源義経 海を渡ったもののふの話 五の五
第十八章 正史
『三国志』といえば赤壁の戦いにおける蜀の軍師、諸葛孔明の活躍に見られるように中国を舞台とした物語、一大活劇として広く知られているが、正確には魏・呉・蜀の三国時代を継いだ西晋の時代に書かれた前時代を総括した歴史書が下敷となっている。
この話の冒頭でも記したように中国では前時代を否定する易性革命が起こると新しい時代を正当化する為に、誤ったとされた前時代を正史として残している。元の後に興った明の時代にも、その前の時代を歴史書『元史』として残している。古来より中国では中国こそが世界の中心、その儒教観に基づいた文化思想こそ最も価値あるものと自負する中華思想が根付いていた。東夷、北狄、西戎、南蛮。漢民族が支配する中国から離れれば離れる程、蛮族が跋扈する未開の地。本来、漢民族こそが治めるべき中国をモンゴル人に奪われた元の時代は、漢民族にとって屈辱以外の何物でもない時代だったに違いない。
『成吉思汗は日本語が喋れた異邦人である』
元史にはこんな一節が出てくる。元という国は漢民族から見ると文化も歴史も持たない野蛮な国、北狄である。しかもそこを創出した首領は元ともまた異なる国、東夷の出身者。前時代がいかに誤った時代であったか、それを漢民族国家、明の人々に知らしめているのである。
モンゴル帝国にあって、その西南地区、アラビア方面を治めた国はイル・ハン国。14世紀の初頭、そこの第七代君主ガザン・ハンの時代にその源流、モンゴル帝国の興りからその後の世界史を『集史』という名の史書に纏め、編纂している。今まで成吉思汗が、その前半の成立に大きく関わっているとした元朝秘史から多くの例を挙げてきたが、元史、集史、含めた三史がモンゴル帝国の正史として今に伝わっている。
只、このニ史を覗いてみると元朝秘史の冒頭、テムジンが異母弟、ベクテルを殺害した話はどこにも出てこない。いやベクテル自身もいない。他の弟達は東方諸王家として残っているが亡くなった弟は始めからいなかったとされる。合理的かどうか、モンゴル帝国にとって都合が良いか悪いか。1203年、テムジンとして世界史上に姿を表すまで、その帝国の歴史は多くが謎に包まれている。それを編んだ者からすると事実としての正当性に欠けるエピソードとして記述から外したのだろう。
人々の口承、伝承を中心に編纂されている為、正史とは成立の動機を異にする蒙古ラマ教史にはモンゴルの皇帝が若い王子の頃、三つの島の海、ジペンを征服したとある。もちろん大陸のどこを探しても三つの島として思い浮かぶものなど見当たらない。いや、日本人ならジペンというどこか聞き馴染みがあるその名を聞くまでもなく、本州、四国、九州、三つの島に挟まれた瀬戸内海、その合流地点にある海峡、壇ノ浦。義経が平家を滅ぼし、源氏が新しい日本の為政者となったその場所以外は思い浮かばない。こうした話は義経と共に大陸に渡った家臣が地元の人達との交流の中で、
「俺達の大将はこれだけの事を成し遂げた。ジペンに戻れば国中、知らない人はいない。それ程の人物だ」
身振り手振りを交えて、地元の人々に鼻高々と話している姿まで彷彿とさせる。「えへん、えへん」そんな咳払いまで聞こえてきそうだ。こうしたいきいきと話したものが口から口へと代々伝わっていった。旧満州の地域では『タイシャウ』という言葉が残されている。それは、そのまま首領を意味するものだといわれている。
『東の方から現れた知略の将軍』
先程、成吉思汗が異邦人だとする元史の一節を記したが、実はモンゴル国内でも、そこを創り上げた皇帝、成吉思汗を異邦人だとする伝説が残っている。しかし、たとえそうだとしてもモンゴル史上、群を抜いた英雄であり敬慕すべき存在として、国家のアイデンティティの象徴として、その名は今でも人々の暮らしの隅々にまで浸透し、絶大な人気を誇る大切な存在となっている。モンゴル人にとって無くてはならない存在、それが成吉思汗なのである。
第十九章 蒼き狼
今まで当たり前のように成吉思汗の正妻の名をボルテと記してきたが何故、その名に日本語で青を意味とする言葉が付いているのか。
モンゴルの始祖をモンゴル語でボルテ・チノ、蒼き狼と元朝秘史には記されているが、その研究者からするとボルテとはそのまま青だが狼の事はチノーと語尾をいくらか伸ばすのが正規の表現。それに対してチノとはモンゴル語で争いを意味している。青という言葉は色の青を表す他に冷静、また心が澄んだ状態を表すともいわれている。するとボルテ・チノとは争いを鎮める者とも解釈できる。
成吉思汗はその始祖を蒼き狼という伝説上の名として見立てる事により人々に尊崇の念を抱かせると共に、争いをなくし平和をもたらす使命を約束された者として自らを律し、それをモンゴルの人々へも知らしめようとしたのではないか。青に争う。それはまた吉野の山で別れた静御前を想起させると共にその面影をボルテという名に込めたのではないか。
成吉思汗の中では様々な思いが幾層にも重なりながら、どこかに静御前の姿を忘れえぬもの、忘れてはいけないものとして、生涯に渡り心に刻まれていったのではないだろうか。
