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渡辺温の死に就いての記録を読む

渡辺温の事故と死に就いては色々な人が思い出を綴って居る。その記録を時系列に並び替える事で、此の事故と死がどの様な物であったのか、手許にある分の資料だけでも捉えたいと思う。亦、註解及び推測も書き置いて置くが、不要な場合は構わず読み飛ばしていただきたい。
亦、文中は総て敬称略で記して居るがご容赦ください。

【2026/2/10追記】
・温がお守りが好きだったという福田耕太郎の話
・2月9日の項目に夙川、岡本、神戸、西宮回生病院などの写真。
・宮田新八郎による通夜の詳細
・温の葬式に香典を出した「銀座モナミ」のマッチ写真

【2025/10/4追記】
オアシスの閲覧が叶い、温の葬式や追悼の資料が更に手に入りました。整理して何れ追加する予定です。また此の記事はまるごと総て紙の本にする予定です。



大正13年11月

そもそもの事の始まりは、渡辺温が谷﨑潤一郎に見い出された事に起因する。

僕は少くとも、故人に文壇へ進出する第一の機会を与へた者は自分であつたと信じてゐる。その時のことは今の松竹の川口松太郎君がよく知つてゐる筈だと思ふ。たしか大正十四年頃、大阪にあつたプラトン社が「女性」の誌上で映画のストーリーを募集したことがあって、選者は故小山内薫氏と僕であつた。川口君は小山内氏が選んで一等にした物と、外に数篇の佳作を携へて、小山内氏の代理として僕の意見を求めに来た。さうして僕が、その中から唯一つ選び出したものが渡辺君の応募作品「影」であつた。「唯一つ」と云ふ意味は、他の作品は等級を開けようと附けまいと、僕には何等問題でなく、唯此の「影」だけが鮮やかに図抜けてゐたのである。僕は一読して「カリガリ博士」の画面を浮かべた。筋がすぐれてゐるばかりでなく、その原稿の字体、(巧拙を云ふのでない。)文字の使ひ方、インキの色、字配り等にまで、何かしら作者のシツカリした素質を想見させるに足るものがあつた。此れは事に依ると、ただ此れだけの作者でなく、長い将来のある人だなと、直覚的に感じた。

谷崎潤一郎/春寒

※「影」は大正14年1月に「苦楽」「女性」両誌に同時掲載された。

インクの色を推察してみる
谷崎に「シツカリした素質を想見させたインキの色」とはどんな色だったのだろうか。
大正末期のインクは黒と赤が殆どだったそうでブルーブラックは日本では余り流通していない様だった。そこで仮説ではあるが、僕は赤と黒を混ぜて茶色を作っていた可能性を考える。美的感覚に優れた谷﨑が才能を感じたインクの色なのだから、当時一般的ではない筈の茶色、或いは焦げ茶色のインクを使っていてもおかしくないのではないかと思う。亦、セピア色であればクラシカルな趣味を持つ温の好みに合いそうであるし、普通のブラウンであっても温が茶色のスーツを着ていた事から茶色は嫌いではないだろうから、無くは無い話ではないかと思う。
参考資料:1920年代日本のインク

「小山内君が不承知なら、二人別々に選をさせてくれ給へ。僕はどうしても此れを一等賞にする」と云ってだだを捏ねた。(中略)たまたま此処に見出された、すぐれた素質のあるらしい青年作家の将来を慮ったのであった。云ふ迄もなく、一人の立派な才能を世の中へ送り出すことは、一つの映画、一つの雑誌の人気よりも遥かに大切なことであるから。

谷崎潤一郎/春寒

※谷﨑自身、文壇デビュー前に中々デビュー出来ない事で随分病んだらしいので、才能ある青年作家を世に出す事の大切さを痛感していたのかもしれない。(※極度の神経衰弱になったとのこと「旭町今昔」より /この話は各種年表にもあり)

昭和2年

谷崎氏は雑誌「女性」が懸賞が集した映画シナリオの審査員で、渡辺温を一等に選んだよしみがあって、探偵小説に興味を持っている彼に、探偵小説を看板にしていた「新青年」としては一度どうしても書かさなくてはならない宿命感があった。
幸いに渡辺温が谷崎氏の注意をひく立場を得たので、横溝編集長時代からオンチャンを通じて何度か執筆の依頼をし、その許諾を得ながら、なかなか実現化されなかった。

水谷準/記憶の断層

いつたい「新青年」の方へは、二三年前から渡辺君を通じて寄稿する約束がしてありながら、つひぞその約を果たしたことがなかつた

谷崎潤一郎/春寒

※春寒は昭和5年2月に執筆された。その2、3年前なので、昭和2,3年頃の話。詰まり渡辺温が新青年に入ってすぐに持ち上がった話だと考えられる。

昭和3年頃

 いつたい渡邊君は乘物に對しては大變用心深い筈であつたのだが。…… 前に一度かういふことがあつた。
 いつか上森健一郎君のご馳走で、新居格横溝正史の二氏とそれから溫ちやんと僕此の四人が淺草のさる鳥屋で晩飯を食つての歸り、何となく銀座へ出掛けてみようといふので圓タクに乘つた。車が何でも小傳馬街邊を走つてゐた時、直ぐ前をやはり同じ方向へ走つてゐた同じ圓タクが電車と激しい衝突をして、乘客の一人が血だらけになつて車から轉がり落ちた無惨な光景を我々は目撃したのである。翌日の新聞で、其の大怪我をした人が京都の有名なカギ屋の令息で、渡邊君の知己だつたと知れて溫ちやんは少し驚きながら其の時私にかう云つた。
「僕は病氣で死ぬとは思はないが、どうもいつか交通事故で殺られさうな氣がする。」
——それが二年ばかり前の話である。

岡田時彦/渡邊溫君のこと(猟奇 昭和5年5月号)

※上森健一郎:岡田時彦の『春秋満保魯志草紙』を手がけた編集者。昭和3年12月25日発行。
・上森が岡田と共に居ること、加えて横溝正史と温が行動を共にしているので、温が新青年に居た7月頃までの話だろうか。

※新居格(にいいたる)→評論家、新感覚派。モボ・モガという言葉を作り出した人とのこと。(wikiより) 横溝・渡辺時代の新青年には昭和2年9月号が初寄稿。以後水谷時代も含め後年まで時々寄稿をしている。(森下時代は未確認ですがもし寄稿情報があれば教えていただければ幸いです)

此の時事故に遭っていた、京都のカギ屋の令息と言うのは温が京都の撮影所に見学へ行った際に京都を案内してくれた人である筈。↓

九月の十五日の夕方近くから僕は、学校の時分に知己だった二条の鎰屋の若主人と一緒にさもなければ迚も僕には京都の町を一人歩きすることなぞ覚束ないのだから

関西撮影所訪問記/渡辺温

※岡田時彦のこの追悼録は<1930/3/13 奈良にて>との事。及川道子との映画を撮影している時に書いた物だと思われる。

7月

博文館退社。作家生活に入る。

アンドロギュノスの裔/年表

※横溝正史が新青年から文芸倶楽部に移る際、横溝が温にクビを言い渡した。横溝は温に作家活動に専念して欲しくてそうしたという事。(※惜春賦/横溝正史 より)


温、山田まりと同棲(事実婚)開始

弟済氏(医師)の話では、(温とマリは)結婚ではなく、同棲していた、とのことである。

柴田勇一郎/コント作家 渡辺温 /同行二人

※兄・啓助と違い結婚式の様子も見えず、軽い雰囲気の結婚生活に、何か違和感のようなものを感じていたが、同棲であり「内縁の妻」という事なら理解できると感じた。
※山田まりは銀座のバー、サイセリアの女給。サイセリアは温、横溝、水谷の三人がよく行きつけ、他に新青年界隈の人々も来ていた店。

昭和4年8月

昭和四年八月 茨城県大貫海岸にて避暑。主として翻訳に従事する。

アンドロギュノスの裔 年譜(島﨑博編)

※大貫海岸は茨城百景に選出されている場所。
※当時は、茨城交通水濱線(路面電車)大洗駅が最寄り駅だと思われる。

(水濱線)
午前5時より夜12時まで。市内は7分、郡部は22分毎に発車す。

※庚寅新誌社 交益社 博文館 三社合同 昭和四年五月 第四一五號 公認汽車汽舩旅行案内 株式會社旅行案内社發行 より。以下 ”公認汽車汽舩旅行案内 昭和4年5月號”と記す)

公認汽車汽舩旅行案内 昭和4年5月號 

参考:水戸海浜鉄道
参考:沿線跡地を巡る記事。写真多数。温が滞在していた場所とも重なる。

※水濱線大洗駅を利用すれば水戸までは20分程度ではないかと考えられる。当時も水戸は商店が多く栄えていた。大貫海岸は避暑地とはいえ辺鄙な場所ではなく、少し行けば繁華街があるというような場所だった。また、水戸は温が水戸一中時代に5年程過ごした地であり親しみのある場所。

そのうちに温ちゃんというひとは、ある程度生活が安定していないと書けないひとではないかということに気がつき、温ちゃんをクビにしたのは大失敗だったと後悔もし、責任も感じた。(中略)
その年の秋(中略)水谷準君が『新青年』の編集長に昇格した。水谷準君から編集助手の人選について相談をうけたとき、私はもういちど温ちゃんを採るよう懇願した。水谷準君は一も二もなく快諾してくれた。こうして温ちゃんはふたたび『新青年』へ入ってきた。

横溝正史/惜春賦

※水谷準は1929年8月(10月号)から新青年編集長。
参考→http://mizutani.s41.xrea.com/02_01.html

8月29日(木)

こちらは未だ未だ暑くて、やり切れません。
来てみたら、暇のさかりで、もう少し助川にゐればよかつたと思ひました
それでも、躰の方は、もう大丈夫です
来月早々、多分大阪地方へ行くことになります。谷崎のところへ原稿を頼みに行くのですが、ついでに少し見物して来ようと思います。
同封金十三円キンバ代お送りいたします

以上

二十九日 温
母上 様

渡辺温から母への手紙/昭和四年八月二十九日 W.W.W. 26P

※9月早々に谷崎潤一郎へ原稿依頼へ行く予定だったと云う話。編集者でない限り、原稿依頼に行く事はないだろうから、此の頃には新青年(博文館)再入社の内定が取れて居たと考えられる。

※「助川にいればよかった」という事なので、大貫海岸への滞在は途中から実家助川になったと思われる。妻のマリも一緒の筈だが、実家には温と啓助の離れがあったという話なので、滞在の窮屈さは特に問題は無かったのだろう。

※因みに当時の水戸−助川間は47分。水濱鉄道で大洗→水戸へ出て、水戸から常磐線で助川へ行くというルートで実家へ行ったと思われる。(昭和4年5月 公認汽車汽舩旅行案内より

昭和4年10月頃

「わたしが『文芸倶楽部』の仕事で大阪の佐藤紅緑氏を訪ねることになったとき、『新青年』の水谷氏から、ついでに谷崎潤一郎邸に寄って『新青年』への執筆依頼をしてくれないか、と頼まれた。そのときの谷崎氏は書くとも書かぬともいわずに、なま返事をしていたので、改めて温チャンが関西に行ってその話を煮つめることになったのです。

岡戸武平/幻の探偵作家を求めて「蠢く触手」の影武者・岡戸武平(インタビュー):鮎川哲也著 P151

実は谷崎先生への原稿依頼は、私が一度"ついでに"行ったことがある。"ついで"というのは佐藤紅縁先生の原稿依頼に私が下阪したとき、水谷さんから、
「ついでに谷崎さんのところへ寄って、原稿を頼んできて欲しい」
との依頼があった。当時佐藤紅緑先生は甲子園に、谷崎先生は阪神岡本に住んでいられたので、大体おなじ方向である。佐藤先生の方は早速承諾を得たが、谷崎先生の方は考えておこうという返事で、一応色よい返事との印象を受けて帰った。こうした大家への訪問は始めての経験である。(中略/佐藤紅緑の話)岡本の谷崎邸を訪れたときは、もう夜になっていた。案内された部屋は奥まった八畳の間で炉が切ってあり、かたわらに行燈(電灯)が置かれ、塵承(なげし)につづら織の羽織が衣紋竹にかけられている。かけ樋の水の音が聞えるので、外は庭になっているのであろう<原文:あでろう>。この羽織は特に注文して織らせたものか(この織り方については固有名詞があると思うが私は知らない)横糸をはみ出させて織ったもので、毛皮らしく見せるところがこの織物のミソであろう。いかにも谷崎好きの召し物であると思った。
「支那茶です」
といって自分で炉にかかっている鉄瓶を手にして淹れて下さった。『新青年』からの依頼の話をすると、
「ともかく考えておきましょう。いつからという約束は今できませんが、ともかく書くことだけはそのつもりでいますから」
という返事で、それ以上押しても駄目だと思って谷崎邸を辞した。これは私が博文館に入った昭和四年の初冬のことである。
年を越して昭和五年二月はじめ、谷崎先生の確約が得られないのでこんどは『新青年』の記者となった渡辺温ちゃんが膝詰め懇請に行くことになった。

岡戸武平「渡辺温ちゃんの死」幻影城1976年8月号 70-71p

※昭和4年の初冬、水谷準からの依頼との事なので10月〜11月。そして温が11月に原稿依頼に行った際には、岡戸の時よりも話が進んで居るので11月より前の話だと判断した。

昭和4年11月 温、博文館に再入社

昭和四年十一月 再び博文館に入社。『新青年』の編集に携わる。小石川区小日向台水道町久世山ハウスに転居

渡辺温/年表 アンドロギュノスの裔(薔薇十字社) 島崎博編

※久世山ハウスは引っ越しの多い渡辺温の人生最後の住処となった。因みに引っ越し回数は21回。久世山は戸崎町・博文館まで徒歩30分程度で横溝宅は徒歩5分ほどの距離。

都合で一時退社してゐた渡邊溫君が今度本誌へ復歸した。宜しく御願聲援願はしい。

新青年昭和5年1月1日 (J・M・)水谷準

※1月号は11月中の制作の為、発表は翌年1月となった

渡辺温ちゃんと乾信一郎さんは、私よりややおくれ『新青年』の編集部に入ったが、そういう関係か私とは急激に親しくなって(後略)

岡戸武平/博文館の侍たち・2 渡辺温ちゃんの死(幻影城1976年8月号69P)

※当時、岡戸は横溝正史編集長の元、文芸倶楽部の編集者だった。
※岡戸と横溝の文芸倶楽部は新青年とは同じ2階で机を並べていた。他には「講談雑誌」の真野律太も。(※乾信一郎/「新青年」の頃/P24)
※乾信一郎は温の死後、後任として入社した。

去年の十一月にも一ぺん故人(※渡辺温)は催促に来たことがあつた。その時の話では何か百枚ぐらいの創作をとの註文であつたが、当分そんな余裕がないから随筆で勘弁して貰ふことにし、正月中には送ると云ふ挨拶をして帰した

谷崎潤一郎/春寒

※去年の11月とは昭和4年11月の事。

昭和5年1月

殊に無口な彼(温)が、「今年こそ、大に活躍するのだ!」といつてゐたのに、私はどんなにそれを期待してゐたことだらう?

小泉淑夫/「渡邊溫君の死」を悼む 三田文学昭和5年4月号

溫とはその後十度ほどしか會はなかつた。關西では、大阪の安堂寺橋に僕が居た頃一度、神戸の熊池で一度、夙川で一月に一度と二月九日の最後と、四度つきりで、東京へ僕が行つた時には色々の關係で殆んど會へなかつた。

長谷川修二/愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――(猟奇 昭和5年5月)

※11月に谷崎の所へ行った時は、温は長谷川修二に会わなかったようだ。1月に夙川へ行ったのはプライベートでの事だろうか? 谷崎が温に会ったのは三度だけで、辻潤に連れられて来た昭和2年頃、昭和4年11月、昭和5年2月の事故の時、とのこと。(谷﨑潤一郎/春寒より)

・新青年3月号掲載の4月号の広告に谷崎潤一郎の新作の広告を掲載する。

新青年昭和五年三月号より。入稿の〆切は二月一日
拡大。「悪人」というタイトルで三十枚貰う予定だったようだ。

◇別掲、四月增大號豫告でも御らんの如く、躍進また躍進、大谷崎潤一郎、江戸川亂歩、大下宇陀児、而して信心の活躍、編輯部は目下ラグビイ戰に於ける壮烈なトライを試みてゐる。(J・M・)

J・M・(水谷準)/戸崎町風土記(新青年昭和5年3月号)

※11月に温が原稿依頼に行った際、谷崎は「正月中に随筆を送る」と返事をして居たことから、4月号を出す迄には確実に原稿がもらえると踏んだのだろう。

江戸川 谷崎潤一郎さんは?
上山  あれは兄貴分になって居ります。僕に書いて呉れと言っても、薩張り書いて呉れない。一遍書くと言って報告を出して置いて止めてしまいました。今度頼みますがね。頼んで書いて呉れるかどうか分かりませんけれども。

われらの三人 探偵映畫座談會/新青年昭和5年3月号

※3月号掲載の対談なので1月頃の対談だと思われる。出席は江戸川乱歩、上山草人、藤原義江。記者は渡辺温だと思われる。(当時の新青年は水谷準、荒木十三郎、渡辺温の三人で、文中の記者は映画や演劇に精通している事からこの三人の中であれば温であろうと判断した)
※谷崎潤一郎は上山草人に頼まれた物も「書く」と言いつつ全然書いて呉れないとの事。谷崎が新青年に関わらず、気持ちがありながらも中々依頼に応えられなかった事が窺える。

昭和5年2月初め

・渡辺温が霧島クララ名義で及川道子評である『「戀愛第一課」を經た彼女』というエッセイを「映画と演藝」誌に発表する。及川道子への最後のラブレター、或いは遺言のようでもあるタイミングだった。同誌の同じページには長谷川修二のローレッタ・ヤングに関するエッセイも掲載されて居る。

温ちゃんが谷崎先生に記憶され、愛されるようになったのは温ちゃんの投じた懸賞小説が先生の眼に留ったことに始まると聞いている。『新青年』の編集主任である水谷準さんは、そのことに一縷の望みをかけて谷崎執筆の交渉に温ちゃんを派遣することにした。昭和五年二月のことである。

岡戸武平「渡辺温ちゃんの死」幻影城1976年8月号 70-71p

わたしが編集の責任者になってからもそれが続き、いよいよ物になりそうなところでオンチャンが具体的な交渉のため西下し、(後略)

水谷準/記憶の断層

月の始め、東京から電話で谷崎さんに原稿を頼んでくれ、と温ちゃんに言われた時、私は言下に断った。温ちゃんの処女作「影」を一番認めたのが谷崎なのだから、彼が頼めばあるいは書くかも知れない。私が口を出せばまず書くまい。では、原稿を頼みに行く事を伝えてくれまいか。これも断った。『厭だ』と言われれば、温ちゃんは私の責任にするだろう。
それは私は谷崎家に何度もよばれたし、谷崎に私のアパートの朱塗の鏡台や縮面の座布団を『綺麗だね。楽屋みたいだね』と褒められた事もある。が、気に入られたのは、小説の話を持ち出さないからで、もし私が記者だったら、必ず人並みに門前払いを喰っていたに違いない。そう言ってきかしたのだが、温ちゃんは博文館をクビになる。と言って私を脅かした。
トドのつまり、私は温ちゃんに口説き落され、原稿獲得運動にまきこまれ不本意ながら色々と作戦をめぐらし、結局承諾を得たのだが、そのイキサツの半面は、その折の「春寒」中に文豪自身の筆で書いてある。

長谷川修二 探偵作家クラブ会報 昭和37年6月1日

※温は最初長谷川修二に「原稿を頼んでくれ」と言っている。自分は行かずに修二経由で原稿を得ることを考えて居た可能性が考えられる。11月にも依頼に行ったばかりで、人見知りの温は続けての訪問を躊躇ったのか、或いは自分以外の人間、中でも谷崎とプライベートで付き合いがある修二が頼んだ方が良いと考えたのかもしれない。
※「クビになる」は勿論冗談だが(※後に谷崎の前で温が冗談だと云っている)新青年としては谷崎作品掲載の広告を作って印刷に出した手前、必ず原稿をもらわねばという気持ちが一層強かったのかもしれない。

