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長谷川修二による渡辺温の追悼文(昭和五年・獵奇より)

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――

長谷川修二


「新青年」の「春寒」の通り、渡邊溫は死んでしまつた。しかし僕には未だに彼が生きているとしか思へない。屍體に直面するのが苦しかつたので、僕は良心と友情に勘免して貰つて、溫の姿を見ないで終る事にしたので、今も東京か鎌倉あたりに溫が居て、こんな原稿を讀まうものなら、ひでえ奴だお前は、とか何とか云ひながら、ニヤニヤ笑ふだらう、と許り想像する。

 色々と友人から「反對訊問」を受けるが、衝突と同時に頭が混亂してしまつたらしく、何も記憶に無い。憶えて居るのは、斷片的であるが、衝突現場の踏切番の小舍(まで歩いて來たらしい)の中へ轉げ込んだ事と、左の眼の横の傷を縫合する時に、「絹糸でなくテグス糸の方を使つて呉れ」と云つて頑張つた事(何のつもりで云つたのか判らないが。)の二つである。朝になつて、部屋の中で一種特有な大聲の會話が耳に這入つたので正氣になつたが、鼻と口が乾いて固まつて居て聲が出ないので、壁を蹴つて看護婦に合圖をした。唇を水で濕[うるお]してもらひ、口の中に水を注ぎ込んで貰つて咳をしたら、鼻と口から黑血の塊が飛び出して、やつと口が動き出した。

 獨特の、と云ふのは谷崎先生の聲の形容である。が、僕の電報云々は全然記憶がない。一體僕は電報を打つ時でも無闇と假名遣ひを氣にしたり、敬語を使つたりして賴信紙五六枚に到る長いのを打つ癖がある。屹途、警官が打つて呉れたのであらう。

 ワタナベ キウシスヨウアルデンワニシノミヤ一二一    ハセガワ

 といふのは如何にも要領を得たもので事變に馴れた警察官の文體である。尤も渡邊や僕の姓名が顏に貼り付けてあつた譯でもないのだから、僕がやつぱり色んな事を喋つて忘れてしまつたらしい。第一、病院の醫者が呆れたほど僕はよう眠つてしまつた。傷の縫合後直ぐ眠つたらしい。溫が東京からやつて來たのは二月九日の朝で、九時半頃であつた。僕は或る人の事を思つて一夜轉反側して漸くウトウト初めた所を起こされたので、死ぬほどねむかつた。實際、神戸を散歩した時や自動車中などは大いに頑張つて起きて居た――うつかりすると溫は不案内の土地で迷兒になる――のだが、衝突と知つて、もう天命をまつ積りで、友情も體面も捨て、「死ぬ氣で」眠つたのだらうと今から思ひ出して居る。

 其の後、一ヶ月以上經つて居るが、僕は何一つ出來ないで居る。僕に元氣を出させ、鞭撻して呉れる人々のお蔭げで、辛うじて動いて居るのに近く、溫の細君マリーさんにも手紙一つ書けず、岡本の谷崎先生の所にも先月やつとお禮に行つた許りである。本音を吐けば何だか僕が「懈死人」の樣な氣がしてならないのだ。お前が死なせた譯でもなからうに、と誰でも云つて呉れるだらうが、それだからこそそんな氣になるのだと云ひ度い。決鬪をして殺したのなら――僕は決鬪用に長劍を二口持つて居り、而も尖端を尖らし鑢[やすり]で磨き、何時でも挑戰に應じられる準備と云へば準備が出來てゐる――平氣で居る。懲役にやられる事があつても、後悔懺悔はしない自信がある。しかし、懈死人は俺だ、と叫びながら往來を飛び歩く夢でも見兼ねまじきほど、ねざめが惡くなつて居る。

 溫が八年前にこんな話を書き度がつてゐた。何もしない人間が何となく交番の前で怪し氣な擧動をする。變な擧動をすれば怪まれるだらうな、と考へた途端、急に自分の一擧一動が變に思へて仕方なく、平常の通にしようしようとあせつて本當に怪まれ、捕へられて遂に死刑になる話であるが、我が身となると、冗談ではなくなつて來る。が、本當に、僕は懈死人ぢやない。

 大正十五年の十二月に僕は二十餘年住み慣れた江戸を後に、京都へ移住した。渡邊溫や他の友だちが十五六人、ミゾレの振る夜を見送って呉れたが、それ以來僕は東京と縁が切れてゐる。其の後、東京・大阪・東京・大阪・神戸・夙川といふ風にチヨイチヨイ流轉したが、東京に居る間はその二度とも一二ヶ月にすぎず、足かけ四年も東京と友人(と渡邊溫)に離れてゐた事になる。溫とはその後十度ほどしか會はなかつた。關西では、大阪の安堂寺橋に僕が居た頃一度、神戸の熊池で一度、夙川で一月に一度と二月九日の最後と、四度つきりで、東京へ僕が行つた時には色々の關係で殆んど會へなかつた。

