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綺麗な写真より、”残る写真”の話

ThreadsでFUJIFILMユーザーの写真を見ていると、ふと呼吸がしやすくなる瞬間がある。

正直に言うと、いわゆる「映え写真」には少し疲れている。派手で、強くて、一瞬で目を引く。スクロールする手が止まって、「いいね」と思うまでの時間がとても短い。

分かりやすくて、ちゃんと良い。

でもその“ちゃんとした良さ”に触れ続けていると、どこかで息が詰まるような感覚になる。

綺麗なものは時に疲れる。

無意識のうちに、「良いか悪いか」をすぐ判断しなきゃいけない空気に置かれている気がしてくる。

本当は、もう少しゆっくり息継ぎをしながら写真を見ていたい。

PROVIA

そんな中でFUJIFILMユーザーの写真が流れてくると、少しだけ時間の流れが変わる。

特別ドラマチックな光があるわけでもないし、完璧に整えられた構図でもない。何気ない日常の一コマで、言ってしまえば“映えてはいない”。


でも、だからこそ、いい。


その写真たちは、強く主張してこない。ただ、そこにある。

だから、自分のペースで見ていられる。写真に合わせて感覚を変えるんじゃなくて、自分の呼吸のまま、写真に触れられる。

この感覚って、なんで生まれるんだろうと考えたときに、ひとつ思い当たるものがある。


ノスタルジックネガ

フィルムシミュレーション。

FUJIFILMのカメラには、あらかじめいくつかの“色の方向性”が用意されている。鮮やかだったり、少し淡かったり、コントラストが柔らかかったり。

普通に考えれば、それはただの色設定の話でしかない。

でも実際に使っていると、少し違う。

色を選んだ時点で、写真の“行き先”がある程度決まる。フィルムシミュレーションは写真に対する思想だ。想いだ。

撮る前から「どう見せるか」を作り込むというより、「どう感じるか」に寄せていく感覚。

それが、結果として写真の“強さ”を少し弱める。

でも、その代わりに“余白”が残る。

完璧にコントロールされた色じゃない。
少し転んだり、少し足りなかったりする。

その不完全さが、見る側の余地になる。想像で補う余白がある。

だから、見ていて疲れない。

おそらくFUJIFILMユーザーの写真に感じる心地よさは、この「コントロールしきらない前提」から来ているような気がする。

ACROS-R

最近自分でも「綺麗に撮らないこと」を意識している。

最近のカメラの高性能化で、良くも悪くも写りすぎる。
だから綺麗に撮らないようにしないと、自分の現実から離れていって撮っている自分まで疲れてしまう。

整えすぎない。
分かりやすくしすぎない。

そうやって撮ると、当然“映え”からは遠ざかる。

でも、その代わりに、自分の感覚とのズレが少なくなる。

ちゃんと感じたものが、そのまま残る感じがする。

フィルムシミュレーションは、そのためのひとつの手段じゃないかな。

正解に寄せるための設定じゃなくて、
自分の感覚に近づけるための道具。

だから、レシピも本当は「これが正解」というものではない。

ただ、ある方向に少しだけ寄せるためのヒントみたいなものだと思う。

もし、派手さや分かりやすさに少し疲れているなら、
一度そういう方向の設定で撮ってみてもいいかもしれない。

うまく撮れなくてもいいし、評価されなくてもいい。

その中で一枚でも自分の呼吸に合う写真が撮れたら、たぶんそれはちゃんと残る。

その感覚に気づいた時から、少しずつ写真は変わっていく気がしている。






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中澤紘大 ||写真家 サポートありがとうございます。今後の写真活動の資金にしていきたいと思っております。写真を通して”幸せを目に見える形に”していきます。