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渡辺温偏愛者による「愁ひ顔の騎士」解説・感想

長谷川修二による渡辺温の追悼文「愁ひ顏の騎士」について、個人的な見どころなどを挙げて行きたいと思います。
渡辺温偏愛者である僕としては、この文章は渡辺温を研究する上で非常に貴重な資料ではないかなあと感じて居ます。


普段の長谷川修二の文章と違う!

渡辺温偏愛者であると同時に、僕は長谷川修二推しでも在る訳ですが、此の文章は長谷川修二が書いた幾つかのエッセイや小説などの中で最も文章が柔らかく感じます。此の頃の長谷川修二は一人称を「余」で書くことが多く、
それ故に「僕」で書いて居るのは余程の事だと感じます。
内容に関しても、何時も皮肉や少し大仰にも感じる物言いをし、最後は自虐で落とす様な物が多いのに、そう云う遊びが一切無くて、本当に素直に胸の内を吐露して居る様に感じます。
普段と全然違う作風からも、長谷川修二の深い悲しみと後悔を感じます。
「あの長谷川修二が冗談の一つも言わないなんて!」
僕の樣な愛讀者はそう感じるのです。

屍體に直面するのが苦しかつたので、僕は良心と友情に勘免して貰つて、溫の姿を見ないで終る事にした

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

僕は此の一文が切なくて堪らなくて、一週間位号泣して仕舞いました。
僕の挙動は異常だとしても、それ程に切なく感じる文章だと思うのです。「死」とか「別れ」と言わず「終る事にした」と書いて居るのが、温の死を直視出來ずに居るけど、ともかく二人の関係は此処で終わったんだ、と飲み込もうとして居る感じがして、僕は何度読んでも切なく感じるのです。

渡辺温の未発表作品の構想

此の文中で長谷川修二が温の小説の構想を聞いて居る。

溫が八年前にこんな話を書き度がつてゐた。
何もしない人間が何となく交番の前で怪し氣な擧動をする。變な擧動をすれば怪まれるだらうな、と考へた途端、急に自分の一擧一動が變に思へて仕方なく、平常の通にしようしようとあせつて本當に怪まれ、捕へられて遂に死刑になる話である

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

1930年の8年前なので1922年の渡辺温が慶應の1年生で、長谷川修二と
出会った当時に話して居た構想と云うことですね。
類似の作品は無かったと思うので、此れは未発表作品の構想と云う事になるのではと思います。もし僕が何か作品を忘れて居るだけなら「此の話の原案ですよ」と優しく教えていただければ幸いです。


二人の関係

一目惚れのような出会い

長谷川修二の新青年への寄稿文から、渡辺温とは相当親しかろうなあと感じて居ましたが、二人は想像していた以上に仲良しでした。

僕が二十才の少年で、彼が二十一才の少年であつた頃の春四月、慶應の専門部豫科の教室でお互を眺めて以來五年間、交際と云ふ言葉などが當らない程深く交際して居たのであつた。「お神酒徳利」の樣に、といふ形容があつて、始終二つ並んで居る事を云ふのだが、正に當時の溫と僕に適つて居た。教室でも並んで居たし、教室に居ない時には、三田通の「白十字」か「スター」に居た。

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

これを要するに、私は温ちゃんにひと眼惚れをしたのである。

惜春賦/横溝正史

横溝さんが言うように、長谷川修二も渡辺温に一目惚れをしたのだろうし、温も同じく惹かれたのだろうと感じる出会いの様でした。

新青年に入ってからは何時も横溝さんと一緒で引っ越し先にもついてきた渡辺温ですが、あの感じで長谷川修二とも何時も一緒に居たのでしょう。
子供時代の温は、兄啓助と双子のように何時も仲良くして居たという話なので、温は常に誰か一番の仲良しを見つけて一緒に居るタイプなのかもしれないですね。

ショートケーキが大好きな二人

 キヤフエが十錢だから、二人でシヨートケーキを喰べるには九十錢要つた。二人は毎日二度づゝシヨートケーキを喰べる事を夢みながら、學生が教室に居る時間、ガラあきの白十字で色々な事を語つた。

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

太文字にして仕舞いましたが、大學生の二人が1日2回ショートケーキを食べる事を夢見ていたことが無邪気でとても可愛く感じました。長谷川修二の言葉を借りるなら「”死ぬほど”可愛い」です。

