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【讃岐秘話】細川京兆家に仕えた永塩因幡守氏継と長塩元親の子孫たちの行方! 摂津国守護代を歴任した長塩家の面々! 長塩家から永峰家が生まれる迄の激動の軌跡

こんにちは。

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トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成(モリヨシナリ)です。

今回は、室町時代に細川京兆家に仕えた永塩因幡守氏継(細川勝元家臣)と長塩元親(細川政元家臣)の子孫の行方についてです。

長塩(永塩)家は細川京兆家が守護を務める摂津国の守護代を歴任しました。その長塩家がどのような経緯で、いつ頃、讃岐・黒羽(くれは)に移住してきて改姓・帰農したのか、永峰家の起こりについて詳しく考察していきます。

ずひ最後までお付き合いください。







宿命の転換点:永塩因幡守氏継と応仁の乱



永峰(永塩)一族の精神的支柱である永塩因幡守氏継(ながしお・いなばのかみ・うじつぐ)は、室町幕府の管領・細川勝元の重臣でした。


細川勝元




永塩因幡守氏継は、室町時代、細川家の領地だった讃岐の黒羽に派遣されます。




讃岐の寒川氏など有力国人武士団の監視役、そして阿波讃岐間の警備役として讃岐と阿波の境界地の要衝である現在の東かがわ市黒羽(くれは)に派遣されたのです。

永塩因幡守氏継は黒羽で黒羽城を建て居城としました。1467年の夏頃には、黒羽神社を創建しました。

黒羽城は黒羽神社の北東、地元では”古城(ふるじろ)”と呼ばれた水路に囲まれた場所にあったと推測されます。また永塩因幡守氏継が住んだ屋敷は瀬戸内海に近い場所にあり、地元では”殿屋敷”と呼ばれました。

永塩因幡守は、1467年には歴史を揺るがした応仁の乱(1467年〜)に細川勝元方として最前線にいました。

1467年に安富元綱らと共に京都御所北側の相国寺で壮絶な最期を遂げました。

この出来事は、一族にとって「武功の誇り」であると同時に、中央政治の非情さを刻み込む出来事であったはずです。

この永塩因幡守氏継の献身によって、永塩(長塩)家は細川政権下での確固たる地位(摂津守護代)を確立し歴任しました。長塩家の面々の名前は国宝の東寺百合文書や九条家文書にも出てきます。


🔸細川勝元の所領


🔸戦国時代の讃岐・阿波の勢力図



🔸永塩因幡守氏継とは? 歴史書に残る永塩因幡守氏継の記述


・全讃史、三代物語


全讃史

三代物語


引田町史


黒羽神社創建


黒羽の観音堂の観音像は永塩因幡守氏継が奉納したと伝わる

永塩因幡守氏継が奉納した観音像

現在の観音堂


角川日本地名大辞典




永塩因幡守氏継が1467年に創建した黒羽神社





永峰家の菩提寺 海蔵院 東海寺: 1500年代後半、長宗我部元親軍による焼き討ちで焼失。1583年、引田の戦い、1584年、虎丸城陥落。




絶頂と動乱の予兆:長塩元親の時代




永塩因幡守氏継の跡を継いだ長塩元親は細川政元に仕え細川政権の黄金期を支えました。1507年の細川政元の暗殺後には、1508年、細川高国を支持しました。長塩元親は1515年にも摂津での活動記録があります。


細川家家臣


細川政元




彼が摂津の要職にいたことは、当時の家臣団の記録や国宝の東寺百合文書の記録からも明らかです。



🔸東寺百合文書(国宝)




🔸尼崎市公式サイト


・摂津国守護、守護代

室町時代の守護
三管領・四職とよばれた細川・斯波・畠山・山名・一色・京極・赤松らの諸氏が補任されることが多く、摂津本郡守護は細川氏が独占。

摂津本郡守護細川氏は、管領・右京大夫を歴任する者が多く、京兆家と呼ばれた室町幕府最有力の大名だった。

室町時代の摂津本郡 守護:
細川頼元・満元・持元・持之・勝元・政元・澄元・澄之・高国・稙国・晴元・氏綱・昭元らの名が見られる。


守護代も細川京兆家の有力被官(内衆)から補任されることが多かった。

歴代の守護代:
長塩大郎次郎・奈良又四郎・庄十郎三郎・内藤弾正左衛門尉・長塩備前入道長塩弥次郎・奈良元俊・十河宗善・長塩宗永・香西之長・寺町石見入道・秋葉元明・薬師寺元長・香西元忠・薬師寺長忠・薬師寺国長・三好長慶らの名が見られる。

守護細川家の抗争が尼崎地域を巻き込んだ事例として、享禄年間(1528~1532)の合戦がある。

1530年(享禄3)8月、細川高国らの攻撃に備えて、細川晴元の部将薬師寺国盛が富松城に拠ったが、富松城が落城し、国盛は大物〔だいもつ〕城に入った。

大物城も高国方の手に落ちたが、1531年6月、細川高国は晴元方との合戦に敗れ、尼崎市街に逃げ込み、ついに捕えられ殺害されている。




長塩家歴代の守護代としての活動時期と主君


守護代は入れ替わりが激しく、複数の人物が同時に務める「共同守護代制」の時期もありますが、主な時代背景は以下の通りです。

🔸人名
守護代としての推定活動時期
主君(細川京兆家当主)
時代背景


🔸長塩大郎次郎
1440年代〜1450年代
主君 細川持之・勝元
室町幕府が比較的安定していた時期。


🔸長塩備前入道

1460年代〜1480年代
主君 細川勝元・政元
応仁の乱(1467年〜)の前後。永塩因幡守氏継と同時期か。


🔸長塩弥次郎
1480年代〜1490年代
主君 細川政元
政元が「半将軍」と呼ばれ、権力を掌握した時期。


🔸長塩宗永

1490年代〜1500年代
主君 細川政元
摂津守護代として東寺百合文書等に多く名が登場。


🔸長塩元親

1490年代〜1500年代
主君 細川政元、細川高国
政元の重臣として活動。国宝の東寺百合文書に記述が残る。1515年に摂津での活動記録がある。



・尼崎市公式サイト



・摂津国






🔸細川家家臣団一覧にみる長塩家


https://rangaran.jp/history/list-vassal-hosokawa/


1515年に長塩元親の摂津での活動記録がある。



細川政元の暗殺、細川京兆家の衰退


1507年、長塩元親の主君・細川政元が暗殺され、永塩(長塩)一族が命を懸けて守ってきた「秩序」は崩壊し始めます。

1508年、長塩元親は細川澄元ではなく細川高国に呼応しました。

1531年、大物崩れで細川高国は自害に追いやられます。

この時期から、長塩一族は中央の権力争いから距離を置き、生き残るための「次の一手」を模索し始めたと考えられます。

1549年、三好長慶が細川晴元を京から追い払い、細川京兆家は崩壊、三好家の支配が始まりました。長塩家は摂津での拠点と身分を完全に失ってしまいます。

長塩家は、一族の存続を図る為、永塩因幡守氏継の時代に居住し、縁者がいた讃岐黒羽へ移住します。



🔸細川政元家臣

長塩元親





摂津国守護代 長塩宗永の記述が残る文書


国宝 東寺百合文書




九条家文書

九条家文書二 (第83―109巻) のうち 九条家文書 (巻88・摂津国輪田荘関係文書・3)

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000677780006?index=42429&sort=Title&searchtype=Freeword