谷﨑潤一郎と長谷川修二の関係

楢原はワーナー・ブラザースの宣伝部長をつとめながら、長谷川修二というペンネームで雑文やユーモア小説を執筆、「新青年」グループの作家として知られていた。阪急岡本に住んでいた谷崎潤一郎が「新青年」グループの若い作家たちと親しくしていたので、谷崎家にも出入りしていて、ロレッタ・ヤング、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア主演、 “Fast Life“に谷崎の小説の題名を頂戴、「愛すればこそ」とつけて悦に入ったりしていた。

清水俊二/映画字幕五十年 P35

※長谷川修二の本名は楢原茂二。楢原名義でも映画の記事を書いて居る。
※「愛すればこそ」1929年公開。今も邦題はこのタイトルで残って居る。参考→ https://eiga.com/movie/58398/

※また、谷﨑潤一郎と長谷川修二は共に府立第一中学校の卒業生。
上記の回想を書いた修二の後輩・清水俊二も、修二、温の友人・岩崎昶も共に府立一中の卒業生。(清水俊二/映画字幕五十年、谷﨑潤一郎年表、東京府立第一中學校創立五十年始(昭和4年10月発行)より)

四月號を計畫するに當たつて、溫君と僕とは「四月馬鹿」を誌上でやつて見たいと語り合ひ、具體的な實現方法について種々取り調べた位であつたからだ。

水谷準/渡邊溫君の死 新青年昭和5年4月1日

※4月号は2月に制作する。拠って2月上旬のこの時期に企画の相談をして居たと思われる/尤も1月から考えて居た話かもしれないが。

私が銀座で發見して買つた伊太利皮の紙入れを非常に推賞して、私が死んだら形見にこれを進呈する約束がしてあつたのに(後略)

岡戸武平/溫ちやんの事ども 猟奇昭和5年3月

※紙入れとは当時の紙幣入れの事。詰まりイタリアンレザーの財布。

2月7日(金)

春になつて見るといろいろ予想外の取り込みが出来、結局書けさうもなくなつたので、「イマヒトツキオマチヲコフ」と云ふ電報を故人(※渡辺温)に宛てて送つたのが二月七日の午後であつた。渡辺君はそれを八日に受け取つたらしく、受け取ると直ぐ、今夜の夜行で今一度催促に行くから宜しく頼むと云ふ旨を、神戸のユニヷーサルにゐる楢原君の所へ云つて来た。

谷崎潤一郎/春寒

※電報の時間
・温の事故死を知らせる為に谷崎が打った電報が7時頃。それが8時か9時には横溝正史の元に届いている。此の事から、当時は神戸(西宮)ー東京間は1〜2時間で電報が届いたと思われる。
・温の退勤時間の後に電報が届いたと言う事になって居るので、谷﨑は15-16時頃以降に送った物かと思われる。<岡戸武平「渡辺温ちゃんの死」>によると、此の頃は同フロアの横溝正史は17時に退勤していたとの事なので、一緒に飲みに行っていた温も17時退勤の可能性が高い。

「あした谷崎氏のところへ行きますよ」
退社時間になって帰宅しようと玄関先に出ると、ぱったり顔を合せた温ちゃんが、そう挨拶した。
「それはご苦労さんですね。ではちょっと家へ寄りなさい。心ばかりの送別会をやるから……」
と温ちゃんを誘ってわが家へ帰った。というのは、ちょうどその晩、貰った合鴨を食べる約束が女房とあったので、どうしても帰宅せねばならなかったからだ。温ちゃんとしては始めての、終りのわが家の訪問である。むろん女房とは初対面の仲。

岡戸武平「渡辺温ちゃんの死」幻影城1976年8月号 P71-75

神戸に發つ前夜、私の家に來て一緒にめしを喰べたが、

岡戸武平/溫ちやんの事ども 猟奇昭和5年3月

※電報を受け取ったタイミング
・岡戸の話によると「神戸に発つ前夜」に「谷﨑の所へ行く」と言って居たという事なので、実際は退勤間際に電報を受け取り、対応は翌日に回して帰ったのではないだろうか。
だが「谷﨑の電報を受け取ってすぐ神戸に来た」と云う方が熱意がある感じがするので、温は谷﨑の前では8日の朝に電報を受け取った事にしたのではないか。長谷川修二と作戦を練ったのなら、このくらいの駆け引きは考えつきそうな気がする。特に修二は年長の文化人との親交が多く、室伏高信の「孤独な人々」を見るに、コミュニケーションが器用なタイプだと思われる。
・谷﨑の春寒は事故の記録等が非常に詳細で、谷﨑がこの件を間違えるとは考え難く、また岡戸の文章も事故の報があった2月10日に書かれた物で、2,3日前の話という事になり、両方とも記憶違いとは考え難い。

なので記録には無いが、この日のエピソードを個人的な判断で追加する。

・渡辺温、谷﨑潤一郎の電報を受け取った。

溫ちゃんが歸つてから、私の女房が心配顏に、
『渡邊さんて、何か氣に障つたことでもあつたでせうか、それともあんなに無口の人ですか。』と案じたので、イヤあれが温ちゃんの癖だといふと、『渡邊さんていつか活動で見たプラーグの大學生のやうですね。』と言つてゐた。私は溫ちやんを一番はじめ見た時、ゴルキーの顏に似てゐるなと思つた。ともかくロシアかドイツの作家にありさうな顏だ。たしか作家の顏だ。

岡戸武平/溫ちやんの事ども 猟奇昭和5年3月

※「プラーグの大学生」はドイツ映画。参考→プラーグの大学生
※ゴルキー=ゴーリキーの事。
何れも気難しそうな表情が見られる。温が人見知りで緊張している様子が窺える。

その食事が済むと、散歩に出ませんかと温ちゃんに誘われた。私もそんな気持ちの動いていた時だったので、二人で指ヶ谷町の電停へ出ると、
「ちょっとつき合って下さい」
と、そのとき停車した市電のステップに足をかけている温ちゃんのあとに続いて、私も乗った。否応なかった。それから巣鴨から新宿に出て中野へ行ったことは記憶にあるが、中野のどの辺であったか、何という屋号であったかは皆目覚えていない。ともかくママと女給一人か、二人のささやかなパーである。

岡戸武平「渡辺温ちゃんの死」幻影城1976年8月号

※指ヶ谷町の電停 岡戸家の最寄りの市電の駅。戸崎町の博文館とも非常に近い場所。

当時の温チャンは茗荷谷あたりのアパートで美しい女優さんと暮していたのですが、中野のバーにもなじみの女給がいて、夕食後に温チャンにさそわれて中野に行ったんです。

岡戸武平/幻の探偵作家を求めて「蠢く触手」の影武者・岡戸武平(インタビュー)

※正しくは茗荷谷ではなく久世山。久世山と茗荷谷は徒歩15分程度の距離。
 暮らしていたのは女優ではなくバー・サイセリアの元女給。
※温と岡戸の付き合いは、温が新青年に復帰した11月からとの事なので、この時点で3ヵ月ほど。岡戸の印象では温は無口で余り喋らず、ゴーリーキーのような顏をしていたとの事で、温は未だ人見知りをして居たと思われる。そのため余り自分のことを話して居なかったのではないだろうか。
 またマリを「女優」だと勘違いしたのは、岡戸の上司・横溝など周囲の人から過去に女優と恋愛をしていた話を聞いて勘違いして居た等の事情があるのかもしれない。

※岡戸は「女優さんと暮らしていた」「どういう経緯で同棲するようになったのか私は知らないが(「渡辺温ちゃんの死」幻影城1976年8月号70P)」と表現していることから、岡戸は温が結婚ではなく同棲ということを知って居た可能性がある。

しばらく通り一遍の話をしている間にも、温ちゃんとそのママとの間に、感情的にトゲがあったり、もつれたりする様子が窺われた。そのうち話題が迷信に及んだ。おそらく私が居なかったなら、もっと核心を衝く話になったであろうが、第三者の私がいてはそうもできず、話の流れのままにありきたりの迷信談となったものであろう。しばらくその話が続いた。
すると突然、温ちゃんは上衣の内ポケットから成田のお不動さんから頒布されている、例の金ピカの護符(お守り)を取り出して床に叩きつけ、
「こんなものも迷信だ」
と口走って護符を靴で踏みにじった。私はハッとした。投げ捨てる程度ならまだしも靴で踏みにじる行為は、われわれ明治生れには考えも及ばぬ冒瀆行為である。おそらく温ちゃんにしては、彼女に対するうっぷんを爆発させての自失的行為であったろうが、私はおそれた。少くもしなくともよいことをしてくれた、という感慨で一杯だった。いったい温ちゃんは彼女のなんであったか。成田不動の護符をじゅうりんするほど彼を無分別にしたのは何か。いまだに私はわからない。ただそうした無思慮の行為を敢てさせたのは、迷信打破の行為ではなく、他意のあることは確かなようだ。それがなんであったかは、温ちゃんに聞いてみなくてはわからない。

岡戸武平「渡辺温ちゃんの死」幻影城1976年8月号

【お守りが好きだった渡辺温】

温はモダンボーイ故に古くさい信仰をして居なかった、という訳ではなく元々「お守り」そのものが好きだったという事だ。

彼の好きだったもの
藥——ならなんでも。殊に胃腸藥。
お守り札。
結城紬。

杳渺抄/福田耕太郎(オアシス昭和9年2月号)

福田耕太郎は渡辺温、啓助の茨城時代からの友人だ。三人は共に下宿をしていた頃もあった。古くから深い付き合いのある友人がお守り札が好きだったと「好きだったもの」の項目の2つ目に挙げて居る。この「好きだったもの」は全部で20個近く挙げられている。
古くからの友人の印象に残るほどのお守り好き。(他に並んで居るのは、膝丈のインバネスや雪や軽気球など。此方は温のイメージの儘だと感じる)その好きな物を喧嘩の果てに踏んでしまったというのは、相当腹が立ったという事ではないのだろうか。

【温のお守りと信仰心について考える】
また此のお守りは温自身の上着の内ポケットから出た物なので、温は普段から肌身離さずお守りを持って居たと言う事になる。また、おしゃれ好きな温が毎日同じ上着を着ていたとは考え難く、このお守りは昨日着ていた上着から今日の上着へ入れ替えて居たと考えられる。
酔っ払ってキレた時でもすぐに上着の内ポケットからお守りを出せると言う事は、そこにお守りを入れているという意識がシッカリあると言うことなので、何時か入れた物を忘れてその儘にしていたのではなく、定位置だったのではないか。
詰まり、温は毎日お守りを上着の内ポケットに入れるというルーティーンをしていたと考えられる。

【結論】
温はモダンな若者で迷信を信じていない訳ではなく、お守りが好きで大切に持って居るという、人並みの信仰心はあったと考えられるのではないだろうか。

【温がキレた理由を考える】
個人的には及川道子との恋愛に就いて否定的な事を言われたのではないかと思う。信心が足りないから上手くいかなかったのだとか「あなたたちの恋愛は神に否定されているのよ、その証拠にあなたと別れた及川道子は女優として大成功しているじゃない」だとか。
及川道子はこの3ヵ月程前に映画デビューをし、スターの仲間入り。映画雑誌にも沢山写真が載っておりどんどん主演作が決まり、大スターという感じだ。
岡戸は妻マリの事を「女優」と間違えて居る位なので、温と道子の恋愛の事は知らなさそうである。「おそらく私が居なかったなら、もっと核心を衝く話になったであろうが、第三者の私がいてはそうもできず」とある様に、喧嘩の内容は岡戸が知らない話で、言いづらい事だと考えられる。
温が此れまでに熱くなった話は「夢見る力の無いものは生きる力もない」等芸術や人生哲学の話だったようだが、芸術や人生哲学の話なら岡戸に聞かれても問題ないだろう。
温の創作物の大半に道子の影を感じる事からも、道子は温の中では非常に大きな存在であると言える。横溝正史も温は別れた後もずっと及川道子を愛していたという事を惜春賦に書いて居り、昭和5年の時点でも温の中では道子の存在は非常に大きかったと考えられる。昭和4年11月(及川道子の銀幕デビュー直後)に執筆された「指輪」も及川道子との決別の気持ちを表したかのような話になっている。マリと一緒に居ても尚、道子との決別を書くという事は、未だ決別出来て居ないと言うことだ。
それ故に僕は、及川道子との恋愛に就いて否定的な事を言われたのでは無いかと考える。

「わたしは慌ててお札を拾いますと、そんなことをしてはいかんよといって温チャンに持たせたのです。

岡戸武平/幻の探偵作家を求めて「蠢く触手」の影武者・岡戸武平(インタビュー):鮎川哲也著

千葉県成田市にあるこのお寺は交通安全の祈願で知られている。(※鮎川哲也の地の文))

岡戸武平/幻の探偵作家を求めて「蠢く触手」の影武者・岡戸武平(インタビュー):鮎川哲也著

※交通安全の祈願で知られる寺、という事を因果には含める積もりは無いが、何たる偶然であり、また温の短い人生を凄惨に彩るエピソードとなっていると思う。

2月8日(土)

片付けものをしていた母から、一枚のハガキをみせられる。
「これから夙川に行きます。帰ってきたら、赤ちゃんに会いにいきます。温」と記されていた。
「この赤ちゃんって貴女のことよ」母は言いながら、大切そうに引き出しにしまった。
 その後、会うことのなかった叔父の、ぬくもりの残るハガキは、どこからも見つからなかった。

中川潤子(渡邊啓助・長女) 三人の帽子 W.W.W.44P

※2月の初めに長谷川修二に電話をした事から、谷崎を訪ねることは月の初めから決まっていたようだが、8日の夜行で行くと決めたのは7日の夕方だったよう。7日は退勤後岡戸と飲みに行っている為、出発日の8日に「これから」と書いたハガキを送ったと見做す。

あなたから借りた「夜の鳥」未だに愛讀してゐます 

堀経道/「渡辺温七回忌色紙」より W.W.W.

※死の直前に借りたので、返せず仕舞いなのもしれない。ルヴェルの「夜鳥」の事かと思われる。
※堀経道は博文館の編集者。

前の日に温ちゃんは佛蘭西へ行くと言ってゐた。今頃はきっとモンマルトルあたりを歩いてゐるだらう。

荒木十三郎/「渡辺温七回忌色紙」より W.W.W.収録 

※水谷準と共に当時一緒に新青年編集部に居た荒木十三郎。当時は土曜も仕事があるので、土曜の話だと思われる。

八日は僕は終日不在で、夜おそく帰宅してから、「さつき楢原さんが入らつしゃいました、どうしても今度は書いて下さらないと困るさうで、明日の朝渡辺さんとお二人でおいでになるさうです」と云ふ話を聞いた、

谷崎潤一郎/春寒

※楢原=長谷川修二。金曜の夜……恐らく三宮でのユニバーサルでの仕事終わりに谷崎邸を訪ね、その後は一晩中谷崎への原稿依頼について考えて眠れなかった、ということになる。
※2月初めの電話で「原稿を頼みに行くと伝える事」を断った修二だが、結局こうして原稿依頼に行くことを伝えに来ている。これが修二の云う「私は温ちゃんに口説き落とされ(中略)まきこまれ」た内の一つになる。

わき道ついでに、もうひとつ、渡辺温氏と銀座で会い、「ジャポン」という酒場で飲みました。この店は、銀座五丁目の表通りの二階で、今のスエヒロあたりでしょうか。
温氏は、その日の夜行で、芦屋あたりに住んでいた谷崎潤一郎氏の「武州公秘話」の原稿を取りに赴いたのですが(後略)

城昌幸/「横溝編集長の頃」幻影城増刊 1976.№18 「横溝正史の世界」より

※正しくは芦屋ではなく神戸岡本。また「武州公秘話」の話は温の死後に書き始めた物であるので、事実とは異なる。

温が乗った夜行列車に就いて

・東京発20:45→大阪着9:08
(乗換徒歩2分/当時の阪急梅田駅は現在の阪急百貨店うめだ本店との事 *
wikiより)
・阪神急行・梅田発→夙川着 9:32頃
 阪急は5分乃至8分毎に發車 ( 53P)

公認汽車汽舩旅行案内 昭和4年5月號 42P/チの段、53P

・温が銀座で城昌幸と飮んだ後に乗った列車は此れではないかと思われる。
・昭和5年10月にダイヤが改定されているらしい事を黒岩るいかさんにお伺いし、昭和4年の時刻表の閲覧が叶ったことから此方を参考に割り出した。
・昭和5年10月特急燕が運行開始(参考→wiki https://w.wiki/DudE)とのことで、その際にダイヤが改定されたのかもしれない。

・銀座5丁目周辺から東京駅まで徒歩15分の距離。駅構内を歩くこと等を考慮し、30分前に切り上げたとして温は20時頃まで飮んでいたと考えられる。

後に引用するが、此の判断に至った記録は此方になる。
・長谷川修二の「9時半頃に夙川の自分の家に来た」という記述
・長谷川修二の家は駅のすぐ前と言う事
・谷﨑の「大阪着」という記述

亦、現在の阪急梅田→夙川間が21分だと言う事。
昭和4年当時、山手線は1週1時間8分だった等、特急などの長距離列車以外は現在と余り時間が変わらない。故に誤差があっても3分以内ではないかと考え、今回は梅田→夙川間を22分だと見做した。
(参考:公認汽車汽舩旅行案内 昭和4年5月號 33P 山手線電車運轉時刻 循環線一周時間約一時間八分 / 2025年現在60分(wikiより)

谷﨑は温と一緒に夜行に乗った訳ではないし、「大阪着」は勘違いか何かの可能性も考えたが、大阪着の方が乗換が少なく簡単に行ける事と、大阪着だと20時頃まで飮むことが可能なので、矢張り大阪着の便に乗ったと考えてよいと判断した。

神戸着の場合
因みに、当初は神戸→夙川だと思い、そのルートも探索した。

東京発19:35(新橋発19:41)→大阪着8:08 → 神戸着 8:50
神戸駅からタクシーで阪急神戸駅 9:07 →夙川駅着 9:27

公認汽車汽舩旅行案内 昭和4年5月號/トの段、googlemap、Yahoo!乗換案内

神戸に8:50に到着した後に、タクシーで17分掛けて阪急神戸駅(上筒井)へ行き、阪急神戸→夙川へ20分掛けて行くと、合計37分になりこちらも9時半頃に到着することができる。

タクシーで17分は現在の所要時間だが、温と修二が事故に遭ったタクシーの時間から、タクシーの速度は現在と殆ど変わらないようなので此方も現在の所要時間と同じと見做した。

また逆に、夙川から神戸へ出る方法は修二の後輩・清水俊二によると
夙川→阪急神戸(上筒井)→市電で三の宮と言う事らしい。
タクシーを使わずに神戸駅から阪急神戸駅へ行くルートも考えたが、電車を利用した場合の所要時間とタクシーの所要時間が殆ど同じ事と、東京で温はタクシーを多用した様子がある事、出張のため博文館から経費が出ると考えられる事、「温は見知らぬ土地で迷子になることがあった」と修二が書いて居る事から、この場合はタクシーを使うだろうと結論附けた。

と、神戸着の可能性も示したが、結局の所結論は大阪着で良いと考えられる。


渡辺温が到着した省線(現JR)大阪駅。

2月9日(日)

そして九日の日曜の朝、渡辺君は大阪に着くと一旦夙川の楢原君の下宿に行き

谷崎潤一郎/春寒

長谷川修二 ファースト宣伝部長
住所 兵庫県阪急沿線夙川夙川荘 

日本映画事業総覧 昭和5年版 / 国際映画通信社 編

※因みに温と修二、共通の友人で温の時代から新青年に寄稿していた岩崎昶も同誌に「研究家」の肩書きで掲載されて居る。この時代の彼らの立ち位置が理解る資料だと言えよう。事故後、岩崎は修二に見舞いの手紙を送り、温の十一回忌にも色紙を寄せている。

ワーナー・ブラザーズはそのころ、ファースト・ナショナルを合併して、ワーナー・ブラザース・ファースト・ナショナル映画会社という長たらしい名前になっていた。映画業界では略してワーナー・ナショナルと呼んでいた。

