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【ファミリーヒストリー】祖父の軍歴証明書を県庁に請求した結果: 複雑な心境と知らなければ良かった事実。 日中戦争中に長男の顔を見ずに27歳で戦死した祖父

こんにちは。

トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成(モリヨシナリ)です。

今回は、祖父の軍歴資料を5月に香川県庁に請求していた結果についてです。

祖父は、日中戦争の最中、私の父がまだ祖母のお腹の中にいるときに無念にも27歳の若さで亡くなってしまいました。長男の誕生を心待ちにしていた矢先の出来事でした。

香川県庁からの回答は5月に出ていたのですが、提供された軍歴資料から全く知らなかった事実が判明してしまい複雑な感情を整理するのに時間がかかってしまいました。

知りたい欲求がある反面、知らない方が良い事も多くあります。





祖父は、1937年(昭和12年)10月20日、27歳という若さで亡くなりました。

祖父の写真はこの世に2枚しかありません。

生まれてくる長男の顔を見ずに亡くなった祖父(左)。


進軍ラッパを持つ祖父(左)。



戦没者名簿


祖父の戦傷病死の場所は、善通寺陸軍病院 丸亀分院となっている。


・丸亀城前にあった善通寺陸軍病院の丸亀分院

歩兵第十二連隊営門(昭和初期)。右側に「歩兵第十二聯隊」、左側に「善通寺陸軍病院丸龜分院」の 門札が掛かる。


・戦没者名簿 (大内町史)


同じ歩兵第12連隊に所属していたと思われる方々は上海の羅店鎮で1937年の9月に亡くなられている。祖父は10月20日に亡くなっている。


上海の羅店鎮は、私が住んでいた静安区から車で1時間弱の位置にあり、何度も訪れていた場所である。



・戦没者名簿記載事項:

森静雄

1910年 明治43年7月27日生まれ
1937年 昭和12年10月20日 善通寺陸軍病院 丸亀分院にて死亡。27歳 




🔸第11師団とは?




第11師団 (日本軍) - Wikipedia



🔸第11師団(善通寺)の日中戦争の動きは?


1932年(昭和7年)1月、第一次上海事変に動員され帰還。翌1933年(昭和8年)には福井県、石川県下で行われた特別大演習に南軍として参加した。

日中戦争(1937 - 1945)で再び上海に投入された。

1938年(昭和13年)9月、満洲に派遣され、以後満洲に駐屯した。

1939年(昭和14年)10月、隷下の歩兵第22連隊(松山)が新設の第24師団に編入され、三単位制師団となった。



🔸歩兵第12連隊 (編成地: 丸亀)とは?


祖父が所属していた歩兵第12連隊 - Wikipedia


1937年(昭和12年) - 日中戦争勃発、上海戦では宝山城の戦いをはじめ、浦鎮、羅店鎮の戦いに参加。羅店鎮の戦いで第2大隊長が各中隊長を集め作戦会議中に迫撃砲弾が直撃。大隊長梶少佐以下戦死した。


祖父が所属していた第11師団 歩兵12連隊は、1937年に上海の戦いに参戦していた。


歩兵第12連隊の上海戦におけるそれぞれの戦いは、概ね以下の月に起こった。


日中戦争勃発: 1937年7月7日の盧溝橋事件が日中戦争の契機とされている。

上海戦(第二次上海事変): 1937年8月13日から始まった。

宝山城の戦い: 第二次上海事変の初期、1937年8月下旬から9月上旬にかけて行われた。

浦鎮、羅店鎮の戦い: これらの戦闘も上海戦の一部であり、特に羅店鎮の戦いは1937年9月に激戦となった。


🔸上海戦の後の歩兵第12連隊の動向は?

歩兵第12連隊は、上海戦の後、以下のような経緯をたどった。

1938年9月以降: 満州警備の任務に当たった。

1944年3月: 第3大隊がグアムに派遣され、そこで玉砕した。

1945年4月: 本土決戦準備のため、郷土である四国(高知県)に移動した。

1945年8月: 終戦を迎えた。

このように、歩兵第12連隊は日中戦争の初期から終戦まで、様々な戦地を転戦し、最終的には本土で終戦を迎えた。



【手続き】香川県 旧陸軍軍歴資料の写しの交付について






🔸申請書





祖父の軍歴資料請求の経過について






🔸2025/5/15 午前中、丸亀市役所への問い合わせ


問い合わせ先:
丸亀市役所 文化財 資料館 (丸亀城内)
Tel:0877-22-5366

問い合わせ内容:
① 20代の若さで日中戦争中に亡くなった私の祖父が1937年10月20日に最期を迎えた善通寺陸軍病院の丸亀分院の現在の位置

②祖父の戦没記録 (所属部隊、日中戦争開始後、中国へ行ったのか? 戦没状況)