1920年頃の話なので今もその風習が残っているかは定かでないが満州の更に奥に入り、その一帯に暮らす人々の家を覗くと源義経のお札を家々の守神として貼ってあったという。満州での10年、それはかつて義経がアイヌの人々に狩や漁、農作物の栽培方法を授け、ホンカイサマと慕われたように満州の人々へも日々の生活を改善する為の新たな技術や仕方を教えたに違いない。そして、それは、いつの日か人々の暮らしを守る神の如き存在として伝承されていったのではないだろうか。
当時の部落、その入口を見ると日本の鳥居のようなものが写っている。部落の中を義経に導かれたかのような神域として外敵から守り、平安をもたらすものとして建てたのではないか。その姿を見ているとそうした民衆の願いが込められているように思えてくる。

第二十章 GHQ
アジア・太平洋戦争の終結後、その説そのものが期せずして日本の戦意高揚にも利するとされた戦前の状況と異なり戦後、GHQの管理の下では戦前の軍国主義、国粋主義を煽る危険性の度合を判断の基準に、実に7769点もの書物が焚書の憂き目に遭っている。
アメリカがもたらした戦後体制は日本の知識層が生み出した数多の教養や遥か古代から連綿と紡いできた伝統や伝説を瞬く間に無きものとし、日本人が本来持っていた意識そのものを変えていった。戦後民主主義というアメリカが植え付けた新たな神話をこれ程、真摯に、そして安易に受け入れた国はその後の歴史上、世界中広しといえども、他には見当たらない。勤勉な日本人は戦後復興を旗印に物の豊かさという点では奇跡的な成功例として後世まで語り継がれる一時期を経験する事が出来たのかもしれない。しかし、心の豊かさという点では残念ながらどこかに大切なものを置き去りにしてしまったのではないだろうか。
源義経、成吉思汗同一人説も戦後のそうした社会風潮の中、殆ど話題にすら上る事もなく、義経北方伝説が色濃く残る地域の郷土史研究家や義経の生き方そのものに心を動かされ研究に勤しんだ人達を中心に命脈を保つ程度であった。
しかし、そうした中にあっても作者本人が義経伝説に包まれた青森で生まれ育った推理作家の高木彬光は推理小説の手法を執り同一人説を出版。近年だと東北大学の田中英道名誉教授が西洋美術史の研究からモンゴル帝国がルネッサンスにまで与えた影響を提示している。教授は事物の具体的な形や姿、特徴から真実を探る形象学により絵画に宿る真実を伝え、新たな同一人説の書物を発表している。確かにそれぞれの表情を比較するとその目から鼻、口、顔全体の輪郭に至るまで誰が見ても、この義経が年を重ねれば成吉思汗の表情になるだろうと思わせる程に似ている。
もっとも頼朝に追われ、着の身着のまま平泉まで戻った頃に書かれたとされる義経の姿からは余り生気が感じられない。喪失感に悄然とした様子が窺える。そんな若い頃の義経の姿とは対照的に晩年に差しかかり、好々爺然とした成吉思汗の表情からは成すべき事を成し遂げ、悟ったような表情が見て取れる点に違いはあるが。
実はもう一点、成吉思汗にはチベットのラマ教寺院に残されている人物画がある。そこに描かれた成吉思汗は大陸で息を吹き返し、血気盛んな表情をしているが、その姿はモンゴル人には見えない。かといって漢民族とも朝鮮人とも違っている。その顔から髭を除けば、その面差しは正に日本人。隣にいても全く違和感がない。そんな親近感さえ覚えてしまう。



第二十一章 近状
最近、心に残る事が二つあった。
∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫
東北大学名誉教授、田中英道氏が2025年4月末、逝去されました。氏は専攻の西洋美術史とは別に近年、特に日本の古代史の見直しから今回の同一人説までフラットな視点を以て歴史全体を見直すべき時との姿勢から中央の学会とは一線を画した見解を次々発表し、刺激を受ける事も多く、八十三歳という年齢を考えれば心配ではありましたが、これからの更なる活躍を期待していました。それだけに今回の訃報は返す返すも残念です。義経そして成吉思汗についても漸く掴みかけてきた良い流れが寸断される事がないよう、微力ではありますが努めていきます。
特に最近、一部の学者は歴史を杓子定規に捉える姿勢を改め、従来からのいわゆる通説と異なる見解に重きを移して柔軟に話をされる方もいます。確かにそうした文章に出会うと面白い。思わず引き込まれてしまう事があります。しかし、そんな学者も含め事が義経の段になりますと何故か一様に口を閉ざすか、そうかと思えば有り得ない話とまくし立てるばかりで、見ているこちらとしても何を向きになって、そこまで否定するのか。あるいは、そうした一部の学者の心の中まで探っていけば義経成吉思汗同一人説に一定の評価を下している方もいるとは思いますが、そんな学者にしても個人的見解は決して語ろうとはしない。そうだとするとそこからの切り崩しは限りなく厳しいと思ってしまいます。