 で、僕の交際して居たのは大正時代の溫である。僕が二十才の少年で、彼が二十一才の少年であつた頃の春四月、慶應の専門部豫科の教室でお互を眺めて以來五年間、交際と云ふ言葉などが當らない程深く交際して居たのであつた。「お神酒徳利」の樣に、といふ形容があつて、始終二つ並んで居る事を云ふのだが、正に當時の溫と僕に適つて居た。

 教室でも並んで居たし、教室に居ない時には、三田通の「白十字」か「スター」に居た。この「スター」は今でも在るかも知れないが、當時新興のキヤフエで、看板娘が耳隱しに結つて居て、その頃の耳隱しは未だ今日の斷髮の十分の一にも流行して居なかつたので、學生や若い教授が見物旁々[かたがた]通つたものであつた。娘は其の後、日本髮に變節して了つたので(?)僕達は河岸を變へて「白十字」に通つた。白十字は本郷で二十五錢の苺のシヨートケーキをば三十五錢で賣つて居た。

 キヤフエが十錢だから、二人でシヨートケーキを喰べるには九十錢要つた。二人は毎日二度づゝシヨートケーキを喰べる事を夢みながら、學生が教室に居る時間、ガラあきの白十字で色々な事を語つた。

 溫が「愁ひ顔の騎士」と名乘り始めたのは其の頃の話である。「愁ひ顔の騎士」とは實に溫にうつてつけの稱號であつた。ウフフ!と齒を出して笑ふのであつたが、知らない人の居る所や何かでは、溫はひどく眞面目な顏をしてゐたし、四肢の長い身體の上に、櫛の通らない長髮の頭がのつて居る工合は、敗けたドン・キホーテの姿によく似て居た。「カリガリ博士」を見てからは、ファイトの扮する眠り男との酷似から「眠り男」とか「チエーザレ」とか、僕達が呼ぶ時があつたが

谷崎先生は「春寒」の中に溫を「アラン」に比較されたが、どうも「チエーザレ」の方が似て居たと思ふ。僕は黑服を着た溫に黑襟卷きをさせて、チヱーザレの眞似をさせ、往年銀座で鳴らした巧笑倩たる白川珠子君を脅かさした。溫も、チエーザレに似たのが得意で、すぐモツコに乘つて、變な格構をして見せた。

 讀者に迷惑でなかつたら、僕はも少し溫の事を書き續け度いと思ふ。「影」を書いた頃の溫や、「影」がひどく一般の撮影所から不評判であつた事や、僕達の「赤い部屋」オヤシス・パーラーの事などをば。

(終)

猟奇 昭和5年5月号 より。


作業者註

  • 読み難い漢字には[ふりがな]を振りました。

  • 漢字、假名等表記が統一されて居ないのは原文ママです。

    注釈など。

  • モツコに乘つて →「煽てと畚には乗りたくない」という諺より。調子に乗って、という雰囲気の意味。(参考:コトバンク)

  • 巧笑倩たる →論語の「巧笑倩たり」より笑った口元が可愛らしいという意味。(参考:論語オンライン)

  • 白川珠子

劇と映画 4(6)(国際情報社, 1926-06)/国会図書館デジタルコレクション
  • 大正十四年:映画極楽島の女王、昭和二年:江戸川乱歩の一寸法師にも出演していたそう。築地小劇場の音響・照明担当の和田精の妻。(=和田誠の母で平野レミの姑、和田唱の祖母に当たる)和田精は及川道子の父と顔見知りで、道子の父が経営居する喫茶店「オアシス」にも出入りしていたということ。
    (映画が若かった時 明治・大正・昭和 三代の記憶/岩崎 昶 より。)
    和田精と渡辺温は大正十四年十一月にロシアの少女舞踊家ミユラ・シッポフの為に生活と興行に尽力した關係との事。
    因みに……岩崎昶は長谷川修二と府立一中の同じクラスで仲が良く、岩崎昶が長谷川修二の夙川の家に泊る事もあったそう。サイセリア(渡辺温、横溝正史、水谷準の行きつけのバー)のS・Iという女性が岩崎昶に夢中だった。(映画字幕五十年/清水俊二 より)

  • 岩崎昶は及川道子の父・鼎寿と話がしたくてオアシスに通っていたとの事。

  • オヤシス・パーラー →及川道子の父が経営していた喫茶店。及川道子も店の手伝いをしていたそう。


個人的な見どころ、解説などを記事に書きました。こちらもよければどうぞ。


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