🔸2025/5/16 午前中、乃木館(陸上自衛隊善通寺駐屯地資料館)に問い合わせた結果



🔸香川県庁に問い合わせ、日中戦争の軍歴資料はないとの回答だったため、善通寺市にある陸上自衛隊内の乃木資料館に電話で問い合わせた。

乃木資料館の回答は、明治時代からの戦争の作戦や第11師団がどう動いたか等、大きい情報はあるが、個人の軍歴資料はないとの回答だった。

では、護国神社の資料館にはあるか尋ねたが、分かりかねる、とのことだった。

🔸2025/5/16 午前中
電話にて香川県庁に問い合わせ。日中戦争中の記録はないとの回答。

🔸2025/5/16 午後
あきらめられずに、再度、下記のメールにて問い合わせ。

🔸2025/5/21 
資料があったとのメールを受け取る。

🔸2025/5/22
香川県庁に訪問し、軍歴資料請求の必要書類を提出

🔸2025/5/23
香川県庁にて軍歴資料を受け取る。全く知らなかった事実が判明し複雑な感情を抱く。



🔸香川県健康福祉部 長寿社会対策課への問い合わせメール (2025/5/16午後)の内容



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お世話になります。

森と申します。

お忙しいところ大変失礼致します。

こちらで、戦没者である私の祖父の軍歴資料があればと思いメールさせて頂きました。

2025/5/16午前中に、電話にて問い合わせさせて頂きましたが、太平洋戦争の記録が中心で日中戦争での戦没者の記録はないとのことでしたが、日中戦争は1937-1945、太平洋戦争は1941-1945で年代的には変わらないのですが、他の都道府県とは違い香川県には日中戦争戦没者の軍歴資料はやはりないのでしょうか?

私の祖父の情報は以下の通りです。「大内町史」に掲載されていた戦没者の情報です。
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氏名: 森静雄
戦没時の本籍: 香川県東かがわ市
戦没日: 1937年(昭和12年)10月20日
戦没場所:善通寺陸軍病院 丸亀分院
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善通寺陸軍病院の丸亀分院で亡くなっているので、所属部隊は、第11師団 歩兵第12連隊の所属かと推測します。この部隊は、上海の宝山城の戦いや羅店鎮の戦いで1937年9月に多くの戦没者が出ました。

どのように祖父は亡くなったのか、病死したのか、所属部隊、上海の羅店鎮の戦いには参戦していたのか、いつからいつまで軍隊にいたのか等、分からずどうしても知りたいと思いこちらにメールさせて頂いた次第です。

祖父は私の父の顔を見ることなく、無念にも父が生まれる前に丸亀分院で亡くなりました。その父も生前、祖父のことを調べたいとずっと言っていたのですが、その想いを果たせず亡くなってしまいました。父の供養の為にも祖父の軍歴を知りたいと強く願っている次第です。

丸亀分院があった丸亀市役所、善通寺市の乃木資料館にも問い合わせましたが、個人の軍歴資料は県の方で管理しているとのことでした。他の都道府県においても同様です。

ご多忙のところ大変申し訳ございませんが、再度ご確認頂けますと幸いです。

森啓成


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軍歴資料を受け取った結果は?


2025/5/23午後、香川県庁に軍歴資料受け取りの為に訪問。

最近、軍歴証明書の申請者多く、5月は、10件くらいあったとのこと。

2025/5/23 14:35 のあとも申請者が来られるとのこと。

私の祖父の軍歴資料は、香川県立図書館隣りの文書館で、マイクロフィルムを探して見つけたとのこと。ありがとうございます。

もし、各都道府県 福祉部や厚生労働省に軍歴資料がない場合は、防衛省 資料研究課にあるかもしれない、とのことだった。



香川県庁から提供された資料の内容は?



