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『昇る魚』

『昇る魚』

同期の中で、須藤が一番先に昇った。

祝いに一席、と言い出したのは僕のほうだった。カウンターだけの、予約の取りづらい鮨屋を無理に押さえた。奢るとまでは言わなかったが、たぶん僕が多めに払うことになるのだろうと、暖簾をくぐる前から分かっていた。祝う側の顔をして、実際に何を祝っているのかは、自分でもよく分からなかった。

「悪いな、こんな店」と須藤は言った。悪いと思っていない声だった。

白木のカウンターは、拭き込まれて水気ひとつない。付け台の向こうで、大将が無言で光り物に包丁を入れている。最初に置かれたのは小肌だった。酢で締めた身に細かい包丁が入り、皮の銀が照明を鈍く弾いている。口に運ぶと、酢の角が取れた優しい酸味の奥から、青魚の脂がゆっくりと滲み出した。米はほろりと崩れ、赤酢の香りが鼻に抜けていく。

うまい。文句のつけようがない。

須藤も一貫、口に入れて、小さく頷いた。それだけだった。

僕はカウンターの隅に置かれた醤油皿に、少しだけ醤油を垂らした。実家から取り寄せている島根の木桶仕込みには及ばないが、この店のも悪くない、濃口の角の立った、いい醤油だ。中トロが握られて出てくると、僕はその端を醤油にわずかに浸してから口に入れた。脂が舌の熱で溶け、醤油の塩気がそれを受け止める。完璧な一貫だった。

「須藤、次どこの部署見んの」

「まだ決まってない。まあ、いくつか声はかかってる」

いくつか。その言葉の重さを、僕はうまく計れなかった。僕には一つもかかっていない声の話を、彼はビールで流し込みながら、天気の話のようにした。

雲丹の軍艦が出た。海苔の香ばしさの上に、橙色の身がとろりと盛られている。口に含むと、磯の甘みが舌の上でほどけて消えた。旨い。旨いほど、僕は自分がなぜここに座っているのかが分からなくなる。同じ皿の上の魚を、同じ順で口に運びながら、須藤はもう、僕とは違う速度で泳いでいる。

「お前は焦んなよ」と須藤が言った。「お前の良さは、そういうんじゃないんだから」

そういうんじゃない、が何を指すのか、僕には見当がつかなかった。慰めの形をした、決定的な線引きだけがそこにあった。彼は僕を分類し、理解したつもりになって、それで思考を止めている。

締めに、煮穴子が出た。

ふっくらと蒸し上げた身に、大将が刷毛で煮詰めをひと塗りする。つやのある飴色が、白い米の上で光った。箸で持ち上げると、身は自重で折れそうなほど柔らかい。口に入れた瞬間、穴子はほとんど噛む間もなくほどけ、甘い煮詰めと淡白な白身の旨味が、舌の上でひとつに溶けた。

思わず、目を閉じた。

そのとき気づいた。須藤の前の醤油皿が、最初から最後まで、一度も使われていないのだ。白い小皿に、醤油は一滴も落ちていない。彼は大将が塗る煮詰めと煮切りだけを信じて、一度も自分で味を足さなかった。

僕はといえば、自分の醤油皿を、いつのまにか濃い茶色に汚していた。出される一貫ごとに、僕は自分の手で塩気を足さずにはいられなかった。この店の仕事を、どこかで信じきれていなかったのだ。

「ごちそうさん。うまかったわ」

須藤は熱いおしぼりで指を丁寧に拭い、財布を出す素振りもなく、先に暖簾をくぐって出ていった。会計を済ませ、僕はしばらくカウンターに残された二枚の醤油皿を見つめていた。一枚は、白いまま。もう一枚は、僕が足し続けた塩気で、濁った海のように汚れている。大将は何も言わず、僕の前の皿だけを、布巾で静かに拭って下げた。