細川京兆家の最期、1549年、三谷長慶の下克上







・三好長慶




1549年,三好長慶の台頭により細川晴元は、京を追われ,細川政権は崩壊した。その後各地を流浪,晩年は普門(ふもん)寺(現大阪府高槻市)に幽閉された。






一族の生き残りを賭けた「讃岐・黒羽」への潜伏



1520/1530年?頃の長塩元親の没後、主君の細川京兆家に代わり台頭してきた三好氏、そして織田・豊臣氏の侵攻が続く中、争いを避け長塩一族は細川氏の古くからの地盤であり一族の者が残っていた讃岐の東かがわ市黒羽へ拠点を移していったと考えられます。

1549年、三好長慶により細川晴元が京都を追われ、細川京兆家が終焉を迎えた頃、長塩家は一族の生き残りをかけて讃岐・黒羽に移住したと考えられます。

1500年代後半、讃岐黒羽は、長宗我部軍による引田の戦い(1583年)、虎丸城陥落(1584年)などの攻撃により永峰(長塩)家の菩提寺である海蔵院 東海寺の伽藍は焼失しました。




この頃、長塩一族に究極の選択を下すタイミングが訪れました。

過去の「記録」が物理的に消滅したことは、逆説的に言えば、新領主に対して「長塩(旧勢力)」であることを隠し、「永峰(土着の民)」として生き直す絶好の機会(あるいは強制的な転換)となったのです。


記録がないのではなく、戦火によって奪われ、その後の生存戦略として「語らぬこと」を選んだのがこの空白の本質です。

戦国時代の後半、長塩家は黒羽で帰農して土着し、永峰と改姓したと考えられます。

つまり、長塩元親の1520/1530年頃?の没後から永峰宅本公が生まれた1553年の約20年間の激動期を経て永峰家として新たなスタートを切ったことになります。

永峰宅本公が亡くなった1631年当時は、まさに幕府が「全ての民を寺に紐付ける」ために、寺の再建や檀家の組織化を奨励・強制し始めた寺請制度が確立してきた時期と重なります。


引田町人物史






なぜ長塩家は讃岐の黒羽へ移住したのか?


長塩(永塩)家は、応仁の乱で忠義を尽くした永塩因幡守氏継の血統を長塩元親が引き継ぎ、摂津の要職(守護代クラス)として維持しました。

しかし、長塩元親の没(1520/1530年頃?)から、東かがわ市黒羽で1553年に生まれた永峰宅本(1631年没、享年78歲)までの約20年間、一族は大きな変容を遂げることになります。

東かがわ市黒羽は、阿波との国境に近い山間の地です。なぜ摂津の有力武士の末裔がこの地に現れたのか、以下の経緯が推察されます。




戦略的な帰農:

1549年の江口の戦いで細川氏が三好氏に敗れた後、旧細川家臣の多くは阿波や讃岐に逃れました。

永塩因幡守氏継や長塩元親のような「細川家の重臣」の血筋は、新権力者(三好、豊臣)にとって脅威であり、標的になり得ます。

1549年の細川京兆家の没落後、長塩家は摂津での役職と拠点を失い、永塩因幡守氏継がかつて居住し、一族の者が残っていた讃岐黒羽へ移住したと推測されます。

長塩家は、細川家への忠義を捨てて、下克上で台頭してきた三好家に仕えることを良しとしなかったと考えられます。

長塩家の黒羽移住後、阿波三好家 vs 長宗我部元親軍の抗争が続きました。その間、長塩家の菩提寺であった海蔵院 東海寺は長宗我部元親により焼かれ一帯は戦場と化しました。

1582年の中富川の戦い、1583年の引田の戦い、1584年の虎丸城陥落により、三好家は敗北し、東かがわ市一帯は長宗我部元親軍の支配下となりました。その時、海蔵院東海寺は焼き討ちにあった為、長塩家の記録や墓も焼失したと考えられる。

その後、1585年に、豊臣秀吉軍が長宗我部元親軍を破り、四国統一を成し遂げました。

讃岐は、仙石秀久に続き、生駒親正が治めることとなりましたが、1640年には生駒騒動が勃発し、生駒家は改易となり、松平家が東讃を治めることとなりました。

激動の戦国時代、1553年に永峰宅本は生まれました。

「宅本」という名は、まさに「宅(棲家)」をこの地に定め、「本(根源)」を据え直すという意味が込められていると考えられます。

1500年代後半の激動期に、一族が「長塩(武家)」という公的な身分を捨て、「永峰(農家・地主)」として潜伏・同化したためでしょう。

1631年、宅本の最期:

1631年は、江戸幕府がキリシタン弾圧を強め、全国的に「宗門改」の端緒が開かれた時期です。

宗門改(しゅうもんあらため)とは、江戸時代に幕府がキリシタン(キリスト教徒)を摘発・排除し、民衆の信仰を調査・管理するために設けた制度のことです。

簡単に言えば、「全国民を対象とした宗教調査」であり、後に「戸籍制度(人口調査)」としての役割も持つようになりました。

武士の血を引きながらも、この地で一生を終えた宅本は、かつて応仁の乱で散った永塩因幡守氏継の壮絶な記憶を、静かなる「土地への献身」へと昇華させた「再生の始祖」と言えます。


応仁の乱で壮絶な最期を遂げた氏継の「動」の歴史に対し、黒羽の地で「宅本」を名乗った元祖は、その血脈を絶やさぬための「静」の決断を下しました。



引田町人物史


【経緯】


永塩因幡守氏継(黒羽城主・黒羽神社創建・1467年に応仁の乱で討死)

→ 長塩元親(摂津での絶頂・主君 細川家の没落・1549年、三好家の台頭・摂津での役職と拠点を失う)

→ (三好家 vs 長宗我部家の戦乱・激動の潜伏・改姓・帰農)

→ 元祖 永峰宅本(1553-1631: 黒羽での定着)




十河氏系三谷家の黒羽への移住


長塩家が帰農した1500年代後半の同じ頃、1584年の虎丸城陥落後には十河氏系三谷家の三谷景則が黒羽に来て帰農し定住しました。この黒羽の三谷家宗家からは瀬戸内寂聴さんや引田町会議長らが出ています。


三谷一族は黒羽で定着し、江戸時代には製糖業などで繁栄していきましたが、笠置シヅ子さんもこの黒羽の三谷家の生まれです。笠置さんは、生後間も無く大阪の亀井家(元は引田)の養子となりました。

笠置シヅ子さんの家の屋号は黒茂といい、分家の孫黒茂は今も讃岐和三盆の製造を続けています。

曽祖父 三谷四郎兵衛

祖父 三谷栄五郎

父 三谷陳平 谷口鳴尾

子 笠置シヅ子(亀井静子)








🔸引田町人物史


・黒羽 三谷宗家系図

景行天皇→神櫛王→讃岐国造→讃岐氏→植田氏→三谷家(本拠地:高松市三谷町、三郎池東側に三谷景晴、景久の墓所が残る。居城は三谷城、王佐山城) → 三谷景則 (1584年、虎丸城陥落後、黒羽へ移住)