清水俊二/映画字幕五十年 P39

※谷﨑は修二の事を「ユニヷーサルの」と云って居り、所属がハッキリしないので此處で明確にしておきたい。
※清水俊二は修二に招かれてワーナーに入社した自称「弟分」であり修二が可愛がっていた後輩。

楢原は阪急夙川駅のすぐ前の夙川荘に住んでいて

清水俊二/映画字幕五十年 P36

※事故の日にタクシーが線路の南→北へ向かっているので、駅の北側の家だったと思われる。

阪急夙川駅

溫が東京からやつて來たのは二月九日の朝で、九時半頃であつた。僕は或る人の事を思つて一夜轉反側して漸くウトウト初めた所を起こされたので、死ぬほどねむかつた。

長谷川修二/愁い顔の騎士

※「或る人」とは谷﨑の事だろう。昭和37年の回想録に「連日の作戦づかれで、私はゆっくり眠りたかった。」とある為、谷﨑への原稿依頼に就いて考えて眠れなかったと思われる。この記事は昭和5年4月頃に書かれた物なので、徹夜で作戦を立てていたことを谷﨑本人に知られる気まずさを感じて「或る人」と誤魔化したのかもしれない。

因みに長谷川修二のアパート「夙川荘」とはこんな場所だそう。

夙川荘は高級下宿もいいところ、朝夕食つき付きに四十二円だったから、よほどの高級とりしか住んでいなかった。阪急電車で神戸の上筒井まで行く。この定期が一ヵ月十円。それから市電で三の宮へ。神戸市電がいくらであったかは忘れたが、晝食に大丸デパート名物の五十銭のカツライスを食べても、週給二十円で夙川荘にいればたちまち破産する。

清水俊二/映画字幕五十年 P42

現在の「アパート」で考える物より遙かに高級な場所で、岩崎昶もよく泊まり、谷﨑も訪ねた事があるようなので、広い部屋だったのかもしれない。
当時の物価の参考として、昭和5年3月頃に森下雨村が乾信一郎に新卒入社を打診した際の給料の話を引用する。

月給はたくさんは出ない、といっても食うに困るほどではない、まあ四十五円程度と思ってもらえばいい。 / その頃は三十五円程度のサラリーマンはざらであったのだ。

乾信一郎/新青年の頃 三の章 こうして私は編集部員になった

詰まり一般サラリーマンの月収を遙かに超える家賃のアパートだったという訳だ。

夙川の駅前。長谷川修二の「夙川荘」があったのは此のあたりではないかと思われる。
夙川駅ホームから見える景色。当時もこの川はあったのだろう。

12時頃 谷﨑潤一郎邸へ

事故当日の温の服装
シルクハットではない帽子、外套、茶色の上着、茶色のチョッキ、ワイシャツ、ヷガボンドネクタイ、縞模様のズボン。
(※谷﨑潤一郎/春寒、宮田新八郎/渡辺温のお通夜、年表(島﨑博・編)より)

【帽子に就いて考える】
シルクハットは末弟済さんの元へ行った後、現在は神奈川近代文学館に収蔵されている為、文学者の墓に納められた「事故当日に被っていた帽子」とは別の帽子になる。僕はこの帽子は山高帽だったのでないかと考えて居る。
以下に論拠を述べる。
1・温はシルクハットを手に入れる以前は山高帽を愛用していたという事(※横溝正史/惜春賦)
2・及川道子と小泉淑夫は何時も山高帽を被っていた印象が有るということ(※渡辺さんに会う記/及川道子、小泉淑夫/「渡邊溫君の死」を悼む より)。
3・また温の死の1年2ヵ月前の新青年には、此様な記事も見られる。

流行の突端を行くものは山高帽です(中略)モダーンと自認する人は、帽子中のヷニテイ・フエア山高帽を用ふべきです。

ばにちい・ふえいあ/新青年昭和4年1月号(P286)

ばにちい・ふえいあの担当者は無記名だが、僕は昭和4年の間は長谷川修二が担当していたのでは無いかと考えて居る。その理由は(1)谷崎潤一郎や辻潤の私生活に詳しいこと(2)欧米映画に詳しいこと。また長谷川修二は服飾を歴史から語り、古典の引用も使って説明をする特徴があるが、そういう面が多少見え隠れして居るように感じる。

また、もう一人の担当者として可能性がある中村進治郎は、昭和3年11月から渡辺温の鎌倉の家に寄寓して居る(※年表/島﨑博編より)。恰度この1月号の執筆〜締め切りの時期になる。

修二にしろ中村にしろ温と親しくしている人間なので、その影響で被ったか、またモダンボーイ同志で仲が良いという事はファッション感覚もそう遠くないだろうと考えられる。
元々山高帽を愛用していた温ならば、シルクハットと共に再び山高帽を手にしていたとしてもおかしくないのではないか。

山高帽に背広姿の男性はモダン都市でよく目にするようになった。

モダン横濱案内/吉崎雅規(横浜都市発展記念館)

渡辺温がよく遊んで居た横浜の資料にはこのような話があり、山高帽の流行が新青年誌上の記事のみならず、実際に街でモダンな男性達が愛用して居たことが推測される。
故に僕は昭和5年の2月9日に温が被っていたのは山高帽であるという説を推したい。

・ヷガボンドネクタイについて

ヷガボンドネクタイがどのようなものか、結論から言うとボヘミアンタイの別名称であった。一般的なボヘミアンタイ=ヷガボンドネクタイはふんわりとしたリボン結びのタイようで、温が締めていたヷガボンドネクタイがその一般的なタイプの物なのか、或いは肖像写真で結んでいるリボンのタイの事を指しているのかは一寸はっきり分からない。
温が事故当日に着用して居たネクタイは、「文学者の墓」に納められているそうなので、お墓の中を見ることが叶えばこの謎も解けるのであろう。

谷﨑潤一郎邸のある岡本
岡本梅ヶ谷(現・梅林公園) 阪急・岡本駅から徒歩8分。夙川の2駅隣で現在の電車で4分掛かる。

阪急岡本駅
おしゃれなお店が多く、賑わっていた。
岡本駅より梅林公園へ向かう道。

岡本駅から梅林公園に向かう道は上り坂で、渡辺温と長谷川修二の気持ちを一層重苦しくしたのではないかと思われた。

岡本公園(梅林公園)入口
谷崎邸があった場所へは更に階段を何度も上がる。
神戸の街や海が一望できる。

寝坊の僕が起きる時分を見はからつて、十二時過ぎに二人でやつて来た。

谷崎潤一郎/春寒

温と修二、二人が訪れた谷﨑潤一郎の岡本の家の写真
http://sunnyside-nn.net/old/sarankaku/phpto.htm

谷崎潤一郎の岡本の家こと「鎖瀾閣(さらんかく)」の復元VR。

現在は梅林公園になっているとの事。

僕はその時まだ寝床の中にゐて、暫く日本間の八畳の座敷に待つて貰つてから会つた。部屋の隅に石油ストーヴを焚き、まん中に火鉢を置いて、それを囲みながら三人が話したのは一時間ぐらゐの間だつたらう。僕と会ふのはそれが三度目だつたと思ふが、茶色のチョッキに背広を着て、黒いヷガボンドネクタイを結び、髪を長く伸にしてゐる姿はいつもに変らぬ渡辺君であつた。元来故人は至つて無口の方だけれども、それがただの無口でなしに、沈黙の裡に一種の聡明を感じさせる不思議な魅力を持った人で、さう云ふ点では同じく故人の親友である岡田時彦によく似てゐる。尤も時彦のやうな好男子ではなく、むしろ武骨な東北人のタイプで、その眼の中に、一と言云へば直ぐに此方の響きが伝はる何物かがある。僕は此の印象を既に初対面の時から受けた。大概の文学青年が、初めての時はろくろく口も利かないで遠慮してゐるものではあるが、渡辺君のはさう云ふ普通の遠慮や気おくれとは違つてゐた。黙つてゐながら頭の中に感じてゐることが此方にも分り、最初から理解が持て、好意が持てた。それはその前に書いた物を読んだことがあるからでもあらうが、決してそのせゐばかりではなかつた。で、その日も催促に来たと云ふ肝腎の原稿の話はあまり多くしなかつた。僕の方も、これが外の人だったら長たらしい云ひ訳や書けない理由を説明したりするところだが、それほどにしないでも分つてゐてくれると云う腹だつた。ただ楢原君が、「今度書いて下さらないと、渡辺は博文館を辞職しなければならないさうです」と冗談交りに云つたのに対して、「そんなことで社員を馘首するやうなら、社の方が乱暴だ。その責任を僕に預けて、義理攻めにするのは困る」と云つたら、「それは嘘です、書いて頂けないでも辞職なんかしやしません」と云ったりした。

谷崎潤一郎/春寒

ここで楢原こと長谷川修二が云った「渡辺は博文館を辞職しなければならないさうです」と云うのは、2月初めに温自身が電話で修二に云った話だ。
修二を脅かした温の言葉を、温の前で谷崎にも伝えるという、二人の関係を思えば一寸した悪戯心のような物だろうけど、その後修二が「文豪からは散々な顔をされた」と書いている事から、緊張感のある空気になったのではないかだろうか。何にせよ修二は当人が書いているように「巻き込まれた」事に他ならない。

何か話をしてくれたら筆記してもいいからと云ふことだつたが、書けない時は口授すると一層進みが悪いので、僕はその申し出を断って、兎に角明日の夕方までに何かしら書く約束をした。渡辺君は翌十日の夜原稿を受け取りに来て、すぐに夜行で立つことにきまり、「それでは今夜は夙川へ泊まりますから、用があつたら電話をかけて下さい」と云って、帰って行ったのが二時頃であつた。僕の家では昼間も門に戸締まりをして置くので、僕は二人を玄関から門まで送り出し、かんぬきを掛けてから、暫く庭をぶらついてゐた。

谷崎潤一郎/春寒

肝心の本人はだんまりで、私が一人で喋らされ、文豪からは散々な顔をされたので、シンが疲れ、早く私のアパートに連れて帰りたかったが、温ちゃんは谷崎の原稿を『新青年』にもらえるのが堪しくてたまらない。今夜は是非のむといってきかない。当時谷崎潤一郎は「蓼喰う虫」の完成後、「卍」に専念で、他は一切断っていたから、よしんば随筆にせよ、雑誌記者渡辺温の一大スクープなのだから、嬉しいのは私も判らないのではない。が、連日の作戦づかれで、私はゆっくり眠りたかった。

長谷川修二/渡辺温ちゃんの事 「日本探偵作家クラプ会報」(昭和三十七年六月一日発行)

※谷﨑邸への訪問が12時頃から14時頃、2時間ほどの滞在となる。この後、14時頃〜深夜1時まで温と修二は神戸で飲み歩く。
※私見だが、谷﨑の視点と修二の視点を比べるとそれぞれの印象が違うのが面白い。

14時頃〜神戸の街へ

神戸を散歩した時や自動車中などは(僕は)大いに頑張つて起きて居た――うつかりすると溫は不案内の土地で迷兒になる――のだが

長谷川修二/愁い顔の騎士 猟奇昭和5年5月号

※修二は殆ど徹夜明けで神戸の街を11時間付き合っていた事になる。「大いに頑張って起きていた」の重みを感じる。
※最初は阪急で三宮駅まで出て、その後二人は栄町(現・みなと元町駅周辺)まで歩いて行ったと思われる。徒歩22分くらいの距離(※google mapより)

神戸三宮駅
三宮周辺。昭和5年にもありそうな雰囲気の看板。
三宮周辺。

あれからあの足で神戸へ廻り、二人とも行ける口であるから何処かで飲んだ戻り道で、恐らく酔ってゐたのであらう。

谷崎潤一郎/春寒

(あとで聞くと、楢原君は十時迄に帰らうと云つたのを、渡辺君が、いつもそんなことに剛情を張る人ではないのに、あの晩は妙に執拗に、是非もう少し附き合へと云って肯かないので、「今夜は渡辺君は変だなあ」と思つたさうである。)

谷崎潤一郎/春寒
中華街

※二人が帰りのタクシーを拾った栄町1丁目がこの中華街の門を出てすぐの場所になる。二人は三宮を散歩し、最後は中華街で飲んだのではないかと思われる。

【温がどうしても飲みたがった理由を考える】
修二と温は大学時代、常に一緒に居た程の仲良しだったとの事。親友とも言える修二が「今夜は変だなあ」と思った程、食い下がって一緒に飲みたがったと言うのだから、温は余程飲みたかったのだろう。人見知りの温が格別心を開いていた内の一人が修二なので、単に酒を飲みたかった以上の意味があるのではないだろうか。
この2日前の温は岡戸と行った中野のバーでママと喧嘩をし、お守りを踏んだ。そして岡戸が温の死を知ったとき「自殺ではないか」と思った事も含め、温はこの頃(本当にこの1週間程度の僅かな期間)少し感情が不安定で、旧友と居る事が楽しくてこの時間を過ごすことに執着したのではないのかと思う。
もしも温の心が満たされて居たのなら……最愛の及川道子との結婚が叶っていたとすれば、修二と遅くまで飲みに行く事はなく、帰途の事故に会うことは無かったのかもしれない等と考えて仕舞う。

今年の冬は寒になっても温かい日がつづいてゐて、その日も朝のうちにちよつと小雨が降つたけれども、もうその時分には青空が見え、季候外れの十二月から綻び初めた梅がちやうど見頃になつてるた。僕は庭の崖下に咲いてゐるその梅の花を眺め、(中略)僕はさう云ふ自分の今の心境が「新青年」の探偵趣味とは甚だ懸隔してゐるのを思ひ、それにつけても渡辺君の期待に添ふものが書けさうもないのを案じながら書斎に這入つた。三時少し前に近所のS君が中書島の駿河屋のうゐらうを持つて訪ねて来た時も、僕の空想はまだ淀川べりの春色を追つてゐて、改造社の地理大系や鉄道省の案内記などをひろげながら頻りに遠足の話をした。さうさう、それから、その日は僕の家の水道のモーターに故障があつて風呂が沸かなかつた。僕は長年の習慣で、朝湯に這入らないと一日頭がほんやりして、体にシマリがなく、仕事をすることが出来ないのである。そんなことで工夫が来たりして、モーターを直して漸く風呂の沸いたのが五時頃。それまでうゐらうで茶を飲みながら相手をしてゐたS君が帰り、僕が風呂から上つたのが六時頃。さて机に向つたのは夕食後の七時か八時頃であつたが、矢張りどうしても筆が動かず、午前一時迄は遂に一行も書けなかつた。

谷崎潤一郎/春寒

※「今年の冬は寒になっても温かい日がつづいてゐて
 温が亡くなった日の事を谷崎は「あの時は寒かった」と十年以上後に回想して居り(※清水俊二/映画字幕五十年より)、とても印象に残って居るようだった。温かな日が続く中で温が亡くなった日だけ一際寒く、その事が谷崎の心情と重なった事が推測される。この随筆を「春寒」という題にした意図を感じることが出来る一文だ。
※庭の崖下の梅=今の岡本梅林公園の地形と重なる。
※中書島=京都市伏見区。京阪線。岡本駅〜中書島駅は現在1時間20分程度の距離。中書島の駿河屋は現在も在り、ういろうも健在。(https://surugaya.jp/pamphlet/miya_chauiro.html

2月10日(月)

午前1時・事故の様子

前日の二月九日は日曜で、午後おそく谷崎邸を辞した渡辺温と楢原茂二は神戸に出て飲み歩き、午前一時ごろ、タクシーを拾って夙川荘に向かった。

清水俊二/映画字幕五十年

※清水俊二は修二・谷﨑と直接面識があり、当人から説明を受けた可能性がある為、この記述も引用する。

そのガレーヂは兵庫の尻池の方にあって、今朝の午前一時頃、そこの車が客を拾ひに神戸の街へ出てゐると、二人が栄町一丁目からそれに乗つた。そして阪神国道を東へ走つて、恰も神戸と大阪の真ん中辺西宮市の手前から左へ折れ

谷崎潤一郎/春寒
温と修二がタクシーに乘ったと思われる栄町1丁目
栄町1丁目付近
栄町1丁目付近2

国道を西宮市の手前で左に折れ、阪急電鉄の風川に出るところに国鉄の踏切りがある。

清水俊二/映画字幕五十年

※清水は「国鉄」と書いているが昭和5年当時は「省線」だった。

省線(JR)踏切だ!


事故現場は大師踏切だと「ブログ:阪急・阪神沿線文学散歩」で特定されている。
谷崎潤一郎「春寒」JR大師踏切のこと

<阪急・阪神沿線文学散歩>様の記事を参考に2018年頃に行ってきました。こちらの記事には感謝しかありません。
google mapより

※阪神国道とは国道2号線のこと。1時頃にタクシーに乗り、踏切事故が1時40分頃であるから、現場だと思われる大師踏切まで当時の所要時間は40分程度。現在も栄町1丁目付近から夙川駅までは車で40分ほど掛かる。車の速度は余り変わらないよう。

(運転手の話)そして霧雨が降つてゐたのでガラスが曇つて見えなかつたこと、中のお客は二人とも酔ってくうぐう寝てゐた

谷﨑潤一郎/春寒

で、夜半まで飲み歩いた私たちを乗せたタクシーは、運転手の不注意から汽車に衝突し

長谷川修二/渡辺温ちゃんの事

温氏を乗せたタクシーが夙川の踏切でバラスを積んだ貨車に衝突し

こんな探偵小説が読みたい/鮎川哲也

※鮎川哲也が「バラスを積んだ貨車」と何処で知ったのか理解らないので、情報元が欲しい所だが、啓助へのインタビュー中の地の文である為、啓助に聞いた可能性も考えて此方の話も引用することにした。

※バラスとは→ https://eyc.jp/news/eyc/882/ 本当にバラスを積んだ貨車であれば、生涯を通じて海に縁があった温の人生の幕引きになった物が、その海に関する物だと言う事に、何処までもお話として綺麗な人生だと感じる。

こちら側からタクシーは踏切を渡った。手前の線路が下りで、奥の線路が上り。

阪急線の風川へ出ようとして汽車の踏み切りを越える途端に貨物列車と衝突した。列車は上りであつたから、北へ向つて進む自動車の左側——而もちゃうど客席の横腹を打ち、そのまま一丁半ばかり引き摺つて停車した。助手と渡辺君は左側に、運転手と楢原君は右側に乗つてゐた。そして最初の一撃に運転台の右のドアーが開いて運転手は跳ね飛ばされ、暫くしてから助手が跳ね飛ばされ、客席の二人は最後まで車内に残つた。負傷の最も軽いのは右の前方にゐた運転手、次ぎが楢原君、次ぎが助手、渡辺君は殆んど身を以つて汽車に打つかつた訳で、額と、頣と、頸部を破られ、その場で意識を失って、

谷崎潤一郎/春寒より

※タクシーは神戸から東京方面へ向かう貨物列車に衝突した。
※一丁半=154m程。

最初の一撃で運転手が跳ねとばされ、次に助手が跳ね飛ばされ、客席にいた渡辺は意識を失い

清水俊二/映画字幕五十年

二月十日午前一時三十分、温ちゃん(渡邊温氏)の乘つた自動車は夙川の踏切で貨物列車に衝突し、温ちゃんのみ一丁餘も列車に引きづられ重傷をおび

岡戸武平/溫ちやんの事ども 猟奇昭和5年3月(2月10日22時頃執筆)

※2月10日、事故当日の情報なので谷﨑からの電報を受け取った後、誰かが電話で詳細を聞いたのであろうか。可能性が考えられるのは横溝が西宮回生病院へ電話をし説明を受け→岡戸を含め周囲の人へ話した、等だろうか。

・谷﨑の話と「一丁餘」は共通して居る。また「列車に引きづられ」というフレーズは同じだが、それが「温のみ」と云う所が違う。
谷﨑が聞いた話では、温と修二は最後まで車内に居たとの事だが、此の話が正しいとするなら、その後改めて温が車外に放り出されて列車の車輪に巻き込まれて引きずられたという事になる。
・亦、横溝の「額にほんのちょっぴり傷があるだけの、生前そのままの温ちゃんの死顔」という描写から、身体には損傷がないと見られ「温ちゃんのみ(略)引きづられ重傷をおび」という事はないと考えられる。
亦、岡戸は1時30分の事故と書いて居るが、宮田新八郎によると1時40分、島﨑博・編の年表によれば1時45分。岡戸の原稿は事故当日に書いた物であり、情報が正確に伝わって居なかった可能性があるのではないかと考えられる。

