【讃岐秘話】1641年、生駒家改易後の阿波と讃岐の国境争議の裏側: 阿波側証人 八田孫兵衛の主張は? 八田孫太夫の先祖覚え書きから読み解く国境決定の経緯 (鳴門市史 上巻)
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今回は、1640年に高松藩で勃発した生駒騒動後の阿波と讃岐の国境争議についてです。
徳島藩と高松藩の国境沿いにあった碁浦御番所役人の八田孫太夫 先祖覚え書きに書かれた古文書を読み解きます。
なぜ高松藩主 生駒高俊は改易されたのでしょうか?
阿波と讃岐の国境はどのように決定されたのでしょうか?
・【讃岐秘話】63歳の”伊能忠敬”が上陸した阿波と讃岐の国境地点を訪問: 鳴門市北灘町碁浦漁港と碁浦御番所跡地、大須駐車場にある石碑とは?




鳴門市史 上巻 (643ページ)の阿波国境争議の経緯が書かれた古文書


碁浦邑御番人庄屋 八田孫太夫先祖覚書 (鳴門市史 上巻 643ページ)
一、讃岐国高松之城主・生駒壱岐守様御改易被為成候節、御国御境目之儀ニ付、讃州之者共与段々論対仕候。其是非難相分ニ付、御境目為御改、御上使・伊丹順斎様、青山大蔵様、讃州高松へ御入被成候節、御国より益田主殿助様、森佐太右衛門様、右御両人讃州高松へ被召寄候。
節、御国御境目為証人、私先祖・八田孫兵衛高松へ罷出候。節、御上使様御出ニ而、御境目之儀、此方より者「西坪ヶ谷筋之尾切」と申上候。讃州よりハ「碁浦東尾切大須邑境迄」与申上候。
海手分ハ北泊浦庄屋九左衛門対論、陸地ハ孫兵衛、讃州之者共与及対論、御境目難相分候所、御上使様御宿・木屋六右衛門御扱申止、御境目立様之儀「小碁浦・大碁浦の間、志多能尾切」と申上、御上使様双方御聞届、「志多能尾切」と御定置被遊候。
海手漁業之儀ハ引田浦入相ニ仕、双方証文取遺申候。海手者寛永十八年五月より十月廿二日迄、陸地之儀ハ廿一日目相済申候御事。
(鳴門市 山田喜昭蔵)
上記の古文書(書き下し文)の内容は、江戸時代初期に徳島藩と高松藩の間で起きた国境紛争とその解決についての記録です。
阿波側証人の八田孫兵衛が、現在の県境を決定づける歴史的瞬間に立ち会っていたことが詳細に記されています。
以下、現代語での意味と経緯をまとめました。
【現代語訳】
碁浦村の番人・庄屋である八田孫太夫の先祖に関する覚え書き
一、讃岐国高松城主の生駒壱岐守(生駒高俊)様が領地を取り上げられた(改易)際(1640年)、わが国(阿波)との国境について讃岐側の人々と何度も激しく言い争いになりました。どちらが正しいか決着がつかなかったため、国境を正しく改めるために、幕府の上使(じょうし:調査官)である伊丹順斎様と青山大蔵様が高松へ入られました。
その際、わが藩(阿波)からは益田主殿助様と森佐太右衛門様のお二人が高松へ呼び出されました。また、国境の正しさを証明する証人として、私の先祖である八田孫兵衛も高松へ出向きました。
上使様 (伊丹順斎様と青山大蔵様) が立ち会う中で国境の議論が行われ、阿波側として八田孫兵衛は「西坪ヶ谷(にしつぼがたに)筋の尾根が境界である」と主張し、讃岐側は「(阿波側の領土である)碁浦の東の尾根から大須村の境までが自分たちの領土である」と主張しました。
海の境界については北泊浦の庄屋・九左衛門が議論し、陸地の境界については八田孫兵衛が讃岐側の人々と議論を重ねました。なかなか折り合いがつきませんでしたが、上使様の宿泊先であった木屋六右衛門が仲裁に入り、議論を収めました。
国境の画定については、「小碁浦(こごのうら)と大碁浦(おおごのうら)の間にある志多能尾切を境界とする案が出され、上使様 (伊丹順斎様と青山大蔵様) は双方の言い分を聞いた上で、ここを正式な国境と定められました。
海の漁業については、引田浦(讃岐側)との「入会い(共同利用)」とすることにし、双方が証文を取り交わしました。 海上の境界については1641年 (寛永18年) 5月から10月22日までかかり、陸地については10月21日にすべて完了しました。
・白色の点線が阿波と讃岐の国境線

・生駒高俊
・生駒騒動とは?