授業中にカフェに行くなど、一般的な學生の行動では無いのかもしれませんが、耳隠しの女給を見に行った事といい、お小遣い事情や料金など、当時の慶應ボーイの様子を知る事ができる良い資料だと感じました。
酒好きの渡辺温だけど甘いものが大好きで、長谷川修二もそうだったんだなあという事が確認出来てよかったです。

長谷川修二の関西への引っ越し

大正十五年の十二月に僕は二十餘年住み慣れた江戸を後に、京都へ移住した。渡邊溫や他の友だちが十五六人、ミゾレの振る夜を見送って呉れた

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

東京生まれの東京育ちの長谷川修二が何時、関西へ行ったのか。仕事は何時からどんな風だったのだろうと、新青年の寄稿時期やその背景を考える上でも氣になって居たので、大正15年の12月に京都へ移住したことが知れてスッキリしました。此處で映畫會社の就職が決まったという事でしょうか。
慶應大學は中退らしいですが、映畫會社に勤める前は「劇と映画」という雑誌の編集部に居たそう。(映画字幕五十年/清水俊二 より)4月〜11月までは「劇と映画」の編輯、12月からワーナー・ブラザーズということでしょうか。
何にせよ、長谷川修二が渡辺温に依頼されて新青年に書いていた時期は関西時代という事になります。此の追悼文が掲載された「獵奇」も京都の雑誌なので、其の縁もあって寄稿が多かったのかもしれません。

足かけ四年も東京と友人(と渡邊溫)に離れてゐた事になる。溫とはその後十度ほどしか會はなかつた。

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

長谷川修二が東京を離れて、渡辺温とは4年の間に10回程しか會ってないと言うことは年に2〜3回ペースだったという事でしょう。それを踏まえて、長谷川修二の新青年への寄稿ペースと、時々渡辺温がモデルだと思わる人物が出る短篇を書いた事などを思えば、一層二人の親密さが窺える氣がします。正直、長谷川修二で無くても良い文章であってもマメに依頼していたように感じます。此れは他の寄稿家の顔ぶれや内容をきちんと比較しないとはっきり言えないですが……。
長谷川修二のあの作品群は今でいう「エアリプ」の類のようで、ある種二人の文通の様なものであったのかもしれないなあと思います。

渡辺温が横溝正史に出会ったのが11月、長谷川修二が関西へ引っ越したのが12月ということで渡辺温の交友関係としては丁度入れ替わりになって居るので、温の人生はこんな所まで上手く出来て居るなあと関心します。

そして、横溝正史追悼集(1982/12/水谷準編)の年表によると、大正十五年に横溝正史は「宮田新八郎、水谷準、本位田準一、渡辺温、長谷川修二らと交遊」とあるのでみんなで一緒に楽しく遊んで居た様でした。長谷川修二と横溝正史は長谷川修二が先に死ぬまで仲が良かったらしいので、此の頃からの付き合いという事のようです。此のメンバーがもし全員集まって居たなら、相当お話しが弾んだだろうなあと思います。
参考▶横溝正史追憶集

溫が東京からやつて來たのは二月九日の朝で、九時半頃であつた。僕は或る人の事を思つて一夜轉反側して漸くウトウト初めた所を起こされた

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

此処でいう「ある人」とは谷崎潤一郎のことですね。昭和37年の回想録で長谷川修二がその様なことを書いて居ます。此処では谷崎さんに気を遣ったのか、読者に恋煩いを匂わせて少し格好を付けたのかは分かりませんが。実際は谷崎潤一郎に原稿依頼の話をどう切り出したものかと、一晩悩んで居たということです。
その晩の渡辺温は岡戸武平さんの家でご馳走になり、中野のバーで喧嘩をし(お守りを踏んだ日)、銀座で城昌幸さんと飲んで夜行に乗ったと云う話なのに……長谷川修二の人の良さと面倒見の良さ、また貧乏くじを引いてしまう所を感じて(辻潤さんとの関わり方なども……)僕はキャラクターとして非常に魅力的に感じるのでした。

