【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第56話: フレンチトーストとスパークリングワイン
内容紹介
今日の一皿は、甘い朝の味方をお酒に合わせてみる「フレンチトースト」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる、スパークリングワインと心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。
本編
のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。
片桐隼は、夕方の熱がようやく和らぎ始めた裏路地を歩いていた。昼の喧噪とエスプレッソマシンの蒸気から解放されても、店に戻る気が起きない夜がある。ネルで落とした最後の一杯を渡した指先に、まだ微かな油分が残っている気がした。
小さなカフェを回す日々は嫌いではない。だが、季節ごとに甘味を変えるメニューの発想が、ある地点で止まることがある。試作ノートはびっしり埋まっても、どれも決め手を欠く。甘いものを出すべきか、塩気を効かせるべきか。その分岐点で思考が粉砂糖の霧のように漂う。
ふと、白いのれんが風に揺れた。文字は無い。淡い行燈が琥珀色の輪郭を路地へ零している。
「いらっしゃいませ」
吸い寄せられるようにのれんを押すと、低く涼やかな声が耳を満たした。真城一献。噂で聞くだけだった名が、音になる。
椅子に腰を落とす隼を、真城は見透かすように見た。袖口の焙煎の香り、指先のささくれ、紙の粉─。
水を置き、視線だけ投げて厨房に戻っていく。隼は頷き、余計な言葉を飲み込んだ。
やがて卵を割る音。厚切りのパンが卵液を吸い、バターの海で静かに沈む。じゅ、という甘い音が、店内の空気に丸みを与える。砂糖は控えめ。漂う香りが、隼の記憶の奥を揺らした。
客のいない時間にだけ焼く試作のフレンチトースト。中心の火入りと外側の焦げ目、その均衡をいつも崩してしまう。
真城は別鍋でバターと蜂蜜を温め、塩の粒をひとつ落とした。
「フレンチトーストです」
皿に並んだ柔らかいフランスパンは、全てを吸い込んでいるようだった。
切ると蜜がにじみ、熱が喉でほどけ、塩が輪郭を結ぶ。一度硬いパンに吸われたものたちが、姿を変えて口の中に放出されていく。
「ローラン・ペリエ・ブリュットです」
グラスの縁が卓に触れ、きらりと反射する。栓が静かに抜け、泡がきめ細かく立つ。
隼は細いグラスを持ち上げた。柑橘と白い花の香りが焼き目と結びつき、ひと口で甘みが軽くなる。
二口目は泡がバターを剥がし、塩が輪郭を戻し、蜂蜜の余韻に柑橘の皮が影を落とす。
ふと、雑誌取材で出会った伊吹美緒の顔が浮かぶ。図書館で古書フェアを企画した彼女に頼まれ、珈琲を提供した夜、「いつか甘くて静かな一皿を」と言われた。
あれから二度季節が巡り、言葉はメモの端に眠っていたが、今、目の前の皿で形を成している。
記憶に促されるまま中央を切る。とろみを残した卵、鼻先をかすめるレモンの皮、舌を起こす塩の粒。泡を合わせると、試作の断片が綴じられていく。
こういう、夜に出せる甘さを探していました。蜂蜜は変えるかもしれないが、塩はこのまま、粉糖は要らない。
「美緒さんに持っていく約束があって─」
小さく漏らした隼に、真城は手を止めず頷いた。
木目が灯りを吸い、時間が沈む。今日のノートに書くべき行が並んだ。素材の温度、卵液の比率、焼き面、塩の役割、香りの出口、泡の効用。
隼は再びのれんをくぐった。二回目は夜の甘い香りを纏わせて。
真城一献は、隼の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。
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第57話へ続く…
マガジン: バーチャル居酒屋『酒肴録』
おまけレシピ

フランスパンを薄切りにし、バットに混ぜた卵1、砂糖大さじ1/2、牛乳100ccにしばらく浸す。
バター10gを温めたフライパンの上で焼く。
片面を焼いた後に、別鍋で温めた蜂蜜大さじ1/2とバター10gを回しかける。
材料紹介
ローラン・ペリエ・ブリュット : フレンチトーストと。
