【讃岐秘話】讃岐の隠密: 幕末期、なぜ高松藩 森家と徳島藩 八田家はわざわざ藩を跨いで婚姻を結んだのか?
こんにちは。
トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ)です。
今回は、幕末期に藩を跨いで結婚した高松藩 森家と徳島藩 八田家の背景についてです。
江戸時代、藩の地政学上の機密情報を持つ高松藩の森家と徳島藩の八田家の両家が藩を跨いで婚姻を結んだのは、非常に大きなリスクを伴うことでした。
しかし、その裏には、幕末という激動の時代において、両藩が生き残るための「特命の情報網」という、極めて戦略的な理由が存在していました。
・瀬戸内海沿いの高松と東かがわ市馬篠 (高松藩 森家)と鳴門市北灘町碁浦 (徳島藩 八田家) の位置関係


藩を跨いだ婚姻のリスクとその背景
江戸時代においては、通常、武士の藩を跨いでの婚姻は情報漏洩のリスクがあるため厳しく制限されていました。
しかし、19世紀半ばの幕末の混乱期には、そのリスクを上回る必要性がありました。
高まる情報への渇望
ペリー来航以降、外国船が瀬戸内海を行き交い、薩摩藩や長州藩などが倒幕を企てるなど、日本の情勢は非常に不安定でした。
高松藩松平家は徳川将軍家と血縁関係のある「親藩」として、西国の外様大名の監視役という重要な役割を幕府から任されていました。
特に外様大名である隣国の徳島藩蜂須賀家の動向は、高松藩の存続に関わるほどの重要性を持っていたのです。
・1853年のペリー来航以降、瀬戸内海に外国船が往来するようになり各藩は海防を強化し、海岸線に大筒台場などを設置した。

・高松藩の海防施設。東かがわ市馬篠近くの小磯には大筒台場が設置されていた。

・江戸時代の四国の各藩。讃岐高松藩は親藩で外様大名を監視する役目を担っていた。高松藩に隣接する徳島藩 蜂須賀家、丸亀藩 京極家は外様大名だった。土佐藩の山内氏も外様大名。

高松藩と徳島藩
高松藩の役割:
幕末の元治元年(1864年)頃、高松藩は幕府から西日本諸藩の動向を監視する役割を担っていました。
特に、阿波と淡路を領し、藍の栽培をほぼ独占し、四国一の石高を持つ徳島藩 蜂須賀家の監視を強める必要がありました。徳島藩は藩内で倒幕派と佐幕派が対立する非常に緊張した状況にありました。
・元治元年 (1864年)に高松藩普請方の森義右エ門の長男 森喜平と徳島藩 碁浦御番所役人 八田家当主の長女 八田キヨは藩を跨いで婚姻を結んだ。

補足: 幕末期、高松藩は隣接する徳島藩(阿波藩)の動向を注視し、積極的に情報収集を行っていました。
1864年(元治元年)頃は、京都の政局が「禁門の変」などで激しく揺れ動いていた時期であり、隣接する藩の政治的立場や軍事的な動きは、自藩の安全保障に直結する最重要情報でした。
高松藩が徳島藩の動向を注視した理由:
地理的な隣接:
高松藩と徳島藩は国境を接しており、隣国の動向は地政学上、常に警戒すべき事項でした。
幕末の緊張関係:
この時期、藩は倒幕派と佐幕派への明確な二極化が進みつつありました。高松藩は徳川家の一門(松平家)が治める親藩(佐幕派)であり、藩主も基本的には佐幕派の立場を堅持していました。
対する徳島藩は、藩主が将軍家と血縁関係にあり、藩としては幕府寄りでしたが、藩内には家老である稲田家(淡路洲本城代)を中心に新政府(倒幕側)に接近する動きがあり、不安定な状態でした。
自藩の保身と防衛:
佐幕派である高松藩にとって、隣の徳島藩が倒幕側に傾く、あるいは藩内の対立が激化して戦乱状態に陥ることは、自藩の領内に影響が及ぶ可能性を意味します。
そのため、徳島藩がどの勢力と結びつこうとしているのか、藩内の権力構造がどうなっているのかといった情報は、高松藩の存続に関わる重大な情報として、常に監視する必要がありました。
また、この頃、四国の土佐藩は倒幕派に傾きつつありました。
徳島藩と蜂須賀家:
徳島藩の蜂須賀家はかつて豊臣氏の家臣であった外様大名であり、江戸時代後期には徳川家斉が22男を蜂須賀家の養子にするなど、幕府による介入をするほど、その動きは注視されていました。
公的な情報交換の困難さ
このような状況下で、高松藩と徳島藩が互いの情報を強く欲していたことは明らかです。
しかし、公的なルートでの情報交換は難しく、また信頼性にも限界がありました。
そこで、婚姻という血縁関係を通じて、非公式ながらも信頼性の高い情報チャネルを構築する必要がありました。
森家と八田家の戦略的役割
森家と八田家は、それぞれ高松藩と徳島藩において、機密情報を掌握する重要な立場にありました。
森家の背景
森家は阿波水軍の系譜を引く一族で、海路を介した隠密的な活動に長けていました。
高松藩内では普請方(土木工事などを担当する役職)や海防拠点である小磯の大筒台の警備に関わるなど、地理的・軍事的な機密情報を掌握していました。
・1583年の引田の戦いでの森権平久村の死後、長宗我部元親軍の追撃を避ける為、馬篠の山奥の未開の地を開拓して身を潜めた高松藩 森家