・徳川家康の家臣 青山大蔵
梅窓院:
徳川家康の家臣、青山大蔵少輔幸成(あおやまおおくらのしょうゆきなり)が亡くなり、その菩提寺として、青山家下屋敷の一角に建立されたのがはじまり
・勘定奉行 伊丹康勝 号は順斎
伊丹 康勝(いたみ やすかつ)
江戸時代前期の旗本、大名、勘定奉行。甲斐徳美藩の初代藩主。
・徳島藩 国奉行 益田主殿助と森佐太右衛門
https://satoyamashikoku.web.fc2.com/bungo.pdf

https://archive.bunmori.tokushima.jp/images/kakotenzi/pdf/ippin-20221025.pdf


【八田孫太夫先祖覚え書きの歴史的重要性】
阿波藩の代表としての森佐太右衛門:
森佐太右衛門が、藩を代表する重臣(益田主殿助)と共に高松へ派遣されており、藩内で非常に重要な地位にあったことがわかります。
現場の証人としての八田家:
八田孫兵衛が、土地の地理を知り尽くした「証人」として幕府の役人の前で堂々と対論しています。彼の証言がなければ、今の徳島県の領土はもっと狭くなっていたかもしれません。
現在の県境のルーツ:
ここで決まった「志多能尾(現在の鳴門市北灘町と東かがわ市の境界付近)」が、そのまま現在の徳島県と香川県の県境となっています。
幕府公認の解決:
江戸幕府の正式な調査官(伊丹・青山)によって裁定が下された「公式な歴史」の記録です。
古文書「碁浦邑御番人庄屋 八田孫太夫先祖覚書」について
『八田孫太夫先祖覚え書き』は、徳島藩の碁浦御番所役人の八田孫太夫が、その先祖から伝えられた覚書(記録)です。内容は主に、阿波国(徳島県)と讃岐国(香川県)の国境に関する争いと、その経緯について詳細に記されています。
国境紛争の経緯
讃岐国の高松城主である生駒壱岐守(生駒氏 高俊)が改易された際(寛永17年、1640年頃)、阿波国と讃岐国の国境について多くの議論や対立があったことが記されています。
この時、どちらの主張が正しいか判断が難しかったため、国境を調査するために幕府から伊丹順斎様と青山大蔵様が上使(視察・調停の役人)として高松へ派遣されました。
徳島藩からは益田主殿助様、森佐太右衛門様が同行しました。
国境の主張と調停
この国境調査の際、八田家の先祖である八田孫兵衛が証人として高松に出向きました。
阿波国側 八田孫兵衛は「西坪ヶ谷筋之尾切」を国境と主張しましたが、讃岐国側は「碁浦東尾切大須邑境迄」と主張し、海側の境界については北泊浦の庄屋九左衛門が対立しました。
陸地の国境は八田孫兵衛が讃岐側の者と議論しましたが、なかなか決着がつかなかったようです。
最終的には、上使様が宿泊していた木木屋六右衛門の仲介により、国境を「小碁浦大碁浦之間志多能尾切(したのおぎり)」とすることで双方合意し、上使様もこれを認識して国境として定めました。
海の漁業権
海側の漁業権については、引田浦(讃岐国)が入会地(共同利用地)となり、双方で証文(契約書)を取り交わしました。
これは寛永18年(1641年)5月から10月22日までの期間に解決され、陸地の国境も同年の21日に決着したと記されています。
・碁浦御番所 八田家文書: 阿波・讃岐両国の国境確認書 (1641年10月22日発行)

・碁浦御番所 八田家文書: 阿波・讃岐両国の国境確認書 (1641年10月22日発行)