温をはねた列車はこちら側から来た。事故現場は此のあたり。
電車が走り去った方角。温は右側の白い建物のあたりへ落とされたと思われる。

原稿依頼の件で谷崎潤一郎邸に赴き、その夜おそく帰途についたが昨朝午前一時四十五分、西宮市外夙川踏切で、長谷川修二と同乗した自動車が貨物列車と衝突

渡辺温/年表 アンドロギュノスの裔(薔薇十字社)/島崎博編

衝突と同時に頭が混亂してしまつたらしく、何も記憶に無い。憶えて居るのは、斷片的であるが、衝突現場の踏切番の小舍(まで歩いて來たらしい)の中へ轉げ込んだ事

長谷川修二/愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――

汽車の機関手たちは、邪魔になる壊れた自動車を線路の下へ投げ捨てただけで、そのまま列車を走らしてしまつた。そのため事故の起つたのが一時五十何分であるのに、それから病院へ運ぶ迄に一時間半以上もかかつた。

谷崎潤一郎/春寒

「(温は)五十メートルぐらい押されて、土手の上から転落した。そして亡くなった」

渡辺啓助インタビュー「渡辺温」/ こんな探偵小説が読みたい:鮎川哲也 82P

啓助のこの話は他の記録には無い物で、この文だけ読むと<温だけが車内から飛び出し、列車に50m程押されて土手から落ちた>とも読める。
が、こちらも横溝の「額にほんのちょっぴり傷があるだけの、生前そのままの温ちゃんの死顔」という描写から、温だけが「列車に五十メートルぐらい押され」とは考え難い。そうすれば身体はめちゃくちゃになって居るだろう。
・五十メートルぐらい押されて→谷﨑の記述にあった「一丁半=約1.5m」の1/3。
・土手の上から転落した。→これは谷﨑の記述にある「汽車の機関手たちは、邪魔になる壊れた自動車を線路の下へ投げ捨てた」の事だろうか。大師踏切から夙川方面の線路南側をgoole mapで確認すると、土手と言えるか解らないが高低差があるようだ。啓助の話と谷﨑が運転手から聞いた話をまとめると「温が車内に居る儘で、車を線路がある土手の下へ投げ棄て、温は車外から出てしまい土手の上から転落した」という事になりそうだ。だから転落した温を回収するために「病院へ運ぶ迄に一時間半以上もかかつた」のかもしれない。
・啓助は事故現場に居らず、西宮回生病院にも行ってないので、此れは誰かから聞いた話であろう。「温が土手の下に転落した」という話が鮮烈に残っており、62年後に上記のように話したのかもしれない。

・温が土手下に転がり落ちたという話だとすれば、運転手が谷崎に話していない事はないと思うのだが、凄惨でやりきれない話なので谷崎は直接書くことが憚られ、こうして行間から読み取れるように間接的に書いたのかもしれない。

温はこの白い建物の側の方へ転がったと思われる。

【事故の描写が皆少しずつ違っているので整理をする】

  • 貨物列車と衝突→列車が左側客席を打ち→そのまま1丁半程タクシーを引きずって→列車が停止。

  • 列車の最初の衝突で、タクシーの右ドアが開く→運転手が跳ね飛ばされ→暫くして→前列左側に座る助手が跳ね飛ばされ→後列の二人は最後まで車内に残る。左側後列の温の全身が列車に衝突した状態で、額と顎と首に重傷を負う。

  • 長谷川修二は衝突で頭が混乱しながら、衝突現場の踏切番の小舍まで歩いて転げ込んだ。

  • その間に汽車の機関手たちが温が乗った儘の壊れた自動車を線路の土手下へ投げ棄て、温は車から落ちて仕舞い土手の下に転がり落ちた。

  • そのため温を探すのに時間がかかり、病院へ運ぶのに1時間半以上掛かった。

事故が起きた当時の様子はこのような物だったと思われる。

此の運転手は非常に気丈で、体ぢゅうの痛みを怺へつつ独りで負傷者を運搬したり、近所のガレーヂを起したり、病院へ担ぎ込んだり、警察署へ駈け付けたりした。

谷崎潤一郎/春寒

※ガレーヂ=タクシー会社の事。
※「一人で負傷者を運搬」とあり、温を回収したのはこの運転手と見られる。

楢原君の経験では、踏み切りへかかつたことも、衝突したことも、何も覚えがない。病院へ来て始めて事態を悟つたくらるで、全く恐怖を知らずに済んだ。それほどぐつすり寝込んでゐたのださうである。だから勿論渡辺君も寝ながら汽車に横腹を打たれて、夢中で死んで行つたであらう。その光景の凄惨さに比べて、案外苦しまなかつたであらう。

谷崎潤一郎/春寒
運転手が近所のガレージを起こすなどして駆け回ったのはこの辺りになるのだろうか。(撮影:2018年頃)

現場の踏切は事故が多く、危険な場所だったという話。

夙川の踏み切りは間違ひの多い所で、今迄何人殺されてゐるか知れないのである。北から南へ越すときはさうでもないが、南から北へ越すときは、両側に大きな松の枝があり、踏み切り番の小屋があって、見通しが利かない。それに、これは特に鉄道省の注意を喚起したいのだが、いつたい貨物列車のヘッド・ライトは非常に暗い。上の方にぼんやりと一つ青い灯が燈ってゐるだけである。われわれは日常電車や自動車の灯を見馴れてゐて、ヘッド・ライトと云へばもう少し明るいものと思ひ込んでゐるから、あんな灯では自然油断しがちである。そこへ持つて来て、客車よりも速力が鈍く、石炭も違ふせか、よつぽど近間へ来なければ地響きもしないし煙や火の粉なども見えない。闇の晩など用心深く歩いてゐてさヘビツクリさせられることがあるから、傘をさしてゐたり、耳や眼の悪い老人だつたら、自動車でなくても危険率が多い。兎に角あんな灯で車を走らせるのは鉄道省が不親切である。僕も風川や西宮にはついでがあり、しばしばあの辺の鉄道線路を横切ることがあるけれども、少し廻り道をして堤防の東のガードを越すか、さうでなければ踏み切りの前でエンヂンの呻りを止め、助手を線路へ出してみてから渡るやうにしてゐた。夙川に住む楢原君がそれを知らない筈はないが

谷崎潤一郎/春寒

午前3時10分〜20分頃、西宮回生病院へタクシーの同乗者全員が運ばれる。

西宮回生病院

傷を負った楢原が谷崎先生に電報を打ったのだった。

清水俊二/映画字幕五十年

が、僕の電報云々は全然記憶がない。一體僕は電報を打つ時でも無闇と假名遣ひを氣にしたり、敬語を使つたりして賴信紙五六枚に到る長いのを打つ癖がある。屹途、警官が打つて呉れたのであらう。
 ワタナベ キウシスヨウアルデンワニシノミヤ一二一    ハセガワ
 といふのは如何にも要領を得たもので事變に馴れた警察官の文體である。尤も渡邊や僕の姓名が顏に貼り付けてあつた譯でもないのだから、僕がやつぱり色んな事を喋つて忘れてしまつたらしい。

長谷川修二/愁い顔の騎士

僕に電報を打つたのは、楢原君が会ひたがつてもゐたのだが、警察が立ち合つて欲しいと云つて僕の来るのを待ちかねてあるのであった。

谷崎潤一郎/春寒

左の眼の横の傷を縫合する時に、「絹糸でなくテグス糸の方を使つて呉れ」と云つて頑張つた事(何のつもりで云つたのか判らないが。)の二つである。

長谷川修二/愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――

第一、病院の醫者が呆れたほど僕はよう眠つてしまつた。傷の縫合後直ぐ眠つたらしい。

長谷川修二/愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――

衝突と知つて、もう天命をまつ積りで、友情も體面も捨て、「死ぬ氣で」眠つたのだらうと今から思ひ出して居る。

長谷川修二/愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――

※殆ど徹夜明けで神戸の街を11時間付き合い、酒も飲み事故で負傷したのだから本当に死ぬほど眠かったのだろう。

午前4時35分、渡辺温、死去。

(温は)同四時西宮回生病院で永眠した。同乘してゐた長谷川修二氏は幸ひに輕傷、運転手助手も共に一ヶ月以内に全快のけがであつた。温ちゃんのみ何故しんだのであらう。

岡戸武平/溫ちやんの事ども

※軽傷とみられていた修二だが、結局3週間ほど入院をする。

渡辺温が死んだのは昭和五年の二月十日午前一時四十分頃、場所は阪神夙川の国鉄東踏切。乗っていたタクシーが不定期の上り貨物列車と衝突、一緒に乗っていた長谷川修二と運転手、助手の三名は負傷ですんだが、温は脳底骨折で近くの西宮回生病院に運ばれて間もなく死亡した。

宮田新八郎/渡辺温のお通夜「日本探偵作家クラプ会報」(昭和三十七年六月一日発行)

※正確には事故が起きた時間には死んでおらず、その後に病院で死亡が確認される。

(温は)病院に担ぎ込まれると間もなく死亡した。それが午前五時何十分。

谷崎潤一郎/春寒

※正確には午前4時35分。医者の「もうちょつと前息を引き取られました」と言う言葉から谷崎は5時頃だと判断したのかもしれない。

「あのとき温ちゃんは眠り込んでいました。そのまま人事不省に陥ったのだから、事故の恐ろしさを知らずに天国へ行ったものと思います」(※長谷川修二が鮎川哲也に直接話した事)

渡辺啓助インタビュー「渡辺温」内 鮎川哲也による長谷川修二の回想/ こんな探偵小説が読みたい:83P

事故による脳蓋底骨折が主因となり、午前四時三十五分西宮回生病院で死去。享年二十七歳。
(中略)
昭和四十四年十一月六日 日本文芸作家協会は富士霊園に於いて、文学者の墓の除幕式を行う。墓に温の事故死当日のネクタイと帽子を収める

渡辺温/年表 アンドロギュノスの裔(薔薇十字社) 島崎博編

※事故死当日のネクタイと帽子を収めたということは、現在残って居るシルクハットとは別の帽子を被っていたと言う事になる。ネクタイは谷﨑が書いていた「ヷガボンドネクタイ」になる。

西宮回生病院は海の傍にある。
回生病院のすぐ前の海

【渡辺温と海】
生涯にわたって海と縁があった渡辺温だが、息を引き取った場所も目の前に海がある病院だった。回生病院に海があったという事は、回想録で誰も触れておらず現地に行って目の前にあったことを理解した。皆、突然の事故と死に海など目に入らなかったのだろうと思う。

5時

それからやつと此の原稿の最初の部分を四五枚書いた時僕は鶏の鳴くのを聞いた。
午前五時に僕は三四時間ごろ寝するつもりで寝床に這入つた。

谷崎潤一郎/春寒

5時30分
谷崎邸に長谷川修二からの電報が届く。

電報はさつき一時間も前に来たのださうだが

谷崎潤一郎/春寒

※6時30分に起きた谷崎が「一時間も前」と書いているので、5時30分に届いたという事。

6時30分、谷﨑が事故の報を受ける。

そして呼び起されたのは六時半だつたから、一時間半は安眠してゐた筈なので、寝入りばなを覚まされた僕の意識は、「自動車が衝突した」と云ふことと、「渡辺さんが死んだ」と云ふことを、別々に聞いた。
僕には故人以外にも渡辺姓の知人がある。どの渡辺が死んだのか知らん?——と、咄嗟にさう思ひながら僕は首を擡げて枕頭にある電報を見た。「ワタナベ キウシスヨウアルデンワニシノミヤ 一二一ナラハラ」と読める。しかしそれでもまだ半分は夢見心地で、はつきり事件の重大さが呑み込めなかつた。「待つて下さい、もつとよく様子を聞いて来ます」と、家の者は電報を枕もとに置いて出て行つてしまつたので、電文だけでは渡辺温君が死んだことは分るが、自動車の事故は記してない。僕の家には電話がないので、様子を聞いて来ると云ふのは使ひの者でも待つてゐるのか、或ひはその事故がつい此の近所で起つたのか、それなら此の電報は何のためにいつ何処で打つたのか?——依然として僕は半倍半疑でゐた。電報はさつき一時間も前に来たのださうだが、夜中に届いたのは開けて見ないのが例であるから、そのままにして置いたところ、今しがた西宮の回生堂病院から自動車が迎へに来て、待つてゐると云ふのである。「こちらのお友達が二人自動車で怪我をなすつたのです。お一人の方は命に別条ありませんが、東京からいらしつた方の方はお亡くなりになりました」と、運転手にさう云はれて、家の者は始めて電報を読み、僕を起したのであつた。僕は跳ね起きて、着物を着換へて、裏口から出ると、裏門の前に、鳥打ち幅に白い縦縞の紺の背広を着て薄髯を生やした三十恰好の男が立つてゐて、「どうも相済みません」と云ひ云ひ頭を下げた。外はすつかり明け放れてゐた。僕の住所岡本は昔から梅の名所である。僕の家の生け垣の中にも、片側の空き地にも、自動車の停めてある一二丁下まで降りて行く山道のあひだにも、花は昨日の午後と同じに咲いてゐる。寝坊の僕は自分の住む土地の朝げしきを珍しいものに思ひながら、梅の下枝をくぐつて行つた。

男はしきりに「済みません済みません」と云つた。「君が事故を起したのかね」と云ふと、「私ではありませんが、うちのガレーヂの者なんです」と云ふ。
(中略)
それにしても原稿を筆記させてくれと云つた時、僕が承知して引き止めて置いたらこんな事にはならなかつたであらう。

谷﨑潤一郎/春寒
谷崎邸、下りの視界。「自動車の停めてある一二丁下まで降りて行く山道のあひだ」とはこんな景色だったかもしれない。

僕は車で病院へ駈けつける途々渡辺君と僕自身との因縁を思つた。親疎を云へば、楢原君とは、近い所に住んでゐて時々往復してゐる仲だから、生前三度しか会つたことのない渡辺君と同日の談ではない。しかし故人とのつながりも左様に浅くないのである。僕は少くとも、故人に文壇へ進出する第一の機会を与へた者は自分であつたと信じてゐる。

谷崎潤一郎/春寒

谷﨑邸(現在・岡本梅林公園)から西宮回生病院までは7.7kmで現在車で17分程の距離。
7時前に谷﨑は回生病院へ到着した物と思われる。

【梅の描写の意図を考える】
前日の「季候外れの十二月から綻び初めた梅がちやうど見頃になつてるた。」という描写に始まり「花は昨日の午後と同じに咲いてゐる。」等、梅の描写が詳細で多いのは、温が突然に死んでしまった事との対比として記されて居ると感じた。温暖な2月と美しい花は穏やかな日常の象徴であり、外は昨日と変わらずその光景が続いて居るということ、けれどその中で起きた温の事故死。相反する物を並べると、互いを一層引き立て合う効果がある物だが、谷崎は梅の花を以て「温の死」を深い陰で彩り、自身の心情をそこへ託したものだと思われる。「悲しい」「殘念」などと簡単な言葉では言い表せない感情を、谷崎が愛した美しい景色と、渡辺温の事故と人柄を描写することでそこに託したのだと感じた。

6時50分頃

僕は病院の玄関を上つて、屍体の置いてある手術室へ案内されながら、ふと、もう一度アランの顔を想ひ浮かべた。屍体はあの茶色の服を着たまま、患者を運ぶ車の附いたズツクの台の上に仰向けに臥て、その上を外套で蔽はれ、外套の上から腹のあたりへ両手を載せてゐた。血の附いたワイシヤツの袖口から出てゐる手が、握り拳を作つて、黄色く固く、既に「死んだ手」になつてゐた。「もうちょつと前息を引き取られました、まことにお気の毒です」と云つて、巡査が顔のハンケチを取る。顔にはガーゼが血でぺつたりと粘りついてゐる。頸部の傷口を縫つた痕が堆くふくれてゐる。その傷口から後頭部へかけて、何か棒のやうな物が突き刺さつてゐるらしいと医師は語つた。しかし此の打撃は急所を外れてゐるので、致命傷は脳の内出血か、或ひは胸を強く打つたため心臓をやられたか、念のためにレントゲンで写真を撮つて置きませうと云ふ。左の肋骨を折つた助手と、血だらけなカラーを着けて顔の半分へ膏薬を貼られた楢原君とは診察室に臥かされてた。

谷崎潤一郎/春寒

※温の死因は島﨑博の年表によると「脳蓋底骨折が主因」との事。此處まではっきりと死因が記録されていると言う事は、この後ちゃんとレントゲンで写真を撮り検死された物だと思われる。
(此の十年程の世情を思えば、丁寧に検死をされた点に於いても温は恵まれた死だったように感じてしまう)

朝になつて、部屋の中で一種特有な大聲の會話が耳に這入つたので正氣になつたが、鼻と口が乾いて固まつて居て聲が出ないので、壁を蹴つて看護婦に合圖をした。唇を水で濕[うるお]してもらひ、口の中に水を注ぎ込んで貰つて咳をしたら、鼻と口から黑血の塊が飛び出して、やつと口が動き出した。
 獨特の、と云ふのは谷崎先生の聲の形容である。

長谷川修二/愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――

運転手は服の背中にレールの痕を印しながら、思ひの外の軽傷らしく、起きてストーヴにあたり始めた。
(中略)
そんなこと(※事故の話)を話しながら自分も生きてはゐられないやうに悲観してゐる運転手を巡査が傍から慰めてやつたりいたはつたりしてゐた。あたたかみのある、親切な、いい巡査であつた。

谷崎潤一郎/春寒

ただ、(温の)頭の方の窓際の小卓に、花と線香、蠟燭が形ばかりでも揃っていたのが、わずかに室の空気を柔げていました。これは谷崎潤一郎さんが応急に手配して下さったのだと後で知りました。

宮田新八郎/渡辺温のお通夜

※後に来た宮田の記述だが、谷崎はこのくらいのタイミングで花などを手配したと思われる。

8時〜9時頃

私がワーナー・ブラザースの宣伝部に入社した翌年、昭和五年二月十日のことである。
私が神戸滝道の会社に出社すると、谷崎潤一郎先生から私のところに電話があって、西宮の回生病院にすぐ来てくれという伝言があったという。谷崎潤一郎については前にもふれた。楢原が岡本の谷崎邸にしばしばうかがっていたし、会社の試写室に映画を見に来られたこともあった。私は中学のころから谷崎のファンだったので、着流しで試写室に入ってくる姿を見ただけで胸がどきどきした。だが、西宮の回生病院に来てくれというのはどういうことなのであろう。
私はさっそく、回生病院に話をかけた。しばらく待っていると、谷崎先生が電話に出た。
「先生ですか。何かあったのですか」
「楢原君がけがをして、ここに入院している。渡辺君は死んだ」
「渡辺さんが?」
「『新青年』の渡辺君だ。僕一人なので困ってる。すぐ来てくれませんか」
「新青年」の渡辺温が谷崎先生の原稿をとりに東京から来ているということは聞いていた。どんな事故があったのであろうか。
私は阪神電車で芦屋まで行き、芦屋川にそって海岸まで歩いて行った。西宮の親類の家の関西学院に行っている息子が看護婦の一人と仲がよかったので、私は回生病院をよく知っていた。
どんよりと曇った日だった。

清水俊二/映画字幕五十年45-49P

※出勤時間は博文館を基準に考えると(※乾信一郎/新青年の頃、岡戸武平/博文館の侍たち(幻影城)より)9時頃かと思われる。谷﨑は7時頃に病院へ行き、9時か10時迄2〜3時間程居たと考えられる。現在、ワーナーブラザーズがあった三宮から西宮回生病院まで行くには電車と徒歩で48分程度掛かる。

