見出し画像

私の大好きな街プラハにドストエフスキーが来ていた!?あのスメタナともニアミス!

私の大好きな街プラハにドストエフスキーが来ていた!?あのスメタナともニアミス!

第二子の出産のためにフィレンツェからプラハへ向かったドストエフスキー夫妻。

前回、前々回の記事ではその途中に立ち寄ったボローニャヴェネツィアを紹介した。

今回の記事ではそのプラハでの夫妻の顛末をお話ししていく。

では、まずは改めてなぜドストエフスキー夫妻がプラハを目指したのかを再確認しよう。

プラハを目指した理由

イタリアに滞在した九カ月間に、わたしはイタリア語を学んでいくらか話せるようになった。女中と話したり、店で用を足したりするのに不自由せず、『ピッコラ』や『セコラ』といった新聞も読めて、たいていわかるくらいになっていた。

仕事にかかりきりの夫にはもちろん言葉をおぼえるひまはなく、わたしが通訳してやっていた。いまや、喜びがせまってきたので、夫がフランス語かドイツ語かで医者や産婆や店員たちと不自由なく話せるような国へ移り住む必要があった。どこに行くべきか、どんな所なら夫が知識人社会に行きあえるか、といった問題を長いあいだ話しあった。

わたしは夫に、故国ですごすような、ロシアに近いプラハで冬を越しては、と言ってみた。ここなら夫も、すぐれた政治活動家たちとも知合いになれるだろうし、その人たちをつうじてそこの文学者や芸術家のサークルにもはいって行けるかもしれない。

夫は、一八六七年のスラヴ会議に出席できなかったことをくりかえし残念がっていたので、さっそくこれに賛成した。彼はロシアで起こっていた汎スラヴ運動に共鳴していたので、その地の人々をもっと親しく知りたいと望んでいた。こうして、結局、プラハに行って冬のあいだすごすことに決めた。わたしの体の具合では旅行はむりだったので、途中いくつかの都市で休み休み行くことにした。

※スマホ等でも読みやすいように一部改行した

みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P204

ここで述べられている通り、プラハにはロシア人であるドストエフスキーとも語れる知識人が多く住んでいた。そしてチェコは当時ハプスブルク帝国の一部ではあったが、チェコ人はスラブ系の人が多いというのもドストエフスキーにとってはありがたいものがあった。ロシア人もスラブ系。同じスラブ系の人々と語ってみたいというドストエフスキーの考えも納得できる。

しかし、現実は甘くはなかった・・・

引き続きアンナ夫人の回想を聞いていこう。

ヴェネツィアからトリエステまでの船旅はひどい荒模様だった。フョードル・ミハイロヴィチはわたしのことを気づかって一歩もはなれないほどだったが、さいわい何ごともなくてすんだ。

その後二日間ウィーンにいて、旅に出てから十日後にようやくプラハにたどりついた。

だが、ここに待ちうけていたのは大きな失望だった。そのころプラハには、家具つきの部屋は独身者用しかなく、家族用の部屋、つまりいっそう静かで住み心地のいいのは全くなかった。

プラハにとどまるためには、アバートを借り、半年分の家賃を前払いしたうえ、家財道具いっさいを自分でそろえなければならなかった。これは資力にあまるので、三日間さがしまわったあげくに、残念でならなかったが、短期間ながらすっかり気にいった黄金のプラハをあとにしなければならなかった。

こうして、スラヴ世界の活動家たちと関係をもちたいという夫の夢もやぶれた。けっきょく、わたしたちに生活条件のわかっているドレスデンにおちつくほかはなかった。

※スマホ等でも読みやすいように一部改行した

みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P205

なんと、当時のプラハには家族で住めるような手頃な空き家がなかったと言うのである。今の感覚から言うと信じられない話ではあるが、当時はそうであったのだろう。

たしかによくよく考えてみると、宿ならまだしも、家具付きの住居でということになるとなかなか難しいというのもわかる気がする。

長期で滞在するなら家具くらい自分でそろえなさいというのも大家側からしたらそれは言いたくもなる。

特にプラハのような歴史ある文化都市の場合、街中心部の便利な物件というのはドストエフスキー夫妻のような貧乏な旅行者にはかなり厳しいものがあったことだろう。

ああ・・・!美しきプラハ!

文化香る中世の街並みと美しきモルダウの流れ。ここは個人的にも私が最も愛する街でもある。

どこを歩いてもうっとりするほどの景色。

「それにしても美しい。プラハはなぜこんなに美しいのか!」

これは春江一也の『プラハの春』という小説に出てきた一節なのだが、これほど見事にプラハの魅力を言い当てた言葉がほかに存在するだろうか。

だが、それだけではない。

目に見える美しさだけが私を虜にしたわけではないのだ。

目には見えない精神的なもの。きっとそれが感じられたからこそ、私はここまで惹かれたのだろう。プラハが生きてきた歴史、文化、精神性。それが香ってくるのだ。

きっとドストエフスキーもそうしたプラハの精神性を感じたに違いない。

「もしドストエフスキーがこの街に滞在することができたなら・・・」

歴史において「もし」は禁じ手ではあるがあまりに魅力的な「もし」である。

面白いことにドストエフスキー夫妻がやって来た1869年はあの『ヴルタヴァ(モルダウ)』で有名なスメタナが活躍していた時代だ。ドヴォルザークも彼の楽団に所属し頭角を現し始めていた。

スメタナ(1824-1884)Wikipediaより

その彼らとドストエフスキーが接点を持つこともありえたかもしれないのだ。私は個人的にスメタナに強い関心があったのでこれは非常に気になるところではある。

プラハやスメタナについては当ブログでもこれまで紹介してきたので、ぜひ以下の記事も参照頂ければと思う。プラハの魅力をぜひ知って頂けたら嬉しい限りだ。

さて、こういうわけでドストエフスキー夫妻は泣く泣くプラハを後にし、ドレスデンへと向かうことになる。

ドレスデンといえば、この旅の序盤に長期滞在した勝手知ったる街でもある。ドストエフスキーが愛したラファエロの『システィーナの聖母』が展示されていた街だ。

結局、ドストエフスキー夫妻のヨーロッパ旅行はこのドレスデンでそのラストを迎えることになる。彼らは再びここで長期滞在し、最後はロシアに帰ることになったのだ。

次の記事ではそんな二度目のドレスデン滞在についてお話ししていく。

続く

前の記事はこちら



連載記事「『カラマーゾフ』を読む」記事一覧はこちらのマガジンにて


以下の記事ではドストエフスキー小説をもっと楽しむためのおすすめの解説書をまとめています。ぜひこちらもご参照ください。

ドストエフスキーのおすすめ書籍一覧はこちら
「おすすめドストエフスキー伝記一覧」
「おすすめドストエフスキー解説書一覧」
「ドストエフスキーとキリスト教のおすすめ解説書一覧」


ドストエフスキー年表はこちら


「ドストエフスキーの旅」はこちら


関連記事

いいなと思ったら応援しよう!