「阿波・讃岐両国の国境確認書」
江戸時代初期の寛永18年(1641年)に、隣接する阿波徳島藩と讃岐高松藩の間で国境(現在の徳島県と香川県の県境付近)を双方の役人が連名で証明した内容が記されています。
文書の主な内容:
作成日: 寛永18年(1641年)10月22日
宛先: 幕府の巡見使の青山山城守様、伊丹順斎様。
要旨: 阿波と讃岐の国境について、協議の結果決まった「小碁(こご)之浦・大碁(おおご)之浦」の間を境界と定めたことに相違ないことを報告しています。
署名されている役人と場所:
文書の後半に各地の「政所(まんどころ)」と呼ばれる役人の名前が並んでいる。

阿波と讃岐の国境決定後の八田家
阿讃国境(阿波・讃岐)の画定:
国境争い:
寛永17年(1640年)の生駒高俊の改易に伴い、国境を巡る争論が起きました。
八田孫兵衛の活躍:
幕府の上使(調査官)が派遣された際、八田孫兵衛が「御国御境目為証人(国の境目の証人)」として高松へ出向きました。
裁決:
讃岐側は「大須村の境」までが自領だと主張しましたが、孫兵衛が古来よりの証拠を挙げて対論した結果、阿波側の主張が通り、現在の境である「小碁(こご)之浦・大碁(おおご)之浦」の間、「志多能尾切(したのおぎり)」に決定しました。
領地の拝領と碁浦御番所役人の任命:
国境画定における八田家の「粉骨無比類手柄(比類なき手柄)」が認められ、寛永18年(1641年)に「切田山共一円(きりたやまともいちえん)」を藩主 蜂須賀家から下され碁浦御番所の役人となりました。これは広大な山林の支配権を丸ごと与えられたことを意味します。
「切田山共一円」とはどういう意味か?
「開墾した田畑(切田)と、その周辺の山林(山)のすべて(一円)を、領地として丸ごと与える」という非常に手厚い恩賞を意味します。
各語の言葉の意味
切田(きりた): 山林や原野を切り開いて新しく作った田畑のことです。
山(やま): 薪炭(薪や炭)、建築資材となる木材、食料となる山菜や狩猟獲物が得られる場所です。当時の生活において、山は重要な資源供給源でした。
共(とも): 「〜と一緒に」「〜も含めて」という意味です。
一円(いちえん): 「その範囲すべて」「丸ごと全部」という意味です。特定のエリア一帯の支配権・収益権を完全に認める際に使われる表現です。
歴史的背景
八田家が阿波藩と高松藩の国境画定において果たした功績に対して使われています。
恩賞の理由:
寛永18年(1641年)、八田孫兵衛が幕府上使の前で阿波藩の正当性を証明した手柄が「粉骨無比類(比類なき努力)」と認められたためです。
支配権:
単に「米をもらう」のではなく「土地そのものの管理権をもらう」ことであるため、八田家がその地域(碁浦周辺)で絶対的な影響力を持つ「地主役人」としての地位を確立したことを意味します。


八田家歴代当主
元祖 八田孫兵衛
二代目 八田 傳兵衛(はった でんべえ)
三代目 八田 傳兵衛(はった でんべえ)
四代目 八田孫太夫
五代目 八田孫太夫
六代目 八田孫太夫
七代目 八田孫太夫
八代目 八田孫太夫
九代目 八田孫平
八田家は、1641年から1872年(明治5年)に御番所が廃止されるまで231年間、9代に渡って碁浦御番所役人を世襲した。
江戸時代:時代区分一覧
江戸時代の期間は、一般的には1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから、1868年10月23日(慶応4年/明治元年9月8日)の「一世一元の詔」の発布(一世一元への移行)に伴い、慶応から明治に改元されるまでの265年間である。
慶長(1596年〜1615年)
元和(1615年〜1624年)
寛永(1624年〜1644年)
正保(1644年〜1648年)
慶安(1648年〜1652年)
承応(1652年〜1655年)
明暦(1655年〜1658年)
万治(1658年〜1661年)
寛文(1661年〜1673年)
延宝(1673年〜1681年)
天和(1681年〜1684年)
貞享(1684年〜1688年)
元禄(1688年〜1704年)
宝永(1704年〜1711年)
正徳(1711年〜1716年)
享保(1716年〜1736年)
元文(1736年〜1741年)
寛保(1741年〜1744年)
延享(1744年〜1748年)
寛延(1748年〜1751年)
宝暦(1751年〜1764年)
明和(1764年〜1772年)
安永(1772年〜1781年)
天明(1781年〜1789年)
寛政(1789年〜1801年)
享和(1801年〜1804年)
文化(1804年〜1818年)
文政(1818年〜1830年)
天保(1830年〜1844年)
弘化(1844年〜1848年)
嘉永(1848年〜1854年)
安政(1854年〜1860年)
万延(1860年〜1861年)
文久(1861年〜1864年)
元治(1864年〜1865年)
慶応(1865年〜1868年)