實際、神戸を散歩した時や自動車中などは大いに頑張つて起きて居た――うつかりすると溫は不案内の土地で迷兒になる――

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

渡辺温が迷子になってしまうかもしれないから、死ぬほど眠かったけど頑張って起きて居た長谷川修二。温より1歳年下なのに此処でも面倒見の良さを発揮して居ます。そもそも寝不足なのも、温のために色々と考えて居たからですね。
温の人柄が可愛らしくて弟気質ぽいところがあったにせよ、水谷準と渡辺温の関係も、水谷準の方が年下ですが年齢は全然關係ない付き合いのようで、此の界隈は年功序列だとかが無く、自由で軽い空気があって好いなあと思います。

溫の細君マリーさんにも手紙一つ書けず

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

「山田まり」さんの事を「マリーさん」と砕けた調子で呼んで居るので、会った事があるのでしょうか。実際は理解りませんが。何となく、温が親友に結婚相手を紹介出来ていた人生だといいなあと思ってしまいます。

渡辺温の人柄など

大学時代の姿

こんな原稿を讀まうものなら、ひでえ奴だお前は、とか何とか云ひながら、ニヤニヤ笑ふだらう、と許り想像する。

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

「ひでえ奴だお前は」という喋り方は横溝正史や及川道子の回想に出てくる温より荒めの言葉使いです。横溝さんの回想録に関しては、横溝さんは敢えて温の非常に良いところを良い感じに描写して書き残してくれたんだと思って居ますが、及川道子の前での渡辺温は屹度丁寧な言葉で王子様のように振る舞っていたのではないのかなあ、なんて想像します。
また「ニヤニヤ笑ふ」のが全然可愛く無くて、二人が日常的に冗談ばかり言い合ってる仲だという事を感じさせてくれました。

溫が「愁ひ顔の騎士」と名乘り始めたのは其の頃の話である。

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

自分で「愁ひ顔の騎士」と名乗る渡辺温。どういうノリなのか調べられるものなら調べたい物です。築地小劇場周りの影響や映畫の影響などはあるのだろうか。何にせよ自らそう名乗る21才大學生、微笑ましいと思います。

ウフフ!と齒を出して笑ふのであつたが、知らない人の居る所や何かでは、溫はひどく眞面目な顏をしてゐた

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

天眞爛漫そうな明るい笑顔と、人見知りの硬い表情。そのギャップと、自分の前では明るい笑顔を見せる温が可愛く感じたのではないかなと想像します。長谷川修二がなんだかなんだと面倒を見てしまうのは、可愛げがあったからなのだろうなあと、僕は思って居ます。

カリガリ博士の眠り男

「カリガリ博士」を見てからは、ファイトの扮する眠り男との酷似から「眠り男」とか「チエーザレ」とか、僕達が呼ぶ時があつたが。谷崎先生は「春寒」の中に溫を「アラン」に比較されたが、どうも「チエーザレ」の方が似て居たと思ふ。

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

渡辺温が似ているのはカリガリ博士のアランなのか眠り男なのか、と回想録では時々上がる話ですが長谷川修二は眠り男に一票という事でした。毎日一緒に居た友達の視点なので、成程、と唸る物があります。長谷川修二の視点をとるなら、谷崎は谷崎で温のことを好意的に見て居たんんだろうなあと思います。

渡辺温のおしゃれ観

四肢の長い身體の上に、櫛の通らない長髮の頭がのつて居る工合は、敗けたドン・キホーテの姿によく似て居た。

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

それから「櫛の通らない長髮」というのは当時の温の垢抜けきれなさを感じて、温のお洒落観、ファッション感覺を知る上でポイントになると思って居ます。
確か室伏高信の自伝だったと思うのですが……長谷川修二は関東大震災のゴタゴタの時でもアイロンを掛けたズボンを履いて綺麗なハンカチも持って、上品に決まって居たという事が書かれていたので、そう云う話と比べると、温というのは自分なりのお洒落のこだわりや獨特のセンスはあるけど、長谷川修二や中村進治郎のようにバキバキに決まってる!っていうタイプじゃないんだろうなあと、僕は考えて居ます。

お調子者

僕は黑服を着た溫に黑襟卷きをさせて、チヱーザレの眞似をさせ、往年銀座で鳴らした巧笑倩たる白川珠子君を脅かさした。溫も、チエーザレに似たのが得意で、すぐモツコに乘つて、變な格構をして見せた。

