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沈黙の羊

『炭酸の泡、あるいは埋まらない距離』

二人で同じトマトパスタを注文したのは、メニューを選ぶ労力を惜しんだからだ。

店の薄明かりの中、彼女は無言で麺を巻き、僕はそれを眺めながら冷えたビールを喉に流し込む。彼女の唇がソースでわずかに濡れ、咀嚼のたびに顎の骨が小さく、規則正しく動く。僕の舌を焼いているトマトの酸味や熱を、きっと彼女も今、同じように感じているはずだった。

肉体という檻のなかで、僕たちは今、完全に同じ化学反応を共有している。それなのに、皿を見つめる彼女の静かな瞳の奥で、どんな思考が渦巻いているのかは全く見当がつかない。これほど近くにいて、同じ味を咀嚼している人間が、一秒後に僕を捨てる決意をしていたとしても僕には気づけないという事実だけが、ビールの炭酸の泡みたいに、妙に腑に落ちる。同じものを胃袋に収めながら、僕たちは全く別の宇宙を生きているのだ。

彼女のフォークが皿の底を擦る冷たい音が、僕たちのあいだに横たわる、埋めようのない距離の正体だった。

「今週の土曜日って、何時くらいにあの部屋出る?」

彼女はパスタを綺麗に平らげ、お冷のグラスを手に取りながら、思い出したように訊ねた。
トーンは平坦で、まるで明日の天気を確かめるような軽さだった。

「土曜日? ……特に予定はないけど。何かあったっけ」
「ううん、なんでもない。ただ訊いただけ」

彼女はそれ以上何も言わず、スマホに視線を落として画面をスクロールし始める。僕たちの会話は、噛み合う前にいつもこうして、デジタルな光のなかに吸い込まれて消える。

彼女が味わっていたのは、僕という存在ではなく、ただの店の料理だ。僕たちは互いの喉の鳴る音を、ただ沈黙の代わりに聞きながら、それぞれの孤独を咀嚼している。


【一人で帰宅し、胃袋を満たす】

彼女と別れた夜の街は、ただただ寒かった。

自分の部屋に帰り着き、コートを脱ぎ捨てる。部屋には、出かける前と全く同じ、誰もいない沈黙がそのままの形で残っていた。
あの店で彼女と向かい合っていた時間よりも、この冷え切ったワンルームの空間の方が、ずっと僕の肌に馴染む。

僕は台所に立ち、冷蔵庫を開ける。
そこにあるのは、洒落た店のトマトソースとは程遠い、現実そのものの食材だ。
パックから取り出したのは、昨日の残りの、少し端が固くなりかけた白米。
それをレンジで温め、平皿に移す。上から、ただ空腹を満たすためだけに買い置きしてある、レトルトのカレーを無造作にかけた。

スプーンが皿に当たるプラスチックの音が、妙に大きく響く。

一口、口に運ぶ。
スパイスの尖った辛さが、冷えた喉を容赦なく刺激する。
美味しいか、不味いか。そんなことはどうでもよかった。
これは、誰かに手渡すための表現でもなければ、誰かの機嫌を伺うための道具でもない。ただ、僕というひとつの肉体を、明日も生存させるための、極めて事務的な「代謝」の作業だ。

テレビもつけず、スマホも見ない。
暗い窓ガラスに映る自分の影と向かい合いながら、僕はただ、辛い塊を噛み砕き、胃の中に落としていく。
先ほどまで彼女の口元を濡らしていた、あの不可解な時間の残像が、カレーの強い匂いによって、ゆっくりと、しかし確実に上書きされていくのを感じていた。


翌朝:二個の卵と、静かな執着】

目が覚めると、カーテンの隙間から暴力的なほどの朝光が差し込んでいた。
口の中がひどく渇いている。昨夜のレトルトカレーのスパイスと、彼女の残像が、まだ胃の底に澱(おり)のように残っていた。

ベッドから這い出し、顔も洗わずに台所に立つ。
こんな朝、僕を現実に引き留めてくれるのは、自分の手で用意する朝食だけだ。

炊飯器を開けると、炊きたての白い湯気が顔を包む。これだけは、昨夜の残りではない。
大きめの茶碗に、少し硬めに炊き上げた白米を山盛りにそそぐ。

冷蔵庫から取り出したのは、一個百円近くする、赤みの強い地卵だ。
僕はケチな人間だが、卵と醤油にだけは、他人に言えないくらいの執着を持っている。
殻をコンロの縁で軽く叩き、二個、同時に割る。小鉢の中に、ぽってりとした濃厚な黄身が二つ、双子のように並んだ。