しかし、この話をここまで読んで頂いた皆さんは、もしかしたら本当に義経が海を渡り成吉思汗になったのかもしれない。既にそう思い始めているのではないでしょうか。話を紡いで来ただけの僕が言うのも、おこがましいとは思いますが皆さんの近くにいらっしゃる方、一人でも二人でも構いません。是非、皆さんの心に芽生えつつある新たな思いを話してください。そうする事でその輪が幾重にも広がっていきます。僕は皆さんと共にその輪を広げていきたいと思っています。
そんな僕自身が心を激しく揺さぶられる話を聞きました。しかも、それは僕が今ここで書いている、ほんの数日前の事でした。
天皇皇后両陛下は2025年7月6日から13日にかけてモンゴルを訪問しています。
「モンゴルの建国者の成吉思汗について、日本でも英雄として小説になったり、源義経との同一人説が流布したりするなど、日本の人々も関心を寄せてきていますので、この機会に更に理解を深められればと思っています。今回御招待を頂き、友好親善の訪問が出来る事に歴史研究の上でも縁のようなものを感じています」
この会見は天皇皇后両陛下がモンゴルに向けて旅立つ4日前の7月2日、皇居において陛下、ご自身がモンゴルについて話をされた、その一節を記したものです。どうしても国としてのイデオロギーや利益が優先されてしまう政治家主導の外交と異なり日本の皇室外交は体制の違いを軽やかに乗り越え、あるいは気にする必要もなく国同士の本来の紐帯を築いていけます。もちろん、その為には相手国の人々が日本へ向けて抱く国民感情を調べた上で天皇陛下、自らのお言葉を伝えていく。
今から18年前、当時まだ皇太子だった陛下は初めてモンゴルを訪問しています。それを踏まえますとご自身の口から友好親善の為にも歴史探求が必要との今回のお話は日本、モンゴル両国にとって非常に重みがあり示唆に富んでいます。陛下は前回の訪問を契機に義経が大陸に渡って成吉思汗になったのかもしれない。そうお考えになっているのではないでしょうか。しかし、陛下のお立場を考えればこれ以上のお話は出来ない。それ程の事と推察しています。
明治以来、日本の史学会が隠し続けた心の傷、その事象すら詳らかにしないまま今日に至った、その実態と対照的にモンゴルでは、この話自体が禁秘とはなっていません。そうだとすると、この話のキャスティングボードは日本が握っています。
更に今回、両陛下の画像を見ていて、驚いた事がありました。
『モンゴルでは徳の高い人が訪れると雨が降る』
7月8日午前、そぼ降る雨の中、モンゴル政府の歓迎式典に望んだ天皇皇后両陛下は午後になるとウランバートル郊外にある日本人の慰霊碑の下へ向かっています。アジア・太平洋戦争終結後、ソ連軍の捕虜としてモンゴルの地に連行され抑留された一万四千人の兵士達。過酷な労働の果て、遠いその地で命を落とした千七百名の御霊に両陛下は心からの祈りを捧げています。そして、その時も周りの眺めを見ますと柔らかな雨に包まれています。
モンゴルではその首都、ウランバートルでも年間降水量は300mmにも満たないといわれています。僕も幾度かモンゴルの映像を見た事がありますが、雨に霞んだモンゴルを見るのは初めてです。遠くモンゴルの地で亡くなった千七百名の御霊を慰めた雨は両陛下がもたらした恵として、モンゴルの大地に人々の心に深く染み渡っていきました。
お二人はモンゴルと日本との深い絆に応えるかのように、草原で出会った仔馬にそれぞれ『友』 『愛』 友愛と名付けています。

天皇皇后両陛下 大統領夫人のドレスは白
人類史全体を見渡しても源義経ほど数奇な運命を辿った人を僕は知りません。こうした人物が存在した。それ自体が奇跡といえます。何しろ日本人なら誰もが知っている悲劇の武将、源義経が世界最大の帝国の礎を作った成吉思汗と同じ人物であるとは確かに常識で考えればあり得ない話です。しかし、そうした常識を悉く破ってきたのも源義経、そして成吉思汗でした。これ程までに劇的で心を強く打たれた経験は人生においても滅多にあるものではないでしょう。
それ程の人物の生涯に、ここまでお付き合い頂いた皆さんには、彼がどのようにして最期を迎えたのか、そこまで一緒に見届けて貰いたい。もちろんその前には日本とモンゴルとの歴史的な争い、元寇の真実にも触れていきます。その為にも気を緩める事なくこれからも記していきます。そして、それこそが徳川光圀、シーボルト、小谷部全一郎、田中英道始め多くの先達に報いる事だと思っています。
第二十二章 兄への追想
モンゴル人のDNAを調べると1000〜2000年前のある特定の人物から受け継いだ遺伝子の影響がある。このDNAは中国人や日本人には全く見られないもの。以前、こんな記事を読んだ事がある。この人物とは成吉思汗。厳密にいえば800年前頃の話のはずなので、その時期の設定に多少の食い違いはあるものの、という事はやはり成吉思汗、源義経同一人説は出鱈目かと当時思ったのだが、最新の話によるとその年代設定には誤りがあり、実際には4000〜6000年前に既に拡散し始めた遺伝子だと訂正している。そうだとすると日本は縄文時代。そんな話をされるくらいなら赤ちゃんが生まれた時、背中やお尻にある痣、蒙古斑の事を教えて貰った方が余程、役に立つ。
