【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第60話: 盛岡冷麺とビール
内容紹介
今日の一皿は、さっぱりとしながらも、麺のしっかりとした食感が食べ応え抜群の「盛岡冷麺」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる、ビールと心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。
本編
のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。
栗原紗世は、閉店間際の病院事務室でエアコンの音を聞いていた。静かすぎて、かえって蒸し暑さが際立つようだった。
午前中に来院したあの女性の姿を思い返していた。冷房が直接当たらないようにと、待合の椅子をそっと動かし、母親の肩に上着をかけていた背中。誰よりも黙々と気配を整えるように動いていた彼女の名前を、問診票で一度だけ見た。早川真希。
何度か付き添いで来ているが、こちらが話しかける隙を与えないほど、空気の輪郭を守るような佇まいだった。紗世はその距離感が嫌いではなかった。
ふと、父の金物屋のことを思い出す。盛岡駅から少し外れた古い商店街にあったその店は、今年の春に正式に看板を下ろした。母を看取り、店を畳む手続きを終え、東京に戻ってからもしばらく気持ちは東北に取り残されたままだった。
今夜は何か冷たいものを食べたい。身体というより、記憶の熱を冷ますような何かを。紗世は白衣を脱ぎ、駅までの道を少し遠回りするように歩いた。夏の盛りは過ぎたはずだが、アスファルトはまだ昼の熱を孕んでいた。
見慣れない路地に差しかかったとき、小さなのれんが風に揺れた。無地の生成り。けれど、どこかひと目でわかるような確信めいた引力がある。扉を引くと、涼やかな風鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥に立っていた真城一献がそう言ったきり、厨房へと向き直る。店内には他に客の姿はない。注文も聞かれないまま、水が差し出される。
数分後、黒い器に盛られた一品が供された。盛岡冷麺だった。薄切りのチャーシュー、緑鮮やかな胡瓜、ピリ辛のキムチ、そして艶やかな麺。箸を入れると、すっと麺がほぐれる。啜った瞬間、懐かしさが喉の奥に滲んだ。
高校時代、受験で疲れた帰りに、母が連れて行ってくれた冷麺屋。あのときのスープの温度や、ガラスの器の重さまで思い出す。
「─冷たくて、芯がある。そんな料理ですね」
紗世がそう呟いたとき、目の前に瓶ビールが置かれた。ラベルに描かれた赤い星に、どこか旅情がある。
「クラシックラガーです」
真城はそれだけ言うと、栓抜きを差し出した。自分で抜くスタイルか、と少し楽しくなりながら、栓を開ける。ぷしゅ、という音とともに泡が少しあふれる。
そのままグラスに注ぎ、冷麺のあとに流し込む。苦味が、涼しさの奥行きを加えるようだった。
グラスを置くと、真城がぽつりと訊いた。
「整形外科の方、ですよね」
心臓が跳ねた。
「うちの母が、お世話になってます」
ああ、やっぱり。紗世はそっと微笑んだ。
「お母様、今月から週二に増やすって。調子、良いみたいですね」
真城は、わずかに頷いた。料理人の手が、こうして誰かの暮らしを支える形で続いていくのだと、紗世は改めて思う。
「─父の店を、閉めたんです」
紗世は、言葉が湧くままに続けた。
「棚に残っていたスコップとか、柄の長い箒とか。最後に一本一本、磨いて送り出しました。売れるかどうかは関係なくて、そうやって自分を区切りたかったのかもしれません」
真城は何も言わなかった。けれど、黙っていることが何よりの聞き方なのだと、紗世は知った。
瓶ビールの残りを注ぎ、キムチをひとくち。ピリリと舌にくる辛味に、酔いが追いつく。
「また、来てもいいですか」
そう訊くと、真城は一度だけ、湯気の向こうで視線を上げた。
「好きなときに、どうぞ」
それきりだったが、それで充分だった。
紗世は再びのれんをくぐった。二回目は、記憶の温度を冷ます芯を纏わせて。
真城一献は、紗世の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。
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第61話へ続く…
マガジン: バーチャル居酒屋『酒肴録』
おまけレシピ

市販の盛岡冷麺を記載の通り調理する。
きゅうりは塩で揉んでからスライス、塩豚は水にしばらく漬けて塩を抜いてからよく水気を切って、表面を炙る。キムチはお好きなものを。
材料紹介
豚バラブロック : 塩漬けにすると保ちます。いつでも少しずつ料理に使えて便利。
キリンクラシックラガー : 盛岡冷麺と。
