【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第19話: トマト缶パスタと赤ワイン
内容紹介
今日の一皿は、シンプルな材料でストレートな美味しさの「トマト缶パスタ」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる、赤ワインと心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。
本編
のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。
スマホを片手に立ち止まると、河合彩音は、道の奥に浮かび上がる白いのれんと、淡い光を見つめた。GPSの案内はここで終わっている。だが、建物には何の看板もない。ただ、やさしく漏れる行燈の明かりが、彼女の不安を少しだけやわらげた。
「─ほんとに、ここ?」
独り言のように呟き、ゆっくりと暖簾を押し上げた。
「いらっしゃいませ」
店内は静かだった。木のカウンター席が横一列に並ぶだけの、こぢんまりとした空間。壁には一枚の抽象的な日本画が掛けられている。そこには、何かを語るような、言葉の気配があった。
彩音は奥の席に腰を下ろし、バッグからメモ帳を取り出して膝の上に置いた。スケッチブックではない。ただの、A6サイズのメモ帳。父とほとんど口をきかなくなってから書き溜めるようになった、日記とも言えない言葉の断片たち。
「お腹の加減はいかがですか?」
カウンターの向こうに立つ男の声は低く、深く、それでいてどこか温かかった。
「はい。─少しだけ、お腹が空いてて」
「承知しました。少々お待ちください」
男はそれ以上何も聞かず、アルミパンの上にオリーブオイルを垂らして、潰したにんにくを熱し始めた。オリーブの緑とにんにくの白の香りがたちまち狭い店の中に立ち込める。そして、厨房の奥からひとつの缶を取り出した。銀色の缶の表面が、照明を反射して微かに揺れる。手慣れた様子で缶切りを使い、真紅のホールトマトをそのまま静かに鍋へ落とす。合流した瞬間、空気が変わった。
香りが、彩音の記憶の襞をひとつずつなぞるように広がっていく。
─あれは、小学生の頃。日曜日の昼。母が仕事でいなかった日に、父が作ってくれた「トマトスパゲティ」。鍋の中にトマト缶と乾麺を直接入れた、あのやり方。
「─まさかね」
ぽつりとつぶやき、彩音は手元のメモ帳を指先で閉じた。
「お待たせしました。トマト缶パスタです」
目の前に出された皿には、見慣れた、でも少しだけ違う、深い赤のパスタがふんわりと盛られていた。湯気とともに立ちのぼる酸味と甘み、にんにくとバジルの香りが、彼女の鼻腔を心地よく刺激した。
フォークで少し巻いて、口に運ぶ。トマトの程よい酸味が先に舌を打ち、そしてにんにく、オリーブ、バジルの香りに下支えされたトマトの旨みが爆発する。
「─この味、知ってます」
思わずそう言った彩音に、店主は静かにうなずいた。
「お酒も、少しだけいただけますか?」
「もちろん。キャンティ・クラシコをお持ちします。トマトソースには、これがよく合います」
やがて注がれた赤ワインは、透明感のあるルビー色。彩音はそっと香りをかいだ。果実と、そして少しだけ土のような、懐かしい匂いがした。
一口。洗練された酸味が、トマトの輪郭をもう一度くっきりとさせた。赤が赤を引き立てる。そんな印象。
「これ─。父が昔、よく作ってくれた味なんです。正式なレシピじゃなかったと思うけど、トマト缶とにんにく、オリーブオイルだけで。でも、妙においしくて」
言葉は誰に届くでもなく、湯気の向こうへと溶けていく。
「父の名前は、河合修吾っていいます。──たぶん、ここに、来たことがあると思います」
店主は頷いた。まるで、そこに言葉がなくても、すでに知っていたかのように。
「自分で食べ物を作って、人に届けたいって、最近になって急にそんなことを言い始めて。私はずっと、意味がわからなかった。でも、このパスタを食べて、ようやくわかりました」
彩音は再びフォークを手に取り、今度はひときわ長く麺を巻き取った。
「温かいとか、美味しいとか、それって全部、理由になるんですね」
ワインを一口。身体の奥から、音もなく、何かが溶けていくようだった。
「『酒肴録』。──この店の名前、素敵ですね」
「ありがとうございます。酒に、肴で、『酒肴録』です」
「また、来てもいいですか?」
「もちろん。いつでも」
彩音は席を立ち、のれんをくぐる前にもう一度振り返った。
「久しぶりに、父に会ってみようと思います。─もう一度、ちゃんと話してみたいから」
彩音は再びのれんをくぐった。二回目は、熟れたトマトと陽の香りを纏わせて。
真城一献は、彩音の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。
おまけレシピ

フライパンにオリーブオイルを入れ、にんにくをひとかけ潰して入れて、火にかける。
にんにくの香りが立ったら、缶からホールトマトを潰さずにそのまま加える。塩、砂糖をひとつまみずつ加える。
トマトの色が深い赤色になったところで、ホールトマトをヘラなどで潰してソースにする。
パスタを記載通り塩茹でする。
パスタが茹で上がる直前に、ソースにバジルを加える。
パスタを加えて和える。仕上げにオリーブオイルを回しかける。
材料紹介
オリーブオイル : 味と値段のバランス最強。普段使いに。
パスタ : パスタならこれがおすすめ。ブロンズダイスでソースとよく絡む。
ホールトマト缶 : 備えあれば憂いなしとはまさにこのこと。
キャンティ・クラシコ : トマトパスタといかが?
