【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第61話: マグロカツと赤ワイン
内容紹介
今日の一皿は、肉のような食べ応えと魚介のたんぱくのいいとこどり、「マグロカツ」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる、赤ワインと心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。
本編
のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。
益田綾音は、古書店の裏口を静かに閉めた。看板も出さず、Webにも載せず、週に5日だけ開くその店は、路地裏の奥にひっそりと佇んでいる。最近、常連客のひとりが「この店はまるで書斎みたいだ」と呟いた。それは綾音にとって最高の褒め言葉だった。
店を閉めると、彼女は鞄に入れていた脚本の束を取り出し、束の端を何度か揃えた。三度目の応募も落選したばかりだった。綾音の内側には、言葉の届かない冷たい水面のような静けさが広がっていた。
脚本の評価は「詩的すぎて、物語が動かない」とあった。自分でもわかっている。だが、声の小さな誰かに捧げたい台詞を削ることは、心の一部を削るようで、どうしてもできなかった。
灯りの落ちた商店街を抜け、まばらに光る街灯を頼りに裏道を歩く。帰るにはまだ、気持ちがささくれすぎている。そんなとき、ふと脳裏に浮かぶ記憶がある。10代の頃、舞台俳優を目指していた友人が、「演じることでしか本音が言えない人もいる」と言った。彼女は夢を諦め、今は別の仕事をしているが、その言葉だけは綾音の中にずっと残っていた。
そんな思考の途中で、目の端に白いのれんが揺れた。白く、文字もないその布は、夜の中にぽつりと灯るようだった。奥から、わずかな油の香りと、出汁のような深い匂いが流れてくる。綾音はためらいながらも、のれんをくぐった。
「いらっしゃいませ」
静かな声とともに、真城一献が一礼する。黒髪をきっちりと撫でつけたその男は、綾音の目を見るでもなく、空間全体を見るように動いていた。
カウンターに腰を下ろすと、水と一緒に小さな白木の箸が置かれる。それだけで注文は取られない。会話が生まれる余地すらないまま、真城はすでに厨房へと向かっていた。綾音はその後ろ姿をぼんやりと見つめていた。寸分の無駄もない動き。熱に追われる様子も、手際を誇る様子もない。ただ、そこに必要なことだけが行われている。まるで静かな舞台のようだった。
「マグロカツです」
目の前に置かれたのは、衣がきつね色に揚がったカツだった。香ばしさの中に、わずかな海の香りが混じる。綾音は箸を割り、中央の一切れをそっと口に運んだ。ざくりとした音とともに、驚くほどしっとりとした赤身の旨味が広がる。マグロだ。だが、生ではなく、揚がっている。それも中はほとんど火が入っていない。外は熱く、中は海が残る、奇妙な感覚。それなのに、調和している。
不意に真城の声が落ちた。気づけば、横に赤ワインのグラスが置かれていた。
「クラウディー・ベイ。ニュージーランドのピノ・ノワールです」
赤身に寄り添うような、絹の舌触りがあるはずです─。そうは言わなかったが、その余韻はワインが語っていた。
グラスを傾けると、ベリーのような香りと、わずかな土の匂いが鼻をくすぐった。口に含むと、舌の上で滑らかに転がり、マグロの脂をひと撫でするように消えていく。
二口目のカツは、ワインの後でまったく違う顔を見せた。噛むたびに甘みが増し、衣の香ばしさが深くなる。綾音は目を閉じて、その味の波にしばらく身を委ねた。脚本で描こうとしていた言葉よりも、この一体感のほうが真実味を持って迫ってくる。自分の書く物語も、こうして誰かの口の中でほどけるようになれたら。
「静かなペアですね」
思わず呟いた綾音に、真城はゆっくりと頷くだけだった。
そういえば、と彼女は思い出す。先日、図書館で修復した蝶番のこと。軋む音がすると聞いて見に行くと、古い金物に「栗原金物」と打たれていた。担当者に尋ねると、もう閉店した地元の店だと言う。だがその蝶番は、今でも見事に働いていた。きっと、丁寧に作られたものだったのだろう。自分の脚本も、そうなれるだろうか。舞台には立たなくても、誰かの日常の静けさを支えるような。
グラスが空になる頃、皿もきれいに片付いていた。
「ごちそうさまでした」
立ち上がった綾音は、静かに一礼し、扉へ向かった。風のような余韻が背中を押していた。
綾音は再びのれんをくぐった。二回目は、包まれた海の香りを纏わせて。
真城一献は、綾音の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。
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第62話へ続く…
マガジン: バーチャル居酒屋『酒肴録』
おまけレシピ

マグロの刺身用の柵を直前まで冷蔵庫で冷やしておいて、取り出したらペーパーで水気を拭き取る。
薄く塩胡椒してから、ふるった小麦粉、溶き卵、パン粉の順につける。
フライパンに1cmほどの油を熱し、180℃で両面を30秒ずつ揚げる。
材料紹介
クラウディー・ベイ ピノ・ノワール : マグロカツと。