私が谷崎先生が待っているという空室の病室に入って行くと、先生はがらんとした病室のすみにうずくまっていた。火のない箱火鉢の前でタバコを吸っていた。和服の上に黒いトンビを羽織っていた。
「先生、どうも申しわけありません」「いや、君が来てくれて助かった。あとを頼みます」
私は病院の玄関まで、谷崎先生を送って行った。玄関から一直線につづいている砂利道を背中をまるくしてゆっくり歩いて行く谷崎潤一郎の姿をいまでも目に浮かべることができる。

清水俊二/映画字幕五十年45-46P

私は戦時中、思いがけぬ要件で、来宮の谷﨑邸に招かれたとき、渡辺温の話をすると、
「そうだったね、君に来てもらったね。あの時は寒かった」
といわれた。あの日のことを谷﨑先生はよく覚えていた。

清水俊二/映画字幕五十年48P

温ちゃんは不慮の死をとげ、私は自分でも気に入っていた折角の左半面を台なしにした。三十余年後の今日でも、私がつッ放して帰ってしまったなら、温ちゃんはまだ健在でいるだろうと感じる。

長谷川修二 /渡辺温ちゃんの事 「日本探偵作家クラプ会報」

※室伏高信の「孤独な人々」の中で、長谷川修二は「眉目秀麗」と云われて居る。此れは室伏の私小説及び自伝的な作品である為、修二の印象は実際の物だと考えられる。他人から眉目秀麗と云われて居た分、自分でもその顔が本当に気に入って居たのだろう。

ところがその翌日、出張先の兵庫の夙川で乗っていたタクシーが踏切事故を起こして死んだという電報が博文館へ入ったもんだから、皆もうびっくりしてしまって……」

岡戸武平/幻の探偵作家を求めて「蠢く触手」の影武者・岡戸武平(インタビュー):鮎川哲也著

横溝 そうそう。あのときはビックリしたよ。ぼくは小日向台町に住んでたの。「オンチャンシス スグコイ」谷崎潤一郎の電報なの。それは社へ来たのね。社からその電報を持ってきた。ぼくはそのときは「文芸倶楽部」で、オンちゃんは「新青年」で水谷君の助手だったけども、一番縁が濃いもんだから一番初めぼくンとこ来て、朝早くでしたね、ぼくはビックリして社へ出たよ。それですぐ水谷君がやってきて、二人で引き取りに行ったんだけどね。

横溝正史読本 小林信彦・編集(角川文庫版)40-41

※文中では一貫して「渡辺君」と呼んで居た谷﨑が、横溝への電報で「温ちゃん」と書くのか疑問はあるが、もし本当に谷﨑が「温ちゃん」と電報を打ったなら、それはそれで微笑ましい。この対談の中で横溝は、水谷と二人で温を引き取りに行ったと話しているが、実際は妻のマリも一緒だった事もあり、この辺りは話のテンポが良くなるようにと全体に横溝流の編集が入っている可能性も考えられる。

その渡邊君が病氣ならばいざ知らず、社用のため關西に赴いて、突如急死せりとの報を眼にした時、僕は自分の神經を疑ひ且つ笑つたものだ。「APRIL FOOL」僕は口に出して云つた。

水谷準/渡邊溫君の死 新青年昭和5年4月1日(昭和5年3月1日印刷納本)

運転手と同行の長谷川修二さんは怪我の程度で済み、温ちゃんだけ即死。——この電報が博文館に入ったとき、私は事故死ではなく自殺ではないかと横溝さんにいった記憶がある。

岡戸武平「渡辺温ちゃんの死」幻影城1976年8月号

※2月7日にバーで喧嘩してその3日後だ。岡戸妻に「プラーグの大学生」のようと云われた温だったから、岡戸から見て憂鬱で繊細そうな表情が何時もより危うそうに見えていたのかも知れない。

一九三〇・二・一〇 此の作半に、渡辺温氏の訃報を聞く。噫!

竹中英太郎 新青年昭和五年四月号 P173 (葛山二郎/霧の夜道の挿絵)

※竹中は横溝・渡辺時代に陰獣の挿絵で新青年デビューした縁/wikiより 竹中は2月10日の事故当日、博文館の人間に聞いたか新聞で知ったかの何れかだろう。

昼頃、夕刊が温の死を報じる。

当時私は大阪朝日新聞の社会部にいたので、この交通事故を夕刊早版で知り、すぐ西宮の病院へかけつけました。渡辺、長谷川両君とは学生時代からの友人だったからです。長谷川君は顔を包帯でぐるぐる巻いて寝ていましたが、割合元気で医者の話では三四日で退院できるだろうとのことでした。
しかし、温ちゃんの方は変りはてた姿で、病院の担車に乗せられたまま、玄関脇の寒むざむとした小部屋——多分待合室だったでしょう——に置かされていました。傍には人気もなく、それは治療室に運ぶ前に生命絶えてしまったので、そのままそこに置き忘れられたといった感じでした。実状は死体収容室が満員のため病院としてやむを得ない処置だったということでした。とにかく天井の高い殺風景な室で、担車の上にある遺体は着ていた外姿を頭からすっぽりとかけて顔だけはかくしてありますが、縞ズボンの足の方はまる出しです。ただ、頭の方の窓際の小卓に、花と線香、蠟燭が形ばかりでも揃っていたのが、わずかに室の空気を柔げていました。これは谷崎潤一郎さんが応急に手配して下さったのだと後で知りました。

宮田新八郎/渡辺温のお通夜「日本探偵作家クラプ会報」(昭和三十七年六月一日発行)

※宮田新八郎は横溝と温を繋いだ人物。清水俊二の「映画字幕五十年」によると神戸で働く長谷川修二とは関西でも普段から交流があったとのこと。

此の『新時代に生きる』を撮影してゐた時に、私に取つて一生涯忘れる事の出來ない、餘りにも悲しい、餘りにもむごたらしい、どうして其の日を忘れることが出來るでせう!
 それは私の小學時代から築地小劇場時代、それから蒲田に入るやうになつてまで——私の半生の大部分に亘つて、私を劬(いたわ)り励まして、よりよい人間になるようにと導いて下さつた、よき愛護者たる兄であり、また良き指導者たる先生であつた恩人の渡邊溫さんが、亡くなられた日なのです。
(中略)
「道ちやん、渡邊さんが……」
「渡邊さんが、何うなさつたの、お母さん?」
 只ならぬ母の聲に驚いて、思はず駈け寄つた私が、父の打ち慄える手に擴げられた夕刊を覗き込むと、
 渡邊溫惨死す!
 いきなり、大きな活字が、私の目を蔽ふてしまつたのです。
 私は、私の全身から、さツと血潮の失せてゆくやうな、寒さを感じながら、また、蹣跚めく足を踏み耐へようとしつヽも、なほフラフラと崩折れさうになる體を支へて、漸くの思ひで自分の部屋へ辿り着くと、我れを忘れたやうに、机の前に坐り込んで、渡邊溫探偵小説全集を取つて、その口繪の寫眞を開きました。見馴れた黑の洋服に、いつもの寂しさうな顏をして居られる渡邊さん! 見つめてゐるうちに、其の寂しい顏が、寫眞の中から抜け出して、私の頭を、胸を、いつぱいにしてしまつたのです。
「道ちやん、泣いてばかりゐないで、渡邊さんが天國へ行つて、神樣のお側へ行かれるように、靜かにお祈りしておあげなさい。」
 私のことを案じて、部屋に入つて來られた母が、優しく私の肩に手を置いて、仰言られた言葉を聞くと、私は却つて悲しさが込み上げてきて、思はず其處に泣き伏してしまひました。
 けれどもそれから暫く經つて、私は自分の泣き聲の中に混つて聞こえる別の聲を耳にして、思はず電流に觸れた時のやうな、激しい身震ひを感じました。
「道ちやん、これからも、しつかり遣つてゆかなくては駄目ですよ。」
 それは、忘れることの出來ない、あの懐しい渡邊さんの聲なのです。渡邊さんは生きて居られる。そして、私を見守つて居て下さる!
「渡邊さん、道子はあなたのお教へ下さつた通りに、有らん限りの力を注いで、傑れた映畫を作るために此の身を捧げ、そして、立派な俳優となつて、御恩にお酬ゐ致しますわ。」
 靈(みたま)の安けさを祈りながら、私は心の中で堅く誓つたのです。

及川道子「いばらの道」 154−158P

※『新時代に生きる』は岡田時彦との映画だが、岡田の体調不良により中断。

及川道子が机の前に坐り込んで手に取った本と同じ物。
及川道子が見て居た写真。


【温と道子の関係を考える】
・「見馴れた黑の洋服」とはモーニングの事。このモーニングは「影」の賞金で仕立てたらしく、それは及川道子との交際時期とも重なる。道子が見慣れているということはデートの時によく着て行ったのかもしれない。
道子は理知的な文章を書く印象があるが、温の一張羅のモーニングを「モーニング」と書かず「黒の洋服」と大雑把な表現をして居る辺り、メンズの服に興味が無く、温自身も道子にお気に入りのモーニングに対する蘊蓄語りや自慢めいた話をしていなかった事が感じられて、こんな所に二人の関係が垣間見える気がする。
・「いつもの寂しさうな顏」とあるが、最愛の道子の前で何時も寂しそうな顏をしていたと云うのは、結核の彼女と何時か訪れそうな別離を思って寂しい顏が出てしまって居たのだろうか。或いは「愁い顔の騎士」と自称していた様に、何時でも何かを考えて物事を愁いて居たのか。
・死んだと聞いて眞先にこの本を開いて写真を見た道子だが、他に温の写真は持って居なかったのだろうか。温は友人とのスナップ写真を残しており、道子ともスナップ写真を撮っていない訳ないだろうと思うのだが、お互いに別れた時に処分したのかもしれない。因みに温は及川道子のブロマイドをずっと持って居たとのこと。(※神奈川近代文学館「新青年なるもの」展でも展示)

参考:1929年大晦日公開の映画。岡田時彦と及川道子。

自分とは、何の関係もないのですが寝覚めの悪いような思いをしました。

城昌幸/「横溝編集長の頃」幻影城増刊 1976.№18 「横溝正史の世界」より

※東京で最後に飲んだ相手、城昌幸にも深い印象を残した死になった。

 彼の死後直ちに築地小劇場から、戯曲の筋でもノートにあつたら、上演したい」といつて來てゐることを聞いて、殘念さは更に倍加する。

小泉淑夫/「渡邊溫君の死」を悼む 三田文学昭和5年4月号

※当時の築地小劇場は昭和3年の小山内薫の死後、2つに分裂して居た。

夜 宮田新八郎による仮通夜

醫局の方では遺骸を置きつぱなしにしておくわけにも行かないから、今夜一晩誰かお通夜をしてもらひたいといふし、これは一晩一人でしみじみと渡邊君のそばで明かさうと決心してゐた時、夕刊で見たがといつて殿村氏が現はれた。
殿村氏は、奥さんが渡邊君の従姉に當り、自分自身は渡邊君の兄さん(圭助さん)の幼な友達だ、といふことだつた。僕は初めて會ふ人ではあつたが、殿村氏と同じ會社に僕の友人が勤めてゐたりなんかして、初對面とはいひながら、間接に話は聞いてゐる人だつた。
「僕も一人でお通夜する覺悟でゐましたよ」と殿村氏もその時いつてゐたが、お通夜の相棒が出來たので、僕はほつとした氣持ちになつたのだつた。
僕は落ち着いてゐるつもりでやはり幾分上がつてゐたのか、氣がつかなかつたが、「あれではあまりひどいでしょう」といふ殿村氏の意見で、醫局に交渉して、やつとその時になつて初めて渡邊君の顏の血を拭ふたり、白い布を探さして遺骸を覆ふたり、線香と蠟燭をととのへたりしたのだつた。
醫局では、相憎今夜は死骸収容室は滿員なので、遺骸はあの室に置いたまゝで我慢してもらひたいといふ話だつた。
僕達は夕方一度家へ歸つて出直して來て、いよ〳〵寂しいお通夜にかゝつた。
由來お通夜といふものは、しめつぽさを消すために、わざと賑やかにやつたりするものだが、渡邊君のお通夜は、賑やかどころか、陰氣を通り過して、陰惨といつた方が當つてゐるものだつた。
その日は朝から底冷えのする寒さだつたが、夕方からは風さへも出て、夜の更けるに従つて寒さは背中のあたりから刺すやうに身に沁みてくる。窓ぎはの小卓の上に蠟燭と線香を飾り、遺骸のある寢臺車のそばに火鉢をはさんで、向ひ合つて椅子にかけた殿村氏と僕は、變に興奮した氣持ちで渡邊君のことや探偵小説のこと等を語りあつた。
宵の中、事故を起こした自動車の營業主がその友人とかいふ男と一緒にお通夜に加はるといつて來てゐたが、僕にしろ、殿村さんにしろ、さういつた人達にゐて貰ふのは氣づまりでもあるし、又却つて不快でもあつたので、無理に朝までをられる必要はないからといつて、十二時前に歸つてもらつたのだつた。
僕は寒さの増して行くにつれて、ウイスキーを持つて來るのを忘れたことを後悔しながら、煙草ばかりぷか〳〵吸つてゐたし、煙草を吸はない殿村氏は幾分この煙攻めを迷惑に感じながらも、何や彼やと話題を求めては巧に話して行くのだつた。
そして時々思ひ出したやうに卓子の上を見ては、交代に線香や蠟燭を田らしいのと取換えへた。
その中にやつと窓の外がうすら明るくなつて來た。僕達は長い航海を終つて、やつと港に近づいたといつた氣持ちだつた
「夜が明けて來たやうですね」さういひながら僕は窓を開いてみた。外には、白いものがちら〳〵と降つてゐた。
「おい、温ちゃん雪が降つてるね」かう呼びかけたいやうな氣持で窓を閉めながら渡邊君の方をふり向いたのだつたが、その時僕は冷いものが襟足から流れ込むやうな驚きを感じた
渡邊君の遺骸に掛けた白布は短くて、膝から下は初めからにゆつと突き出てはゐたのだが、その時見ると、彼の足は晩には確にきちんと上を向けて揃へてあつたのが、爪先の方が六十度位の角度で左右に開いてゐるのではないか。
勿論これは死後硬直によるもので、考へてみると別に不思議はないのだが、黑い靴下の二本の足が、白い壁と白い布をバツクにしてニユツと飛び出してゐる、しかもそれが數時間前とは少しばかり變つた形をしてゐるのだ。僕は暁のうす明るさに見たその足だけが、今でも眼の底に殘つてゐる。

温ちゃんのお通夜/宮田新八郎(オアシス昭和9年2月号)

※正式には「仮通夜」と呼ばれる物になる。(参考:小さなお葬式
この通夜の樣子を知る貴重な文章で、区切りなく殆ど引用したが情報を整理する。

  • 温の事故を知り駆けつけた殿村氏は、温の従姉の夫で啓助の幼馴染みとのこと。

  • 事故を起こしたタクシー会社の営業主とその友人の男が一緒にお通夜に加わって朝まで居ると言って来たが、十二時前に帰って貰った。

  • 夜明けに雪がちらついていた。

 私が、お通夜の晩に強く感じたことは、人の命のはかなさもさることながら、人生というものはほんの一寸したことで思いがけない路をたどるものだ、ということでした。これは、私と温ちゃんとの関係、そして彼と「新青年」と、更に奇禍との結びつきを考えてみて、人間の生涯には如何に”偶然”が大きな働きをしているかを知ったからでした。といいますのは、彼の死が全くの偶然であったように、私が彼と知り合ったのも、また私が横溝正史氏を知り、後に温ちゃんを横溝氏に紹介することになったのも、そして最後に、彼の死後こんな役割をすることになったのも、ほんの一寸したことからで、これは”偶然”とか”運命”とかいう以外に説明のしようがないからです。

宮田新八郎/渡辺温のお通夜「日本探偵作家クラプ会報」(昭和三十七年六月一日発行)

横溝・水谷・妻まり、関西へ向かう。

 私は今、神戸へ急行した横溝、水谷兩兄とまり子さんを見送つて家へかへつて來たばかりだ。落着いて物が書いてゐられない。いづれ時日が終わつて、ゆつくり回想の出來るやうになつたらまた何か書かせて貰ふとして——
 今恰度十時、汽車は箱根にかゝつてゐる頃だらう。 (十日夜記)

岡戸武平/溫ちやんの事ども

※妻は「まり子」ではなく「まり」。
※今回沢山引用したように、岡戸は実際その後温の回想録を残している

横溝ら3人が22時の時点で箱根辺りにいる列車に就いて。
この当時、神奈川県足柄郡(箱根)にある「山北駅」は東海道本線の駅で、西へ行く際に通過した。

山北駅:1889年明治22年)に開業した国府津駅 - 沼津駅間の東海道本線は、現行の熱海駅経由のルートでは山岳地帯を通過することから建設が困難とされたため、御殿場駅を経由するルートで建設された。そのため、山北駅も東海道本線の駅として開設された。

Wikipedia

故に「箱根にかかっている頃」と言うのは山北駅通過の意味と見做す。

東京19:35発 → 山北駅 午後21:48 (次が22:51)→ →大阪着8:08

昭和四年五月 第四一五號 公認汽車汽舩旅行案内 42Pトの段

時刻表によると山北駅21:48着が「箱根にかかっている」に最も近い。その次の山北駅着は22:51になる。
横溝・水谷・妻マリは東京19:35発の列車に乗っていったと思われる。
現在の行き方なら、東京駅→大阪駅→阪神列車で西宮、というルートになるよう。現在で梅田−西宮間が30分程度なので、8:50〜9:00頃に3人は到着したと考えられる。

2月11日(火)

そして翌朝、東京からマリ夫人、渡辺啓助、水谷準、福田耕太郎、広瀬将の諸君が殺気だった賑やかさで到着された時には、一度に肩の荷が降りた思いでした。

宮田新八郎/渡辺温のお通夜

※東京から来たのは渡辺啓助ではなく横溝正史の間違いでは無いかと思われる。
1・横溝正史は病院へ駆けつけた。横溝本人、岡戸武平の記述にある
2・渡辺啓助と横溝正史は東京の横溝邸でのお通夜で初めて会ったとお互いに書いている。
3・啓助は西宮へ行ったという話を残していない
以上の理由により、宮田の記憶違いではないかと思われる。
※福田耕太郎、広瀬将が来ていた事は宮田しか記録して居ないが、横溝・水谷が書かなかったのは、一緒に東京から行った訳ではないこと、福田、広瀬、宮田共に一般的には有名な人では無い為、随筆の娯楽的要素を高めるためにカットしたのか、と思われる。福田、広瀬共に温と啓助共通の友人であり、学生時代はそれぞれと共に下宿をしていた時期がある。

谷崎氏の電報によって水谷準君とマリさんと三人で、急遽駆けつけた私は、事故が事故だから、さぞやむごたらしい亡骸に対面することだろうと思っていたのに、案に相違して、額にほんのちょっぴり傷があるだけの、生前そのままの温ちゃんの死顔に接したのが、せめてもの慰めであった。眠っていた温ちゃんは、なんの恐怖も苦痛も知らずに、天国へいったことだろうということだった。ときにかぞえどしで二十九歳。まことに温ちゃんの遺した珠玉の短篇のような生涯だった。

横溝正史/惜春賦

※実際は宮田が居たと考えられる。親戚の殿村は帰宅したかどうか不明。福田、広瀬はその後の到着だろうか。

小林 先生は谷崎さんとはご面識が……。
横溝 そのときお目にかかっただけ。そのときもっと取り入りゃ、よかったのナ(笑)こっちはもう、あがっちまって汗ばっかかいてンだよ。谷崎さん、岡本にいらした時分だな。

横溝正史読本 小林信彦・編集(角川文庫版)40-41

※谷﨑は11日の朝にも病院へ来ていたという事。火葬までは居なかった様子。温の葬式に谷崎からの香典があったことから、此の時に香典を持ってきた可能性がある。

その日皆と一緒に火葬場への途中、家々に日の丸の旗が翻っているのが疲れた目にまことに鮮烈で、あゝ今日は紀元節だったと気のついたことを、今でも覚えています。その後長い間、紀元節の国旗をみるたびに温ちゃんの死と西宮海浜の病院の一夜を思い出しました。