引田町人物史


・高松市三谷町に三谷家居城の三谷城、王佐山城があった。三谷家は植田氏から分かれた(十河、神内、三谷)。


・1584年、虎丸城陥落後、三谷景則の代に黒羽へ移住。三谷甚六家が瀬戸内寂聴さんの先祖

引田町人物史


・三谷甚六家は江戸時代、製糖業で栄えた。瀬戸内寂聴さんの祖父の三谷峰八さんの代にいろいろとあり、寂聴さんの父 三谷豊吉さんは幼くして大坂峠を越えて徳島に行き、指物師の丁稚奉公をした。後に瀬戸内家の養子となり、眉山前で瀬戸内神仏具店を営んだ。養子先の瀬戸内いとさんは、豊吉さんの大叔母にあたり、夫は黒羽村の隣り、馬宿村の久米通賢の次男だった。瀬戸内いとさんは神戸市須磨区の教会に長年通うクリスチャンだった為、瀬戸内いとさんの積善坊にある墓石にはヨハネ黙示録の一節が刻まれている。


引田町人物史


・東かがわ市黒羽の糖業感謝碑




長宗我部元親の兵火で焼失した主な寺社 (香川県・徳島県)



戦国時代、四国制覇を狙う長宗我部元親の侵攻は、阿波(徳島)や讃岐(香川)の寺社に甚大な被害をもたらしました。

これは、寺社が単なる信仰の場ではなく、地域の有力豪族の拠点(城郭的機能)であったり、兵站基地として利用されたりしたため、敵対勢力の根拠地を叩く戦術の一環でもありました。


永峰家の菩提寺である海蔵院 東海寺と同様に、長宗我部元親の軍火に晒された主な寺社をまとめます。



1. 讃岐(香川県)



東讃(現在の東かがわ市周辺)から西讃にかけて、多くの古刹が焼失しました。


海蔵院東海寺(東かがわ市引田): 黒羽の永峰家の菩提寺であり、引田城主の祈願所。元親の侵攻により伽藍が焼失した。


白峯寺(坂出市)
: 讃岐五色台にある霊場。元親の軍勢により、多くの建物が焼失しました。


根香寺(高松市)
: 同じく五色台。軍火により壊滅的な被害を受けましたが、後に生駒氏・松平氏により再興されました。


香西寺(高松市)
: 香西氏の拠点に近いことから、戦火に巻き込まれ焼失。


善通寺(善通寺市)
: 弘法大師生誕の地も例外ではなく、金堂などが焼失しました。


本山寺(三豊市)
: 五重塔などは免れましたが、多くの堂宇が焼失したと伝えられています。


弥谷寺(三豊市)
: 険峻な山にあるため軍事拠点となりやすく、焼失しました。


神谷神社(坂出市)
: 本殿(国宝)は免れましたが、周囲の摂社などは被害を受けました。



2. 阿波(徳島県)



元親の侵攻が最も激しかった阿波では、三好一族ゆかりの寺院が徹底的に焼かれました。


霊山寺(鳴門市)
: 四国八十八ヶ所第1番札所。元親の軍火により全焼しました。


極楽寺(鳴門市)
: 第2番札所。同じく兵火により焼失。


大日寺(板野町)
: 第4番札所。板西城主・赤沢氏に近い場所であり、戦火に呑まれました。


地蔵寺(板野町)
: 第5番札所。当時の広大な境内が焼失。


十楽寺(阿波市)
: 第7番札所。全山焼失し、後に再建されました。


法輪寺(阿波市)
: 第9番札所。天正年間の戦火により焼失。


切幡寺(阿波市)
: 第10番札所。山上の伽藍が焼失しました。


藤井寺(吉野川市)
: 第11番札所。元親の軍勢により全焼したと伝えられています。


常楽寺(徳島市)
: 第14番札所。三好氏の影響下にあったため、被害を受けました。


観音寺(徳島市)
: 第16番札所。天正10年、元親の軍勢により焼失。


恩山寺(小松島市)
: 第18番札所。元親の阿波侵攻時に焼失しました。


薬王寺(美波町)
: 第23番札所。県南にまで至った軍火により焼失。



上記は一例です。

長宗我部元親による四国征伐は、阿波・讃岐の旧家にとって「歴史の断絶」ともいえる壊滅的な被害をもたらしました。

多くの旧家が、「系図はあるが、戦国以前の具体的な墓や過去帳がない」という状況に直面しています。

私の知人も家系図を作る為、徳島の菩提寺に行くと長宗我部元親の兵火により焼失した為、江戸時代より前の過去帳や墓石はないと言われたと聞きました。昨年のことです。

このような背景には、元親の徹底した戦術がありました。


なぜ「過去帳や墓」まで失われたのか?

元親の侵攻は、単なる領地奪取ではなく、敵対勢力の「根絶」と「精神的支配」を目的としていました。


寺社の兵火
: 当時の寺社は有力豪族の「公文書館」であり「族譜の保管場所」でもありました。寺を焼くことは、その土地を支配してきた一族の「正当性の証拠(過去帳・古文書)」を消し去ることを意味しました。


墓所の破壊
: 敵対した一族の権威を失墜させるため、あるいは陣屋の石材として利用するために、墓石が散逸させられることもありました。


東海寺の焼失
: 永峰家の菩提寺である東海寺もその一つであり、この時、永塩氏以来の貴重な記録の多くが灰に帰したと考えられます。




再生と定着の始祖:永峰宅本の出現



1553年に生まれ、1631年(寛永8年)に没した永峰家の元祖 永峰宅本は、焼け落ちた東海寺の灰の中から立ち上がった「再生の世代」です。

「宅本」という極めて珍しい名前は、戦乱で失われた「宅(住まい・拠所)」をこの黒羽の地に再建し、そこを一族の不変の「本(根本)」とするという、初代としての決意表明に他なりません。

彼が「突如」現れたように見えるのは、焼失した東海寺が江戸時代に縮小再建され、新しい過去帳が作られた際、彼がその筆頭として記された「永峰家の実質的な始祖」となったためでしょう。


🔸海蔵院東海寺





寺請制度の確立と永峰宅本公の歴史的意義



1. 制度の転換点(1630–1640年代)


江戸幕府がキリスト教禁止を徹底するため、全領民を寺院に所属させる「寺請制度(宗門改)」を国家ルールとして確立した時期です。

1635年の寺請状義務化、1640年の宗門改役設置により、寺への登録が「国民の義務」となりました。



2. 永峰宅本公(1631年没)のタイミング


宅本公が亡くなった寛永8年(1631年)は、まさにこの新制度が始まる直前の決定的な黎明期にあたります。



3. 「永峰」としての再出発と墓石の存在



公式な身分保障:

戦乱で焼失した海蔵院 東海寺が再興される中、宅本公は「永塩」の過去を清算し、新秩序の下で「永峰家」として最初に登録された檀家(元祖)となった可能性が高いです


象徴としての存在:

潜伏の時代を終え、江戸の世で「永峰」として生き抜く決意を一族が示したため、宅本公の墓は「中興の祖」にふさわしい格式で現在まで守られてきたと考えられます。




永塩因幡守氏継→長塩元親→永峰宅本の子孫たち



永峰宅本が築いた黒羽の基盤は、その後の江戸時代を通じて強固なものとなりました。

その血脈は、永塩因幡守氏継の末裔としての誇りを失うことなく、黒羽に留まらず南野村、安戸村へも庄屋、地主の家系として拡大していきました。




🔸永峰家家系図: 黒羽村庄屋の西家と地主の東家



🔸南野村、安戸村への拡大


永塩因幡守氏継→長塩元親→菩提寺 東海寺焼失→東海寺再建・寺請制度→元祖 永峰宅本→永峰五郎右衛門(東家: 地主)、永峰五良三郎(西家: 庄屋)