松本秀雄という日本人の人類学者が調査した遺伝子のアジアにおける分布図を見ると、中国や朝鮮よりモンゴルの方が日本人の遺伝子に近いのが見てとれる。こうした資料を提示して貰った方が日本人の蒙古斑の謎も納得できると思うのだが。

こうして源義経、成吉思汗について書き進めていくと、やはり義経については同じ日本人として、どこかに身近な印象を受けるが、成吉思汗の事となると確かに当時の世界史に与えた影響の大きさは計り知れなく、魅力的な人物だった。それは間違いない。ただ、どちらかといえばマイナスのイメージばかりが先行していた。ところが探るにつれ、力を誇示する非道な為政者という従来の認識がいかに自分の中で勝手に作り上げたものだったか。その姿を知れば知る程、強靭な英雄の姿と背中合わせに索漠たる思いを抱えた一人の孤独な男の姿が浮かび上がる。その澱のように深く沈んだ悲しみはどこから来るのか。それを思うと異邦人としての自覚が片時も離れず成吉思汗の人生を形作っていったのではないだろうか。
元朝秘史の一節には成吉思汗が巻狩の最中に落馬して彷徨う中、洞窟を見つけ、そこで休み助かったという話が出てくる。対して義経の兄、頼朝は後白河法皇の子、以仁王の令旨を受け1180年、平家方との間に石橋山の戦いを起こしている。その争いの渦中、頼朝は完膚なきまでに平家に叩かれ、山中にあった朽木の洞に僅か数名となった味方と共にひっそりと息を潜め、まんじりともせずに、うずくまっている。と、山の稜線に差し掛かった月が山すじを浮かび上がらせたのか、その儚く消え入りそうに見えていた稜線が少しずつ形を顕し、次第にくっきりと浮かび上がってきた。しかし、そう思ったのも束の間、それは月ではなく平家方の武者狩りが掲げる松明だった。赤々とした炎に包まれたそれを見つめた頼朝一行は祈るような思いで遠ざかるよう期待したが、あにはからんや、見る見るこちらの洞に近づいてくる。身構える頼朝一行。すると、当時まだ平家の家臣だった梶原景時は松明を掲げる腕の先にある洞の中を覗き込みながら、
「ここには誰もいない。他を探す」
景時は、頼朝の姿に気づいたが何事も無かったかのようにその場を離れている。次代を切り拓く武家の棟梁として誰が相応しいか。景時にはそれが分かった上での判断だった。
箱根から海を渡り、千葉に逃れた頼朝一行は上総氏、千葉氏と鎌倉に近づけば近づく程、仲間を着実に増やしながら、鎌倉に入る頃には、まるで凱旋者のような勢いを得て静かな入江に佇む本拠地へと帰還している。
その後、富士川の戦いにて勝利を収めた頼朝は黄瀬川に陣を張り平家を叩く準備をする中、奥州から駆け付けた年の離れた弟、義経と初めて対面している。負け戦さから本拠地に戻り、漸くまた狼煙を上げようと画策していた頼朝にとって血を分けた弟との対面は何よりも心強いものとなったのだろう。頼朝は何度も何度も義経に石橋山でのこぼれ話をしている。その話を真剣に聞いている義経。生まれてこの方、肉親との情など殆ど縁がなかった義経にとって忘れられない兄との大切な思い出。その後、誤解を生み仲違いし、怨みを抱えながら海を渡った義経だったが自ら権力を掴み取り、モンゴル帝国の皇帝としてその頂点を極め、いつしか年を重ね晩年に差し掛かった頃になると、こうした事も若い頃の懐かしい思い出となっていったのだろう。やはり義経にとっては大切な思い出が詰まった故国、日本こそ、その孤独を慰めてくれる存在だったと思えてならない。
ここから数年、義経は成吉思汗として故郷から遥か離れたモンゴルの大地で没している。
第二十三章 見ざる言わざる聞かざる
「大英傑の鉄木真と比べ、義経は小心翼々たる人物に過ぎない」
1890年、明治23年、当時の東京帝国大学教授、重野安釋は義経が成吉思汗と同一人物であるとの説がいかに滑稽なものか、講義の中で、このように述べている。その姿勢は日本人や日本的なものなど何も価値がない。それらを全て切り捨てた上での盲目的な欧米崇拝。更にその翌年、同じく東京帝国大学の教授、星野恒は義経が衣川で自刃したとする根拠を吾妻鏡に求めている。星野はそこに記してある話を基に『史学叢書』という書籍の中に″源義経の話″という項目を設け13の論点と銘打って掲載している。しかし、その論点は論点にもならない。どこを採っても空疎なものでここに記す程ではない。正鵠を欠いている。
とは言ってみたものの学者といわれている人達が皆一様に吾妻鏡ばかりを盲信するのはいかがなものか。それならばと徳川家康も愛読したといわれた吾妻鏡、もちろん、その現代語訳版だが少し読み進めてみた。すると忽ち、そこに書かれた頼朝の生涯についても疑問符が付きまとう。
そこには源頼朝がいつ、亡くなったのか、そうした記述が一切ない。ある日突然、亡くなったのかもしれないが、いつの間にやら、それこそ、うたかたのように消えてしまったのだろうか。確かに、その推移を見る限り、そうとしか思えない。
