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鳥の沈黙全10話:1話ー囀(さえず)らない鳥ー

囀(さえず)らない鳥

『卵の裏側、あるいは見ていなかった十年』

 同じ出汁巻きを、十年、焼いてきた。

 二人で同じ皿をつついたことは、たぶん一度もない。わたしが焼いて、あの人が食べる。焼くのはいつもわたしで、食べるのはいつもあの人だった。そういう食卓を、十年続けて、それを分かち合いだと、わたしは呼んでいた。

 あの人が荷物を取りに来るのは、来週の土曜、午前十時だと決まっている。別れ話は、先週、平日の夜の食卓で、明日の天気を確かめるみたいな軽さで済んだ。もう決めたことだから、と。わたしは箸を止めなかった。止めたら、何かがこぼれる気がした。

 その朝も、いつものように卵を四つ割った。

 羅臼昆布を前の晩から水に沈めておいた出汁を、弱火にかける。鍋肌に小さな泡が並びはじめたところで、昆布を引き上げる。沸かせば濁る。濁らせたことはこの家では一度もない。引き上げた湯へ、血合いを抜いた本枯節をひとつかみ落とすと、薄紅の花びらみたいな鰹がふわりと湯の面に広がって、沈んで、また浮いた。鍋の底が金色に染まっていく。木の香りと、海の香り。火を止めて、削り節が自分の重みで沈むのを、ただ待つ。押してはいけない。待つと、澄む。

 布巾を敷いた笊で漉すと、琥珀色の一番出汁が落ちてくる。ひと匙、口に含む。塩も入れていないのに、舌の奥がじんわり甘い。この一口のために、わたしは毎晩、昆布を水に沈める。誰に見せるためでもない、この時間だけが、たぶん、いちばんわたしのものだった。

 卵一個に、出汁を大さじ一。龍野の淡口を、色をつけないよう香りだけ、ほんの数滴。三河みりんをひとたらし。砂糖は入れない。入れないことにしたのは、結婚二日目の朝だった。実家の甘い卵焼きを出したら、あの人は一切れ食べて、二切れ目に箸を伸ばさなかった。文句は一言もなかった。伸びなかった箸だけが、すべてを言っていた。次の朝から砂糖をやめ、出汁を増やした。あの人は四切れ食べた。その朝から、この家の出汁巻きは甘くない。

 銅の卵焼き器を火にかける。母のもので、その前は祖母のもの。三代ぶんの手の脂が同じ鉄肌に染みて、底が黒く光っている。太白胡麻油を薄く引いて、余分を拭き取る。玉子液を玉杓子に一杯、鉄の全体に流すと、じゅっと縁が鳴って、すぐに大きな泡が浮いた。箸先で潰しながら、半熟のうちに向こうから手前へ巻く。巻いた玉子を向こうへ寄せ、空いた手前にまた油を引き、玉子液を流す。巻いた玉子を持ち上げて、その下へも滑り込ませる。焼けた層と生の層が、熱でつながる。寄せては油を引き、また流して巻く。繰り返すうちに、層が幾重にも重なっていく。

 出汁の多い玉子液は、柔らかすぎて、箸を入れると崩れかける。その崩れかけをぎりぎりで留めるから、切ったときに断面から出汁がじゅわりと滲む。難しいほど、うまい。母の指はそれを知っていた。わたしの指も、いつのまにか知っている。巻き簾で形を整え、少し落ち着かせてから包丁を入れると、金色の層がまっすぐに立った。切り口の美しい面を上にして、皿に並べる。見せるための、いちばんきれいな面を、上に。

 あの人はもう起きていて、テーブルについていた。出汁巻きを一切れ食べて、うまい、と言った。二切れ目を食べた。三切れ目に箸を伸ばしかけて、止めた。いつものように。

 わたしはその「いつものように」を、十年、見てきた。見てきたつもりだった。あの人がうまいと言うたびに、わたしは自分の焼いた面を確かめた。焦げていないか。層がまっすぐか。出汁が滲みすぎていないか。わたしが見ていたのは、いつも、わたしの焼いた出汁巻きの出来だった。あの人ではなかった。同じ卵を、同じ食卓で食べているのに、この人が今なにを思っているのか、十年たっても、わたしには見当がつかない。近すぎて、分からない。分かろうとする代わりに、わたしはただ、きれいに焼くことばかり考えていた。

 あの人はお茶を飲み干して、行ってくる、とは言わずに出ていった。締まりの緩んだ蝶番が、いつもより長く鳴った。テーブルには、三切れ目の残った出汁巻きと、伏せられたままの箸置きが一つ。わたしはその一切れを口に入れた。甘くない。うまい。誰のためでもなくなった味が、舌の上でほどけた。