・阿波水軍森家の家紋は木瓜、分家にあたる高松藩 森家の家紋は、丸に木瓜。高松藩森家の墓石や屋根瓦などに丸に木瓜の家紋が見られる。


高松藩 森喜平の孫のインタビュー記事
・森喜平と八田キヨの孫、明治生まれの森トメノの神戸新聞のインタビュー記事: 昭和39年、神戸新聞の元論説委員の古山桂子さんから定年前にインタビューを受けた際の記事。
記事内容は、武家のしつけ、阿波浄瑠璃の三味線が上手かった祖母(八田キヨ)、大正から昭和にかけて英語を使い旧神戸オリエンタルホテルで長年働いていた経験、警察官との結婚、2.26事件時の勤務、川島芳子の宿泊、神戸大空襲で自宅は全焼するも夫婦共に生き延びた体験、GHQ宿舎での勤務など。春になると八田キヨが三味線を弾きながら、舟に乗って瀬戸内海に浮かぶ近くの島に渡り、花見をしていた思い出が書かれている。


八田家の背景
八田家は、徳島藩の藩境にある要衝、碁浦御番所の役人兼庄屋を200年以上にわたって代々務めてきた家柄です。
このため、海上交通や民間レベルの情報など、徳島藩の機密情報を集める最前線にいました。
・碁浦御番所 八田家

・碁浦御番所(角川日本地名大辞典)

・碁浦御番所 八田家文書

婚姻による情報網の構築
高松藩は森家を通じて、徳島藩の、特に海上防衛や藩境の監視に関する機密情報を収集しようとしました。
一方で徳島藩側も、高松藩の軍事情報や幕府の動向を森家から得るメリットがあったと考えられます。
「藩を跨ぐ特命の情報網」
高松藩の森喜平と徳島藩の八田キヨとの結婚は、単なる縁組ではなく、高松藩が森家に与えた「特命」であり、両藩の情報戦における極めて巧妙な一手であった可能性が高いと言えます。
外様大名の監視役という高松藩の親藩としての責務と、幕末の緊迫した情勢の中で、森家は海と陸、そして表と裏の両方で重要な役割を担っていました。
この婚姻は、緊迫した時代背景の下で構築された「藩を跨ぐ特命の情報網」であり、両藩の存続に関わる極めて重要な戦略であったと言えるでしょう。
なぜ隠密的な活動をしたのか?
森家がこのような隠密的な活動を担った背景には、以下のような理由が考えられます。
阿波水軍時代からの経験
阿波水軍としての経験から、地形把握、潜入、奇襲、情報収集といった特殊な技能を有していた可能性があります。
地理的優位性
馬篠の山奥という人里離れた場所に居住し、海に近いため、人目を避けつつ水上からの情報収集や脱出が容易にできました。
藩からの信頼と特命
藩主が小磯の大筒台を見回りに来た際は、森家が接待をしたという事実は、藩主が森家を信頼し、秘密裏に重要な任務を命じていたことの証左です。
このように、森家は東かがわ市馬篠の地で、藩境の要衝、海防、そして他藩の監視という複数の重要な役割を、隠密として秘密裏に果たしていました。