八田家の子孫
・八田家九代目当主 八田孫平とタケの長女 八田キヨは、1864年に高松藩の森義右エ門の長男 森喜平に嫁いだ。八田キヨは阿波浄瑠璃の三味線が非常に上手かった。春になると舟を出し三味線を弾きながら近くの絹島へ渡り遊山をするような風流な人だった。八田キヨの孫の一人は琵琶を教えるほどの腕前だった。

・八田キヨの孫 森トメノの神戸新聞によるインタビュー記事。八田キヨの孫は英語を使って神戸にある昭和天皇が宿泊するホテルやGHQの宿舎で働いていた。


八田家の子孫と東かがわ市の旧武家との繋がり
八田キヨの長男 森虎太郎は東かがわ市黒羽の黒羽城主 永塩因幡守氏継の子孫 永峰チヨと結婚、二女の森トヨは東かがわ市黒羽の十河氏系三谷家の三谷磯八と結婚。この三谷家からは瀬戸内寂聴さんが出ている。また八田キヨが嫁いだ高松藩森家は阿波水軍 森権平久村の一族で、菩提寺は板野郡にあった板西城主 赤沢信濃守宗伝の長子が東かがわ市小砂に開基した勝覚寺。
・【讃岐秘話】東かがわ市の旧・武家とその繋がり: 板西城主 赤沢信濃守宗伝、黒羽城主 永塩因幡守氏継、十河氏系三谷家、碁浦御番所役人 八田孫太夫、仙石秀久家臣 森権平久村
・八田孫平の長女 八田キヨの娘は東かがわ市黒羽の十河氏系三谷家へ嫁いだ。この三谷家からは瀬戸内寂聴さんが出ている。

碁浦邑御番人庄屋八田孫太夫先祖覚書
一 讃岐国高松之城主生駒壱岐守様御改易被為成候節御国御境目之儀ニ付讃州之者共与段々論対仕候其是非難相分ニ付御境目為御改御上使伊丹順斎様青山山大蔵様讃州高松へ御入被成候節御国より益田主殿助様森佐太右衛門様右御両人讃州高松へ被召寄候節御国御境目為証人私先祖八田孫兵衛高松へ罷出候節御上使様御出ニ而御境目之儀此方より者西坪ヶ谷筋之尾切と申上候讃州よりハ碁浦東尾切大須邑境迄与申上候海手分ハ北泊浦庄屋九左衛門対論陸地ハ孫兵衛讃州之者共与及対論御境目難相分候所御上使様御宿木木屋六右衛門御扱申止御境目立様之儀小碁浦大碁浦之間志多能尾切と申上御上使様双方御聞届志多能尾切と御定置被遊候海手漁業之儀ハ引田浦入相ニ仕双方証文取遺申候海手者寛永十八年五月より十月廿二日迄陸地之儀ハ廿一目相済申候御事
(鳴門市 山田喜昭 蔵)
・阿波淡路両国番所跡探訪記

・碁浦御番所があった場所。現在は国道11号線が走る。

・下記の黄色丸の場所に碁浦御番所があった。




・1808年、測量中の伊能忠敬と久米通賢らが碁浦御番所を訪れている。北海道の名付け親 松浦武四郎も四国遍路の途中に碁浦御番所を通り記録されている。


・八田家文書にある伊能忠敬が来る際に三つ道具を飾り置くようにとの通達

・碁浦漁港

・大須駐車場にある碁浦御番所跡碑

・下記の黄色丸に大須駐車場がある。

【松浦武四郎】約200年前に19才で四国遍路を廻った北海道の名付け親。 著書「四国遍路道中雑誌」に出てくる碁浦御番所の記録を読みとく。
、松浦武四郎が書いた四国遍路道中雑誌