例えば吾妻鏡という当時の歴史を広く今日まで伝える公式文献を、鎌倉幕府設立の歴史ドラマとして捉えてみよう。すると話の流れとして、その主人公と思われていた人物が実は脇役どころか、せいぜい端役としての存在だったという事ではないだろうか。何しろナレ死ですらない。そんなバカな。しかし、それが吾妻鏡である。
その表立った内容としては鎌倉幕府の公式記録として、将軍の交代や幕府の政務、武士社会の動向、朝廷との関係など当時の幕府に起こった様々な出来事を記してはいるが、北条氏一門の金沢氏が中心となって編纂したものと考えると北条氏の正統性を訴える余り、鎌倉幕府本来の創始者、源頼朝や義経に付いては、そもそも論としてみれば始めから疑問符が付いて回る。その程度の物ではないか。響くものが殆どない。それが率直な感想である。
まあ、それはそれとして吾妻鏡のみを根拠とする危うさは、ある西洋コンプレックス教授が講義中に突然発した「こんな小心翼々たる人物」発言とそれに呼応した形で発表された13の論点。そこに書かれた記述を読む限り、どちらも個人的には全く合点がいかなかったが皆で共有し、考察する事もやはり必要なので13の論点を詳らかにしてみよう。どうか虚心坦懐に読んでもらいたい。
一、秀衡が亡くなってから一年半、義経は無為に時を過ごすのみで何の対策も取れなかった。それ故に泰衡に襲われた時は成す術もなく、自刃するしかなかった。
ニ、義経に従う者はその頃には殆どいなくなりその為、襲われても抵抗すら出来なかった。
三、泰衡は義経を殺す事で自らの延命を計った。そうした者が偽首など送る訳がない。
四、義経の顔を鎌倉勢は皆、知っているので、それが偽首だとしたら誰でも分かる。
五、酒に浸された偽首がにわかに腐るなどということはない。
六、この首は漆の箱に入っていた。これが嘘ならもっと粗末に扱っている。
七、大日本史には、この首は腐敗していて見分けがつかないと記されているが歯が抜ける事はない。平家物語を読むと義経はいくらか反っ歯気味だったとの記述がある。それを見れば分かるはずだ。
八、頼朝は密偵を入れていたので打ち損じたのならすぐ分かるが吾妻鏡には、そのように書かれていない。
九、もし、その首が偽物なら頼朝に話したはずである。しかし、首実検をした二人からは何の報告もなかった。
十、朝廷は義経の首が出た以上、奥州征伐までは望んでおらず討伐の勅許も出していない。
十一、頼朝はその後、本州の北端にまで追討軍を出している。もし義経が生きていたならそうした情報も入るはず。
十二、もしも義経生存との情報が入れば蝦夷にまで出征しただろうが、そうした事はない。
十三、大河兼任が義経を騙り反乱したのは義経が亡くなった事を知っているからだ。
以上。
西洋に追い付き追い越せ。そうした時代の要請に応じる形で帝国大学は設立されたが、義経を小者だと断じた教授の学生に向けた講義。更にこの13の文面を読む限り、そこで発信された主張は余りに日本的。情緒に流されるだけで残念ながら科学の科の字すら見えてこないのではないだろうか。
それではこうした日本の論壇の中核、帝国大学とはどのような経緯を以て設立されたのか。
そもそも帝国大学創設の意図とは何だったのか。それは明治維新という日本史上、経験した事がない潮流の変化の中、後戻りが出来ないと判断した当時の国の設計者達が、その進路を少なくとも制度面では先進国と看做した西洋と肩を並べるべく、そこに向けて更に速度を上げる事をノルマとした。その為、旧来の体制からの転換は喫緊の課題であり、例え付け焼き刃だったとしても急務として当時の政府は一丸となって事に臨み実行していった。
具体的には版籍奉還、廃藩置県、地租改正から徴兵令、内閣制度、そして明治22年の大日本帝国憲法の発布を一つのピークとしている。そうした日本の次の命題、西洋に伍していく為の最良の方法として期待したのがエリート層の養成。その為の機関として帝国大学は設立されている。では、その勅令として公布された帝国大学令を読んでみよう。
「帝国大学は日本国という国家を運営するに当たってどうしても必要なもの。その為には学問や技術の深い所まで研究し、その意味するところや本質を明らかにする事を目的とするものである」
これを読むと帝国大学への期待の中心がどこにあるか。それがよく分かる。その一番の目的は国家を上手く運営する為の潤滑油、国家に仕えるエリート官僚の養成にあったのである。
「あれは政府が作った学校だから、政府に奉仕する官僚の養成所になるのは当たり前だ」
つまり、遅れた日本から進んだ西欧へ、野蛮な日本から一歩でも早く文明の進んだ西欧と伍しつつ与する道へ。そうした旗の下で作り上げた学校では、こんなちっぽけな島国の英雄など史上初めて世界史を現出させた成吉思汗からしたら恥ずかしい位に小さな存在。当時の状況を考えれば、あるいは義経をそう捉えた事は無理からぬ事だったのかもしれない。しかし、その論述は稚拙といえば余りに稚拙としか思えないのに、驚くべき事にそれから130年以上経つ現在、これだけの長い月日が無為に過ぎ去ってしまった。それは紛れもない事実。もうこれ以上の猶予はいらない。機は熟している。そうではないだろうか。
