昭和、男もつらかった 122  遠縁の娘

 昭和初期、鹿児島の農村で生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語である。

 農家の一人息子の二夫は、県立の農芸学校在学中、陸軍少年飛行兵(少飛)に志願、整備兵として特攻隊に加わり、朝鮮の京城(けいじょう)飛行場で終戦を迎えた。幸い無事に復員できたが、戦後の混乱の中復学はしなかった若い男手が不足する中働く口もかかったものの、家業の農業に精を出すことに決めた。

 戦後数年間の二夫は、季節ごとの農作業と、本業にはしないが手伝う程度なら、と決めた「石切り屋」での作業に取り組む日々が続いた。復員当初は心配された体調もすぐに回復した。もとより、ふるさとの集落に戻って以前どおりの暮らしに戻ったことで、二夫の気持ちは安定していた。

 集落や地域のつきあいや行事は、戦中や終戦直後の物資欠乏、それに男手不足で途絶えたりしたものもあったが、それも少しずつもとに戻りつつあった。復員兵が加わって地域の青年も増え、同世代の青年たちとのつきあいも活発になりつつあった。

 そうこうするうち二夫も20歳を超えた。「2 生まれ年」で述べたとおり本当は昭和2(1927)年生れだが、戸籍上の生年は3年だ。世の中は、戦時中に減った人口を取り戻すべく「ベビーブーム」と言われる出産ラッシュの時代を迎えていた。この頃に生まれた赤ちゃんたちが「団塊の世代」と称されるようになる。

 そんな頃、農作業の行き帰りのとき、集落の中で自分より少し年下らしい娘を見かけた。
「あや、誰(だい)け?」*
(あれは誰だっけ?)
一緒に歩く母親のハルに尋ねると、こう返された。
「直次さんが家(え)んミヨ子じゃが」
(直次さんとこのミヨ子じゃないの)

 直次の家は同じ一族で苗字も同じだが、数代前に「枝分かれ」しており、ふだんはほとんどつきあいがなかった。ミヨ子のことも、子供の頃から知ってはいたが、そもそも男児と女児は一緒に遊ぶことはないし、学校も男女別クラスだ。ことに鹿児島では、男子が女子と遊んだり一緒にいたりするのは「恥ずべき」ことだった。もちろん逆も同じである。

 二夫たちが子供のころに日本と支那(シナ)の戦争が始まり、それ以来ずっと「戦時」だった。男は兵隊になり、女は銃後を守るという役割分担は明確で、それは終戦まで続いた。だから、女の子と交わる機会はほとんどなかった。地域や集落の行事でみんなが集まっても、男性と女性は、役割はもちろん座る場所まで異なっていた。子供といえども男なら、女と一緒にいるのはよちよち歩きまでだ。

 だから、集落の「年ごろの」娘に、誰がいるかは朧に知ってはいても興味はなかった。志願して遠方の飛行学校や外地にいた二夫は、いわば数年のブランクもあった。

 しかし、久しぶりに名前と顔が一致したその娘は、この辺りにはあまりいないタイプだった。わりあい丸顔だが目鼻立ちがはっきりしていて、ちょっと女優みたいでもあった。それでいて小柄でぽっちゃりした体形で、親しみやすい雰囲気がある。内またで伏し目がちに歩く風情も好ましく映った。

「んだ、ミヨ子や……」
(へぇ、ミヨ子か……)
二夫は呟いた。が、その時は「子供の時とはちょっと雰囲気が変わったな」というぐらいの印象を、ぼんやり持った程度だった。

*鹿児島弁。「あや」は「あいは」が短縮されたもの。「ai」の末尾音「ha」の母音aのみが繋がっている。鹿児島弁にはよく見られる。ことに共同体内の関係が密で、順序だてて話す必要がない場合には多く見られる。少し丁寧な言い方だと「あぃは、だいけな?」となる。

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