そこに落とすのは、実家から送らせている島根の木桶仕込み醤油だ。
数滴垂らすだけで、熟成された大豆の濃密な香りが狭い台所にふわりと広がる。
箸の先で黄身を突き崩し、白身のドロりとした塊が滑らかになるまで、けれど混ぜすぎないように、手早く円を描く。

それを、熱々の白米の山頂から一気に流し込んだ。

黄金色の川が、白米の粒の隙間へと滑り落ちていく。
仕上げに、引き出しの奥から厳選した有明産の焼き海苔を取り出す。漆黒の海苔を火であぶると、磯の香ばしい匂いが立ち上った。それをパリリと乾いた音を立ててちぎり、上から惜しげもなく散らす。

箸で、卵液をたっぷりまとった米の塊をすくい上げ、口に運ぶ。

――美味い。

濃厚な黄身のコクが、醤油の滋味深い塩気と混ざり合い、熱い米粒とともに舌の上でとろける。遅れて、海苔の香ばしさが鼻腔を突き抜けていった。
贅沢極まりない、しかし徹底的に孤独なワンプレートだ。

「美味しいね」と嘘を吐く彼女は、もう目の前にはいない。
この味を理解しているのは、世界中で今、この狭い部屋で箸を動かしている僕だけだ。
噛み締めるたびに、お腹の底からじわじわと体温が戻ってくるのを感じる。僕は今、誰のためでもない、自分だけの生命を、この一杯の卵かけご飯で確かに養っている。


卵かけご飯の濃密な余韻を、スマホの短い振動が遮る。

画面を見つめると、彼女からのショートメッセージだった。

『土曜日、10時に行くね。荷物まとめるから、部屋にいて。』

具体的な用件だけが、記号のように並んでいる。昨夜のパスタの席で、彼女がスマホの画面を見つめながら考えていたのは、これだったのだ。あの「噛み合わない一言」は、終わりへのカウントダウンだった。

僕は画面を消し、お茶を一杯飲み干して、逃げるように家を出た。

――仕事に行こう。日曜日も祝日もない、ただ身体を動かすだけの僕の職場へ。

午前中の仕事を、僕はほとんど記憶のないまま淡々とこなした。他人の目には真面目に働いているように映ったかもしれないが、僕の脳裏には、あの濃厚な卵の黄色と、彼女の冷淡な文字の白が、交互に明滅していた。

12時を過ぎ、昼休憩のチャイムが鳴る。
重い安全靴を脱ぎ捨て、街へ出た。
次は、ランチだ。
このざわついた胸の空虚を埋めるために、僕は何を胃袋に落とし込むべきだろう。


【昼:はみ出すアナゴと、胃袋の現実】

暖簾をくぐると、ごま油の香ばしい匂いが熱気とともに顔を打った。
揚げ台の奥で、職人がパチパチと軽快な音を立てて衣を散らしている。
僕はカウンターの端に座り、迷わず「穴子天丼」を注文した。彼女からのメッセージを頭の隅へ押しやるには、これくらい凶暴な熱量が必要だった。

「お待たせしました」

目の前に置かれた丼からは、文字通り、巨大なアナゴの天ぷらが一本、器の縁を大きくはみ出して横たわっていた。その脇を、濃緑の大葉、黄金色のカボチャ、そして瑞々しい茄子の天ぷらが固めている。
全体に回しかけられた漆黒のタレが、揚げたての衣の上で、じゅわじゅわと微かな音を立てて泡立っていた。

箸を入れ、まずは主役のアナゴを真ん中で豪快に割る。
サクッ、という、鼓膜に心地いい完璧な破裂音。
立ち上る真っ白な湯気の向こうから、雪のように白い、ふっくらとした身が顔を覗かせた。