日本は有史以来、様々な波に襲われている。例えば平安から鎌倉へ、それはそれまでの公家社会から武家を中心とした社会への大転換を意味している。また戦国の世から抜け出し、鎖国という独自の道を選び、自給自足の社会を目指した徳川幕府もそうだろう。そして明治維新。欧化政策、つまり西洋追随に終始したその時代。それは近代化という点では日本という島国を世界の舞台に押し上げた。隔絶した島国という負い目を前にしても本来、西洋文化に引けを取らない教養を江戸時代以前から既に身に付けていた日本人は当然のように、その力を発揮していった。しかし、灯台下暗し。悠久の時を経て積み重ねてきた日本の力に気付かない西洋かぶれの教養層は本来なら同じ日本人として誇りに思うべき義経の生涯も一都市伝説の片隅にまで追い遣ってしまった。
その責任は一次的には130年以上に渡り一切の思考を停止した日本の史学会にある事は明白だ。が、しかし、いたずらに右顧左眄するばかりで、疑念を抱く事なく日常をやり過ごしてきた我々にも省みる点はあるのではないだろうか。

現代日本人はアジア・太平洋戦争敗戦を契機にGHQにより植え付けられた洗脳を解く事も出来ないまま、古くは縄文時代から脈々と受け継いできた伝統や文化も含め、心の奥深くに宿り続けてきた日本独自の精神の土台をも揺り動かされかねない状態に陥っている。
日本は他国を蹂躙し勝てる見込みがない戦争を引き起こした愚かで恥ずかしい存在。そうした自虐史観に囚われ続けて80年、旧来の概念に囚われない様々な見解が芽生えつつあるとはいえ、まだまだ、その主役の座を明け渡してはくれそうもない。しかも、そうした兆しは日本敗戦を遡る事、更に100年近く前、その時点で既に日本はアメリカによる第一波に襲われ政策の転換を迫られ理性を失い始めている。そして、その流れは一度も留まる事もなく、明治維新に向けた序章へと繋がっていく。
『泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず』
ペリーの来航を機にそれまで260年近く世界史的にも特筆すべき泰平の世を築き上げてきた徳川幕府は急激に瓦解へと傾き始め、朝敵の汚名まで着せられた幕府軍は北へ北へと追い詰められた末、函館の五稜郭を終焉の地として不条理な最期を迎えている。
代わって新たに政権を担った明治政府は御一新の名の下、先に記した通り欧米の技術、教義をいち早く取り入れている。文字通りその先兵が帝国大学だとすれば既にこの時点でこのような自虐史観の萌芽が芽生えていたとしても不思議ではない。
しかし、重ねて言うが、この言説とも言えないような一教授の呟きを基として、それから130年以上経った現在でも吾妻鏡を金科玉条のように盲信する姿勢は新興宗教に洗脳された信者と同じで解くに解かれない。近代日本が作り上げた一機関に過ぎないとはいえ、今改めて思う。日本の史学会とは一体なんだろう。
吾妻鏡を鵜呑みにする事自体、危険ではないだろうか。例えば今回の話に関連していえば、そもそも当時の風習では女性を殺すという選択肢自体がなかった。この時代に生まれて生きた人々は、そうした中で日常を過ごしていた。
「生まれてくる子が男の子なら可哀想だが、生かしてはおけぬ。だが、女の子ならいずこかに預けるか尼として育てるように」
頼朝は静御前の生まれてくる子の処遇をこう命じている。風習というからには時の為政者ばかりではない。貴賤は問わない。世間一般に至るまで、それは染み付いている。当然、こうした当時の風習を学者であれば誰でも承知しているはず。ならば衣川で義経が自刃したとするその前に、妻と娘を逃したはずだと考えるのが歴史学者であるのに、一切そんな話は出てこない。少なくとも検証が必要なのにそれすらしていない。有り得ない事を有り得ないままにしていては何も進まない。
視点をいくらか変え他の方角から探っていけば全く違う世界が見えてくる。同一人説を肯定するより否定するほうが遥かに難しい。だから動かない。これを認めてしまえば日本史そのものを大きく修正する必要がある。それは鎌倉時代に留まらない。更にそれより遥かに大きな問題を世界史は背負う事になる。義経・成吉思汗同一人説は日本の学者にとってはパンドラの箱。開けた瞬間に災いや不幸、それはもちろん日本の史学会が明治23年以降、営々と築き上げて来た権威の失墜をもたらす。少なくとも彼等はそう勘違いしている。実はそれこそが心得違いであるのに権威という煙幕に包まれた学者はそれを禁秘として気付かないふりをし続ける。箱の底を探してみれば希望が残されているのに、それを見ようともしない。
モンゴル訪問を前に行われた天皇陛下の会見のお言葉を解釈すればその鍵は日本が握っている事が分かるだろう。後はモンゴルが伝説という名の下に長い間、温めてきた錠に当てはまるかどうか確認さえして貰えれば良いはずだ。
歴史の裁判官を自認するのであれば疑わしきものは検証するのが本務。旧来の陋習を打破する又とない機会が訪れている。しかし、事なかれ主義が蔓延した現代日本社会の縮図だとすれば何、得する事があろう。そんな重圧に耐える程、日本の史学会はタフではない。見ざる言わざる聞かざる。そんな声が聞こえてきそうだ。