【帰宅:出汁茶漬けと、須藤の背中】

夜の街は、鮨の余韻を追い出すように冷えていた。

須藤とは駅で別れた。改札の向こうで、彼は片手を軽く上げて、人混みに紛れていった。その背中は、まっすぐで、迷いがなかった。あいつはいつもああだ。醤油を足さない男の背中だ、と僕は思った。自分の味を、店に、世界に、預けきっている。信じるという才能。僕には決定的に欠けているものだった。

祝ってやりたかったのは、本当だ。同期の中で一番仕事のできる男だった。それは認める。認めたうえで、雲丹を噛みしめながら胃の底に沈んでいったあの冷たい塊が、嫉妬という名前を持っていることも、僕は知っていた。祝福と嫉妬は、同じ皿の上に、分けられずに盛られていた。

自分の部屋に帰り着く。コートを脱ぎ、電気をつける。誰もいない沈黙が、出かける前と寸分違わぬ形でそこに残っていた。鮨屋のあの張り詰めた空気より、この冷えたワンルームのほうが、ずっと僕の肌に馴染む。

腹は、まだ少し物足りなかった。

須藤の前では、僕はどこか味わい損ねていたのだ。うまいはずのものを、うまいと素直に飲み込めなかった。だから僕は台所に立つ。今夜の締めは、誰の目も気にせず、自分の舌だけに向き合う一杯だ。

小鍋に水を張り、羅臼の昆布を一枚沈める。実家から送らせているものだ。弱火にかけ、鍋肌に細かな泡が立ちはじめる直前で昆布を引き上げる。沸かしてはいけない。えぐみが出る。かわりに、削りたての鰹節をひとつかみ落とす。湯の中で花びらのように舞い、沈む。火を止め、しばらく待つ。濁りのない、金色の出汁が静かに澄んでいく。

冷やご飯を茶碗に軽くよそう。炊きたてではない、少し落ち着いた飯のほうが、茶漬けには向いている。上に、塩をあてて炙った鮭をほぐし、有明の焼き海苔を手で揉んで散らす。実山椒を数粒、それから、島根の木桶仕込みの醤油をほんの一滴だけ、香りづけに落とす。

熱い出汁を、飯の山にまわしかける。

じゅわ、と飯が音を立てて崩れる。鰹の香りが湯気とともに立ちのぼり、狭い台所を満たした。箸で軽くかき込み、啜る。

――しみる。

昆布と鰹の澄んだ旨味が、鮨で疲れた胃の壁に、静かに沁みていく。鮭の塩気と、海苔の磯の香り。実山椒が舌の先で小さく弾け、清涼な痺れを残す。あれほど贅を尽くした鮨の一貫一貫よりも、この何でもない一杯のほうが、今の僕の身体に正しく届いていた。

これは、誰に振る舞うものでもない。須藤の醤油皿の白さに勝とうとする一杯でもない。ただ、僕という一個の肉体を、今夜きちんと締めくくって、明日に渡すためだけの、事務的で、けれど確かな一杯だった。

碗を空にして、白湯を一杯飲む。歯を磨き、電気を消す。暗闇の中で、須藤のまっすぐな背中と、金色の出汁の澄んだ色が、交互に浮かんでは消えた。眠りに落ちる直前、僕は自分がまだ、あの男を嫌いになりきれていないことに気づいて、少しだけ救われたような、余計に惨めなような、どちらともつかない気持ちで目を閉じた。

【翌朝:水を掻く、五百メートルの無音】

朝、暴力的な光で目が覚めた。

昨夜の出汁の余韻はもう胃には残っていなかったが、須藤の「お前は焦んなよ」だけが、澱のように喉の奥に貼りついていた。こういう朝は、身体を動かすに限る。頭で考えると、ろくなことにならない。

スポーツバッグを担いで、まだ人の少ないスポーツクラブへ向かう。塩素の匂いのする更衣室で着替え、プールサイドに立つ。朝一番の水面は、誰の手も触れていない、鏡のように静かな青だった。

