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【讃岐秘話】63歳の”伊能忠敬”が上陸した阿波と讃岐の国境地点を訪問: 鳴門市北灘町碁浦漁港と碁浦御番所跡地、大須駐車場にある石碑とは?

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2026/1/27に鳴門市北灘町碁浦(ごのうら)にある伊能忠敬上陸地点と碁浦御番所跡、碁浦漁港を訪問してきました。

碁浦は東かがわ市と鳴門市の県境に位置します。



伊能忠敬は50歳で測量の勉強を開始、55歳から日本全国 測量の旅を開始しました。

1808年、63歳の時、四国を測量中の伊能忠敬は東かがわ市引田港から案内役の久米通賢らと共に舟に乗り鳴門市の碁浦港に到着、碁浦御番所を訪問しました。

碁浦御番所 八田家文書には伊能忠敬が来るから三つ道具を飾り置くようにとの通達が残っています。


・碁浦御番所八田家文書 (滝よし子、森順子 編著)


・伊能忠敬に関する八田家文書



・八田家が使用していた三つ道具




・碁浦御番所(ごのうらごばんしょ)の写真。裏手に伊能忠敬が下船した碁浦港が見える。碁浦御番所は、国道11号線建設の為に取り壊されたが、碁浦御番所では1641年から1872年までの231年間、八田家が御番所役人を世襲した。この御番所には伊能忠敬や久米通賢、北海道の名付け親の松浦武四郎らが訪れた。

八田家第九代当主 八田孫平の長女である私の高祖母 八田キヨは幕末期にこの碁浦御番所で生まれ育った。1864年、藩を跨いで高松藩の森喜平と婚姻を結んだ。八田キヨは、阿波浄瑠璃の三味線が上手く、春になると舟に乗って近くの絹島に遊山に行くような風流な人だった。


八田キヨの長男 森虎太郎は東かがわ市黒羽の黒羽城主'永塩因幡守氏継の子孫 永峰家と婚姻を結んだ。また、八田キヨの二女の森トヨは同じく黒羽の十河氏系三谷家に嫁いだ。この三谷家からは瀬戸内寂聴さんや引田町町会議員らが出ている。八田キヨの孫は日中戦争中に27歳で戦死、ひ孫は両親を幼くして亡くした逆境を乗り越えて西洋料理人となり旧神戸オリエンタルホテルで昭和天皇や当時の皇太子(現在の上皇)に料理を献上した。


・八田キヨの二女が嫁いだ東かがわ市黒羽の三谷家。瀬戸内寂聴さんの先祖の居城だった高松市三谷町の三谷城と王佐山城


・八田キヨのひ孫の壮絶な人生。西洋料理人として昭和天皇に料理を献上。


・日中戦争の最中、生まれてくる長男の顔を見れずに27歳で戦死した八田キヨの孫の軍歴証明書を香川県庁に請求した結果: 複雑な心境と知らなければ良かった事実が分かってしまった、、、




・現在の碁浦漁港。1808年、63歳の伊能忠敬と案内役の久米通賢が下船した碁浦港。




碁浦御番所とは?



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2026/1/27: 鳴門市北灘町碁浦訪問








伊能忠敬とは?





伊能忠敬の業績と測量開始年齢



伊能忠敬は、1745年に現在の千葉県九十九里町で生まれました。17歳で伊能家に婿養子として入り、家業を営む傍ら、村の名主としても活躍しました。

49歳で家督を長男に譲り隠居し、50歳で江戸に出て天文方(幕府の役職)の高橋至時に師事し、西洋天文学や測量技術を学びました。

測量の旅を開始したのは55歳(1800年)、寛政12年のことです。

これは、地球の緯度1度の弧長を測ることに興味を持ったことと、国防のために正確な地図が必要とされたことが背景にあります。

伊能忠敬は、1816年までの17年間で10回にもわたる測量の旅に出かけ、実に3万5千キロメートルもの距離を歩いて測量を行いました。

これは地球約1周分に相当するとも言われています。




「大日本沿海輿地全図」について



「大日本沿海輿地全図」は、伊能忠敬が測量した結果をもとに作成された日本全土の地図です。

忠敬は1818年に73歳で亡くなりますが、その後、高橋至時の子である高橋景保をはじめとする弟子たちが彼の遺志を継ぎ、1821年(文政4年)、忠敬の死後3年を経て完成させました。