タレの染みた衣ごと、大きな塊を口に放り込む。

――美味い。

外側の衣はどこまでも軽やかに弾け、内側のアナゴは驚くほどフワフワと柔らかい。噛み締めるたびに、淡泊ながらも力強い白身の旨味が、甘辛く濃厚なタレと絡み合って口いっぱいに広がっていく。
すかさず、タレと油が染み込んだ熱い白米をかき込む。至福の重量感が、ダイレクトに胃袋を満たしていく。

続いて、茄子の天ぷらに歯を立てる。
熱々の油を吸った茄子の果肉が、口の中でトロリととろけ、凝縮された野菜の水分がじゅわっと溢れ出た。

美味い。間違いなく、最高の昼飯だ。
カウンターの隣の男は、スマホで誰かと笑いながら器を空にしている。

だが、これほど強烈な美味と油の熱量の中にいながら、僕の脳裏には、さっき見た『10時に行くね。荷物まとめるから』という、あの淡々とした15文字が冷たく居座り続けている。
どれだけ濃厚なタレを絡めても、どれだけサクサクの衣を噛み砕いても、その文字の鋭さは1ミリも摩耗しない。

僕はただ、逃げるように箸を動かし続けた。
はみ出したアナゴを胃袋に詰め込むことは、土曜日の10時という、変えようのない現実を必死に拒絶するための、僕なりのささやかな抵抗だった。


【夜:叩いた肉とシソ、そして手酌のビール】

サウナから上がった肌に、夜風がやけに冷たくて気持ちよかった。
身体の中の水分が全て入れ替わったかのように、肉体が軽くなっている。それと同時に、胃袋は強烈な渇きを訴えていた。

部屋に帰り着き、僕は真っ直ぐ台所へ向かう。昼にガッツリと天丼を食べたから、夜は米を抜いて、自分のためだけに少し凝った肴(さかな)を作ることに決めていた。

冷蔵庫から取り出したのは、ミンチではなく、脂ののった豚小間肉だ。
包丁を握り、まな板の上で肉をトントンと粗く叩いていく。機械的なミンチでは決して出せない、肉の「塊」としての食感を残すためだ。そこに刻んだ大葉(シソ)をたっぷりと混ぜ込む。

餃子の皮に、叩いた肉とシソの餡を乗せ、親指でキュッとひだを作って包む。
熱したフライパンに並べ、水を注いで蓋をする。ジューーーッという、激しい蒸気音が静かなワンルームに響き渡った。

水分が飛び、仕上げにごま油を回しかける。パチパチと小気味よい音が鳴り響き、香ばしい匂いが立ち上った。

皿にひっくり返すと、見事な黄金色の焼き目が顔を出す。
タレは、酢醤油ではない。白味噌にみりん、少しの辣油を練り上げた、特製の「みそだれ」だ。 

プシュッ、と小気味よい音を立てて、缶ビールを開ける。
グラスには注がず、そのまま口をつけ、乾ききった喉に一気に流し込んだ。

――くうぅっ。

炭酸の刺激と麦の苦味が、サウナ上がりの細胞ひとつひとつにダイレクトに染み渡っていく。生き返る、とはこのことだ。

すかさず、焼き立ての餃子をみそだれにどっぷりと浸し、丸ごと口に放り込む。

パリッ、と皮が弾けた瞬間、中からミンチとは明らかに違う、弾力のある豚肉の肉汁がじゅわっと溢れ出た。濃厚な脂の旨味を、すぐ追って、シソの爽やかな香りが完璧に引き締める。そこに、コクのあるみそだれの甘辛さが絡み合い、口の中が暴力的な美味さで満たされる。

すかさずビールで追う。完璧な循環だ。
美味しい。こんなに美味いものが、自分の手から生まれたという事実だけで、胸の奥の空虚が少しだけ満たされていく。

土曜日の10時に、彼女は荷物をまとめにやってくる。
スマホの画面には、相変わらずあの15文字が冷たく残っている。
けれど、この熱い肉汁と冷えたビールを喉に滑り込ませている間だけは、僕は世界の中心にいた。誰の機嫌を伺う必要もない、徹底的に利己的で、圧倒的に孤独な、僕だけのディナーだった。


【土曜日:最後の晩餐、あるいは最高のランチ】

ピンポーン、と部屋のチャイムが鳴った。
約束の午前十時、一秒の狂いもない。

ドアを開けると、彼女は大きな旅行鞄を足元に置き、いつもの完璧な微笑みを浮かべて立っていた。部屋に入り、黙々とクローゼットから自分の服を引っ張り出していく彼女の背中を、僕はただ眺めていた。
ハンバーが擦れ合う乾いた音が、静かな部屋に規則正しく響く。