飛び込む。

冷たい水が全身を包み、昨夜の思考を一瞬で洗い流す。水を掻く。息継ぎのたびに世界が明滅する。水中は無音だ。誰の声も、誰の評価も、届かない。ここには「いくつか声がかかっている」男もいなければ、一つも声のかからない僕もいない。ただ、水を掻いて進む一個の身体があるだけだ。

二十五メートルを往復する。十本、二十本。腕が重くなり、心臓が胸を叩く。呼吸だけが世界のすべてになる。この単純さが、たまらなく心地よかった。仕事の速さでは須藤に敵わない。けれど、こうして黙って水を掻き続けることなら、僕にもできる。誰にも褒められないが、誰にも奪われもしない。

プールから上がると、身体の芯がぽっと熱を持っていた。水分がすべて入れ替わったように、頭が軽い。そして、猛烈に、腹が減っていた。

生存が、まっすぐに空腹という形で戻ってくる。この感覚だけは、嘘をつかない。

【朝ランチ:目玉焼きの、黄身の縁】

シャワーを浴び、髪を乾かしながら、今朝は何を食おうかと考える。運動のあとの空腹には、凝ったものはいらない。ただ、決定的に旨いものが、一皿あればいい。

クラブを出て、通りを一本入ったところにある、古い喫茶店に入った。モーニングをやっている。「トーストと目玉焼き」を頼み、濃いブレンドを待つ。

運ばれてきた皿の上で、目玉焼きは完璧だった。

白身の縁は、鉄板の熱でわずかにレースのように焦げ、パリッと縮れている。中央の黄身は、火を通しすぎず、つややかなオレンジ色のまま、ふるりと盛り上がっていた。厚切りのトーストは、表面がきつね色に焼かれ、角にバターが染みて透けている。

まず、目玉焼きの黄身の縁に、そっと箸を入れる。

とろりと、濃いオレンジの黄身が流れ出した。すかさずトーストの角でそれをすくい取り、口へ運ぶ。焼けた小麦の香ばしさ、溶けたバターの塩気、そこに絡む黄身の濃厚な甘み。白身の焦げた縁の、香ばしい歯ごたえ。

――うまい。

昨夜の鮨とは、まるで別の種類の旨さだった。あちらが張り詰めた緊張の旨さなら、こちらは緩んで許される旨さだ。誰の顔色も窺わず、五百円で満たされる、無防備な幸福。ブレンドを一口飲む。深い苦味が、黄身の甘さを洗い流し、口の中を次の一口へと整えていく。

窓の外を、出勤するスーツの群れが流れていく。あの中に、須藤もいるのだろう。いくつか声のかかった男が、今日もどこかの部署へまっすぐ泳いでいく。

僕は、と考える。僕はこうして、平日の朝に、プールで水を掻き、目玉焼きの黄身を崩している。須藤に負けている。それは、たぶん、本当だ。けれど、この黄身の縁の完璧な焦げ目を、今この瞬間にちゃんと味わえているのは、あの店にいる誰でもなく、僕だけだった。それが勝ちなのか負けなのかは、分からない。分からないまま、僕はトーストの最後の一切れで、皿に残った黄身を綺麗に拭き取った。

【昼:立ち食いの、素うどんの正しさ】

午後、少し街を歩いた。

昼どき、腹はまだそれほど減っていなかったが、駅の構内で、出汁の匂いに足を止められた。立ち食いのうどん屋だ。券売機で「かけうどん」を押す。一番安い、何も乗っていない、素うどんだ。

湯気の立つ丼が、カウンター越しにぶっきらぼうに差し出される。

透き通った、淡い金色の出汁。昨夜、僕が自分の台所で引いたものより、ずっと雑で、ずっと濃い、業務的な出汁だ。けれど、これはこれで正しかった。ネギだけが浮いた表面を、まず啜る。煮干しの効いた、荒っぽい旨味が喉を落ちていく。うどんを手繰る。柔らかく、頼りない麺だ。腰なんてない。それでいい。