鳴門市史: 碁浦邑御番人庄屋八田孫太夫先祖覚書


鳴門市史

碁浦御番所 八田家文書: 国境締結後の八田家

阿讃国境争論について
阿讃両国の国境は、大化の改新のころ全国的な大事業によって画定されたことは古代のところで述べたのであるが、その後長年月の間にはやや分明を欠くところもできたようである。
以下二通の記録は藩政初期における阿波藩と高松藩の国境争論関係のものである。
碁浦邑御番人庄屋八田孫太夫先祖覚書
一 讃岐国高松之城主生駒壱岐守様御改易被為成候節御国御境目之儀ニ付讃州之者共与段々論対仕候其是非難相分ニ付御境目為御改御上使伊丹順斎様青山大蔵様讃州高松へ御入被成候節御国占益田主殿助様森佐太右衛門様右御両人讃州高松へ被召寄候節御国御境目為証人私先祖八田孫兵衛高松へ罷出候節御上使様御出ニ而御境目之儀此方古者西坪ヶ谷筋之尾切と申上候讃州方ハ碁浦東尾切大須邑境迄与申上候海手分ハ北泊浦庄屋九左衛門対論陸地ハ孫兵衛讃州之者共与及対論御境目難相分候所御上使様御宿木屋六右衛門御扱申止御境目立様之儀小碁浦大碁浦之間志多能尾切と申上御上使様双方御聞届志多能尾切と御定置被遊候海手漁業之儀ハ引田浦入相ニ仕双方証文取置申候海手者寛永十八年五月六十月廿二日迄陸地之儀ハ廿一日相済申候御事
(鳴門市 山田喜昭蔵)
史料の解説・注目ポイント
この「八田孫太夫先祖覚書」は、八田家のルーツを探る上で非常に重要な一節を含んでいます。
生駒家改易と国境争い: 1640年(寛永17年)に高松藩の生駒家が改易された際、隣接する徳島藩との間で「どこが境界か」という争いが起きました。
上使の裁定: 幕府から派遣された上使(伊丹順斎、青山大蔵)に対し、徳島藩側の証人として森様の先祖である「八田孫兵衛」が高松へ出向いています。
地名の特定: 徳島側は「西坪ヶ谷筋」を主張し、讃岐側は「碁浦の東(大須)」を主張しましたが、最終的に「志多能尾切(したのおきり)」で決着した経緯が記されています。
阿波と讃岐の国境を守り、歴史の証人となった八田家の誇りが伝わってくる史料です。
『碁浦邑御番人庄屋八田孫太夫先祖覚書』の現代語訳
この文書は、1640年の生駒家改易をきっかけに起きた阿波(徳島藩)と讃岐(高松藩)の国境争いにおいて、八田孫兵衛がどのように証人として立ち振る舞い、現在の県境が確定したかを記した極めて重要な記録です。
現代語訳:碁浦村御番人庄屋 八田孫太夫先祖覚書
一、讃岐国(香川県)高松城主の生駒壱岐守(高松藩生駒家)が改易(領地没収)となった際、国境の件について讃岐の者たちと度々争いになりました。
その是非(どちらの主張が正しいか)が容易に判断できなかったため、国境を改めて定めるために、幕府の上使(検使)である伊丹順斎様と青山大蔵様が高松へ入られました。その際、わが国(徳島藩)からは益田主殿助様と森佐太右衛門様のお二人が高松へ呼び寄せられました。
このとき、国境の正しさを証明する証人として、私(八田孫太夫)の先祖である八田孫兵衛が高松へ参上いたしました。上使様がお出ましになり、国境について吟味された際、こちら(阿波側)は「古くから西坪ヶ谷筋の尾根(尾切)が境である」と主張しました。対する讃岐側は「碁浦の東の端、大須村の境までが讃岐である」と主張しました。
海上についても、北泊浦の庄屋である九左衛門が対論(反論)し、陸地については孫兵衛が讃岐の者たちと議論を戦わせましたが、なかなか境が決まりませんでした。
そこで、上使様の御宿であった木屋六右衛門が仲裁に入り、国境を確定させることになりました。その結果、「小碁浦と大碁浦の間にある志多能(したの)尾根を境とする」というこちらの申し立てを、上使様が双方からお聞き届けになり、そこを正式な国境と定められました。
海上の漁業権については、引田浦(讃岐側)との入会(共有)とすることに決め、双方で証文を取り交わしました。海上の件については寛永18年(1641年)5月6日から10月22日までに解決し、陸地の件については同10月21日に無事決着いたしました。
解説とポイント
八田孫兵衛の功績:
八田孫兵衛が、徳島藩の代表(証人)として高松へ乗り込み、堂々と議論した結果、阿波側の主張に近い「志多能尾切(現在の鳴門市北灘町と東かがわ市の境付近)」で国境が確定したことがわかります。
森佐太右衛門との関わり:
徳島藩側の責任者の一人として「森佐太右衛門」の名が登場します。八田家が、藩の重要事項である「国境画定」において共に尽力していた様子が伺える、非常に熱い場面です。
「木屋六右衛門」の仲裁:
議論が平行線だった際、上使の宿泊先(本陣)の主人が仲裁に入るという、当時の生々しい交渉の裏側も読み取れます。
当時の八田家がいかに藩から信頼され、地域の地理に精通した「御番所役人」としての重責を担っていたかがよく分かる史料です。
碁浦御番所 八田家文書: 阿波・讃岐両国の国境確認書の現代語訳