第二十四章 元寇
義経が大陸に渡ったとされる1190年過ぎ、後にその面影から元朝秘史の中でボルテと記す事となる女性を妻として迎えている。義経、つまりは成吉思汗の一つ上というから当時、32歳。晩婚化が進んだ現代であっても、既に子が何人かいたとしても不思議ではない。
そのボルテの子の内、長男ジュチは戦の能力は優れていたが中央アジア遠征中、亡くなっている。次男のチャガダイは気性が荒く人望もなかった。また三男のオゴダイはおとなしく凡庸な人物だったといわれている。こうした人物像を垣間見るだけでもその父、成吉思汗との接点はなかなか見えてこない。
では1192年に生まれた四男のトルイはどうだろう。元朝秘史を覗くとトルイは幼い頃から人望も厚く、英邁で武勇に優れた人物だったといわれている。成吉思汗はボルテの子を皆一様に慈しんだ。しかし自らを継ぐ者としてトルイを常に側に付け、帝王学を授けていった。ところが長男のジュチが亡くなり暫くすると自らも病に陥り1227年、西夏遠征中の陣中で倒れ、それから暫く後に亡くなっている。当時の帝国では第二代皇帝としてトルイが選ばれるものと思われていたが、クリルタイでは全会一致でオゴダイが選出されている。元朝秘史によるとトルイが継承するはずだった皇帝の座を『麗しい国譲り』としてオゴダイに譲ったとされているが、実際にはチャガダイがトルイを即位させない為に、オゴダイを推した結果だろうといわれている。
チャガダイは何故、父が後継者と見做していたトルイを排除したのか。
1241年、オゴダイが死去するとその直前まで欧州遠征を進めていたジュチの息子、バトゥは本来の流れとしてトルイの息子、モンケが三代目を継ぐべきと推した為にクリルタイでも決まらず4年以上が経過した後、当時、帝国内で力を持っていたオゴダイの第六皇后、ドレゲネがその息子グユグを推し続けた結果、1246年、グユグが第三代皇帝を継ぐ事となる。しかしグユグは即位後、わずか1年半で亡くなってしまう。その後、四代目にしてトルイの子、モンケが漸く皇帝として即位している。
その卓抜した指導力と峻厳、果断な施政と共に学術教養にも優れたモンケは帝国内を安定化させ、その死後は弟、フビライが第五代皇帝として帝国を更に盤石な体制にすべく南下政策を採り、北宋に続いて南宋も配下にモンゴル帝国の中心国家、元を築き上げている。フビライは兄、モンケに負けず劣らず明敏な上に穏やかで、歴代の中でも最も優れた人物だったといわれている。残念ながらトルイの肖像画は残っていないが、その兄にして第二代皇帝となったオゴダイの肖像画は残されている。その表情を見ると目、鼻、眉、口元から顔全体の骨格に至るまで父、成吉思汗との接点が見出せない。
しかし、その相違点はともかくオゴダイの肖像画は精緻を極めており、そこに驚いてしまう。モンゴルという文化面ではまだ、歩み始めたばかりの国なのに、どうしてこれ程の絵画が生まれてきたのだろう。少し不思議に思えたが、この帝国はその産声を上げた時点から西へ西へとたゆまなく領土を増やし続けた結果、次から次へ当時の様々な文明や文化を吸収していったと考えるとこうした絵が残されているのも不思議ではない。それはフビライ・ハンの肖像画に浮かんだ細やかな表情を見ても同様である。
更にこの絵を見ていると、もう一つ別の事にも気づいてくる。絵の構図が先に見た成吉思汗のものとそっくりなのだ。幼い頃からその祖父、成吉思汗と共に育ったフビライにとって祖父の表情は目蓋から消えずに残っている。その肖像画が身近にない事を残念に思ったフビライは自画像作成後、祖父の特徴を伝え、同じ絵師に成吉思汗のものも作成して貰ったのではないだろうか。
その落ち着いた表情からは、孫のフビライにも愛情を注いでくれた温かい祖父の表情が見てとれる。
日本でもそれまでの例えば源氏物語絵巻に描かれているような顔の表情に乏しいものと異なり、平安末期になると面貌に表れた仔細を的確に捉え、人物の個性を際立たせる事に力を入れた似絵という写実的な描写に腐心した作品が主流となってきている。その代表的な作家は藤原隆信。当時の貴族や武人は競うようにこの隆信やその子、信実に自らの肖像画を描かせている。それはこの二人に限らない。この技法の評判は京都ばかりでなく東国まで広がり、影響を受けた当時の絵師は競うようにその技を学んでいった。
平泉の中尊寺に収蔵されている義経像も似絵の流れを受け継ぎ、その表情からは心の内が透けて見えてくるようだ。因みに新古今和歌集や百人一首の選者でお馴染みの藤原定家は隆信の異父弟にあたる。


皆さん、よくご存知のように、このフビライ・ハンが日本との通商を求めたのが元寇の始まりである。
『乞い願わくば、今後両国が友好関係を結び互いに親交を深めたい。通じ合わないとて、どうして一家と呼べるだろうか。不宣』