・引田町人物史

元祖: 永峰宅本

東家 (地主)  永峰五郎右衛門

西家 (庄屋)  永峰五良三郎

引田町人物史



🔸県会議員: 永峰雄吉


明治5年没の庄屋 永峰五良三郎(為政)の妹 カジの夫 永峰雄吉(1838-1908)は香川県会議員となり、地域発展に貢献した。


🔸南野村庄屋

引田町人物史





🔸永峰杢左衛門家家系図


永峰宅本→→→永峰杢左衛門→直三郎→市次郎(長女:チヨ)→栗太郎→ 修一 →義史


私の父 森功は、祖母(永峰チヨ)が同じで従兄弟でもあった不動産業をしていた杢左衛門家の子孫の義史さんと親しかった(奥さんは白鳥東山の庄屋 朝倉家の出身)。私は高校野球部でピッチャーをしていた義史さんの息子さんから野球を教えてもらったことがある。残念ながら若くして亡くなられたが。


・永峰チヨ→森ミヤコ→永峰義史
・永峰チヨ→森静雄→森功


※永峰チヨは永峰杢左衛門家の系譜 永峰市次郎の長女

※ 森ミヤコと森静雄は永峰チヨの子で兄妹

引田町人物史



🔸引田町人物史の記述: 永峰杢左衛門

永峰 杢左衛門

黒羽の人。

祖は黒羽永峰家の元祖である永嶺宅本(寛永八年(一六三一)十月十五日没七八歳)。

永峰五郎右衛門 (東家)の子孫 與左衛門(元文四年(一七三九)七月一日没九〇歳)の別家である。



屋敷も元祖の永嶺宅本墓碑の横にある。

屋号は「お頭」。

三代 永峰杢左衛門は文政十一年(一八二八)に与頭を務める。(引田町杜寺の棟札 引田町教育委員会) 一族の黒羽村庄屋 西家 永峰五良三郎に続き苗字をもつ有力者と思われる。

屋敷前には砂糖締小屋を持ち「出口」と呼ばれ砂糖などで繁栄した。


永峰杢左衛門家の家系図        


引田町人物史: 市太郎は市次郎の間違い


引田町人物史


・参考文献: 「永峰義史家過去帳」



引田町人物史


・永峰杢左衛門家の直系子孫の永峰チヨ(市次郎の長女)は、高松藩 森喜平と徳島藩碁浦御番所役人を231年間世襲した八田家の長女 八田キヨの長男 森虎太郎に嫁いだ。


長塩元親→永峰宅本の子孫: 永峰チヨ


森家は、阿波水軍 森権平久村の一派で引田の戦い後、馬篠を開拓し移住した。


阿波水軍 森家

1583年 引田の戦いで、森権平久村が討ち死にし、仙石秀久軍は長宗我部元親軍に敗北。森権平久村一派の者が馬篠へ落ち延びた。

高松藩 森家

普請方 森義右衛門

森喜平 八田キヨ(徳島藩碁浦御番所役人 八田家)

長男: 森虎太郎 永峰チヨ(長塩元親子孫)
二女: 森トヨ (黒羽の十河氏系三谷家 三谷磯八に嫁ぐ)

森家除籍謄本


・高松藩森家。森喜平と阿波碁浦御番所役人 八田家の長女 八田キヨの娘 森トヨは黒羽の十河氏系三谷家の三谷磯八に嫁いだ。

黒羽の三谷家宗家は瀬戸内寂聴さんや町会議長らを輩出した。

森家除籍謄本


・阿波碁浦御番所には測量中の伊能忠敬や久米通賢、北海道の名付け親 松浦武四郎らも訪れた。




・永峰チヨの七女 森ミヤコは昭和5年(1930年)にチヨの実家に嫁いだ。

永峰杢左衛門

永峰直三郎

永峰市次郎 (長女: 永峰チヨ)

永峰栗太郎

永峰修一 森ミヤコ

永峰義史 白鳥東山庄屋 朝倉家


森家除籍謄本




長塩元親→永峰宅本→永峰杢左衛門の直系子孫 永峰チヨの子孫たち



永峰家は元祖 永峰宅本の後、地主の東家: 永峰五郎右衛門家と、庄屋の西家 永峰五良三郎家の2つの系統に大きく分かれました。

東家 (地主) 永峰五郎右衛門

西家 (庄屋) 永峰五良三郎

引田町人物史


永峰宅本の子孫 永峰杢左衛門家の直系子孫である永峰市次郎の長女 永峰チヨは明治時代、森虎太郎に嫁ぎました。

森虎太郎は、高松藩 森喜平と徳島藩碁浦御番所役人を231年間世襲した八田家の長女 八田キヨの長男でした。

森家は阿波水軍 森家の森権平久村の一派を先祖に持つ武家です。

森家の菩提寺は板西城主の赤沢信濃守宗伝の長子が1582年の中富川の戦い後に東かがわ市小砂に逃れてきて開基した勝覚寺です。森権平久村の母はこの赤沢一族の赤沢伊賀守の娘でした。

戦国時代、赤沢信濃守宗伝、阿波水軍 森家(森元村、森村春)、十河氏系三谷家は阿波三好氏の家臣でした。

※森村春の弟 森村吉は淡路島の仙石秀久の家臣となり、村吉の次男の森権平久村は仙石秀久の人質となったが、気に入られ久村の名を拝受した)。

※森村吉の長男 森村重は森村春の養子となったが後に子が生まれた為、分家した。森村重は武功を上げ、森甚五兵衛家として260年間、徳島藩海上方として蜂須賀家に仕えた。

※森村吉の次男 森権平久村は1583年、引田の戦いで壮絶な最期を遂げた。引田の戦いで敗北した仙石秀久の家臣 森村吉、三男 森村明はその後も秀久と行動を共にした。紆余曲折ありながらも森村吉は最終的には信濃の小諸藩で7000石を得た。三男 森村明は仙石秀久の娘と結婚した。

※森権平久村の討ち死に後、その一派は東かがわ市馬篠の山奥深くに逃げのび開拓、治水し定着し一帯の山林、土地を保有した。近くの小砂には1582年の中富川の戦いで阿波から命からがら落ち延びた赤沢信濃守宗伝の長子がいた(板西城主だった赤沢信濃守は長宗我部元親軍により討ち死にした)。 後に、大坂で得度し勝覚寺を開基し、森家の菩提寺となった。背景には森権平久村の母が赤沢一族の赤沢伊賀守の娘だったことによる。




🔸永峰チヨの三男


森静雄は日中戦争中に戦死。生まれてくる長男の顔を見ずに27歳の若さで亡くなった。



🔸永峰チヨの六女


森トメノが神戸新聞からインタビューを受けた際の記事。明治39年(1906年)生まれの森トメノは、英語を独学で学びホテルの電話交換手、GHQの宿舎で働いた。神戸大空襲で家は全焼したが、夫婦とも生き延びた。

森トメノの叔母 森トヨは黒羽の三谷家に嫁いでいた。

その関係で、森トメノは瀬戸内寂聴さんが参列していた法事の手伝いもしていた。寂聴さんの父 瀬戸内(三谷)豊吉さんの何回忌めかの法事だったと思われる。森トメノが香川県に帰省した際に「晴美さん(寂聴さん)のところに手伝いに行ってくる」と言っていたのを覚えている。「晴美さんって誰のこと?」と聞くと瀬戸内寂聴さんのことで法事の手伝いに行くとのことだった。