画像の文字を全て読み取り、整理いたしました。
この資料は、1641年(寛永18年)に確定した阿波(徳島藩)と讃岐(高松藩)の国境に関する最終合意文書の写しと思われます。
願い書及び報告書
■ 阿波・讃岐両国の国境確認書
今度青山大蔵様・伊丹順斎様
讃岐之国・阿波之国両国之堺目御
吟味被成、小碁之浦・大碁之浦之間し
だ尾切ニ相定、書物指上ケ申候、然ハ
猟海之儀ハ先年よりも入相ニ仕候
処ニ、尚以益田主殿助様・森佐太右衛門様
御意を以、以来まて相違有間敷候
為後日如件
寛永拾八年十月廿二日
北泊リ政所 九左右衛門殿
同組頭 吉右衛門殿
櫛木政所 安太夫殿
粟田政所 彦兵衛殿
折野政所 勝右衛門殿
大津政所 実右衛門殿
さぬきノ国引田政所 四郎太夫 書判
同組頭 九郎兵衛
同 新兵衛 同
同 彦兵衛 同
馬宿政所 源左衛門
同組員 太郎兵衛
梨木政所 久兵衛
引田 五郎兵衛
同 二郎兵衛
解説・注目すべきポイント
森家と益田家の役割:
本文中に「益田主殿助様・森佐太右衛門様 御意を以」とあります。これは、阿波藩側の責任者である益田氏と森氏の意向(指示)によって、この国境および漁業権の合意が成立したことを示しています。森家が藩の重要外交(国境交渉)において決定権に近い立場にいたことがわかります。
国境の確定地点:
「小碁之浦(こごのうら)・大碁之浦(おおごのうら)の間、しだ尾切(しだのうきり)」に決定したと明記されています。
漁業権(入相)の承認:
「猟海(りょうかい:漁場)」については、以前からの慣習通り「入相(いりあい:共同利用)」とすることを改めて確認しています。
関係自治体の署名:
讃岐側の「引田(ひけた)」「馬宿(うまやど)」、阿波側の「北泊(きたどまり)」「櫛木(くしき)」「粟田(あわた)」「折野(おりの)」「大津(おおつ)」といった沿岸集落の政所(庄屋)や組頭が名を連ねており、地域を挙げた正式な合意文書であることがわかります。
🔸現代語訳
1641年(寛永18年)10月22日に取り交わされた、阿波(徳島)と讃岐(香川)の国境画定に関する最終合意文書の現代語訳です。
現代語訳:阿波・讃岐両国の国境確認書
この度、幕府の上使である青山大蔵様と伊丹順斎様が、讃岐国と阿波国の境界について詳しく調査・吟味されました。その結果、小碁の浦と大碁の浦の間にある「しだ尾切(しだのうきり)」を正式な国境と定め、その旨を記した文書を提出いたしました。
また、漁場(猟海)の利用については、以前から双方の入会(共有利用)としてきましたが、この件については、阿波藩の責任者である益田主殿助様と森佐太右衛門様のご意向により、今後も将来にわたって相違(争い)がないよう、ここに改めて定めます。
後日の証拠として、以下の通り記します。
寛永18年10月22日
(以下、讃岐側代表)
さぬき国引田政所:四郎太夫(花押)
同組頭:九郎兵衛、新兵衛、彦兵衛
馬宿政所:源左衛門、および組頭一同
引田:五郎兵衛、二郎兵衛
(以下、阿波側宛名)
北泊政所:九左右衛門殿
櫛木政所:安太夫殿
粟田政所:彦兵衛殿
折野政所:勝右衛門殿
大津政所:実右衛門殿
(および各組頭一同)
解説と歴史的背景
森佐太右衛門の存在感:
この文書の重要な点は、国境という国家レベルの合議において、「森佐太右衛門」の名が、阿波藩の最高幹部格である益田主殿助と並んで記されていることです。単なる現場担当者ではなく、藩の意思を決定し、讃岐側に「異存はないな」と念を押し、署名させた主導的な立場であったことが読み取れます。
「しだ尾切」の決定:
以前の史料(八田家覚書)で、八田孫兵衛が証人として主張した地点が、幕府上使によって正式に認められた瞬間です。
入会(いりあい)の知恵:
陸地の境ははっきりさせつつも、海上の漁業権については「共有」とすることで、両国民の生活を守り、将来の紛争を未然に防ぐ現実的な解決策を森佐太右衛門らが提示したことがわかります。
1641年の阿波・讃岐国境決定後の八田家