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

長谷川修二に言われるが儘にコスプレでモノマネをして、知り合いの女優を脅かす渡辺温。お調子者で可愛い。二人とも青春って感じで可愛い。啓助さんによると温はお調子者で人を笑わせる事だ好きだったという話なので(こんな探偵小説が読みたい/鮎川哲也 のインタビューより)此れも屹度楽しかったのだろうと思う。「すぐモツコに乘つて」と調子に乗って更にモノマネするところも、横溝さんに褒めて励まされて小説を書いていたであろう渡辺温の性格が現れて居ると感じました。

フットワーク軽そう

關西では、大阪の安堂寺橋に僕が居た頃一度、神戸の熊池で一度、夙川で一月に一度と二月九日の最後と、四度つきり

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

当時の鉄道・旅行事情に僕は明るく無いのだけど、渡辺温は意外と関西に行って居たのだなあと思った。関西での仕事の痕跡は、撮影所を訪れた話しか知らないので(他にもあれば教えていただければありがたいです)、此の4回のうち幾つかはプライベートで遊びに行ったのかなと思います。啓助さんが住んでいた渋川にも遊びに行ったようだし、割とフットワークが軽い人だったように思います。

「影」のことなど

讀者に迷惑でなかつたら、僕はも少し溫の事を書き續け度いと思ふ。「影」を書いた頃の溫や、「影」がひどく一般の撮影所から不評判であつた事や、僕達の「赤い部屋」オヤシス・パーラーの事などをば。

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

結局此の後、温の話は書かれていないので猟奇読者よ、リクエストして呉れよ!と令和の僕は非常にもどかしく思った訳ですが……。
「影」を啓助さんは何時書いていたのか知らなかったけれど、長谷川修二はそれを知って居ると云うのは見逃せない話だと思います。
一緒に住んで居た啓助さんが知らなくて、長谷川修二が知ってるという事は、大學や喫茶店などで書いていたという事なのでしょうか。

そして及川道子と渡辺温の出会いの場でもあった「オヤシス・パーラー」。屹度長谷川修二は二人の出会いや戀の始まりも見ていただろうし、オアシスの話も書いて欲しかったなあと切に思います。
及川道子の自伝「いばらの道」でもオアシスの内装のことは特に書いていなかった氣がするので(僕の見落としであれば、教えていただければ幸いです)「赤い部屋」という情報が得られて良かったです。

長谷川修二の人となりなど

知的なモダンボーイっぽさ

「絹糸でなくテグス糸の方を使つて呉れ」と云つて頑張つた事(何のつもりで云つたのか判らないが。)

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

縫合に疎いので輕く検索してみたけど、テグス糸の方がよりしっかり傷がくっつくと云う事なんでしょうか。本人が何のつもりで云ったのか判らないのが一寸笑って仕舞うのですが、樣々な交友関係を持ち、色々な知識や情報を持っていそうな長谷川修二なので何處かでテグス糸が良いと云うことを聞いて朦朧として居た時にそれが出てきたのかもしれないと思いました。

一體僕は電報を打つ時でも無闇と假名遣ひを氣にしたり、敬語を使つたりして賴信紙五六枚に到る長いのを打つ癖がある。

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

電報5、6枚とは相当長いのではないでしょうか笑 然し饒舌で品を大切にし、古今東西の文化等等精通していそうな彼らしくて納得。個性が際立つエピソードとして、長谷川修二推しとしては益々此の人が好きになりました。

死ぬほどねむかつた。

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

「死ぬほどねむかった」という表現。昭和5年のモダンボーイも「とても」と云う意味で「死ぬほど」を使うとは、今と同じようなノリが知れて嬉しくなりました。

決闘用の長剣!

――僕は決鬪用に長劍を二口持つて居り、而も尖端を尖らし鑢で磨き、何時でも挑戰に應じられる準備と云へば準備が出來てゐる――

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

横溝正史も「長谷川修二のフェンシングの剣」と詩のような作品に出されて居たと思うのですが(作品名を失念してしまい、ごめんなさい。鬼火掲載前の詩だったように思います/此方も優しく教えていただければ幸いです)
「決鬪用の長剣」という、昭和5年の東京じゃ考えられないようなモノを持っていて、それをさらっと書いている長谷川修二、僕は驚きました。尖端を尖らせて何時でも準備をしているとは……紳士のスタイルを極めるとそうなるのでしょうか。

因みに「決闘用の長剣」というのはこういうものだそうです。↓

・16世紀ごろから決闘裁判に使われるようになった。(レイピアの項)
16世紀以降個人間での名誉回復の手段として私闘の「名誉のための決闘」が増えた。名誉のための決闘は特に上流階級の間で盛んに行われた(決闘裁判の項)