渡辺温のお通夜 / 宮田新八郎 探偵作家クラブ会報

※「皆と一緒に」とは、宮田の回想録に出てくる「皆」なので、横溝、水谷、マリ、福田、広瀬、宮田、恐らく殿村、以上7名であろうか。
※2月11日、現在の建国記念日。当時は「神武天皇の即位日」として定められた祝日「紀元節」だった。(参考:Wikipedia)

春にしては肌寒い、ある晴れた朝、わたしは思いがけない場所で骨となったオンチャンと最後の別れをした。
わたしの耳に「アイ・アイ・アイ」の舌がもつれるような唄声が残り、今でもそれを思いだそうと思うと空中を流れてくる。

水谷準/記憶の断層

※この日の気温は最高気温4.5℃、最低気温0.4℃、平均気温1.3℃で前日より平均4.6℃も低い、本当に寒い日だった。(参考:気象庁
※「ある晴れた朝」「骨となった」とあり、朝のうちの火葬と思われる。亦、火葬は午前中が一般的との事。(参考:セレモニア平安会館)
病院への到着が、9時前と思われる事と「朝」という表現のため、火葬は9:30-10時台ではないかと思われる。

温が唄っていたという「アイ・アイ・アイ」。この曲ではないかと思われる。個人的には渡辺温の文体に通じるメロディーを感じて、非常に温らしく感じる。

「新青年」の「春寒」の通り、渡邊溫は死んでしまつた。しかし僕には未だに彼が生きているとしか思へない。屍體に直面するのが苦しかつたので、僕は良心と友情に勘免して貰つて、溫の姿を見ないで終る事にしたので、今も東京か鎌倉あたりに溫が居て、こんな原稿を讀まうものなら、ひでえ奴だお前は、とか何とか云ひながら、ニヤニヤ笑ふだらう、と許り想像する。

長谷川修二/猟奇昭和5年5月 愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――

※修二は事故の後、温を見ず火葬も行かなかったと言う事。怪我もあり東京の葬儀にも行っていない。

温、骨になって東京へ帰る。

恰度「汽車汽舩旅行案内」に遺骨の運び方が掲載されて居たので、引用する。

通常小荷物の運賃は左表の通りです 但し最低運賃金十五銭
七斤迄/五百哩迄 四十
十斤迄/五百哩迄 五五

昭和四年五月 第四一五號 汽車汽舩旅行案内/16P小荷物 

死體及遺骨
三、容器に納めたる遺骨の運賃は通常小荷物運賃の二倍で其の最低運賃は三十銭です。

昭和四年五月 第四一五號 公認汽車汽舩旅行案内/17P小荷物

・東京−大阪間の新幹線 552.6km(ダイヤモンドオンラインより)=約342哩
・成人男性の遺骨:3kg (参考:葬儀の知識)或いは1.5〜2.5kg
・骨壺の重さ:6寸壷 約1.6㎏/ 7寸壷 約2.8㎏ (参考:知恵袋

骨壺に就いて
東日本では骨壺は7寸サイズが主流/西日本では3〜5寸サイズが主流(拾い上げる骨の数が東日本より少ないため)
参考→ひとたび」より
参考:葬祭にも関西の地域色 - 日本経済新聞 <明治時代からの習慣。政府が全ての遺骨と遺灰を持ち帰るよう通達を出し、関東では全てを収骨する風習が定着した。だが「関西人は東京への反骨心から言うことを聞かなかった」>


渡辺温の火葬に就いて】
・火葬→関西 ・葬式→東京 ・両親→秋田出身 ・墓→茨城。
この場合は一体、関西式・関東式、どちらでの収骨になるのだろうか。

火葬場の人が関西式しか知らず、関東より少ない収骨になった可能性もあるが、希望が出せるのならこの後埋葬される墓が茨城で関東と決まって居る為、関東式での収骨になったのではないだろうか。
温の墓がある茨城県日立市(当時は助川)鏡徳寺の渡辺家の墓は、温の父の代からの墓になるが、温が亡くなる前にも渡辺家は家族を亡くして居るようで墓碑がある。助川は渡辺家にとって元々地縁の無い場所だったが、温が亡くなった時には既に菩提寺となる寺があった。

写真を見ると温の体型は小柄〜平均と思われるので、仮に2.3kgとする。
2.3kg(骨)+2.8kg (7寸壺)=5.1kg =8.5斤
⇒十斤迄 / 五百哩迄 五五銭 の2倍。 一円十銭。

【結論】
・温の遺骨を運ぶ汽車賃は1円10銭だったと考えられる。


・帰宅時の列車を推測する。

・大阪発12:25-東京5:30( P59ヌの段)
・大阪発18:30
-東京着7:00(P43)

昭和四年五月 第四一五號 公認汽車汽舩旅行案内

※午後の特急は18:30が一番早いが、その前の12:25に乗れば時間は掛かるが翌朝5:30に東京に着く。
・啓助が通夜に行ったのが「しらじら明けの刻限」と言う事(昭和5年2月12日の日の出は6:32/ 参考→1930年2月の日の出日の入りカレンダー
・啓助は12日の横溝宅の通夜での辻潤の読経を聞いたということから、5:30着の便に乗った可能性が高いと考える。
(仮に7:00着なら啓助が横溝に会ったのが13日の明け方という事になり、そうなると辻潤の読経を聞くことが出來ない為、辻褄が合わない。亦、辻潤が森下宅の告別式でも読経した可能性を考えたが、独特の読経に就いて小泉淑夫が通夜の話として書いている為、啓助が同じ読経の話をしていると考えた)
※後述に引用するが、温の葬式に「谷崎潤一郎」「楢原茂二(長谷川修二)」「楢原友人一同」から香典が届いている。名簿上同じ並びに書かれているため、3つまとまって関西から届いたと考えられる。此の帰途では香典を預かっていたのかもしれない。

12日(水) 横溝正史宅での通夜

5:30
横溝、水谷、まり、温の遺骨、東京に到着。

6時頃

通夜は横溝正史邸であったと思う、たしかお通夜の晩だった。晩といっても、すでにしらじら明けの刻限であったと思うが私は初対面のヨコセイと(弟が横溝正史先輩をそう呼んでいた)相擁して働哭した記憶がある。
文字通り相擁したその瞬間が初対面そのものなのである。このヨコセイという素晴らしい人物の天衣無縫な人柄を、この瞬間的初対面の場において、私は正に肌をもって感じとることができたのは実に感しいことであった。

渡邊啓助/鴉白書(9-10P

その夜私のうちの狭い二階で通夜らしきことをやった。そのとき私ははじめてお兄さんの啓助さんと会って、相擁して泣いた。

横溝正史/惜春賦

※しらじら明け=世が明けようとして空が次第に白くなりはじめる頃。
昭和5年2月12日の夜明け5:59、日の出6:32
参考:1930年2月の日の出日の入りカレンダー

※当時の啓助は群馬県渋川に住んでいた。(※ネ・メ・ク・モ・ア 年表・昭和4年の項参照)そのため、渋川から駆けつけたと思われる。渋川から朝6時前後に東京へ着くには、渋川を前日18:07時頃に出発する必要があり、その儘列車に乗れば19:55高崎経由で23時11分に上野に到着する。(昭和四年五月 第四一五號 公認汽車汽舩旅行案内/P169,167)

※また、横溝ら3人が小日向台に着く時間と、啓助が対面したという時間が一致して居る為、啓助は前日深夜から横溝宅へ行き、3人と温の遺骨を待って居た可能性が考えられる。横溝宅で通夜という話は啓助が博文館に問い合わせれば知り得ただろう事なので、啓助が横溝宅で待って居た可能性はあり得るのではないだろうか。/ 横溝らが帰りの列車の時間を啓助に連絡していればこの時間に落ち合う事は可能だが、当時の電話の普及率等を考えるとそちらの可能性は低いのでは無いかと思う。

※啓助が(恐らく)西宮回生病院へ行っていない理由を考える。

  1. 温の死を夕刊で知り、渋川からでは翌日の火葬に間に合わず、行っても皆ともすれ違いになり徒労に終わるから。

  2. 博文館に届いた電報が速報だった訳だが、皆混乱して啓助へ伝えるという事が念頭になく、また温を通じて時々寄稿していた程度の縁だったため、ちゃんとした連絡先を知っている者が居なかったのかもしれない。今と違い、住所録がすぐにスマホやパソコンで出る時代でもないし、横溝水谷はバタバタしてすぐに出て行き、新青年以外の社員と荒木十三郎では啓助に伝える術は解らなかった、という事があったのかも知れない。

  3. とはいえ温の実家には伝えなかったのだろうか? と思うが皆、慌ただしくてそこまで気が回らなかったのかもしれないし、これもやはり実家の住所が判らないと言う事ではないかと思われる。乾信一郎によると、博文館入社にあたって辞令もなく給料も口頭で伝えられただけなので(※乾信一郎/「新青年」の頃 参照)、履歴書や社員のデータなどは特に無かったのかもしれない。

同月十二日 横溝正史宅で通夜。

渡辺温/年表 アンドロギュノスの裔(薔薇十字社) 島崎博編

純真な温ちゃんは生涯ひとりの女性を愛しつづけた。その女性に失恋してから、温ちゃんの好きになる女性は、みんなどこか最初の女性に似ていた。お通夜の席にはその女性もつらなってくれたが、そのひとを連れてきてくれたのはたしか辻潤氏ではなかったか。

横溝正史/惜春賦

※辻潤が連れて来るまで、及川道子は温の葬式に行っていない言う話だが、道子は遠慮をして居たのだろうか。道子は1月末〜2月初頭頃に新青年の企画で対談をしているので(掲載は4月号/奇しくも渡辺温追悼号)、全く縁が無い会社ではないので、問い合わせる事は可能ではないか、と思うが。或いは温と道子の事情を知っている横溝か啓助が声を掛けても良さそうな物だが、混乱の中でそれどころでは無かったのかもしれない。

「馬鹿だなア。畜生! 贅沢は云はない。もう半廻轉車輪が早いか、遅いかするとなあ。」
 二月十二日小日向臺町横溝氏の宅で菜っ葉服を二枚重ねた辻潤氏の、苛々した聲が、突然靜けさを破る。佐藤春夫氏から贈られた、生前故人が嗜んだ灘の生一本が、ウイスキーと共に、靈前に供へられてゐる。ナミ〳〵と黄金色を湛へてゐるのが、今更恨めしい。空々しい僧侶の讀經の聲よりもダダイスト辻潤氏が、涙と共に贈る友情のお經が、切々として胸に浸み入る。心なしか香華の烟る裡に、安置された生前の姿が、ほのかにほヽえむ。静寂のうちに、森下雨村、長谷川伸、辻潤、水谷準、横溝正史等のうなだれた顏が一しほ眼についた……

小泉淑夫/「渡邊溫君の死」を悼む 三田文学昭和5年4月号

※菜っ葉服=工場労働者などが着る、薄青色の作業服。(参考:https://trafficnews.jp/post/108810
※佐藤春夫は新青年へ寄稿した縁だと思われる。

それから、お通夜についてもう一つ記憶に残っているのは辻潤のことである。彼は温の交友のひとりで、当時すでに醇乎たるニヒリストとして知られていた(松尾邦之助著『辻潤の思想と生活』参照)。その辻潤が温の柩を前にして、般若心経を高らか誦経したのであった。彼は本来英文学者であったが仏教の素養も深く比叡山で修行し、般若心経もそこで学んだといわれているだけあって、職業的僧侶のそれとは違った風格があり、その声音に異様な浸透力があった。
あの般若心経の結びの「ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか」が、その後、私の口ぐせになってしまったほど、感銘を受けた。もっとも、私がそれをやると、ハミング的な軽い調子になってしまうが、辻潤の声はもっと苛烈に私の心耳に浸み通ったことは云うまでもない。

渡邊啓助/鴉白書(9-10P

遺骨の小箱にしがみついて、赤子のやうに泣きくづれた、若い夫人、マリさんのいたいけな姿等々……
 追憶は次ぎ次ぎと濡れた網膜の上を掠める。
 僅か廿九歳。多大の才能を抱き、賣名が嫌ひな彼が、僅かに「新青年」作家としてその一生を終り、然かも多くの作を遺さなかつた彼を、私は心から殘念に思ふ。

小泉淑夫/「渡邊溫君の死」を悼む 三田文学昭和5年4月号

※当時は数え年なので「29才」と言われている。満年齢では27才。

昭和五年二月十日 渡辺温供物申受帳
茨城縣助川町 渡辺伊太郎様
小石川区博文館 水谷準 三月十四日

博文館/編輯部/営業部/星??/森下/楢原令兄?/共同印刷/古橋邦夫/博文館?/博文館?/横溝水谷/長谷川伸/中川史朗/内藤賛/小堀史朗、?二(連名)/和田精/平井太郎/塚本?/谷崎潤一郎/楢原茂二/楢原友人一同/??㐂一/松野一夫/モナミ(銀座モナミ、小堀史朗のハガキに出てくる飲食店)/中数達?/和田??/荒木稔 /延原謙/真野律太/??/林彦大?/田中早苗/及川道子/加藤教男?/???/山田情
花束:及波昌子?/友人一同/佐々木謙彦/??/初山滋
果物:山田情?/少林??/福田耕太郎
花輪:博文館/編輯部
金弐円:北垣次郎/尾崎三郎

昭和五年二月十日 渡辺温供物申受帳 / w.w.w. 92-93P

※崩し字につき判別が難しかったです。間違いがあるかもしれませんので、判読出来る方が居れば教えていただければ幸いです。


温に香典を出した「モナミ」のマッチ。

13日(木) 告別式

同月十三日 小石川区小日向台町森下雨村宅で告別式。

渡辺温/年表 アンドロギュノスの裔(薔薇十字社) 島崎博編

告別式は森下雨村邸

渡邊啓助/鴉白書(9-10P

温ちゃんの告別式は森下先生のお宅を拝借して執り行なわれた。

横溝正史/惜春賦

※森下雨村は昭和17年に高知へ戻ったが(参考:http://niyodo-blue.com/entries/item/000115/) 息子の森下時男に温の事故死と武州公秘話の連載までの話をしていたとの事。東京、博文館を離れた後の雨村にも温の事故死は印象深い出来事だったようだ。(森下時男/渡辺温氏のこと(W.W.W.) )

遺骨は東京に運ばれて小石川の某寺で、森下雨村編集長が葬儀委員長となって盛大に行われた。享年二十九歳のこれからという時期である。

岡戸武平「渡辺温ちゃんの死」幻影城1976年8月号

※森下雨村宅で告別式→小石川の寺で葬儀、という流れだったと思われる。記憶違いを疑うには「某寺」と岡戸の中ではどの寺か覚えているような記述で、信憑性の高い話だと感じる。

こうした突発事故によって、私はいや応なしに「新青年」編集部の人たちとジカに顔を突き合わせる立場に追いこまれてしまったのである。弟は、「新青年」編集部員として谷崎邸へ原稿(武州公秘話)依頼に赴き、その帰途この災難にあったのだから、いわば「新青年葬」といった形で、弟の葬儀万端が、森下、横溝、水谷など大先輩の心厚い配慮で営まれた。

渡辺啓助/鴉白書(9-10P)

15日(土) 実家・茨城県助川町(現・日立市)で埋葬

同月十五日 助川町で葬儀。同地鏡徳寺に埋葬。戒名 泰心院篤温道厚居士

渡辺温/年表 アンドロギュノスの裔(薔薇十字社) 島崎博編

※及川道子を生涯愛し、しかし結ばれなかった温だったが、戒名で「温」と「道」の字が並んでいるのは偶然だろうが、何か死後に二人が結ばれたような感慨を覚える。

 温が事故死した当日着ていた血まみれの服をかき抱いて、母親がじっと泣き沈んでいたという滋子さんの記憶も同時に想起される。温のマントは啓助が所蔵し、シルクハットは済さんが譲り受けた。

創元推理21 鴉の記憶——訪問インタビュー印象記—— 小松史生子 151P

※マントとは恐らくインバネスの事。現在はシルクハットと共に神奈川近代文学館に収蔵されて居る。

2月後半

これを四五枚書きかけた時、————と云ふのは昭和五年二月十日午前一時五十分、思ひがけない不幸が突発したために此れから以下は急に故人の追憶を書くことになつてしまつた。
本誌の記者渡辺温君が阪神沿線の風川に於いて不慮の横死を遂げたことは当時の新聞に出てゐたから、すでに読者は御存知であらう。渡辺君は、僕に原稿を書かせるためにわざわざ独断で関西へやつて来て、あの災難に遭つたのであるから、僕としては一層哀惜の念に堪へない。

谷崎潤一郎/春寒

※新青年4月号掲載なので2月中には入稿をして居ると考えられる。なのでこの時期から改めて原稿を書き始めたと見做す。

2月18日 キネマ旬報が事故を報じる。

週刊誌だったため、新聞に次ぐ速報となる。

楢原茂二氏
奇 禍

ワーナー・ブラザース・ファースト・ナショナル社宣傅部長楢原義二氏(※茂二の誤り)は二月十一日午前二時、同氏の搭乗した自動車が、兵庫縣夙川の東踏切にて、貨物列車に觸れ、自働車は大破し、同乘の新進作家渡邊温氏は即死、楢原氏は顏面に全治一週間の傷を負つたが、幸運にも命拾ひをした。

キネマ旬報昭和5年2月18日号

冒頭映画ニュースのコーナーに「楢原茂二(長谷川修二の本名)」のニュースとして掲載。映画界隈では渡辺温の死というより、長谷川修二の事故として報じられていた事が興味深い。このコーナーにはワーナーの日本支社の支配人が更迭されたニュースなどが掲載されている。

長谷川修二が貨物列車と衝突して怪我をしたそうだ。さぞ吃驚もし、ひどいショックを受けただろう。それでも顔に二三枚膏薬を貼っているだけだそうだ。一緒に自動車に乗っていた渡辺温は即死したのに、修二は幸運な奴だ。だけどあの顔は黒いとはいえ随分大事にしていた顔だから、若しも傷痕でも残ったら可哀想だなあ。修二よ、早くそしてキレイに癒れ。 清水

キネマ旬報昭和5年2月18日号/巻末編集後記

キネマ旬報の編集者と思われる「清水」という人が書いたもの。修二の友人だと思われる内容。室伏高信の文章にもあったように、修二が美男子だった事が垣間見える。

楢原茂二はそれから三週間ほど入院していた。交通事故でかつぎこまれた患者なので、最初待週がよくなかった。前にしるしたように、私が下宿していた親類の息子が看護婦の一人と親しかったので、私がその看護婦に頼み、やっと病室を変えてもらった。(中略)
もう一つ、この事件があったことで岩崎昶と楢原茂二がきわめて親しい間柄であったことを私は初めて知った。
岩崎と楢原は府立一中のおなじクラスで、世間に出てからも親しくつき合っていた。岩崎がプロレタリア運動の闘士として知られ、楢原はメンズ・ウェアなどについての注釈をとくいとする「新青年」グループの作家で、外国映画会社の宣伝部長というのだから、たとえていえば水と油のような二人だった。だが、岩崎は関西に来るとかならず楢原をたずね、夙川荘に泊って行くこともあった。
楢原茂二が回生に入院しているあいだ、映画、シャーナリズム関係や友人たちから多くの見舞いの手紙や品物がとどいた。どういうわけか、岩崎からはなんともいってこなかった。楢原はこのことを大へん気にして、何かあったのではないか、と気をもんでいた。
退院の日が近くなってから、岩崎昶から見舞いの手紙がとどいた。楢原はその手紙を私に見せた。
生命にかかわる傷ではないことがわかったので、見舞いの手紙が種切れになったころに書こうといままでペンをとらなかった、といかにも岩崎昶らしい書き出しで、最後にひとこと、行を改めて、
"おたがい、乗物に気をつけよう"
と書いてあった。
「岩崎のやつ、ひどいやつだ」
と楢原はいったが、これは注釈をつけないとわからない。
岩崎昶と女性についての噂はいろいろあるが、そのころ、銀座並木通りの「サイセリア」のS・Iという女性が岩崎を追っかけていた。後に京大のラグビー選手で朝日新聞に入ったSと結婚したが、そのころは岩崎に夢中で、関西まで後を追ってきたこともあった。"乗物に気をつけよう"というのはS・Iのことをいったのである。