上記は、滝よし子氏による碁浦御番所 八田家文書の「碁浦番所と四国遍路」の冒頭部分です。徳島藩の番所制度の概要と、八田家が碁浦番所に定着した経緯が詳しく記されています。
碁浦番所と四国遍路
滝 よし子
徳島藩は二十五万七千石の大藩で、番所の数もそれなりに多かった。時代により多少の変遷もあったが、阿波国内に五十六カ所、淡路に二十一カ所の番所が置かれ、藩内の治安維持に当たった(『阿波淡路両国番所跡探訪記』)。
特に五街道のうちで讃岐街道には、高松藩と接する境に大坂口番所を、土佐藩との出入口には宍喰口番所、伊予国境には佐野口番所を設置した。これ等の番所が設けられる二、三年ほど前、寛永後期(一六四一年頃)の「阿波国絵図」(徳島大学附属図書館所蔵)に、讃岐・伊予・土佐との国境にそれぞれ「大坂口見切」・「佐野口見切」・「久保見切」と書かれた付箋がされている。番所設置の予定地であろう。
正保元年(一六四四)に大坂口番所が設置され、土佐街道に宍喰口番所、伊予街道の佐野口番所も同年代頃に設けられたものと思われる。
その後碁浦番所は大坂口番所と同様、正式に讃岐との国境に設置された。
八田家は、もと大浦村(鳴門市北灘町大浦)に居住していたが、寛永十七年(一六四〇)藩の命令で讃岐との国境である碁浦(当時人家はない)に移住した。翌十八年(1641年)に高松藩との間で正式に国境が定められた。
この時の八田家の働きが「粉骨無比類手柄」と認められ、「切田山共一円下され」番人となったが、正式には正保四年(一六四七)に弐人御扶持方、延宝八年(一六八〇)に至って御支配三石を下され、碁浦番所の御番人となった。



解説・注目ポイント
八田家の功績「粉骨無比類手柄」:
1641年の国境画定における八田家の働きが、藩から「他に類を見ないほどの並々ならぬ手柄(粉骨無比類手柄)」と絶賛されたことが記されています。これが単なる伝承ではなく、歴史学的な記述として裏付けられています。
碁浦への入植:
もともと人家のなかった国境の地「碁浦」へ、藩命によって移住したのが八田家であったことがわかります。まさに「国境の守護神」として送り込まれたわけです。
恩賞と世襲:
手柄によって「切田山(開墾した田畑や山林)を一円(全て)」与えられ、さらに御扶持(給与)や御支配を賜り、代々「御番人」を世襲することになった経緯が明確になっています。
歴史の舞台としての碁浦:
四国遍路のルート上にある番所として、治安維持だけでなく、遍路の取り締まりや接待なども担っていた背景が示唆されています。
八田家がいかに徳島藩の重要拠点において「特別な信頼」を得ていたかが、理解できます。
以上