昨夜の煮穴子も、けさの目玉焼きも、この素うどんも、全部うまい。旨さに序列をつけるのは、たぶん間違っているのだ。須藤の昇進と、僕の平凡も、本当は同じことなのかもしれない。同じ丼の中の、違う具に過ぎない。

そう思おうとして、僕はやはり思いきれなかった。丼の底に沈んだ出汁を飲み干しても、須藤の背中のまっすぐさは、一ミリも薄まらなかった。嫉妬というのは、素うどん一杯では流せない。

【夜:一人の、鴨と、手酌】

夜、僕はまた台所に立っていた。

昼が軽かったぶん、夜はきちんと作ろうと決めていた。冷蔵庫から鴨の胸肉を取り出す。皮目に細かく格子の切れ目を入れ、フライパンを熱さず、冷たいまま皮目を下にして置き、弱火でじりじりと脂を溶かしていく。焦らず、脂が澄んで透明になるまで。パチパチと脂の爆ぜる音だけが、静かな部屋に響いた。須藤の沈黙を思い出す音だった。

皮がきつね色に焼き固まったら、身をさっと返し、余熱で火を入れる。切り分けると、断面は薔薇色に澄んでいた。皿に並べ、島根の木桶仕込みの醤油に、みりんと、すりおろした山葵を溶いたタレを添える。

プシュッ、と缶ビールを開ける。グラスには注がない。そのまま口をつけ、乾いた喉に流し込む。

――くうぅっ。

炭酸と麦の苦味が、細胞に沁みていく。鴨のひと切れを、山葵醤油にたっぷり浸して、口に放り込む。しっとりとした赤身の弾力、皮目の香ばしい脂、山葵の鋭い辛味が鼻に抜け、醤油の深い滋味がすべてをまとめる。すかさずビールで追う。完璧な循環だった。

うまい。こんなに旨いものが、自分の手から生まれる。その事実だけで、胸の底の澱が、少しだけ軽くなる。

須藤は今夜、何を食っているのだろう。いくつか声のかかった男は、誰かと、どこかの旨い店で、醤油を一滴も足さずに、世界を信じきった顔で杯を傾けているのだろうか。それとも、あいつもまた、一人の部屋で、缶ビールの蓋を開けているのだろうか。

分からなかった。一生、分からないのだろう。

僕はあいつを祝った。心から。同時に、あいつに追い抜かれたことが、悔しくてたまらなかった。あいつの背中のまっすぐさに憧れ、その才能のなさを、自分の醤油皿の汚れの中に見つけて、少しだけ安心もした。祝福と、嫉妬と、友情と、その全部が、この鴨の一皿の上に、分けられないまま盛られていた。どれかを選んで、どれかを捨てることは、できなかった。

鴨を食べ終え、缶を空にする。皿に残った山葵醤油を、指ですくって舐めた。塩辛くて、少しだけ、鼻の奥がつんとした。それが山葵のせいなのか、そうでないのかは、自分でも分からなかった。

僕は流しに立ち、皿を洗う。今夜も、僕は自分の醤油皿を、濁った海のように汚していた。それでいい、と思った。信じきれない男には、信じきれない男の、汚れた皿の味がある。

明日もまた、腹は減るだろう。そうしたら、また何かを食えばいい。須藤のことは、たぶん、当分は忘れられない。忘れられないまま、僕はまた出汁を引き、卵を割り、水を掻きにいくのだろう。

窓の外は暗く、僕の影だけが、暗いガラスにぼんやりと映っていた。

【おすすめの5冊目】『始発列車を待つ君へ: 始発を待つふたりのホーム』

「夜明け前の駅のホームで、ふたりの心がつながる瞬間」

始発列車が来るまでのわずかな時間、駅のホームで言葉を交わすふたりを描いた、叙情的な物語です。
まだ誰もいない静かな空間だからこそ、普段は言えない本音や、秘めた想いがぽつりぽつりと溢れ出します。限られた時間の中で変化していくふたりの距離感と、夜が明けていく美しい情景が重なり、最高の余韻を残してくれます。





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