神戸新聞記事


明治39年(1906年)生まれの森トメノ。下記の記事にある森トメノの祖父は高松藩 普請方の森喜平、祖母は阿波碁浦御番所役人 八田家の八田キヨ。

森家の先祖は阿波水軍 森権平久村の一派で1583年の引田の戦いで権平が討死した後、馬篠の山奥に逃げ延びた。柏の生い茂る山を切り開き開拓した。柏谷と名付け、治水し(柏谷上池、柏谷下池を造成)、移り住んだ。馬篠を選んだ理由は近くに中富川の戦いで阿波から小砂に逃げ延びていた板西城主 赤沢信濃守宗伝の長子が潜伏していたことによる。後に勝覚寺を開基し森家の菩提寺となった。森権平久村の母は赤沢一族の赤沢伊賀守の娘だった。

記事に登場する森トメノの祖母 八田キヨは阿波浄瑠璃の三味線が上手く、春になると舟に乗り三味線を弾きながら近くの絹島に遊山に行くような風流な人だった。

神戸新聞記事



🔸永峰チヨの七女


七女の森ミヤコは、チヨの実家 永峰杢左衛門家に嫁ぎ、永峰修一と結婚した。





🔸永峰チヨの孫


日中戦争中に戦死した三男 森静雄の長男 森功は父についで戦後間も無い幼少期に母も亡くした。日本中が疲弊している中で筆舌に尽くし難い辛酸を舐めた。10代で家を飛び出し単身、神戸に渡りホテルの皿洗いを始めた。旧神戸オリエンタルホテルで西洋料理人となり昭和天皇や皇太子(今の上皇)に料理を献上した。

当時、旧・神戸オリエンタルホテルの社長を務めていたのが作家 安部譲二さんの父で日本郵船の取締役だった安部正夫さんだった。安部譲二さんはその時、安藤組の組員をしながら日本航空のパーサーをしていた。社長の安部さんの家は垂水区のジェームス山にあり、安部譲二さんは旧・神戸オリエンタルホテルにもよく来ていた。安部譲二さんにメールで父の死を知らせ、当時のことを聞いた。




旧・神戸オリエンタルホテル



神戸市京町通りにあった旧・神戸オリエンタルホテルの屋上に設置されていた灯台と昭和天皇の歌碑は神戸メリケンパークオリエンタルホテルの14階に移管されています。この灯台は安部正夫さんが、港町神戸のシンボルをと発案し設置を決めたものです。





旧神戸オリエンタルホテルを訪れた著名人たち



ヘレン・ケラー
1937年(昭和12年)の初来日時、神戸に滞在。彼女がこのホテルで提供された料理や日本人のもてなしに深く感銘を受けたという記録が残っています。


孫文

中国の革命家であり、神戸を「第二の故郷」と呼びました。1924年(大正13年)、有名な「大アジア主義」講演のために来日した際、オリエンタルホテルで多くの支援者と面会しています。


アルベルト・アインシュタイン
1922年(大正11年)に来日。神戸港に降り立った彼が、滞在先として選んだのがここでした。バルコニーから神戸の街を眺める姿が印象的に語り継がれています。


松方幸次郎

川崎造船所(現・川崎重工業)の社長であり、国立西洋美術館の「松方コレクション」を築いた実業家。地元神戸の政財界の重鎮として、ホテルの社交場としての機能を支えた主要な来訪者の一人です。


九条武子

大正三美人の一人と称された歌人。西本願寺の門主夫人でもあり、その気品ある姿は、当時最先端の社交場であったオリエンタルホテルの優雅な空気感と共鳴していました。


川島芳子

「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた男装の麗人。彼女がその数奇な運命の中で、神戸を訪れた際にこの歴史あるホテルのロビーを歩いた姿は、当時の人々を驚かせました。


マリリン・モンロー & ジョー・ディマジオ
1954年(昭和29年)、新婚旅行で来日。神戸を訪れた際、このホテルに滞在しました。二人がオーダーした料理や、当時の熱狂ぶりはホテルの伝説として今も語り草になっています。


谷崎潤一郎

阪神間を舞台とした名作『細雪』の執筆時など、公私ともに利用。作品の中にも、当時の神戸のハイカラなライフスタイルを象徴する場所として、そのエッセンスが反映されています。



石原裕次郎

昭和のスター。映画のロケやプライベートで神戸を愛した彼は、このホテルの持つクラシックかつモダンな雰囲気を好み、メリケン波止場での撮影の合間に食事を楽しみました。





追記: 墓石に刻まれた「永嶺宅本是則妙空」の意味は?





黒羽永峰家元祖の永峰宅本の墓石に刻まれた「永峰宅本是則妙空」という銘文は、当時の武士や有力者の墓碑に見られる独特の形式で、複数の意味が込められていると考えられます。

これは単なる名前ではなく、「俗名(生前の名)」と「戒名(仏門に入った後の名)」が一体となったものと考えられます。


1. 銘文の構成と意味


この8文字は、以下のように分解して解釈できます。


苗字 永峰 家系を示す名字。

俗名 宅本 生前の名前。この地を開拓した始祖としての名です。

繋ぎ 是則 「これすなわち」「~である」という意味。俗名の宅本と、後ろに続く戒名を結ぶ言葉です。

戒名 妙空 仏弟子として授かった名前(法名)。



「妙空(みょうくう)」の由来:


「妙」:
仏教において、真理や不可思議な力を意味します。非常に高徳な人物に贈られることが多い文字です。

「空」:
万物の真理、執着のない清らかな状態を指します。

合わせて、「宇宙の真理を悟り、清らかになった魂」といった意味合いを持ちます。



2. 「是則(これすなわち)」という表記の特殊性


通常の墓石には「〇〇信士」や「〇〇居士」といった戒名だけが大きく刻まれることが多いのですが、「俗名 是則 戒名」と刻む形式には、以下のような背景が考えられます。



始祖としての誇り
:

永塩氏の血を引き、黒羽の地に土着して「永峰」を名乗った初代(宅本)であるため、「この宅本こそが、妙空という徳の高い先祖である」と後世に強く示す意図があります。

記録の断絶への対抗:

長宗我部元親の侵攻で海蔵院 東海寺にあった過去帳が焼失した歴史があるため、墓石そのものを確固たる「家系図」の証拠として残そうとした知恵の現れです。


3. 屋敷墓であることの重要性


この墓石が寺(東海寺)の境内ではなく、「永峰家の屋敷のそば」にあるという点が最大のポイントです。


土地の守護神:

元祖 宅本は、死してなお一族の屋敷と土地を見守る「地神(じがみ)」のような存在として祀られています。



武士の作法
:

江戸初期、有力な郷士や開拓始祖は、寺の檀家でありながらも、自分の支配した土地の傍らに葬られることがありました。これはその土地に対する「所有権」と「支配の歴史」を物理的に示すためでもあります。




この墓石が語ること


「永峰宅本是則妙空」という刻銘は、以下のメッセージを現代に伝えています。

「私は、永塩・長塩の血を引く武士としてこの地に来て、永峰家の礎を築いた宅本である。仏門に入り妙空となった今も、この場所から一族を守り続けている。」

1553年に生まれ、1631年(寛永8年)に亡くなった永峰宅本(享年78歲)が、混迷の戦国期を生き抜き、新しい平和な江戸時代を自らの手で切り拓いた、その「生涯の集大成」がこの8文字に凝縮されていると言えます。