 昼、逃げるように商店街へ出た。

 乾物屋のおばさんに、いつものね、と昆布を二枚巻いてもらう。その先の定食屋の硝子戸の向こうで、焼き台の煙が上がっていた。二人で何度か入った店。銀だらの西京焼きが名物で、今日は一人で暖簾をくぐった。奥のカウンターに座って、西京焼き定食を頼む。

 運ばれてきた銀だらは、白味噌に漬け込まれて、遠火でじっくり焼かれていた。皮目が飴色に焦げて、味噌の甘い匂いが湯気と一緒に立ちのぼる。箸を入れると、ほろりと厚い一片が崩れた。口に運ぶと、脂ののった白身に味噌の甘みが染みていて、舌の上でとろける。すかさず、炊きたての白い飯をかき込む。甘い脂と、飯の熱。うまい。文句なく、うまい。

 それでも、来週土曜の午前十時という時刻が、味噌の甘さのなかにも冷たく居座っていた。どれだけ脂の乗った身を噛みしめても、あの時刻の輪郭は一ミリも溶けない。わたしはただ、逃げるように箸を動かした。付け合わせの小鉢に、甘い出汁巻きが二切れあった。店のは、砂糖の効いた、ふっくらしたやつ。母の味に、少し似ていた。一切れ食べて、二切れ目に箸が伸びなかった。あの人と、同じだった。残された出汁巻きの気持ちが、初めて分かった気がした。

 夜は、自分のためだけに、少し手をかけた。

 牡蠣を買って帰っていた。片栗粉をまぶして流水でやさしく洗うと、水が墨のように濁って、身がふっくら白くなる。土鍋に昆布出汁を張り、白味噌を溶いて、焼いた葱と春菊、豆腐を入れる。牡蠣は、最後にそっと沈める。煮すぎると縮む。ぷっくりした縁がめくれ上がった瞬間が食べ頃だった。土手鍋。ぐつぐつと味噌が煮立ち、牡蠣の海の匂いが立ちのぼる。

 一つ、口に入れる。噛んだ瞬間、牡蠣の中から潮の詰まった汁がじゅわっと溢れて、白味噌の甘さと混ざり合う。濃い。うまい。熱燗を一口。冷えた喉に、酒がとろりと落ちていく。誰の機嫌を伺うでもない、誰に見せるでもない、わたしだけの一皿だった。見せるための出汁巻きとは、まるで違う味がした。見せない料理は、味が近い。近すぎて、少し泣きそうになる味だった。

 土曜の朝が来た。

 最後にもう一度、出汁巻きを焼いた。四つ割って、いつものように出汁を含ませ、いつものように巻いて、切り口のいちばんきれいな面を上にして皿に並べた。あの人は約束の十時ぴったりに来て、黙々とクローゼットから自分の服を抜いていった。ハンガーの擦れる乾いた音が、規則正しく部屋に響いた。

 荷物を詰め終えたあの人に、食べていく、と訊いた。あの人は少し驚いた顔をして、それから、いいよ、と言った。向かい合って座り、最後の出汁巻きを食べた。

 あの人は一切れ、箸で取った。そして口に運ぶ前に、その一切れを、箸先でくるりと裏返した。切り口のきれいな面ではなく、巻き簾を当てた、あの、少し崩れた裏側を、じっと見てから、口に入れた。

 その瞬間、心臓が冷たい水に浸された。

 あの人はいつも、そうしていた。十年、毎朝、出汁巻きを裏返してから食べていた。わたしはそれを、焼き上がりを検分されているのだと思っていた。裏まできれいに焼けているか、確かめられているのだと。だからわたしは裏側までまっすぐに、崩れないように焼こうとしてきた。違った。あの人は崩れた裏側を、見ていた。出汁がいちばん滲む、いちばん人間くさい、あのぶざまな面を、選んで、口に入れていた。

 わたしは十年、いちばんきれいな面を、上にして出し続けた。崩れた裏側を、隠し続けた。あの人が見たかったのは、たぶん、隠していたほうだった。わたしがいちばん見せたくなかった面を、あの人はいちばん、食べたがっていた。それに、今朝、気づいた。裏返す指先の癖に、十年、一度も、気づかなかった。

 ごちそうさま、うまかった、とあの人は言って、いつも通りの微笑みで席を立った。玄関のドアが閉まって、鍵の閉まる音がした。テーブルには、空になった皿が二つ。切り口のきれいな面ばかり並べていた、わたしの皿。

 胃の底に、出汁の温かさがまだ残っていた。その温かさが朝までに冷めることだけが、いつものように、はっきりと分かっていた。





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