森家と八田家の婚姻の理由
藩境というデリケートな場所での結婚が成立した背景には、両家の持つ地政学上の重要性と、その密接な連携の必要性がありました。
八田家の重要性と情報収集
八田家は、200年以上にわたり碁浦御番所役人を務めてきた家柄です。
碁浦番所は、阿波国(徳島藩)と讃岐国(高松藩)の藩境に位置し、通行人の監視、治安維持、そして何よりも国境を越える人や物の情報の収集、管理を担う重要な役所でした。
八田家は代々、この地で地政学上の機密情報を保持しており、徳島藩にとって欠かせない存在でした。
1585年の国境画定における役割
1585年に阿波と讃岐の国境が画定された際には、八田家が重要な役割を果たしました。これは、彼らが国境地帯における地理的知識や地域の状況に関する深い理解を持っていたことを示唆しています。
森家の技術と影響力
高松藩森家は阿波水軍をルーツに持ち、高度な土木技術と海の知識を持っていました。彼らは高松藩の普請方(土木工事などを担当する役職)として、陸海の開発や防衛に関わる重要な役割を担っていました。
婚姻の戦略的意義
藩を跨いだ婚姻は通常、慎重に行われるものであるため、森家と八田家の結婚は、両藩の合意があったと考えるのが自然です。
地政学上の機密情報を持つ碁浦御番所役人と普請方の両家が独自の判断でわざわざリスクを冒してまで藩を跨いで婚姻はしません。
機密情報の共有と連携
八田家が持つ地政学的な機密情報と、森家が持つ技術や軍事的な背景を組み合わせることで、両藩は藩境の防衛や管理をより効果的に行うことができたと考えられます。
婚姻を通じて、非公式ながらも情報の共有や連携を円滑に進める狙いがあったのかもしれません。
地域の安定化
藩境は常に緊張関係をはらむ場所です。有力な家柄同士が婚姻関係を結ぶことで、その地域の安定化を図るという政治的な意図もあったと考えられます。
補足: 四国主要藩の石高と伊予国の藩構成
江戸時代初期から中期にかけての四国主要藩の石高は、藩主の家格や領地の広さを示す重要な指標でした。
四国では外様大名 蜂須賀家の徳島藩が25万7千石を誇っていました。

1. 四国の各藩の石高と藩主
徳島藩(阿波国): 現在の徳島県と淡路島など兵庫県の一部を領地とし、石高は概ね25万7千石でした。藩主は外様大名の蜂須賀氏。
土佐藩(土佐国): 現在の高知県を治め、石高は20万2千石でした。藩主は外様大名の山内氏です。
讃岐国(現在の香川県): 讃岐国には複数の藩が存在しました。
中心となる高松藩は石高12万石で、藩主は松平氏(讃岐高松藩)でした。
西部の主要な藩として丸亀藩があり、石高は5万1千石でした。藩主は外様大名の京極氏。
丸亀藩の支藩として設立された多度津藩も存在し、石高は1万石でした。
2. 伊予国(愛媛県)の藩構成
愛媛県の地域に相当する旧伊予国についてですが、「伊予藩」という名称の単一の藩は存在しませんでした。伊予国は江戸時代を通じて、複数の藩に分割されて治められているのが特徴でした。
愛媛県は主要な藩だけでも以下の通り、複数の藩が存在していました。
松山藩:伊予国最大の藩で、石高は15万石、藩主は松平氏でした。
宇和島藩:石高は10万石、藩主は伊達氏でした。
大洲藩:石高は6万石、藩主は加藤氏でした。
新谷藩:大洲藩の支藩として、石高は1万石でした。
今治藩:石高は3万5千石、藩主は松平氏でした。
西条藩:石高は3万石、藩主は松平氏でした。
小松藩:石高は1万石、藩主は一柳氏でした。
これら複数の藩の石高を合計すると、伊予国全体の石高は40万石強に達し、多くの大名・小名が分立しているのが特徴でした。
瀬戸内寂聴さんの先祖はなぜ東かがわ市に住んでいたのか? 讃岐に潜んだ阿波水軍の末裔:高松藩 森家の出自と幕末の特命婚姻
著者のプロフィール
森啓成 (モリヨシナリ)
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。
大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事(北京オフィス所長)。
その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。
アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。
現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。
観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。
【保有資格】
英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド (瀬戸内国際芸術祭2019公式ガイド)
【メディア・研修実績】
香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載。
瀬戸内海放送(KSB)及び岡山放送(OHK)ニュース番組コメント。
観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。
四国運輸局事業コンサルタント、 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験の面接官を務める。
・香川県登録通訳案内士サイト
・座右の銘は「雨垂れ石を穿つ

・全国通訳案内士登録証 英語

・全国通訳案内士登録証 中国語

・香川せとうち地域通訳案内士登録証 中国語

・四国遍路通訳ガイド協会会員証

・観光庁インバウンド研修認定講師

・直島の地中美術館、ベネッセハウスミュージアムを設計した安藤忠雄さんにお会いした際に書いて頂いたサインと「光の教会」

以上