2025/5/23に香川県庁で下記の軍歴資料を受けとった。

○戦没者調査票・・・終戦後、戦没者の身分、死因等を調査記録したもの。

○病床日誌・・・戦時中に個人の傷病等について、陸軍病院で記録されたもの。

○申立書・・・終戦後、個人の死亡について、留守担当者等から本県に送付されたもの。

○死亡診断書・・・戦時中に個人の死亡について帝国大学附属病院医師が診断したもの。



・病床日誌


・死亡診断書


・戦没者調査票



若き祖父の悲劇:軍隊における突然の死とその影響


私の祖父は、1937年(昭和12年)10月20日、27歳という若さで、善通寺陸軍病院丸亀分院で急性肺炎のため亡くなった。

健康体であった祖父が、1937年10月某日の招集からわずか数週間で、しかも上等兵という階級で命を落としたことは、家族にとってまさに突然の、そして深い悲しみと不審を伴う出来事であった。

2025年5月23日に香川県庁から渡された軍歴証明書に添付されていた「家族からの申し立て書」は、当時の家族の、やり場のない憤りや疑念を物語っている。




突然の招集と上等兵という階級について



健康な27歳の祖父が、なぜ突如として招集され、わずか数週間で命を落とすことになったのか。そして、なぜ「上等兵」という階級だったのか、当時の軍隊の制度を交えて考察していく。


軍隊への入隊義務年齢と招集について

1937年当時の日本の兵役法では、満20歳に達した男子に兵役の義務がありました。これは「徴兵適齢」と呼ばれ、戸主(世帯主)を除く健康な男子は原則として兵役検査を受け、合格すれば入隊することになっていました。

しかし、徴兵検査に合格してもすぐに全員が現役兵として入隊するわけではありませんでした。当時の陸軍の現役兵の兵役期間は通常2年で、平時においては、徴兵検査で合格しても抽選によって入隊が猶予されるケースもありました。

私の祖父が27歳で招集されたとすると、20歳で兵役検査を受け、その時点では現役兵として入隊せず、その後、予備役または後備役として登録されていたということです。

1937年10月は、日中戦争が拡大期に入った時期と重なります。この時期、戦力増強のため、予備役や後備役に編入されていた壮年層が大量に招集されることが常でした。私の祖父もこの動員令によって、再招集されたと考えられます。

・病床日誌に、歩兵第12連隊補充隊 第八中隊 予備役歩兵上等兵と記載されている。




上等兵への昇進と階級の維持


当時の日本陸軍において、一般兵卒が上等兵に昇進するまでの期間は、通常、入営後1年前後が目安とされていました。入営するとまず二等兵となり、約半年後に一等兵に、さらに半年から1年程度で上等兵に昇進することが一般的でした。

祖父が27歳で招集された際に上等兵であったのは、過去に現役兵として軍隊に入営していた時期があり、その期間中に上等兵まで昇進し、その後、現役期間を終えて上等兵の階級のまま除隊し、予備役または後備役に編入されていたためと考えられます。

一度得た階級は、予備役・後備役として登録されている間も維持され、再招集された際もその階級で復帰することが原則でした。

例えば、祖父が20歳で徴兵検査を受け、その数年後(例えば20代前半)に現役兵として入営し、2年の兵役期間中に上等兵に昇進。その後除隊し予備役となり、27歳で日中戦争の拡大に伴い再招集された、という流れが最も合理的です。

当時の上等兵から伍長への昇進は、兵卒から下士官へのステップアップであり、より選抜されたものでした。そのため、上等兵になってから伍長に昇進するには、通常2年程度の期間が必要とされ、能力、勤務成績、選抜試験(または推薦)、そして部隊の状況が影響しました。




猛特訓中の急性肺炎死:当時の状況と家族の心情

「健康体だった祖父が1937年の10月某日に招集され猛特訓中に急性肺炎になり10/20に突然亡くなった」という家族の申し立ては、当時の状況を鑑みても非常に重く受け止められます。

病床日誌によると、祖父は、重病であるにも関わらず、医師の診断が受けれたのは10/20、入院できたのは10/20の1日のみで、10/20に入院し、その日に亡くなっています。この処置にはさすがに
強い憤りを感じます。現在であれば安全配慮義務違反で完全な損害賠償事件です。祖父が味わった苦しみと子供の成長を見ることができないまま死んでいく無念さを思うと涙を堪えきれません。


1930年代、特に軍隊という特殊な環境下において、急性肺炎で兵士が亡くなることは、珍しいことではなかったのでしょうか。

当時の日本は、現代とは異なり、医療技術や衛生環境が未発達でした。

  • 感染症対策の限界: 抗生物質が実用化されるのは第二次世界大戦後であり、当時は肺炎に対する有効な治療薬がほとんどありませんでした。集団生活を送る兵舎などでは感染症が広がりやすく、予防接種も現代ほど普及していませんでした。