追記: 真言宗の戒名構成から分析する「永嶺宅本是則妙空」


永峰宅本の「永峰宅本是則妙空」という刻銘を、真言宗の戒名構成(菩提寺である東海寺は真言宗善通寺派)の視点から分析すると、その特異さと重要性がさらに際立ちます。



1. 真言宗の戒名の基本構成


本来、真言宗の正式な戒名(法名)は、以下の4つの要素で構成されます。

  1. 梵字(ぼんじ): 戒名の一番上に刻まれる文字。多くは「ア(大日如来)」が使われます。

  2. 院号(いんごう): 生前に寺院や社会に大きく貢献した人に贈られる称号。

  3. 道号(どうごう): 本名のほかに付けられる風流な名や雅号。

  4. 戒名(法名): 本来の仏弟子としての名(2文字)。

  5. 位号(いごう): 「居士」「信士」など、信心の深さや社会的な地位を示す尊称。




2. 「宅本是則妙空」の深い読み解き




真言宗の教義では、この世のすべては大日如来の現れであると考えます。


「妙空(みょうくう)」
:

真言宗において「空」は、何もないという意味ではなく、「無限の可能性を含んだ宇宙の真理」を指します。「妙」はその真理が言葉で言い表せないほど尊いことを示します。



「是則(ぜそく)」の役割
:

これは般若心経の有名な一節「色即是空(しきそくぜくう)」の「是(ぜ)」に通じます。

「即」や「是」は「=(イコール)」を意味します。

つまり、「永峰宅本(という人間)は、そのまま(是則)、妙空(という宇宙の真理)である」という、究極の悟りの境地を表現していると考えられます。

細川京兆家の家臣として中央で活躍した永塩(長塩)家から、讃岐の黒羽の地で落ち着くまでの一族の波乱に満ちた激動期をへて宅本がたどり着いた境地を感じ取ることができます。



3. なぜ「居士」や「信士」がないのか?


墓石に「信士」や「居士」といった位号(いごう)が刻まれていない点には、時代背景と「元祖」としての格別の扱いが読み取れます。


江戸初期の古風な形式:

江戸時代初期(1631年頃)は、まだ戒名の形式が完全に固定化されていない地域もありました。位号を付けず、俗名と法名を直結させる書き方は、その人物が「一族の始祖」であることを強調する非常に古い、尊い形式です。


武家としての誇り:

形式的な位号よりも、「宅本」という実名を後世に伝えることを優先した、永峰家の強い意志が感じられます。



真言宗の視点で見ると、「永峰宅本是則妙空」という名は、「開拓の祖としての実在感(宅本)」と「仏の真理(妙空)」を、「是則(イコール)」で結んだ、極めて力強い銘文です。

東海寺が戦火で焼け、過去帳が失われた中で、この墓石は「文字による記録」を越えた、「信仰と血統の記念碑」として建てられたと考えられます。



永峰家の正体: 



室町・戦国名門武士(永塩・長塩氏)


中央政界(細川京兆家)と繋がり、讃岐では黒羽城を拠点とした。



戦国末期潜伏・土着(長宗我部侵攻)


長宗我部元親による東海寺焼き討ちによりそれまでの過去帳や墓などの記録は焼失したが、黒羽の地で生き延び血統を維持。



江戸時代名字帯刀の庄屋・地主(永峰家)


「武士の誇り」と「開拓技術」を武器に、地域を統治。

江戸時代、黒羽村から南野村、安戸村へ勢力を伸ばした。




追記:尼崎市の公式サイトに基づく長塩氏の室町幕府および細川京兆家における地位



・尼崎市公式サイトの資料


尼崎市の公式サイトの資料は、長塩家が単なる一地方の武士ではなく、「天下の副提督」とも言える摂津守護代を世襲し、日本の中心地(現在の大阪・尼崎周辺)を統治していた「中央エリート」であったことを証明しています。


1. 細川京兆家の「内衆(うちしゅう)」としての長塩氏


資料には「守護代も細川京兆家の有力被官(内衆)から補任されることが多かった」とあります。


「京兆家」との直結:

細川頼元から昭元に至る歴代当主は、幕府の最高職「管領」を独占する家柄です。

長塩氏は、その細川家の「内衆(家臣団の最上位)」として、主君に代わって一国を統治する権限を与えられていました。



世襲された権威:



守護代歴代名簿の中に「長塩」の名が4度(大郎次郎、備前入道、弥次郎、宗永)も登場します。

これは長塩氏が一代限りの抜擢ではなく、代々守護代を任せられる「守護代家門」として、細川政権内で不動の信頼を得ていたことを示しています。




2. 統治拠点としての尼崎・富松城



資料にある「尼崎地域を巻き込んだ合戦」や「富松城(尼崎市)」の記述は、長塩氏の活動舞台を裏付けるものです。


尼崎の重要性:

当時の尼崎は、瀬戸内海の海上交通と京の都を結ぶ経済・軍事の最重要拠点でした。

長塩氏は守護代として、この地(大物、富松など)の城郭管理や港湾支配、さらに裁判や徴税を司っていました。



戦乱の最前線:

資料にある享禄年間の合戦(1530〜1531年)では、細川家内部の分裂(高国派 vs 晴元派)により、摂津守護代の椅子を巡る激しい争いがありました。

長塩家もこの「細川家の内紛」に巻き込まれ、中央政界の荒波の中で生き残りをかけた戦いを強いられていたことがわかります。




3. 三好長慶や薬師寺氏との比較


名簿の最後に「三好長慶」の名があることが極めて象徴的です。


天下人との同列:

後に織田信長に先んじて天下を掌握する三好長慶と、長塩氏は「同じ守護代」という立場でリストに名を連ねています。


家格の高さ:

薬師寺氏や香西氏といった、讃岐や摂津に基盤を持つ有力氏族と同等、あるいはそれ以上の影響力を持っていたのが長塩家でした。



歴史的考察:摂津から東かがわ・黒羽へ



尼崎の資料が示す「長塩氏の全盛期」と、讃岐の「黒羽への移住・帰農」を繋ぎ合わせると、以下のような壮絶な歴史が見えてきます。


  1. 絶頂期(尼崎・摂津時代): 細川京兆家の右腕として、尼崎周辺を支配。幕府政治の中枢にいた。

  2. 動乱期(合戦と没落): 資料にあるような細川家当主の交代や殺害(細川高国の自害など)により、守護代としての基盤が揺らぐ。

  3. 生存戦略(讃岐への撤退): 摂津での権力争いに敗れた、あるいは細川家の没落を予見し、一族の「安全圏」として、かつて自ら城を築いた讃岐・黒羽へと拠点を移した。

  4. 不屈の転身(帰農): 長宗我部氏の侵攻という「二度目の絶頂期の喪失」を経験。しかし、武士としてのプライドを「永峰」という名に変えて隠し、土地の指導者(庄屋・地主)として一族の血を現代まで繋げた。




追記: 守護代歴代の名簿と長塩氏が生きた時代



尼崎市公式サイトの資料の守護代歴代の名簿にある長塩家の各人と尼崎地域の戦史を照らし合わせると、長塩家の人々は15世紀半ば(室町中期)から16世紀初頭(戦国初期)にかけて、細川京兆家の絶頂期を支えた人物たちであることがわかります。