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此の點でも僕は益々、ファンになってしまいました。
然し、此の決鬪用の長剣を持っている長谷川修二の親友である、渡辺温は何故か拳銃を持って居離、その拳銃で及川道子に横恋慕する男性を脅したそうで…笑(聞書抄/渡辺啓助さんのインタビューより)
毎日2回ショートケーキを食べることを夢見る一方、決鬪用の剣を尖らせて居たり、拳銃を持って居たりする二人、とても面白いと思います。大好きです。

谷崎潤一郎と長谷川修二の關係

それは私は谷崎家に何度もよばれたし、谷崎に私のアパートの朱塗りの鏡台や縮緬の座布団を「綺麗だね。楽屋みたいだね」と褒められたこともある。

日本探偵作家クラブ会報(昭和37年6月1日発行)/長谷川修二):渡辺温ちゃんの死/岡戸武平

長谷川修二は谷崎潤一郎に気に入られて居たらしく、持ち前のコミュ力の高さはあるだろうがすごいなあと僕は感心して居ました。けれど一體どういう流れで交流するようになったのだろうと疑問に思って居ましたが、長谷川修二の弟分だという清水俊二さんによると、新青年繋がりと言う事らしいです。

阪急岡本に住んでいた谷崎潤一郎が「新青年」グループの若い作家たちと親しくしていたので、谷崎家にも出入りしていて

映画字幕五十年/清水俊二

戸田達雄さんの「私の過去帖」によると、戦後も長谷川修二と谷崎潤一郎は交流があったらしく、長谷川の庭の看板を谷崎が書くと約束をしている、という話を聞いたようです。

彼は「この額は大したことないけれども、そのうちに谷崎潤一郎さんがこの字を書いてくれることになっている」と言っていた。

私の過去帖/戸田達雄

谷崎潤一郎のプライベートはスキャンダラスなこともあり、身勝手なイメージがあったのですが(僕の偏見です)案外義理堅い人だったのか、それ以上に長谷川修二の人柄が良く気に入られていたのか。何れにせよ、双方のファンとしては嬉しくなるエピソードでした。

因みにですが、長谷川修二が此の当時住んでいた「夙川荘」という下宿は高級な下宿で、ワーナーの新入社員であった清水俊二さんが自分の給料ならすぐに破産すると書いていました。
渡辺温が訪ね(おそらく1月には泊まったんじゃないかと思います)、岩崎昶も泊まり、谷崎潤一郎も訪ね、交際していた後の妻の若宮美子も来ていたそうで現在の「アパート」のイメージより随分良い部屋だったのだろうなあと思います。

大正末期のシティーボーイ

看板娘が耳隱しに結つて居て、その頃の耳隱しは未だ今日の斷髮の十分の一にも流行して居なかつたので、學生や若い教授が見物旁々通つたものであつた。

愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――/長谷川修二

大正12年頃の話と云うことでしょうか。耳隠しの髪型の新しさ、そしてそれを見に男性たちが通って居たということ。(当時は大学生も教授も男性しか居なかろうから)此の時代の雰囲気が伝わって良いエピソードだと思います。
また長谷川修二は昭和3年12月には「流行から忘れられた耳隠し」と表現して居り(シンドバッド船長より)4,5年後の話だから、流行で考えれば当然の事ですが、当時の感覚を肌で感じられて通して読むと心地よい物があります。

最後に

非常に長くなってしまいましたが、長谷川修二の「愁ひ顏の騎士 ――渡邊溫の思出――」と云う文章には非常に多くの情報が入っていると感じます。
渡辺温の人となり、構想していた作品の事、大正末期の学生だった彼らの日常(彼らの生活は一般的ではないでしょうが)、二人の関係、長谷川修二の人となり、……地下水脈のように新青年や探偵小説の世界と繋がっているエピソード等等。
それと同時に2人の青春と長谷川修二の後悔とかなしさ、切なさ、そして渡辺温への友情が詰まったよき文章だと思って居ます。

そして今回のヘッダ画像は新青年昭和5年1月号より、渡辺温と水谷準によるらくがきと思われるものです。渡辺温唯一と思われるサインが書いてあります。

お読みいただき、ありがとうございました。
興味がある方に少しでも届きますように。




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