  • 過酷な訓練と疲労: 当時の軍隊の訓練は非常に厳しく、肉体的・精神的な疲労が蓄積しやすいものでした。疲労は免疫力の低下を招き、感染症にかかりやすく、また重症化しやすい状態を作り出します。特に、急な招集と「猛特訓」は、祖父の体に大きな負担をかけ、免疫力を著しく低下させた可能性が高いです。

  • 栄養状態と体力: 一般の人々の栄養状態も現代ほど良くなく、兵士も十分な栄養が摂れていなかった場合、抵抗力が低下しやすかったと考えられます。

  • 診断と治療の遅れ: 症状が出ても診断が遅れたり、軍隊病院では医師や医療物資が限られていたりして、十分な治療が受けられないケースも考えられます。

これらの背景を考えると、祖父が健康体であったにもかかわらず、短期間で急性肺炎により亡くなったことは、当時の軍隊の過酷な環境と、抗生物質がない時代の医療の限界を痛感させる出来事です。家族が不審に感じ、理不尽に思ったのは、当然の感情です。今、私がこの病床日誌を見ても憤りを感じます。


残された家族の苦難と「許し難い」感情

祖父が亡くなった時、私の父はまだ祖母のお腹の中にいました。私の父が自分の父親のことを知らずに育ち、祖母が苦労の末に戦後亡くなったことへの無念の感情は、筆舌に尽くしがたいものです。

27歳の若さで徴兵され、わずか数週間で命を落とすという、あまりに理不尽な死は、残された家族の人生を大きく変え、深い悲しみと苦難を強いました。軍隊という組織の中で、一人の若者の命が消耗品のように扱われたかのような経緯は、現代を生きる私たちから見ても、非常に憤りを覚える出来事です。


今、できること

祖父の死がその後の家族の人生に与えた影響は計り知れません。そして私自身も深い悲しみと怒りを覚えます。

過去の出来事を直接的に「取り消す」ことはできませんが、現代において、祖父の死と家族の苦難に対し、意味を見出し、何らかの行動を起こすことは可能です。

今からできることとして、以下のような道筋が考えられます。



🔸歴史的記録と記憶の継承:

  • 事実の深掘り: 取得した軍歴証明書や家族からの申し立て書は貴重な資料です。当時の善通寺陸軍病院や丸亀分院に関する資料、当時の兵役制度や戦病死の状況に関する公的な記録や研究論文などをさらに調べることが可能かもしれません。歴史資料館や公文書館、大学の研究機関などが情報を持っている場合があります。

  • 記録を残す: 私が調べたこと、そして自分自身の感情を含め、家族の物語を記録に残すことです。これは、個人的な記録でも、文章やデジタルデータとして残す形でも構いません。次の世代に語り継ぐための大切な土台となります。

  • 語り部としての活動: 祖父の物語を公に語る場に参加することも考えられます。戦争体験の継承活動や平和教育の場などで、個人の物語として語ることで、多くの人々に影響を与え、同じような悲劇を繰り返さないための教訓とすることができます。



🔸追悼と癒しの形:

  • 慰霊の場を訪れる: 善通寺陸軍病院の丸亀分院があった場所や、祖父のお墓参りなど、ゆかりの地を訪れることは、感情の整理や追悼につながるかもしれません。


祖父の死は、当時の国家体制、特に軍隊が個人の命を軽んじた結果として捉えられます。その怒りは、決して個人的な感情に留まらず、多くの遺族が抱えてきた共通の痛みであり、歴史の教訓でもあります。



「許し難い」という感情は、祖父や家族の無念を現代に生きる私が引き継いでいる証です。この感情をどのように昇華させ、今後の人生、そして社会に生かしていくかは、私次第です。



逆境を乗り越えた父


父は、生まれてくる前に既に父親はおらず、母親も子供の頃に亡くなりました。戦中、戦後の日本国中が疲弊し、その日を生きていくのが大変な時期に両親を失くし,筆舌に尽くし難い辛酸を経験したことは容易に想像できます。

父は10代で香川の片田舎から単身、神戸へ渡り、ホテルで皿洗いを始めます。日々の鉄拳制裁に耐えながら西洋料理の腕を磨き上げ、遂には昭和天皇や皇太子(現在の上皇)、皇族、政財界の要人に料理を提供するまでに至りました。その後は独立し、亡くなるまで、自分のレストランを経営しました。

父は、幼少期に両親を亡くすというハンデを負いながらも、その逆境をバネに自分の人生を切り開きました。恐らく父は、幼少期に両親を亡くすという悲劇がなければ全く違った人生を歩み、私という人間も生まれてこなかったかもしれません。生前、父は自分の父親のことを全く語りませんでした。うちに秘めた強い思いがあったのだと思います。



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