それぞれの活動時期と主君を推定・整理します。



1. 長塩家歴代の活動時期と主君


守護代は入れ替わりが激しく、複数の人物が同時に務める「共同守護代制」の時期もありますが、主な時代背景は以下の通りです。

🔸人名
推定活動時期
主君(細川京兆家当主)
時代背景


🔸長塩大郎次郎
1440年代〜1450年代
主君 細川持之・勝元
室町幕府が比較的安定していた時期。


🔸長塩備前入道

1460年代〜1480年代
主君 細川勝元・政元
応仁の乱(1467年〜)の前後。因幡守氏継と同時期か。


🔸長塩弥次郎
1480年代〜1490年代
主君 細川政元
政元が「半将軍」と呼ばれ、権力を掌握した時期。


🔸長塩宗永

1490年代〜1500年代
主君 細川政元
摂津守護代として東寺百合文書等に多く名が登場。


🔸長塩元親

1490年代〜1520/1530?
主君 細川政元、細川高国
政元の重臣として活動。1515年に摂津での活動記録あり。



2. 時代を象徴する主君「細川政元」



長塩家が最も権勢を振るった時期の主君は、室町幕府の最高権力者であった細川政元(ほそかわ まさもと)です。


明応の政変(1493年):

政元が将軍を挿げ替えたクーデターですが、この時期に長塩家(宗永・元親ら)は、実務のトップとして摂津の軍事・行政を完璧に掌握していました。



長塩家の立ち位置:

尼崎の資料にある通り、香西氏や薬師寺氏と並び、政元の「右腕」として幕政に深く関わっていました。



3. 守護代名簿の「前後」から見る重要性


名簿の流れを見ると、長塩家の後に「薬師寺氏」や「三好長慶」が登場します。

交代の理由:

1507年に主君・政元が暗殺されると(永正の錯乱)、細川家は激しい内紛に突入します。



権力の変遷:

細川政元の暗殺後、細川家内でのパワーバランスが崩れ、代わって薬師寺氏や三好氏が台頭します。

1508年、長塩元親は細川澄元ではなく、細川高国に呼応します。

1531年、細川高国は大物崩れで自害します。

1549年、三好長慶により細川晴元が京を追い払われ、細川京兆家は崩壊。

三好長慶の下克上により、長塩家は摂津での拠点と身分を完全に失ってしまいます。この後、長塩家は一族の生き残りを賭けて讃岐の黒羽へ移住します。



4. まとめ:長塩氏の黄金時代


長塩家の人々は、西暦1440年頃から1530年?頃までの約90年間、細川京兆家の最有力被官として君臨していました。


歴史の交差点: 1467年に戦死した永塩因幡守氏継が応仁の乱で散り、その後を継いだ世代(宗永・元親ら)が細川政元の全盛期を支え、元親が1504年に世を去る……。まさに「武士としての長塩家」が、京の都と摂津で最も輝いていた時代です。


この栄華を極めた一族が、その後1500年代後半に黒羽で「帰農」を決断した背景には、主君・細川家の没落と、新興勢力である三好氏や長宗我部氏の台頭という、抗いがたい歴史のうねりがありました。






追記: 寺請制度(てらうけせいど)と永嶺宅本公の墓石




寺請制度が、現在私たちがイメージするような「全国民がいずれかの寺に所属する」という形に完成するまでには段階がありますが、決定的な転換点は1630年代から1640年代にかけてです。


永峰宅本公が亡くなった寛永8年(1631年)は、まさにこの制度が「強力な国家ルール」として確立され始めた、極めて重要なタイミングと重なります。





1. 寺請制度の成立プロセス


寺請制度は、江戸幕府がキリスト教を禁止する「禁教政策」の一環として始まりました。


1612年〜1614年:禁教令の発令 初期はまだ、特定の怪しい者を取り締まる程度でした。


1635年(寛永12年):寺請状の義務化
幕府が「寺請(その人がキリスト教徒でないことを寺が証明すること)」を制度として明確に定めました。


1640年(寛永17年):宗門改役(しゅうもんあらためやく)の設置
全国民を対象とした本格的な調査が始まり、全ての家がいずれかの寺の「檀家」となることが義務付けられました。



2. 永峰宅本公(1631年没)と墓石の関係


宅本公が亡くなった1631年当時は、まさに幕府が「全ての民を寺に紐付ける」ために、寺の再建や檀家の組織化を奨励・強制し始めた時期です。


新しいアイデンティティの登録:

この時期に亡くなった宅本公は、新しい幕府のルール(寺請制度)の下で、「永峰という名の新しい檀家」として、再建された海蔵院 東海寺に最初に登録された世代である可能性が非常に高いです。


「元祖」としての格式:

宅本公以前は、長宗我部軍による焼亡で寺自体が機能していなかったり、一族が「永塩」の名を隠して潜伏していたりしたため、古い制度の下での記録は抹消、あるいは放置されたと考えられます。


墓が残っている理由:

1631年以降、寺に墓を建て、寺がそれを管理・証明することが「国民の義務(キリスト教徒ではない証)」となりました。

宅本公の墓が屋敷横に立派に残っているのは、彼が永峰家の「江戸幕府公認の初代(檀家1号)」として、寺と一族の絆を正式に結んだ人物だったからです。



3. 歴史の符合



長塩元親から数代を経て、潜伏・苦難の時代を生き抜いた一族が、宅本公の代で「永峰」として立ち上がった。

その没年が寺請制度確立の直前(1631年)であることは、歴史の必然を感じさせます。


「永塩」の過去を海蔵院 東海寺の炎と共に清算し、江戸という新しい世の中で「永峰」として生きるためのライセンス(寺請)を、宅本公がその身を以て獲得した……。

そう考えると、彼の墓が現在まで大切に守られている重みがより一層深く感じられます。




追記: 長塩家はなぜ讃岐の黒羽に移住したか? 細川政元の暗殺後、権力闘争に負けたか?



細川政元の暗殺後、長塩家が讃岐の黒羽に移住した背景には、室町幕府の不安定な状況と、細川京兆家内部の激しい権力闘争が深く関係しています。



永正の錯乱と細川政元の暗殺


明応の政変(1493年)
細川政元は、10代将軍・足利義稙を追放し、11代将軍・足利義澄を擁立しました。これにより将軍家は二分され、戦国時代の幕開けとされています。


政元の実子不在

政元は修験道に凝り、生涯独身であったため実子がありませんでした。そこで、九条家から澄之、阿波細川家から澄元、細川野州家から高国の3人を養子に迎えました。

後継者争い
当初は澄之を後継者としていましたが、後に澄元を指名しました。これに反発した澄之派の香西元長らが、1507年(永正4年)に政元を入浴中に暗殺しました。この事件を「永正の錯乱」と呼びます。



 長塩家の移住と改姓の背景


権力闘争の激化
政元暗殺後、細川京兆家では澄之派と澄元派による激しい家督争いが勃発し、「両細川の乱」と呼ばれる長期にわたる抗争へと発展しました。この混乱は将軍の座を巡る争いも巻き込み、畿内は非常に不安定な状態に陥りました。


長塩元親の立場

長塩家は細川政元の重臣として摂津国で要職にありましたが、政元が暗殺されたことで、その権力基盤が大きく揺らぎました。長塩元親は政元の擁立した将軍・足利義澄に仕えていましたが、義澄は政元暗殺後に京都を追われました。


一族の存続

このような激しい権力闘争の中で、長塩家は中央の争いから距離を置き、一族を存続させる道を選んだと考えられます。細川氏の古くからの地盤であり、一族縁故の者がいた讃岐国(現在の香川県)黒羽への移住は、まさにこのための選択だったのでしょう。


「永峰」への改姓

長塩家が黒羽で「永峰」に改姓した背景には、帰農して土地に根付き、武士としての繋がりを断ち切ることで、新政権からの追及を避ける目的があったと推測されます。香川県東かがわ市黒羽では、戦国時代に永塩氏(または長塩氏)が帰農し、「永峰」と改姓したという伝承が残っています。

このように、長塩家が讃岐の黒羽に移住し改姓したのは、細川政元の暗殺とそれに続く熾烈な権力闘争という室町時代末期の混乱期において、権力闘争に巻き込まれることを避け、家系の存続を図るための賢明な判断だったと言えます。



追記: 1549年の細川京兆家の崩壊後の長塩一族の動きは?