清水俊二/映画字幕五十年45-49P

※修二は3週間入院をしたとのことで、当初の見込みより重傷だった事が解る。
※岩崎昶→青山にあった及川道子の父の店「喫茶オアシス」の常連だった。岩崎は道子の父と話すのが樂しかったとのこと。
(参考:岩崎昶 「映画が若かったとき : 明治・大正・昭和三代の記憶」)
オアシスは渡辺温、長谷川修二、渡辺啓助、広瀬将なども通って居り、岩崎と温も友人。岩崎は横溝・渡邊時代より新青年に映画の記事などを寄稿し始める。
※「サイセリア」は温の妻、まりが務めていたバー。横溝、水谷らも常連だった。インテリの客が多く、形式、実質ともにもっとも近代的な店。(※野口孝一/銀座ハイカラ女性史 より)

3月

其の後、一ヶ月以上經つて居るが、僕は何一つ出來ないで居る。僕に元氣を出させ、鞭撻して呉れる人々のお蔭げで、辛うじて動いて居るのに近く、溫の細君マリーさんにも手紙一つ書けず、岡本の谷崎先生の所にも先月やつとお禮に行つた許りである。

長谷川修二/猟奇昭和5年5月 愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――

※事故から1ヵ月以上→3月10日〜3月20日頃と思われる。
※先月谷﨑の所へお礼に行った→事故から3週間入院していたという話なので、2月末という事になる。事故から3週間後は正確には3月3日になるが、そうすると「先月」の辻褄が合わない。清水の「3週間入院」という話は、このエッセイ自体が1987年の刊行で、事故から57年後の物である上に、第三者の話なので「おおよそ」で書いたものだと考えられる。
→故に修二は2月末に退院し、その足で谷﨑の元へ挨拶に行ったのではないだろうか。
※細君マリーさん→英語に長けた修二なので、「マリー」は名前の間違いではなく愛称だと思われる。直接会った事はあるのか、或いは温との会話の上で「マリー」と呼んで居たのか。昭和に入ってから温と修二が会った回数は10回程度(長谷川修二/愁ひ顔の騎士より)との事で、何とも言い難い。

退院後、始めて行った時、谷崎も「僕が一緒だったらあんな事にならなかったろう」と、いかにも私が財布の底をハタいて一晩ついて歩いたのが原因みたいな口調だった。

長谷川修二 /渡辺温ちゃんの事 「日本探偵作家クラプ会報」(昭和三十七年六月一日発行)

※実際は温に付き合わされた形だったので、これも修二は巻き込まれた形になるのだが、谷崎の印象では温はそういう事をするタイプに思えなかったのだろう。
改めて谷崎の温への印象を再引用するが……

元来故人は至つて無口の方だけれども、それがただの無口でなしに、沈黙の裡に一種の聡明を感じさせる不思議な魅力を持った人で、(中略)その眼の中に、一と言云へば直ぐに此方の響きが伝はる何物かがある。僕は此の印象を既に初対面の時から受けた。(中略)黙つてゐながら頭の中に感じてゐることが此方にも分り、最初から理解が持て、好意が持てた。

谷崎潤一郎/春寒

温は谷崎の前で殆ど默って座っているだけなのに此の褒めよう。詰まり谷崎も横溝のように温に一目惚れをしたのではないだろうか。春寒は追悼文であるが、その点を差し引いても谷崎は随分と温を贔屓目に見て居るように感じられる。
谷崎の視点から見ると、寡黙で知的な好青年・渡辺温が神戸の街を遅くまで無分別に飲み歩きたがる訳なく、社交的で遊び馴れた長谷川修二が連れ回したんだろう、と見えたのかもしれない。
が、修二は自分が悪かったという自責の念から、谷崎に責められているように感じただけで、谷崎にはそんな意図は無かった可能性もある。谷崎自身も「口述を頼めば」と後悔している位だ。

本音を吐けば何だか僕が「懈死人」の樣な氣がしてならないのだ。お前が死なせた譯でもなからうに、と誰でも云つて呉れるだらうが、それだからこそそんな氣になるのだと云ひ度い。(中略)しかし、懈死人は俺だ、と叫びながら往來を飛び歩く夢でも見兼ねまじきほど、ねざめが惡くなつて居る。

長谷川修二/愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――

※修二は32年後の回想録でも、自分が突き放して帰れば温はまだ生きて居たのではないか、と深く後悔している。

渡辺温の後任

乾信一郎/新青年の頃 三の章 こうして私は編集部員になった
*殆どこの項総てを引用する必要がある爲、要点を纏めて記す。乾信一郎の原文は読んで居てわくわくするので、皆さん是非とも「「新青年」の頃」を読みましょう!

  • 大学卒業を控えた乾信一郎、森下雨村からの郵便で博文館に呼び出されると「新青年編集部へ入る気はないか」と打診された。乾は即答でやりますと云ったが森下は「特殊な仕事だから親御さんとも相談した上で」と丁寧に云い、給料は四十五円程度と伝えた。乾は当時、叔父の家に預けられており、叔父は無理解なので自分の独断で「大丈夫です」と後日返事をした。

  • 森下に「学校を卒業するまでちょくちょく編集部へ遊びにきてみるといい」と云われその通りに出掛けた。

  • 編集長の水谷準が「窓の下の本棚のあたりに雑然と山積みになっている外国雑誌でも見ていなさい」と言い「口絵に使えそうなマンガでもあったら、切り抜いて説明を翻訳しておいてもらうといいな」とのこと。これが乾の編集手伝いの始めで、後に入社テストの一種だったのかもと思った。

  • そうしている間に大学を卒業した。

    ※漫画の選出と翻訳は渡辺温の仕事だったという。乾が温の後任として招かれた事がよく分かる。

3月30日(渡辺温、四十九日)

とにかく温の葬儀が一通りすんでしまうと、私はまさしく独りぼっちになった。これで、探偵小説とも、「新青年」とも一切縁が切れた、という感じだった。何かのきびしい呪縛から解放されたというホッとした感じであった。
孤独というものは、或る視点からみれば、何ものからかの解放を意味する。
やれやれという気持で、私は机にむかった。しかし机にむかって、今さら何をしようというのか、温がいたからこそ書いたが、その唯一の媒体が消失してしまった今、私には何も書くことなんか残っていないというある種の身軽さと空虚感の中に取り残されていたわけである。
そこへ「新青年」編集長の水谷準から声がかかった。何か書けというのである。「ハイ、書けるとしたら温の追悼記ぐらいですが」
「追悼記は要りません、小説をかくんですよ。いいですか、勘違いしないでください、あなたは小説を着くんですよ」
 ドライな、きびしい事務的な口調の水谷準の声であった。

渡邊啓助/鴉白書(10-11P

※啓助はこの後、新青年6月号に「血笑婦」を発表している(・ネ・メ・ク・モ・ア 渡邊啓助年表より)。6月号の納本が5月1日の為、4月中には完成させたことになる。

※「葬儀が一通り済んでしまうと」が指すのは、2月15日の埋葬後の事かもしれないが、死の報を受けて5日では、やれやれという気持ちで机に向かうには早すぎると感じたので、「一通り」の意味をもう少し広範囲にとって49日明け頃と捉えた。
「血笑婦」は新青年誌上で挿絵入り15Pだが、当時の啓助の執筆ペースが解らない以上、49日より以前にもう書き始めて居たのかもしれないとも思う。
もう一つの「一通り済んでしまう」区切りは、水谷が温の父へ葬式の供物帳を送った3月14日頃だろうか。

4月

その四月も待たずして、溫君突如逝く。讀者諸君、この驚くべき報告こそは、彼が計畫した餘りにも傷ましい切實な「エプリル・フール」に非ずして何ぞや。溫君を失つた本誌は何物にも替へがたい傷手を蒙つた。と同時に、我等は永久にあの玲瓏珠の如き作品を味ふことが出來なくなつた。が、徒に嘆くまい。溫君死すとも新靑年には彼が生きて居ると信じて僕は勇猛邁進する。そして、彼無き探偵小説界に、かれが生前望んでゐたやうな新進作家を出來るだけ澤山送つて見せるつもりだ。讀者諸君、渡邊溫君の若き靈をして、微笑みあらしめよ。

水谷準/新青年昭和5年4月1日(昭和5年3月1日印刷納本)11巻5号 渡邊溫君の死

※「嘘」がテーマの作品が多い温の死が、エイプリルフール号を計画していた4月号で報告されるというのは、作家・渡辺温の人生の幕引きとして余りに出来すぎて居ると感じる。

谷崎潤一郎氏は本誌始つて初めて頂くことができた。「春寒」を讀んで頂けば分る通り、これには絶大な犠牲が拂はれてゐる。

水谷準/戸崎町風土記 新青年昭和5年4月1日(昭和5年3月1日印刷納本)

温は昭和五年一月十日深夜自動車事故で不意に昇天してしまった。(中略)
このことについては、谷崎潤一郎「春寒」ならびに、横溝正史「惜春賦」に、詳述されている。この両先達による、声涙ともに下る鎮魂譜は、弟の死に永遠の光彩をほどこすものであった。

渡邊啓助/鴉白書(9-10P

・乾信一郎、渡辺温のデスクに座る。

乾は4月から正式に入社し新青年の編集者になった。こちらも「「新青年」の頃」より要点を纏め、一部引用する。

・4月になり、乾信一郎に新青年編集部の席ができた。辞令の紙もないし、正式に任命を言われておらず、何日だったかはっきりしない。月給を日割りにした給料をもらえた。(※3月から編集部へちょくちょく行った分だと思われる)

【温の机の樣子】

先輩の水谷さんと荒木猛さん(筆名荒木十三郎、橋本五郎)とが向い合いの机についているそのわきに、もう一組の椅子とデスクが空席になっていた。そこが私の席ときめられたが、そこはまた、事故でなくなった渡辺氏の机だった、とも水谷さんに教えられ、何か厳粛な気持に襲われた。(中略/事故の件は新聞などで知っていた)その人が使っていた椅子やデスクとなると、何かただの椅子やデスクでない気がして、そこへ座ることになったとは、これは大へんなことだぞ、と尻ごみしたくなるような気持だった。
デスクの引出しなど引き出して、片づけにかかったが、別にこれといったものは残っていなかった。

乾信一郎/新青年の頃 三の章 こうして私は編集部員になった

【温の書きかけの原稿が残って居た】

引出しの中には、赤いケイの博文館編集部名入りの四百宇詰原稿用紙に何か書きかけたのが、二、三枚残っていた。
わきからそれを見ていた水谷さんが、ああまだ残っていたのか、それは温ちゃんの書きかけの原稿だよ、と手をのばしてなつかしそうに受け取ってくれた。横幅の広いような独特の文字であったのが印象に残っている。作家といわれる人の原稿をじかに見たのは初めてのことなので、むしろ感激でもあった。その後本格的に多くの作家や翻訳家、エッセイストの原稿を見ることになったのはいうまでもないが、文章はともかく、字そのものが印象に強く残った作家はそれほど多くはない。
どんな文章であったか、書きかけであったのかも条件が悪かったのか、記憶にない。

乾信一郎/新青年の頃 三の章 こうして私は編集部員になった

・乾自身、自分が編集に選ばれた理由がわからない。聞く機会を逃した。

※個人的にはアメリカ生まれの乾のモダンで軽やかな感覺、反骨精神、柔軟な思考、ユーモアのセンスが温の後任としてはぴったりだったのではないかと感じる。そこを森下は(恐らく水谷、横溝も)見抜いていたのではないだろうか。

※谷崎と同様、乾も文字が印象に残ったと言って居る。温の手書き文字は同時代の文学人にとって魅力を持つ書き文字という事かもしれない。/個人的には萩原朔太郎への原稿依頼の時の文字が本人的には一番綺麗で、家族宛の手紙は脱力して書かれている文字だと感じる。

5月以降

昭和五年五月 『講談雑誌』に遺稿『モダン四月馬鹿』が掲載される。

渡辺温/年表 アンドロギュノスの裔(薔薇十字社) 島崎博・編

6月1日
・兄・渡辺啓助、新青年6月号に「血笑婦」を発表。

※啓助は温の亡き後、早逝の温の分も執筆するかのように多作で長命な作家となった。

「渡邊さん、道子はあなたのお教へ下さつた通りに、有らん限りの力を注いで、傑れた映畫を作るために此の身を捧げ、そして、立派な俳優となつて、御恩にお酬ゐ致しますわ。」
 靈(みたま)の安けさを祈りながら、私は心の中で堅く誓つたのです。
——此の決心が、私をして、痛む足を引きづるやうにしてまで、『抱擁』の最後の場面の撮影を仕遂げさして呉れたのですけれど、いざ『抱擁』が完成してみると、
「道ちゃん、『戀愛第一課』や『抱擁』では、まだまだ駄目ですよ。」
 何處からともなく、渡邊さんの聲が聞こえて來るのです。——その聲無き聲に励まされ、私が第五回作品『女よ汝の名を汚す勿れ』の撮影にかヽつたのは、濃い緑の葉末に、强い梅雨上がりの陽が照り輝いてゐる七月の、暑い最中のことでした。

及川道子「いばらの道」 154−158P

※映画・抱擁/1930年6月13日(金)公開
参考:https://www.shochiku.co.jp/cinema/database/01152/
※岡田時彦との撮影の間に温の事故死が起きる。岡田時彦も撮影の合間を縫って(奈良で)渡辺温の追悼記を猟奇に書いて居る

後日、温の墓参りに日立の鏡徳寺を訪れた時の、道子を見た人の話として「ゾッとするような凄惨な美貌であったという」と語っているのが、温の弟、済氏(現在日立市で医院を開業)の奥さんの話である。

柴田勇一郎/コント作家 渡辺温 /同行二人

※道子が美しいことには違いないが、温の墓参りと言う事もあり、沈痛な面持ちが「ゾッとするような凄惨」さを感じさせたのではないかなと思う。此方のエピソードは年代不明だが、温の埋葬後の話と言う事で昭和5年に挿入しておく。

昭和6年

3月10日

廣瀨将/横溝正史/水谷準/小堀史朗/松本XX/藤田掅潔/岡戸武平/松野一夫/本位田準一/栗林XX/宮田新八郎
於日比谷陶々亭
温君一周忌追悼を二月十日にXXX病中の者多数の為、後ればせ乍ら今日Xしました 謹んでご報告申し上げます 一同
 渡辺伊太郎様

昭和6年3月10日 渡辺温君を偲ぶ会 /w.w.w.92-93p

※廣瀨蒋(広瀬将):元々は啓助の友人、一時的に温とともに下宿生活を送る。新青年にも多数作品を発表している。温の火葬にも駆けつけて居る。

※小堀史朗 :友人。W.W.W.に東京市外中野屯営より出した「茨城縣助河町海岸 渡辺温」へ宛てたハガキが掲載されて居る。此の当時は軍人をしていたよう/文中に「銀座モナミで茶を喫する」とあり。モナミは温の葬式で香典を出していた為、温も銀座モナミに通って居たとみられる。
(1)小堀と温は銀座の生活を共有している(2)温の住所が助川、と言う事からこのハガキのやりとりは温が一度慶應大學へ入って再入学する前の時期ではないかと考えた。温が東京へ出た以降で助川に住んだのはこのタイミングしかない。故に小堀は温が最初に慶應に入学した時に出来た友人ではないだろうか。

※本位田準一:昭和3年、鎌倉時代に温と共に過ごす。

※日比谷陶々亭 参考写真→https://museumcollection.tokyo/works/6440321/

(温の事故の)その翌年ですか、温氏未亡人が、武蔵小山で酒場を出しました。未亡人の名前マリと、温氏のオンをとって、マリオンヌという店名でしたが、これは谷崎氏の案だったと聞きました。立ち寄ったことがあります。

城昌幸/横溝編集長の頃(幻影城増刊 横溝正史の世界 1976 NO.18

「(略)山田マリはすぐ未亡人になったわけですね。それで、マリが生活できるようにしてやろうじゃないかということで、『マリアンヌ』という喫茶店を開かせた。これは長続きしないで終わっちゃいましたけどね。その後マリは、ポリドール・レコードの人と結婚した」

渡辺啓助インタビュー「渡辺温」/ こんな探偵小説が読みたい:鮎川哲也 79P

※城と啓助で店名に齟齬がある。然し、城の話には由来と谷﨑の案という論拠があるので、正しくは「マリオンヌ」ではないかと思われる。

7月頃

乾信一郎/新青年の頃 「武州公秘話」秘話
*殆どこの項総てを引用する必要がある爲、要点を纏めて記す。皆さん是非とも原文の「「新青年」の頃」を読みましょう。

・谷崎潤一郎から「武州公秘話」の原稿をもらったのは7〜8月頃だったと思われる。渡辺温の死から約1年半後。
・谷崎は温の事故死を大変気にしていた。新青年に何かを書く約束は、温の死後に編集長・水谷準との往復書簡でなされていたと思われる。(乾信一郎の推測)
・谷崎と温の件は博文館編集部内ではよく知られていたから、谷崎の家に行く際、乾は「踏切にご注意」とか「タクシーよりもやっぱり電車の方がいいよ」などと冗談とも警告ともつかない声を掛けられた。
・初出張であり土地勘のない乾信一郎は宝塚の親友に案内してもらった。げんかつぎの友人の助言で、車は避けて電車で行くことになった。
・この頃の谷崎の家は阪急の夙川駅の近く、平屋建ての構えの立派な家。乾の親友も同行した。
・丁未子夫人と思われる人に離れに通されて待っていたが、待ち時間が長引いたので帰ろうとした時に、母屋に通されて立派な御膳を昼食に頂いた。その後座敷へ案内されると朝風呂上がりの谷崎が来た。谷崎は何も言わず緊張した乾はしどろもどろでうまく話せず、毎日伺うことを伝えて初日は帰った。
・乾は船員専用の小ホテルに宿泊し夙川の谷崎邸へ毎日出勤することにした。
・2日目、10時過ぎに谷崎邸行くと家中雨戸が閉まっていた爲、雨戸を叩くと寝間着姿で眠そうな谷崎本人が迷惑そうに顔を出し、昨日伺った「新青年」のものですが、と言ったら

急に何か思い出された様子で、きみがわざわざ東京からぼくの原稿を取りに来たのか、と大へん恐縮の様子だった。昨日の谷崎さんの様子が何かとんちんかんのちぐはぐだったのは、こういう次第だったのだ。
まだ原稿には手がついていない、とのことであった

乾信一郎/新青年の頃 「武州公秘話」秘話

・3日目も10時半に、半開きの雨戸のところから声を掛けると寝巻き姿の谷崎が出てきた。

寝不足らしいはれほったい顔で。
手に持った封筒を、黙って私の方へ差し出して、それを私が受け取ると、さっさと廊下の向うへ、非常にふきげんそうにして歩いて行かれた。

乾信一郎/新青年の頃 「武州公秘話」秘話

・駅へ行きながら「新青年どの」と書いた封筒を見て、中身を確認すると、

和紙の大型原稿紙に筆で、「朝までかかったが、一枚も書けない」と達筆にさらりと書き流してあった。
(中略)
徹夜でがんばっておられたのかと、何かこっちが悪いことでもしたような気持になった。

乾信一郎/新青年の頃 「武州公秘話」秘話

・谷崎邸へ通って4日目か5日目に勝手口の半開きの雨戸のところで、原稿紙三枚程の「武州公秘話」の書き出しの部分を貰った。→大阪中央郵便局からすぐに東京大阪間にの特別速達便(航空便?)のようなもので第一稿を編集部へ送った。
・その後、毎朝谷崎の家に通って何枚かずつ原稿をもらって、1週間か10日くらいで連載1回分の半分ほどの原稿をもらえた。残り半分は出来次第送ってもらうことにして、東京へ帰った。
・前任者、渡辺温が果たせなかった仕事を、バトン・タッチできたようだという喜びもあった。

