国家と教会、当時のロシアの時代背景について「カラマーゾフを読む」(13)
国家と教会、当時のロシアの時代背景について「カラマーゾフを読む」(13)
第二編 場違いな会合 五 アーメン、アーメン
舞台は庵室へと戻ります。信者たちと面会していたゾシマ長老がこの部屋に戻ってきたのでありました。
そしてちょうどその庵室ではイワンと二人の司祭修道士の会話がはずんでいたようです。ここで面白いのが、ミウーソフがその輪に入ろうとしたにもかかわらず、相手にもされなかったというのです。もはや完全に格下扱い。修道院をバカにしていた彼が今や逆に粗略に扱われるという屈辱的な状況になってしまっていたのです。まあ、自業自得ですよね。
もちろん、こうなったのも怪物フョードルのせいでもあります。彼の愚弄がなければこんな醜態をさらしていなかったことでしょう。
そして注目したいのがそもそもミウーソフはイワンのことも大嫌いだということです。ミウーソフは自らを先進的な西欧の教養を学んだ知識人と自認していました。そんな彼と似たような立場にいるイワンが鼻もちならないのです。しかもイワンが格下ならまだしも、彼が飛び抜けた優秀な頭脳の持ち主であることは疑いようもありません。知識比べをしても分が悪かったのでしょう。さらに、彼があまりに冷たい態度を取るので余計腹立たしく思っていたのです。
そんなイワンに人前でぞんざいに扱われたミウーソフ。これはさぞかし屈辱だったことでしょう。
そしてそんなミウーソフを眺めてフョードルは楽しんでいたようです。第二章の最後で「さ、ミウーソフさん、今度はあんたのしゃべる番だ、今度はあんたが主役ですよ……十分間だけね」という強烈な皮肉をかましたフョードルですが、ちゃんと約束通り口をつぐんでいたのです。
ただ、「目は口ほどに物を言う」ものです。イワンや修道僧に軽くあしらわれるミウーソフを見る彼の目は何よりも雄弁だったことでしょう。そしてついにこらえきれなくなり、満を持して再びからかうのでありました。ミウーソフ、散々です。
さて、この章ではこの後イワンと修道僧によって国家と教会についての議論がなされていくのでありますが、これも日本の読者を困らせる躓きの石となってしまっています。
現代日本を生きる私たちにはこのロシアにおける国家と教会の問題はなかなかピンと来ないと思いますが、実は当時のロシアにおいては非常にホットな話題だったのです。あのトルストイもこの話題について『神の王国は汝らのうちにあり』という論文を1890年代初頭に書いています。トルストイはそこで次のように宣言しました。
「われわれが従うべき権力は神の権力だけであり、それ以外のものではない。」
ここにタイトルの『神の王国は汝らのうちにあり』の意味するところがあります。つまり、「キリストの教えと異なる今の国家や教会に権威はない」とトルストイは厳しく批判するのです。
結果的に、トルストイはこうした国家・教会批判をしたためにロシア正教から破門されてしまうことになります。自分の信仰をかけてでもこの国家と教会の問題を弾劾せねばならないとトルストイは考えたのです。

トルストイは1910年に亡くなりましたが、そのお墓が上の写真になります。
墓石もなければ、十字架もありません。
そうです。
トルストイはロシア正教から破門されているがために、正教の儀式に則って葬られることもなかったのです。そしてそのお墓は今もそのままとなっています。
なぜトルストイがここまで国家や教会を批判するようになったかはここでは長くなってしまうのでお話しできませんが、興味のある方は『神の王国は汝らのうちにあり』や『教義神学の批判』などの著作を読まれることをおすすめします。
さて、こういうわけで当時のロシアにおいては国家と教会というのが非常に重要な問題だったことが伝わったかと思います。当時のロシアにおいても近代化の波が急激に押し寄せており、「西欧の列強に続け!」という風潮が強まっていました。そうした中でこれまで大切にされてきた信仰や教会をどう位置付けるかというのが問題となっていたのです。
つまり、日本でいう明治維新による廃仏毀釈や国家神道の問題のようなものとも共通点があると言えるでしょう。
「仏教は国の仕組みから廃されるべきである!」
「いやいや、国の安定に必ず必要です!」
「徳川時代の遺物に何が出来よう!これからは神道こそ国家の原理にふさわしいのだ!」
日本でもこんな議論があったことでしょう。
19世紀末というのは世界的にも激動の時代でした。近代化が進む中でどう国家を作っていくかが喫緊の問題だったのです。
その一端が、このイワンと修道士との会話で示されていたのです。
その細かい内容は私たち日本人にはやはりなかなか理解しがたいものがありますが、こうした背景があるのだということがわかれば多少はとっつきやすくなるのではないでしょうか。やはり時代背景を知るというのは大事ですね。
また、もうひとつ気を付けたいのが、そもそもローマカトリックとプロテスタント、ロシア正教はそれぞれ全く異なるキリスト教だということです。ローマカトリックとプロテスタントについては私たち日本人でも何となくイメージがつきますが、ロシア正教というとほとんどわからないという方が大多数ではないでしょうか。私もかつてはそのひとりでした。
ですが、この違いをわかっていないとドストエフスキーの言わんとしていることがどうしてもぼやけてしまうのです。
ドストエフスキーはロシア正教の信仰を持っていました。だからこそローマカトリックやプロテスタントを批判します。このことは後の章でも出てきますのでここまでにしますが、キリスト教にも色々あるというのは非常に重要なポイントになります。
そしてこの章の最後にもうひとつ、私が気になる箇所があります。
それはミウーソフが名誉挽回とばかりに演説した中の、「キリスト教徒の社会主義者は、無神論の社会主義者よりもずっと恐ろしいものです」という言葉です。
これはもしかすると、かつてのドストエフスキー自身のことを言っているのかもしれません。
と言いますのもドストエフスキーは25歳になる1846年頃、社会主義思想に傾倒し思想サークルに入会します。そこで研究されていたのがフーリエを中心とする空想的社会主義だったのです。

しかし、当初は武力革命を考えるなどありえないという穏健なグループでしたが、後に数人が過激化し、ドストエフスキーもその中に入ってしまいました。実際に暴力事件を起こすかどうかは別として、この動きを察知した警察に彼らは逮捕され、シベリア流刑となってしまったのです。このシベリア流刑の経験が後の『死の家の記録』となり、さらには『罪と罰』や『カラマーゾフ』を含む五大長編の萌芽となったのでありました。
このフーリエの思想とドストエフスキーの関係性については「ユートピア社会主義者フーリエとドストエフスキー~なぜドストエフスキーはフーリエに惹かれたのか」の記事でお話ししていますのでご参照頂きたいのですが、ドストエフスキーがミウーソフの口を借りて若き自分を自虐していた可能性というのは大いにありえます。そんなことをミウーソフの演説から感じたのでありました。
というわけで、この章は上巻の中でもかなり読むのに難儀する章だと思います。ですが、細かいことはわからなくとも気にせずにどんどん進んでいきましょう。何度も言いますように、割り切ることも大切です。
ですが、この章でも背景さえ知ってしまえば興味深く読めるのだということもまた真であります。この作品を通してロシアの文化や歴史、そしてドストエフスキーその人に興味を持って頂けましたら幸いです。
続く
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