【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第55話: ひつまぶしそうめんと日本酒
内容紹介
今日の一皿は、夏になると食べたくなるあのひつまぶしをアレンジした「ひつまぶしそうめん」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる、日本酒と心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。
本編
のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。
伊吹美緒は、図書館を出て、まだ明るさの残る裏路地を歩いていた。夏の夕方の熱気と、本の匂いがまだ肌にまとわりついている。窓口業務を終えたばかりで、すぐに帰る気にはなれなかった。冷房で乾いた喉を、何か穏やかなもので潤したい。そう思いながら、鞄を肩にかけ直した。
そうめんでも茹でようか。いや、もうその気力もない。帰って一人で流しの音を聞くよりも、誰かに何かを手渡してもらうような、そんな食事がしたかった。料理を選ぶことすら委ねたくなるような夜が、年に数回ある。今日は、まさにそれだ。
目の端に、白いのれんが揺れた。表札も看板もない。ただ、白い布が一枚、ゆるやかに揺れている。足元を照らす行燈の光が、日暮れの空気をひときわ静かに感じさせた。初めて見るはずなのに、どこかで見たことがあるような気がする。記憶の底に沈んでいる、安心の輪郭に触れた気がした。
「いらっしゃいませ」
静かで、よく通る声。奥には紺の作務衣に白の前掛けをした真城一献が立っていた。厨房からは香ばしい匂いと、出汁のようなものが温められる匂いが、音と混ざり合って聞こえてくる。美緒は何も言わず、促されるようにカウンターに腰を下ろした。
真城は注文を取ることもなく、淡々と調理を始めた。水を切った細い麺が、白い器に盛られる。続いて、香ばしい照りを纏った鰻の蒲焼が慎重に乗せられる。錦糸卵、細切りのミョウガ、刻み海苔、青々としたわさび。彩りは鮮やかだが、どこか控えめで調和が取れていた。
「ひつまぶしそうめんです」
供された器を見て、美緒は思わず目を見張った。鰻というと重たい印象があったが、この一杯には涼やかさがあった。
箸をとり、まずは麺だけを口に運ぶ。つるりとした喉越しに、だしの香りとタレの甘みが重なる。
続けて鰻をひと口。ふっくらとした身から、甘辛いタレと炭火のような香ばしさが広がる。そこに薬味が加わると、まったく別の味が生まれた。
しばらくすると、真城が瓶を取り出した。無言のまま、グラスに透明な液体を注ぐ。冷たい水面がグラスの中で揺れた。
「蓬莱泉 和です」
名前を聞いたとき、どこかで耳にした記憶がかすめた。思い出せないまま、美緒はそっとそれを口に含む。米の甘みと柔らかな酸味が、すっと喉の奥へ滑り込んでいく。淡い余韻が残り、もう一口、もう一口と誘ってくるようだった。
鰻の脂が舌の上でとろけるたび、身体の芯がじんわりと温まっていく気がした。美緒はそっと箸を置いて、グラスに手を伸ばす。酒の香りが鼻腔をくすぐり、次のひと口へと導いてくれる。気づけば、何も考えずに目を閉じていた。まるで本を読みながら夢の中にいるような感覚だった。
厨房からは、包丁がまな板を叩く音が律動のように響いていた。それは言葉ではない会話だった。問いかけてもいないのに、何かが返ってくる。そんな不思議な安心感がそこにはあった。
「─こういう場所、あるんですね」
思わず漏れた声に、真城はわずかに微笑んだ。ただ静かに、一瞬だけ視線が交わった。その目には、肯定でも否定でもない、穏やかな光が宿っていた。
「酒に肴で、『酒肴録』です」
「あ、もしかして。富樫慶大さんはいらっしゃいました?私の勤める図書館の英書に関するイベントで、慶大さんに登壇していただいたんです。その時に、こちらのお店のお名前を伺って。司書として見過ごせないお名前だったので、よく覚えています」
「ええ。慶大さんもいらっしゃいましたよ。静かに、録されていかれました」
「不思議なご縁です。まるでここに、導かれたような─」
酒も料理も、口に含むたびに新しい表情を見せてくれる。不意に、鰻の下に隠れたミョウガの香りが立ち上がった。夏という季節の中に、自分が包まれていくようだった。食べ終えるのが惜しいと思ったのは、いつ以来だろうか。
美緒は再びのれんをくぐった。二回目は、新しい1ページが醸す縁を纏わせて。
真城一献は、美緒の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。
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第56話へ続く…
マガジン: バーチャル居酒屋『酒肴録』
おまけレシピ

錦糸卵を作る。卵3個に砂糖大さじ1、塩若干、酒少量入れてかき混ぜ、サラダ油を中火で熱したフライパンに流し込んだら火を止めて蓋をして3分ほど蒸らす。
そうめんを茹でて器に盛る。
うなぎを温めてから一口台に切って盛り付ける。
錦糸卵とミョウガを細切りにして、刻み海苔とわさびと飾りつける。
だし汁にめんつゆを少量加えたものを上からかける。