この地図は、現在発行されている日本地図とほとんど変わらない正確さで作成されており、当時ヨーロッパでも高く評価されました。

縮尺3万6千分の1の大図214枚、21万6千分の1の中図8枚、43万2千分の1の小図3枚で構成されています。

明治維新後も、近代的な測量による地図が整備されるまでの間、国の基本図として利用されました。




碁浦への上陸と高松藩の案内



伊能忠敬は、測量第6次にあたる四国測量の際、1808年11月5日、63歳の時に高松藩の久米通賢を案内役として、東かがわ市の引田港から鳴門市北灘町碁浦漁港に到着しました。

一行は碁浦御番所を訪れており、碁浦御番所八田家文書には、伊能忠敬が来るので「三つ道具」を飾り置くようにという通達が残されています。



碁浦御番所の場所と現状


碁浦は、東かがわ市と鳴門市の県境に位置していました。江戸時代には阿波と讃岐の国境に碁浦御番所が置かれ、231年以上にわたり八田家が世襲でその役人を務めていました。

現在、碁浦御番所は国道11号線の建設のために取り壊されており、鳴門市北灘町大須駐車場には伊能忠敬上陸地の石碑と碁浦御番所跡碑が建立されています。



伊能忠敬の銅像: 富岡八幡宮(東京都江東区)





富岡八幡宮には、2001年10月に伊能測量200年を記念して建立されました。伊能忠敬は50歳で江戸に出て、富岡八幡宮近くの黒江町(現在の門前仲町1丁目)に隠宅を構えていました。測量の旅に出る前には、安全を祈願して富岡八幡宮を参拝していたため、この地に縁が深く、銅像が建てられました。






伊能忠敬上陸地点の碑 (鳴門市北灘町碁浦)



伊能忠敬上陸地点碑は香川県と徳島県の県境の国道11号線沿いにある。









・伊能忠敬、久米通賢一行らも歩いた碁浦港に通じる細道。1808年、碁浦港で下船した伊能忠敬らはこの道を通って碁浦御番所を訪ねた。





伊能忠敬上陸地点碑には何が書いてあるのか?






「伊能忠敬上陸地点の碑」には、伊能忠敬が測量の旅を記録した『日本沿海輿地全図(測量日記)』からの抜粋が記されています。


『日本沿海輿地全図 測量日記』抄



石碑に刻まれた日記の現代語訳



石碑に記されている内容は、1808年11月5日の出来事を記したものです。


五日 朝 晴天 西風

11月5日の朝は、空が晴れ渡り、西から風が吹いていたことがわかります。


六ツ半前 引田村出立

午前7時前には、伊能忠敬と久米通賢一行は引田村を出発したと記録されています。


乗船シテ 阿州板野郡 碁之浦へ着

船に乗って阿波国板野郡の碁浦(ごのうら)に到着したことを示しています。



此夜 晴天 測量

碁浦に到着したこの夜も晴天だったため、測量活動を行ったことが記されています。

伊能忠敬は55歳から測量を始め、約17年間かけて日本全国を測量し、『大日本沿海興地全図』を完成させました。

この地図は非常に精密で、当時の日本の海岸線の様子を正確に伝えています。石碑に記された日記は、そのような偉業の一部を垣間見ることができる貴重な記録と言えるでしょう。




夜間の測量とは?


伊能忠敬が夜間に測量を行ったのは、主に天体観測のためです。天体観測は、地図の精度を高める上で非常に重要な役割を果たしました。



夜の天体観測

伊能忠敬が行った夜の測量とは、星を観測することでした。昼間は、歩測や鉄鎖などを用いて距離を測り、方位盤で方角を測る「導線法」という方法で地道な測量を続けていましたが、夜になると「中象限儀(ちゅうしょうげんぎ)」などの天体観測機器を設置し、星の観測を行っていました。


天体観測の目的


星の観測によって、主に以下の情報を得ることができました。


緯度の測定

恒星の高度を精密に測ることで、現在地の正確な緯度を割り出しました。これは、地球の大きさを測る上でも不可欠な情報でした。


測量の基準点補正

天体観測によって得られた緯度の情報を用いることで、地上での距離測量で生じる誤差を修正し、地図全体の精度を高めることができました。


天体観測に使われた道具



伊能忠敬は、夜間の天体観測に以下のような道具を使用していました。


中象限儀(ちゅうしょうげんぎ)