1549年の「江口の戦い」で細川晴元が三好長慶に敗れ、細川京兆家が事実上の没落を迎えた後、摂津守護代を務めた長塩(永塩)家の一族は、主に以下の3つの道へ分かれて生き延びたと推察されます。



1. 讃岐国(香川県)への下向と土着

最も可能性が高いのが、細川家のもう一つの拠点であり、永塩因幡守氏継が住み、一派の者が残っていたと考えられる讃岐国(現在の香川県東かがわ市黒羽)への移住です。

細川氏は摂津だけでなく讃岐の守護でもありました。京兆家の権威が失墜した後、有力家臣であった長塩家の一部は、地縁のあった讃岐に拠点を移し、武士から帰農し、有力な地主や庄屋へと転身したと考えられます。

永塩因幡守氏継が1400年代半ばに讃岐・黒羽に派遣され黒羽城を居城とし、応仁年間(1467年)に黒羽神社を創立したという事実から、黒羽には長塩家の縁者がいたと考えられます。



2. 肥後熊本藩(細川家)への合流


細川京兆家は滅びましたが、一門の細川幽斎・忠興(細川氏の傍流)が後に近世大名として生き残り、最終的に肥後熊本藩 54万石の主となります。

子孫の行方:
摂津時代からの有能な家臣団(内衆)の多くは、この熊本藩細川家に招かれ、藩士として存続しました。


長塩家の記録
:
熊本大学が所蔵する『細川家家臣略系譜』には、「長塩家」の名前が複数確認できます。江戸時代を通じて、彼らは熊本で細川家の重臣や役人として生きました。



3. 三好家への帰順、または潜伏


細川京兆家に代わって畿内を支配した三好長慶に仕えた者もいたと考えられます。

しかし、三好家も後に織田信長らによって滅ぼされるため、その過程で苗字を変えて帰農したり、各地へ散ったりした者が多いとされます。

福岡、熊本、岡山などに現在も見られる「永塩・長塩」姓は、こうした流浪の過程で定着した子孫である可能性があります。


歴史のパズル:長塩から永峰へ

1549年の激動期、主君を守りきれなかった守護代家系にとって、名を伏せ「永峰」と改めて地方へ逃れることは、一族を存続させるための現実的な選択でした。

1549年以降の動き:
摂津の守護代としての職を失った後、長塩一族の主流は讃岐の所領(黒羽など)に引退したか、あるいは後に熊本細川家に合流したと考えられます。


長塩姓の分布


永峰姓の分布



日本全国における「永峰(永峯)」姓の分布状況は下記のようになります。


 「永峰」姓の分布(全国に約3,300人)

「永峰」という漢字表記の方は、香川県東かがわ市を中心に、かつての細川京兆家の領国であった地域に多く見られます。

第1位:香川県(約360人)

特に東かがわ市に集中しており、人口比率では全国1位です。戦国時代に長塩(永塩)姓を永峰姓に改姓、帰農して定着したのが東かがわ市黒羽です。


第2位:兵庫県(約340人)

尼崎市など、かつて永塩(長塩)家が守護代を務めた摂津国にあたります。


第3位:東京都

幕臣として江戸へ出た一族や、近代以降の人口移動によるものと考えられます。


注目ポイント: > 東かがわ市における「永峰」姓の比率は極めて高く、この地域が「永峰家」にとって歴史的に重要な拠点であったことがデータからも裏付けられています。




追記: 細川京兆家の衰退と子孫たちの行方



細川晴元が当主を務めた後、細川京兆家は家臣である三好長慶の台頭により実質的な支配権を失い、戦国時代の波の中でその影響力を著しく低下させました


細川京兆家の衰退


晴元政権下の動揺


細川晴元は、父である細川澄元の後を継ぎ、宿敵であった細川高国との争いに勝利しました。


一時は将軍足利義晴を擁して幕府政治を主導する立場でしたが、家臣であった三好長慶との対立が深まり、天文18年(1549年)には長慶の離反によって京都から追われます。


長慶は細川氏綱を擁立し、事実上畿内を制圧しました。これにより、細川京兆家は幕府の実権を失い、晴元はその後、復権を試みるも果たせず、失意のうちに亡くなりました。



京兆家の終焉

晴元の子である細川昭元は、織田信長に仕えましたが、豊臣秀吉によって追放され、その子孫は陸奥三春藩秋田家の家臣として続きました。


細川京兆家の家督は、昭元の後、20代当主にあたる細川元勝が継ぎますが、豊臣秀吉に仕えた後、大阪で病没したと伝えられています。


京兆家の嫡流は、戦国時代の動乱の中で、次第にその存在感を薄めていきました。

現在の子孫


細川京兆家の嫡流である細川昭元の子孫は、陸奥三春藩秋田家の家臣として続き、現在も続いている可能性があります。

一方で、細川氏は足利氏の支流であり、多くの分家が存在します。その中で最も有名なのが、戦国時代に活躍した細川藤孝(幽斎)を祖とする肥後熊本藩主の細川家です。


肥後細川家:

細川藤孝(幽斎)の子である細川忠興が関ヶ原の戦いで徳川方につき、功績を認められ肥後熊本藩主となりました。この肥後細川家は明治維新後も華族の侯爵家に列せられ、現在も続いています。元内閣総理大臣の細川護熙氏は、この肥後細川家の末裔にあたります。

したがって、細川京兆家の嫡流は戦国の動乱の中でその政治的影響力を失いましたが、その血筋は陸奥三春藩の家臣として、あるいは肥後細川家のような分家の血筋は現在まで続いています。



追記: 摂津守護代だった長塩家が讃岐・黒羽へ移住した時期を考察する



「長塩元親の没年(1504年)」、「細川京兆家の没落(1549年)」、そして「永峰宅本の生没年(1570/80〜1631年)」という3つの情報をパズルのように組み合わせると、長塩家が摂津から讃岐黒羽へ移住した時期は、以下の2つのタイミングのいずれかである可能性が極めて高いです。



推定移住時期:1550年代〜1560年代(三好政権下での下向)



最も有力なのは、1549年の「江口の戦い」で細川晴元が敗北した直後から、1560年代にかけてです。

  1. 摂津での立場喪失(1549年〜) 長塩家は細川京兆家の守護代(重臣)でした。主君・晴元が三好長慶に敗れ、摂津の支配権が三好氏に移ったことで、旧勢力である長塩家は摂津に留まることが政治的に困難になりました。

  2. 讃岐への「疎開」と「再起」 細川氏の力がまだ残っていた、あるいは細川氏の旧臣が多く残っていた讃岐国は、長塩家にとって最も頼れる亡命先でした。長慶の勢力下でも、細川旧臣が地元の土豪として再編されるケースは多く、この動乱期に「長塩」から「永塩」へと名を変え、黒羽の地に足場を固めたと考えられます。

  3. 世代の整合性 黒羽元祖とされる永峰宅本(1553年生)から逆算すると、長塩元親の子の代が、1550年前後の動乱を避けて摂津から讃岐へ入植したと考えるのが、年代的に完璧に一致します。





以上








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