【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第31話: たまごかけそうめんと日本酒
内容紹介
今日の一皿は、卵白に浮かぶそうめんを卵黄の醤油漬けと肉味噌でいただく「たまごかけそうめん」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる、日本酒と心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。
本編
のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。
白崎理央は、普段ほとんど迷わない。
独立開業して五年、都内の複雑な官公庁の配置も、路地の番号も、Googleマップより正確に頭に入っている自信がある。だが、その夜ばかりは、自分がどこを歩いているのか分からなかった。
「─このへんだった気がするんだけどな」
右手の通勤バッグに資料、左手にはジャケット。時計の針は午後5時半。夕方過ぎに区役所での許可申請を終え、そのまま帰ろうとした足が、なぜか方向を変えた。
ふと思い出したのは、一枚の書類。
─飲食店営業・深夜酒類提供・風営法許可申請。
5年前、独立して間もない頃、とある居酒屋の名義変更手続きを請け負ったことがある。その店の名前は、たしか『酒肴録』。
「─あった、ここだ」
文字の無い白いのれんを、淡い行燈の光が優しく照らしていた。
たしか、あのときの申請主の名前は「真城一献」。字面だけで忘れられなかった。まるで筆名のような響きだったからだ。
理央は、静かにのれんをくぐった。店内は驚くほど静かだった。
「いらっしゃいませ」
振り向いた真城の顔を見て、理央は一瞬、記憶のなかの書類と一致させようとした。背筋がまっすぐで、動作が穏やか。あのとき提出された住民票の顔写真とは少し印象が違うが、名前の主に違いなかった。
「一人です」
「どうぞ、お好きなところへ。お腹の加減は、いかがですか?」
「そうですね、ちょっと暑くて食欲がなくて─」
「かしこまりました」
その返事に、理央の記憶がふっとほどけた。
料理の注文を取らずに、わずかな会話だけでメニューを決める居酒屋があると、先日仕事で一緒になった教員の竹下修斗がSNSでつぶやいていた。もしかしてあれは、この店のことだったのだろうか。
「たまごかけそうめんです」
そんなことを考えていたら、カウンターにはもう料理が到着していた。目の前に置かれた器は、理央の予想を裏切っていた。おそらく卵白だろうか、泡立った中を艶やかなそうめんが泳いでいて、その中心に、肉味噌と濃い橙色の卵黄が座している。
「─たまごかけごはんの、そうめんバージョン?」
「はい。卵かけご飯のように、よくかき混ぜてお召し上がりください」
理央は、この美しいバランスを崩すのがもったいない気もしたが、言われた通り箸の先で皿の中を撹拌した。そして、そうめんとともに卵黄と肉味噌を絡めて口へ運ぶ。白身の泡が、舌の上で音もなく溶けていく。そこに、醤油を染み込ませた黄身と肉味噌のパンチが打たれる。そうめんがその全てを心地よい喉越しに変えていった。
「よろしければ。貴の特別純米です」
理央がそうめんに夢中になっていると、カウンターに小さなお猪口が置かれた。その中を、透明な液体が満たしている。
「ありがとうございます」
箸を置き、お猪口を指先で掴んで口をつけた。冷えているが、しかし冷やしすぎていないという具合で、米の旨味が舌にまとわりつく。そして、あとから酸がそれを洗い流すようだった。もう一度箸を持ち上げて、そうめんを啜る。卵のコクに、このほどよい酸が調和した。
「─この酒、卵にも合うんですね」
「卵は意外と、お酒を選びません。肝は、温度と塩味のバランスです」
「実は私、5年前にこのお店の名義変更手続きを担当した者です」
「ええ、もちろん覚えていますよ。その節はお世話になりました。『酒肴録』なんていう名前、不思議だったでしょう」
「はい。正直に言うと、最初なんて読むのか、分からなかったです」
その一言に、真城は申し訳なさそうな笑顔を見せた。
そうめんを食べ終える頃には、卵白の泡は完全に消えていた。その儚さが、心に残る。記録には残らず、記憶にだけ残る食事。そういう料理が、この世にはたしかにあるみたいだ。
お猪口の中も空になり、理央は深く息を吐いた。
「─今年の夏も、なんだか乗り越えられるような気がします」
理央は再びのれんをくぐった。二回目は、空に浮かぶ白い雲になった気分を纏わせて。
真城一献は、理央の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。
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第32話へ続く…
マガジン: バーチャル居酒屋『酒肴録』
おまけレシピ

卵を卵白と卵黄に分ける。卵黄は醤油、みりん、酒に漬けて冷蔵庫で一晩置く。
肉味噌を作る。豚ひき肉を150~200g、ごま油で表面にこんがりと焼き色がつくまで炒める。
すりおろしにんにく、生姜を加え火を通し、香りを出す。
味噌、醤油、酒、みりん、砂糖を大さじ1ずつ加えて煮詰める。
そうめんを茹でて、流水で洗ったら、卵白と一緒にボウルでかき混ぜて泡立てる。
その上に、肉味噌と卵黄の醤油漬けを乗せる。