「ねえ」
彼女がすべての荷物を詰め終え、ファスナーを閉めたとき、僕は声をかけた。
「最後にお昼、食べていかないか。簡単なものだけど、作ってあるんだ」

彼女は一瞬、驚いたように大きな瞳を瞬かせた。それから、少し困ったような、けれど拒まないいつものトーンで「いいよ」と言った。

僕が用意したのは、気取ったパスタでもなければ、手抜きのレトルトでもない。
これまでの僕の「食」への執着と、彼女への言葉にならない想いをすべて詰め込んだ、最高の一皿だ。

――鴨南蛮(かもなんばん)そば。

実家から届いたあの島根の木桶仕込み醤油と、昆布、鰹節から丁寧に引いた漆黒の出汁。
台所のコンロでは、フライパンで鴨の胸肉と、太い白ネギがじりじりと焼かれている。鴨の皮目から溢れ出た濃厚な脂が、白ネギの甘みを極限まで引き出していく。パチパチという脂のはじける音が、僕たちの沈黙を埋めていた。

茹で上げた十割蕎麦を器に盛り、熱々の出汁を注ぐ。
その上に、香ばしく焼き目のついた鴨肉を美しく並べ、中心には、あの濃厚な赤身の地卵の黄身を、月のようにぽつりと落とした。仕上げに、爽やかな柚子の皮をひとかけら、添える。

「いただきます」

二人は、かつて何度も向かい合った小さなローテーブルで、最後の食卓を囲んだ。

まずは出汁をすする。
鴨の濃厚な脂のコクが、醤油の深い滋味と混ざり合い、柚子の香りが後味をすっきりと引き締める。五臓六腑に染み渡るような、完璧な美味さだ。
蕎麦をすする。十割ならではの、ザラりとした力強い粒感と、豊かな香りが鼻腔を抜けていく。

彼女のフォークの音ではなく、今は、二人が蕎麦をすする音だけが、部屋の中に満ちていた。

「美味しいね」

彼女は箸で鴨肉を小さく割り、口に運びながら言った。

そのとき、僕は彼女の「左手の指先」に目が留まった。
彼女は右手で上手に箸を操りながら、使っていない左手の指先で、自分の膝の上のデニムを、トントンと小さく、規則正しく叩いていたのだ。

その瞬間、心臓が冷たい水に浸されたような衝撃が走った。

彼女は左利きだった。文字を書くのも、スマホを触るのも左手だ。それなのに、箸だけは右手で持っていた。そして、食べ物を口に運ぶその一瞬だけ、左手の指先が、まるで何かをカウントするかのように小さく動く。

その癖を、僕は今の今まで、何年も一緒にいながら一度も気づいていなかった。

あの薄明かりの店で、同じトマトパスタを巻いていた時も。
この部屋で、何度も一緒に安っぽい惣菜を並べて食べていた時も。
彼女はいつも、僕の目の前でその指先を動かしていたはずだった。それなのに、僕は彼女の脳内が分からないと嘆くばかりで、彼女の肉体が刻んでいた、そのささやかなノイズにすら目を向けていなかったのだ。

「ごちそうさまでした。本当に美味しかった」

彼女は器を綺麗に空にし、いつも通りの完璧な微笑みを浮かべて席を立った。
左手で重い旅行鞄のハンドルを握り、彼女は部屋を出ていく。
ドアが閉まり、カチャリと鍵が閉まる音が響く。

部屋には、まだ鴨の脂の香ばしい匂いと、柚子の清涼感が、温かく残っていた。

僕は一人、残された二つの空の器を見つめていた。
彼女が去ったローテーブルの向こう側。そこにはもう誰もいないのに、彼女の左手の指先がトントンと叩いていた、あの静かなリズムだけが、僕の耳の奥にいつまでも、ビターな余韻を残して響き続けていた。


【おすすめの5冊目】『始発列車を待つ君へ: 始発を待つふたりのホーム』

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始発列車が来るまでのわずかな時間、駅のホームで言葉を交わすふたりを描いた、叙情的な物語です。
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