【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第64話: 刺身切り落とし丼と日本酒
内容紹介
今日の一皿は、切れ端と侮ることなかれ、様々な味と食感を楽しめる「刺身切り落とし丼」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる日本酒と心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。
本編
のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。
秋元悠は、電車の到着時刻を見直す癖が抜けない。東京駅の構内にいても、耳が無意識に発車メロディを拾っている。
御殿場線の車掌として毎日運行に身を置く彼にとって、都市の喧騒はどこか異質だった。出張で久々に首都を訪れた帰り、まっすぐ帰るつもりだったのに、気づけばスマートフォンの地図アプリで裏路地を検索していた。
目的地はない。ただ「うまい飯と静かな場所」が欲しかった。その言葉を口にしたのは、高校の同級生、西島光だった。進学して東京に出て、いまは七人で暮らすシェアハウスの料理番をしているらしい。
連絡をとったのは何年ぶりだったろう。共通の友人の結婚式で少しだけ話し、あとはSNSでたまに唐揚げやパスタの写真を見る程度。光の投稿の一文が、妙に記憶に残っていた。
「味には声がある。強い声の料理ばかりじゃ、疲れることもあるよね」
そのときは何のことか分からなかった。だが今、繁華街を離れて迷い込んだこの路地に、確かにその意味がある気がした。
風にそよぐ白いのれん。文字はない。懐かしさと緊張が交錯する中、悠はそっと戸を押した。中は静かだった。カウンターだけの小さな店。
真城一献が奥で包丁を拭いている。こちらを一瞥すると、短く
「いらっしゃいませ」
と言っただけで、すぐに手を動かしはじめた。ふいに火の音、包丁の音、湯気の音が立ち上がる。まるで駅の発車準備のように、厨房にリズムが宿る。
数分後、目の前に差し出されたのは丼だった。白飯の上に艶やかな魚が重なる。マグロ、サーモン、カンパチ。どれも切り落としだが、不揃いな形が却って旨味を物語っている。刻んだ海苔、大葉、中央にちょこんと盛られた山葵。
「いただきます」
口に運んだ瞬間、悠は思わず目を閉じた。脂がとろける。だが重くない。一切れごとに脂の乗りも食感も、その表情が違う。だが全体はひとつのまとまりとして舌に落ちる。咀嚼するたびにご飯と絡まり、喉をなめらかに通り抜ける。どこか、車窓の流れのようだった。
魚の声がした。叫びではなく、つぶやき。
「強くない声の料理─」
そのとき、真城が盃を差し出してきた。
「磯自慢。純米吟醸です」
静岡の銘酒。その名を聞いた途端、悠の胸に、たまにしか見せない父の満面の笑みが浮かんだ。
昇進祝いに開けた一升瓶。正月、親戚が集まるときの定番。静岡の人間にとって、磯自慢は特別な一本だ。
盃を口に運ぶ。芳香が鼻を抜け、すぐに消える。魚の余韻を損なわず、それでいて確かな存在感。舌の奥で静かに咲くような味だった。
真城は黙ったままだった。だが、その沈黙が心地よい。東京という都市の、奥底に潜む静けさ。ここにはあった。
ふと、光の顔が脳裏に浮かぶ。あいつも、こんなふうに静けさの中で料理をしているのだろうか。あるいは、この店のような何かに出会って、あの言葉を残したのかもしれない。
魚を食べ終え、酒を飲み干すと、腹の底から力が抜けた。長い時間を走り続けてきた気がする。ようやく、少し立ち止まれた。静かに席を立つ。
「いい店ですね」
そう言うと、真城はわずかに笑った。
悠は再びのれんをくぐった。二回目は、力を合わせる海の多様性を纏わせて。
真城一献は、悠の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。
第1話へ戻る
第63話へ戻る
第65話へ続く…
マガジン: バーチャル居酒屋『酒肴録』
おまけレシピ

スーパーで安値で売られている刺身の切り落としパックを買ってくる。
丼にご飯をよそい、その上に刺身の切り落としを並べ、刻み海苔と刻み大葉を散らし、わさびを添える。
醤油やだし醤油、ポン酢などお好みのものをかけて食べる。
材料紹介
磯自慢純米吟醸 : 刺身切り落とし丼と。