※谷崎が朝弱いということ。風呂に入らないと仕事が出来ない話など。温と修二が訪ねて行った時の事と重ね合わせて比較すると面白い。

8月24日

及川道子、渡辺温の墓参りに行き、温が使っていた実家の離れで渡辺家の家族と対面し思い出を語る。道子の父も同席して居る。

午後から助川へまいりました。
 渡辺温さんのお墓は町を離れた山の鏡徳寺内にございます。
 コスモスやいろいろの雑草にとりまかれています。又今更に新らしい涙でいっぱいでございます。
 温さんが生前にたった一人で何日も何かかきものをしていられたという離れのお室で、皆さんにおめにかかりました。ご両親、お姉さん、お妹さんに弟さん、こんなによい方を、こんなにたくさん残して、なぜ温さん一人さっさと逝っておしまいになったのでしょう。
 今は亡き人のいろいろの想い出のお話は、一日や二日ではなかなかつきません。皆さんが無理にもとおとめになるのを、夕方旅館へ戻ってまいりました。

河原子にて/及川道子

道子と温、温の死後の渡辺家との関わりがよく解る貴重な資料だと感じた。
助川で温が一人で執筆していた事も、ここ以外では見たことがない話だ。

また、道子の父が温の墓参りに際して歌を詠んで居る。

お父さんと云えば今お父さんが昨日から持っているたった一冊のラスキンの芸術経済論を開いてみましたら、本の余白に、

コスモスの花もてかざれるをくつきは
  逝きにし人の面影忍ばる(温くんの墓畔にて)
亡き人の家をたづねて忍(おも)ばるる
  其夏草の茂れるを見て
温君の妹を見ても涙ぐむ
 あまりに似たる面影なれば(温君の家を訪ねて)

としるしてございました。

河原子にて/及川道子

及川家や道子の両親と、温の関係がどのような物かハッキリと解らなかったが、道子の父がこうして死後に涙ぐんで歌を詠む程に、親しく思っていたことが解った。

10月

新青年10月号に谷﨑潤一郎の「武州公秘話」第一回が掲載される。

谷崎潤一郎の「武州公秘話」の連載第1回が「新青年」誌上に出たのは、昭和6年の10月号 

乾信一郎/「新青年」の頃

参考:新青年昭和6年10月号目次:http://yagi.la.coocan.jp/ssd/indeximage/S6-13.pdf 

・武州公秘話は十二回で連載中断、未完結作品。 (※wikiより https://w.wiki/E4Pq

※谷崎は新青年向けの物は書けないと惱んで居たし、取り組んで居る小説以外の依頼は断っていたし、上山草人の依頼にもやる気はあるが応えられて居ない状況だった。その谷崎が、温の死に責任を感じ絞り出して書いたのがこの作品なのだろう。温の死と引き換えに得たとも言える作品が未完結なのは残念な気もするが、谷崎は谷崎になりに精一杯応えたのだと思う。

昭和11年 渡辺温・七回忌

出席者

横溝正史/江戸川乱歩/水谷準/大下宇陀児/海野十三/森下雨村/角田喜久雄/宮田新八郎/延原謙/岩崎昶/荒木十三郎/松野一夫/廣瀨蒋/長谷川修二/本位田準一/内田岐三雄/岡戸武平/堀経道

昭和11年 渡辺温七回忌の色紙。W.W.W.(89-91P)

※内田岐三雄:映画評論家、映画雑誌に多数コラムを書いている。温と同世代。昭和3年頃に温、内田、村山知義、伊沢蘭奢と共に飲みに行ったと伊沢から息子へ宛てた手紙に在り。及川道子を松竹へ紹介し、道子の映画への道を開いた人物。(※及川道子/いばらの道より)

昭和12年頃?

渡辺 そうです。そうしたら温がああいうことになって……。及川道子は家へ来て僕の娘を抱いてくれたりもしたんですよ。

聞書抄/渡邊啓助さんに聞く 121P

「温が死んだあと、及川道子が鎌倉のぼくの家を訪ねて来ました。海岸の近くの旅館に一泊して帰りましたけどね。ぼくの長女を懐かしそうに抱いてくれました。その後まもなく彼女も死んでしまいましたがね」

渡辺啓助インタビュー「渡辺温」/こんな探偵小説が読みたい:鮎川哲也 78P

※啓助が鎌倉に住んでいた時期が解らなかったのだが、温の死後昭和5年〜10年は福岡、11年は茨城。昭和12年4月から東京との事なので、最も鎌倉に近い事から、昭和12年頃とした。
※この長女は温が「夙川から帰ってきたら赤ちゃんに会いに行きます」とハガキに書いた子の事。
※及川道子は昭和13年に死去。


おわりに。

渡辺温の事故と死の関連の話は此の辺りで締めたいと思います。此処に無い資料をご存知の方が居られたら、教えていただけると助かります。
亦、「敢えて此處まで書かなくても分かるだろう」と思った事も、註解にくどくど書きました。煩わしく感じた方には謹んでお詫び致します。ただ、僕の当たり前が他人にはそうでは無い場合が案外ある為、念のため書いておくことにしました。新青年界隈を知らない人、近代文学を読まない人でも理解できるようにと言うのが一つの基準だったように思います。
亦、今回資料を纏めるに当たって、黒岩るいかさん(https://pont.co/u/ruika_kuroiwa)に資料の確認や鉄道の事などで大変お世話になりました。お陰で密度の高いものが作れたと思っています。本当にありがとうございました。

絹帽忌

3,4年くらい前の2022年頃からだったかと思うが、僕は渡辺温の命日を「絹帽忌」と呼ぶ事にして居る。もうとっくに誰かが命名していると思って居たのだが、誰も言及して居なかったため「それじゃあ俺がやる」と一人で言い始めたのである。
絹帽とはシルクハットの事。シルクハットというタイトルの作品もあるが、温と言えば「シルクハットにモーニング」という恰好で出勤し、銀座や赤坂見附まで散歩したという逸話があり、シルクハットは温のアイコンとして欠かせない。
温の青春時代であり、作家として活動していた1920年代後半の日本ではシルクハットのことを「絹帽」と表記していたようで、温が仕立てたシルクハットの箱には「絹帽」と当時のタイポグラフィを思わせる可愛らしい文字が書かれている。
温愛用の私物に「絹帽」という表記があることから、絹帽をシルクハットと読ませ命日を「絹帽忌」としても屹度、温に嫌な顔はされないだろう。
そう考えた僕は2月10日の渡辺温の命日を「絹帽忌」と呼ぶことにした。

谷崎潤一郎と渡辺温の奇縁

谷崎と温の縁は不思議と深い物があるが、谷崎が温の作品を世に出すずっと前にも二人はニアミスをして居る。
明治42年9月〜11月に強度の神経障害だった谷崎は、友人・笹沼源之助の別荘(助川海岸舟入上にあり)で転地療養をしたとのこと。これは現在の日立市旭町にあたり、この3年ほど後、明治45年8月より渡辺温一家が住む助川東海岸と同じ町内に当たる。町の範囲を思うに精々徒歩10分圏内ではないかと思われる。
谷崎は助川の海岸から帰った直後の12月に「刺青」が文壇の注目を集め出世作になったとのこと。(※旭町の今昔(昭和62年11月1日刊行) 日立市老人クラブあさひ睦会 ※余談だがこの本の出版には温の末弟・済氏も協力したとの事で名が載って居る)

【渡辺温と谷崎潤一郎の縁を纏める】

  • 谷崎、後の渡辺温家族が住む助川町海岸に滞在する。

  • 温の「影」が谷崎により世に出される。

  • 温が谷崎の原稿依頼へ行った際に事故死

  • 谷崎、温が亡くなった夙川に転居する。
    →このため現在、谷﨑潤一郎記念館と渡辺温の事故現場は近くに在り、車なら簡単に巡ることができる場所にある。

  • 温の友人でもあった岡田時彦が西宮で亡くなり、谷崎が弔辞を読む(岡田の名付け親は谷崎)

夙川の踏切を見に行った序でに立ち寄った谷崎潤一郎記念。2018年頃。

今回追悼文を纏める中で、谷崎は文壇に於いて渡辺温の父のような存在で、父親のような愛情と眼差しを谷崎は温に注いでいたと感じられた。(※成人して独立した息子と父のように年に1、2回会い、言葉は少ないがお互いに敬意と愛情を持って付き合っているという感じの父と息子)
谷崎の追悼文は誰よりも事故の日の描写が濃厚で、谷崎は自分が知っている事を責任を持って、自らの優れた筆致で書き残そうとして居るように感じらた。谷崎ならもっと情感たっぷりに書くことも出來ただろうが、それはせず極力客観的な描写に徹していると感じ、そこに谷崎の「父」としての責任感と愛情が在るような気がした。温の死に就いて、それから温がどのような人物であったか、その人生について書き残す事が自分の責任であり、弔いであるという態度に思えた。
そう感じると僕は「春寒」を涙無しに読む事が出来なくなって仕舞った。

編集後記

渡辺温の事故がどのようなものだったのか纏めたいと思ったのは、清水俊二の回想録を見付けたのが大きかったように思う。それまで横溝、谷﨑のエッセイを主軸に啓助、水谷の回想録を読んで居たが、清水の記録を読むとまた別の側面が見え、そして岡戸が書いた事故前の話、そして三十年以上經って漸く閲覧が叶った長谷川修二の「愁い顔の騎士」。こういった記録を見ていると、横溝、谷崎の記録は或る一面に過ぎないのだなあと思った。両人のエッセイは文章として素晴らしく、啓助の云うように「永遠の光彩をほどこすものであった。」と僕も思うが、事故には別の人から見た違う側面という物があって、これが温の事故の総てだと云うには足りないと感じた。横溝も谷崎も随筆作品を書いているのであって事故記録を書いている訳じゃないのだから当然の事だけど。

渡辺温の命日の度、X・旧twitterで温の事故に就いて一人でぽろぽろ喋って居る事に少し不毛な物を覚えると共に、毎年同じ話をしてしまうから、これは一度しっかり纏めて何時でも自分が引用出來るようにしたいと思った。
思いがけず一ヶ月程掛かって仕舞ったけど、その分割としっかりした物が作れたと思う。また各人の証言と鉄道や日の出の時間等を突き合わせる事で、新事実が浮かび上がってきたと感じる所もあり、自分としては非常に手応えを感じて居る。

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全く以て、探偵のような作業だった。「オタクではなく刑事のやることだ」と云う人も在った。
温自身が日記や日常記録を残して居ない以上、色々な人の回想録や時代の記録、状況から考えて答えを導き出す作業が多かった。
「探偵小説家」だった渡辺温は、作品を多く残さず亡くなってしまったけど、その分自らの人生で「謎解き」を提示し、後年の愛読者に謎解き推理をする楽しみを与えたと言う事か、とすら感じられた。

温は自らの身の上に起きたことの多くを作品に変えて行った作家だが、最後はその死を以て人生をまるごと探偵小説に仕上げて、愛読者を探偵に仕立て上げて仕舞ったのかと思うと、探偵小説作家としての「渡辺温」の完璧さが夭折の痛みに一層沁み入った。

僕の持論として渡辺温の作品は、私小説であり詩であり幻想文学なので、温は正確には「探偵小説家」とは言えないのではないかと思って居る。けれども此の人生を彼の作品の一つとして捉えるのならば、温は紛れもなく探偵小説家ぢゃあないかと、些かカナディアンクラブで酔って居るような調子で僕は思う。(蛇足**勿論、人生に謎解き要素が多い=探偵小説作家だと本気で思ってるわけじゃないですよ。酔いどれの冗談です。温に対する持論には変わりないですが私小説めいた物を探偵小説として出して居た作家の人生として、不思議で皮肉なもんだなあという話です。/そしてカナディアンクラブは温が何時も飲んでいたウイスキー。)

早死という事実は、世俗的な心情からすれば、当然不幸なことであるはずだが、残された者からみれば、生き抜くことの空しいあがきから、さっさと足を洗って行ってしまったことにもなり、羨しいという思いが、心の片隅に残るわけである。
(中略)
しかし、それよりも亡弟温は、死んだが故に既に完成してしまったという感慨のほうが、私にはいっそう強く身に沁みるのである。
(中略)
ともかくも、私は温の遺稿集『アンドロギュノスの裔』を刊行することに携わりながら、それによって得た感慨と云えば「ちくしょう、うめえことやりやがったな」というエピタフをその墓碑に、今更ながら実感をこめて刻みたい、という気持ちであった。

渡辺啓助/渡辺温のこと(推理小説研究9号/昭和46年5月30日)

※エピタフ=墓碑銘

そんなわけで温の死に就いて纏め上げてみれば、僕は結局啓助の此の言葉に尽きる気がした。
「ちくしょう、うめえことやりやがったな」

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そういえば、今回記事を纏める中で不思議な事が一つあった。おかしな話なので、苦手な人はスルーしてください。

長谷川修二の退院日と谷崎の元へ挨拶に行ったという話から、どのようなスケジュールで動いたんだろう? と考えて居たら「28日、退院したその足で谷崎の元へ挨拶に行った」という言葉が降りて来て、文字もそのように書かないと収まりが悪く感じたので「ああこれは降りて来てるやつだ」と感じたから僕も抵抗せず言葉が降りて来る儘にその箇所はそう書き綴った。自分の空想かもしれないが、帽子を被って外套を着た長谷川修二が俯き加減で病院を出て、その儘岡本の谷崎の家に行くような映像が脳裏に浮かんでいた。
渡辺温の研究に僕の靈的感覚を用いる積もりは全く無いが、此ればかりはどうも長谷川修二が教えてくれたような気がした。
まあしかし、冷静に考えれば退院したその足で谷崎邸へ挨拶に行くのは十分考えられる事で、特に修二は礼儀作法をきっちり身につけているとのことで…(※室伏高信の孤独な人々より)谷崎邸は修二の家の帰り道にあるからその可能性は十分にあるなあと思って、そのように記した。

けれども僕は、このような感覚に頼らずとも済むように、出来るだけ沢山の資料が閲覧出来る事を切実に望んで居ます!

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回想録の並べ替えをして居る中で、僕は沢山泣いて仕舞い作業が進まない事が多かった。皆、それぞれの悲しみがその都度伝わって切なかった。谷崎潤一郎や水谷準のような冷静な筆致には簡単には言い表せない深い悲しみを感じたし、長谷川修二や及川道子のような率直な文章には素直に傷ましい気持ちを覚えた。

渡辺温の死から95年が経つ。(今年は2025年)
温が過ごした昭和五年始めの日々を思うと、とめどない後悔が地下深くから泉のように湧き上がる。
僕ら愛好家はもうそろそろあの死を後悔しなくて良いのかもしれない。否、後悔しているのは僕だけかもしれないけれど。
渡辺温の死、あれはあれで完成されたものであったから、もういいじゃないか。資料を整理する中で僕はそんな風に思えた。

亦、今回整理していて温がやり残した事は死後に総て誰かが片付けてくれたんだとも理解った。
・新青年の仕事は乾信一郎が引き継いだ
・谷﨑の原稿は乾信一郎が取りに行った
・妻・まりは別の人と結婚
・「会いに行く」といった啓助の長女には及川道子が代わりに会いに行った

そういった事も含めて総て片が付いているのだし、渡辺温は安心して眠りに就いて良いのだと思った。

それでは渡辺温の事故に関連する話は此の邊りでお終いです。
僕は何故だか、温の人生を1分1秒毎に解き明かしたいという衝動があるので、此のような感じでまた温の人生を読み解いて行きたいと思って居ます。此れが此の人生での僕の使命のうちの一つだとも感じて居ます。
亦お会いできる事を祈って。


編者・幾島溫


参考文献

  • 谷崎潤一郎/春寒 (創元推理文庫版)

  • 横溝正史/惜春賦(横溝正史エッセイコレクション1)

  • 横溝正史読本 小林信彦・編集(角川文庫版)

  • 水谷準 記憶の断層(アンドロギュノスの裔/薔薇十字社版)

  • 水谷準/新青年昭和5年1月1日 (J・M・)

  • 水谷準/渡邊溫君の死、戸崎町風土記(新青年昭和5年4月1日(昭和5年3月1日印刷納本)11巻5号)

  • 竹中英太郎 新青年昭和五年四月号 P173 (葛山二郎/霧の夜道の挿絵)

  • 小泉淑夫/「渡邊溫君の死」を悼む(三田文学昭和5年4月号)

  • 長谷川修二/愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――(猟奇 昭和5年5月)

  • 長谷川修二/渡辺温ちゃんの事 「日本探偵作家クラプ会報」(昭和三十七年六月一日発行)

  • 室伏高信/孤独な人々

  • 岡戸武平/溫ちやんの事ども(猟奇 昭和5年3月)

  • 岡戸武平/博文館の侍たち・2 渡辺温ちゃんの死(幻影城1976年8月号 P69,P71-75)

  • 岡戸武平/幻の探偵作家を求めて「蠢く触手」の影武者・岡戸武平(インタビュー):鮎川哲也著

  • 城昌幸/「横溝編集長の頃」 (幻影城増刊 1976.№18 「横溝正史の世界」)

  • 宮田新八郎/渡辺温のお通夜(「日本探偵作家クラプ会報」(昭和三十七年六月一日発行))

  • 及川道子/「いばらの道」 154−158P

  • 小松史生子/鴉の記憶——訪問インタビュー印象記——(創元推理21 P151)

  • 岩崎昶 「映画が若かったとき : 明治・大正・昭和三代の記憶」https://dl.ndl.go.jp/pid/12437280

  • 渡辺啓助さんに聞く(聞書抄121P)

  • 渡辺啓助インタビュー「渡辺温」 (こんな探偵小説が読みたい/鮎川哲也 P78,79,P82,P83)

  • 渡辺啓助/鴉白書(9-10P)

  • ネ・メ・ク・モ・ア 渡邊啓助年表

  • 新青年昭和5年6月号 目次

  • 清水俊二/映画字幕五十年 P35-36,42,45-49

  • 乾信一郎/新青年の頃 P24,こうして私は編集部員になった, 「武州公秘話」秘話

  • 柴田勇一郎/コント作家 渡辺温 /同行二人

  • 渡辺温/年表 アンドロギュノスの裔(薔薇十字社) 島崎博編

  • 水谷準論文:http://mizutani.s41.xrea.com/02_01.html

  • 日本映画事業総覧 昭和5年版 / 国際映画通信社 編 https://dl.ndl.go.jp/pid/1225247

  • 岡田時彦/渡邊溫君のこと(猟奇 昭和5年5月号)

  • 岡田時彦 著『春秋満保魯志草紙』,前衛書房,昭和3. 12/25發行https://dl.ndl.go.jp/pid/1177526)

  • 雑誌「新青年」総目次http://yagi.la.coocan.jp/ssd/ssd_indx_top.html (新青年昭和2年の目次を参照した)

  • 新青年昭和6年10月号目次:http://yagi.la.coocan.jp/ssd/indeximage/S6-13.pdf 

  • 新青年昭和4年1月号 わ゙あにちいふえいあ P286

  • 新青年昭和5年3月号 4月号広告、P86、巻末

  • 庚寅新誌社 交益社 博文館 三社合同 昭和四年五月 第四一五號 公認汽車汽舩旅行案内 株式會社旅行案内社發行 ・水濱線 ・常磐線
    P16,17,33,42【ト】,43,53【チ】,59【ヌ】

  • 渡辺啓助/渡辺温のこと(推理小説研究9号/昭和46年5月30日)

  • 旭町の今昔(昭和62年11月1日刊行) 日立市老人クラブあさひ睦会

  • 東京府立第一中學校創立五十年始(昭和4年10月発行)

  • 野口孝一/銀座ハイカラ女性史

  • 及川道子/河原子にて(オアシス創刊号 昭和6年9月)

  • キネマ旬報 昭和5年2月18日号

W.W.W.
・渡辺温から母への手紙/昭和四年八月二十九日26P
・小堀史朗「茨城縣助河町海岸 渡辺温」宛てハガキ
・中川潤子(渡邊啓助・長女) 三人の帽子 44P
・森下時男/渡辺温氏のこと
・昭和五年二月十日 渡辺温供物申受帳92-93P
・昭和6年3月10日 渡辺温君を偲ぶ会 92-93p
・昭和11年 渡辺温七回忌の色紙。W.W.W.(89-91P)
・堀経道「渡辺温七回忌色紙」
・荒木十三郎「渡辺温七回忌色紙」

Wikipedia

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