恒星の高度を観測するための道具で、1分(1度の60分の1)まで測ることができました。


観星鏡(かんせいきょう)

日食や月食を観測する望遠鏡としても使われ、天体観測の精度向上に役立ちました。


伊能忠敬は、昼夜を問わず精密な測量を続け、17年もの歳月をかけて、現代の地図と比較しても驚くほど正確な日本地図「大日本沿海輿地全図(伊能図)」を完成させました。

GPSなどのない時代に、このような偉業を成し遂げたことは、彼の並外れた熱意と技術力のたまものと言えるでしょう。





1808年(文化5年)の時代区分



1808年は、江戸時代の後期、元号でいうと文化5年にあたります。

時代区分:

江戸時代後期



当時の社会情勢:

第11代将軍・徳川家斉の治世です。この時期は「文化・文政時代(化政文化)」と呼ばれ、江戸を中心に町人文化が華やかに栄えた一方、北方ではロシアの南下などの外圧が高まり、幕府が沿岸警備を強化し始めた時期でもあります。



測量の背景:


伊能忠敬がこの時期に四国を測量していたのは、幕府から「国防」の観点で正確な海岸線図を求められていたためです。




 「六ツ半」は何時か?


江戸時代は日の出と日の入りを基準にする「不定時法」のため、季節によって時間が変動します。


碑文にある「11月5日(旧暦)」を現代の暦に換算すると12月22日頃(冬至付近)にあたります。


冬の時期の「六ツ半」は以下の通りです。

明けの六ツ半: 午前7時頃

暮れの六ツ半: 午後5時頃


碑文に「朝」「引田村出立」とあるため、この場合は午前7時頃を指します。


補足:
冬の朝7時はまだ薄暗い時間帯です。伊能忠敬一行は、朝日が昇るのとほぼ同時に船を出し、碁浦(ごのうら)へと向かったことが読み取れます。



碁浦御番所の役割



碁浦御番所 は、まさにこのような幕府の重要任務(測量)を遂行する一行を迎え入れ、検問や宿泊の世話などを行う現地の責任ある立場にありました。


伊能忠敬は、1808年の冬の朝、午前7時に隣村を出た測量隊が数時間後に碁浦へ上陸し、その夜に「此夜 晴天 測量(今夜は晴れたので星を観測した)」という日記に残された情景をイメージすると感慨深いものがあります。








・碁浦御番所が建っていた辺り






碁浦御番所跡地



・下記地図の黄色部分に碁浦御番所があった。青色部分に伊能忠敬上陸地点に碑がある。白の点線が香川県と徳島県の県境。

1808年11/5に碁浦港に到着し、現在もある細い小道を登り碁浦御番所を訪れました。御番所では八田家当主 八田孫太夫が伊能忠敬を迎えました。


・碁浦御番所跡地


・国道11号線建設のため取り壊された碁浦御番所。




【讃岐秘話】1641年、生駒家改易後の阿波と讃岐の国境争議の裏側: 阿波側証人 八田孫兵衛の主張は? 八田孫太夫の先祖覚え書きから読み解く国境決定の経緯 (鳴門市史 上巻)


八田家歴代当主

元祖  八田孫兵衛
二代目 八田 傳兵衛(はった でんべえ)
三代目 八田 傳兵衛(はった でんべえ)
四代目 八田孫太夫
五代目 八田孫太夫
六代目 八田孫太夫
七代目 八田孫太夫
八代目 八田孫太夫
九代目 八田孫平

八田家は、1641年から1872年(明治5年)に御番所が廃止されるまで231年間、9代に渡って碁浦御番所役人を世襲した。





・伊能忠敬上陸地点碑の横の道を下ると鳴門市北灘町碁浦漁港がある。伊能忠敬は碁浦港で下船し、この道を歩いて碁浦御番所を訪れた。









・碁浦漁港

















【松浦武四郎】約200年前に19才で四国遍路を廻った北海道の名付け親。 「四国遍路道中雑誌」を記す。 香川と徳島の境にあった碁浦番所で緊張の中、手形改めを受けた。





鳴門市北灘町大須駐車場にある伊能忠敬上陸地の石碑と碁浦御番所跡碑



・碁浦漁港から東へ約800mに大須駐車場がある。



・伊能忠敬上陸地の石碑









・碁浦御番所跡碑














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以上

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