アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。


現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。

観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。


【保有資格】

  • 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級

  • 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級

  • ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド

【メディア・研修実績】 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載、瀬戸内海放送(KSB)及び岡山放送(OHK)ニュース番組コメント。

観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。

四国運輸局事業コンサルタント、 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験面接官の実績。

・香川県登録通訳案内士サイト



・座右の銘は「雨垂れ石を穿つ」





以上

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