これはモンゴル帝国、第五代皇帝、元のフビライ・ハンから1268年、鎌倉幕府へ友好関係を呼びかけたもの。この言葉の最後にある不宣とは対等な相手に対してのみ使うモンゴルの言葉。その広大無辺の嵐のような帝国に立ち向かった国々は成す術もなく崩れ去り、既に中東や東欧、中国の北宋に至るまでユーラシア大陸の多くの国を征服し続けたモンゴル帝国。国によっては争う姿勢すら見せずに朝貢して臣下の礼を採っている中、日本の統治者、鎌倉幕府の第八代執権、北条時宗はそうした元からの国書を一切無視した姿勢を貫いている。
フビライ・ハンは成吉思汗の四男、トルイの子として1215年に生まれている。幼い頃、祖父の成吉思汗からは日本という国がどのような所か聞いて育っている。日本はモンゴルにとって、そして自分にとっても一家の国。そうした感覚が生まれるのも自然だろう。それなのに何の返答も寄越さない日本の態度をどう思ったか。そんなはずはない。フビライはその後も同じような国書を五度に渡り日本へ送っているが、時の執権、北条時宗は、その書状を一切無視し続けた。
当時、日本は南宋と国交を結んでいる。そうした中、個人的にも時宗と親しくしていた南宋の僧侶、大休正念は、
「巨大な敵を打ち払い、国家の安定を図る事こそ国是であろう」
こうした言葉を聞き続けた時宗はモンゴル帝国の中心国家、元の皇帝にすげない態度を取り続けた。国同士の話とはいえ、それを恋愛に例えれば何故、自分の真心が通じないのか。日本を恨む事は祖父を、そして、その血を受け継いだ自らをも貶める事。しかし肝心の相手はフビライがしたためた恋文を見る事もせず捨て去っている。振られ続けたフビライが日本に対して憎悪を抱いたとしても何の不思議もないだろう。
痺れを切らしたフビライはとうとう1274年、日本出兵を決意する。世に言う元寇の一回目、文永の役はこうして始まった。最初の国書送付から6年。モンゴル帝国で、もちろんこのような例はない。まさに異例ずくめの国、それが日本なのである。
元軍は日本と同じ長弓を、しかも矢の先端には毒を塗り、それを射かけ恐怖心を煽っている。更に、てつはう(鉄鉋)といわれる現代でいえば手榴弾のようなものを投石機から発射し、圧倒的な力で博多に上陸し、瞬く間に占領している。しかし、その翌日になると占領されたはずの博多からは昨日の戦いが夢の中での出来事だったかのように元軍の姿は跡形もなく消え去っていた。何故か。そこには日本に圧倒的な力の差を見せつけて、国交を結ぼうとしたフビライの思惑があった。実はその前に日本へ送った最後通牒にも、
「兵力を持ちいるのは誰が望むだろう」
祖父譲りなのか祖父思いなのか、フビライの日本への思いはまだ続いている。この戦さの後、暫くして時宗に元の脅威を植え続けた僧侶、大休正念の故郷、南宋も元の手に落ちている。

では二度目の元寇、弘安の役はどのようにして始まったのか。モンゴルでは敵国の使節も含め保護されるという習わしがあった。それはもちろん、フビライの祖父からの教え。フビライはその教えを守り信じ、五人の使者を日本に送っている。それに対し時宗は会おうともせずに五人共、切り捨てている。確かに日本からすれば、たった一日の攻撃で博多の町全体を完膚なきまでに叩き潰された経験は恐怖以外の何物でもなく、そんな野蛮な国と国交など結べない。その言説は分からないでもないが、冷静に考えれば今まで貿易国として取り計らう機会もあったのに、その全てを自ら潰してしまった。それこそ身勝手ではないか。
恐怖に怯えた時宗は再戦に備え、九州各地の海岸に高さ2メートル、その総距離が20キロにもなろうとした防塁を築き戦に対する準備を進めていった。
使者を遇する事もなく誅殺した時宗の態度にフビライは激昂。1281年、十四万人の大群を率いて日本に来襲している。西日本を中心に集められた武士団は昼夜を問わず海岸沿いを警護。そして前回同様、長弓を武器に攻める元軍に対し和弓と呼ばれる長さが七尺以上にもなる弓を使用し、元の船に乗り奮戦している。幕府軍は前回の屈辱を教訓として元軍を撃退したといわれている。
今は分からないが、小学校でも元寇は習っている。確か二度共、神風が起こったはずだ。ところが、いくら調べてもそんな話は全く出てこなかった。当時の天候の記録を調べても台風という事実は一つもなかった。神風が起こった事など一度もなかったのである。
しかし、日本は何度この神に守られた国という曲説に鼓舞され、何にも代え難い大切な命を犠牲にしてきたか。先の大戦末期、神風の名を背負った幾多の若者が貴い命を限りなく続く太平洋の深い海原に捧げている。
そうした先人達の死の果てに現代日本は国として存在している。それを考えただけでも真の歴史を伝えていく事の重要性は学者や政治家だけのものではない。私達も真剣に考えなければならない大切な事と改めて思う。
元寇の時にモンゴル軍が被っていた兜を見るとそこには源氏の家紋、笹竜胆が意匠されている。もちろん、その用途上、鍔の部分が大分、ディフォルメされているがそこに笹を五枚重ね、その上に三つの竜胆の花が見えている。いや、兜をよく見ると花と花の間、それぞれに二枚ずつの笹の葉が見えている。



時の為政者、北条時宗はこの兜を見たのだろうか。
鎌倉幕府を開いた源頼朝はその猜疑心の強さから自分の身内さえ信じる事が出来ず、義経だけでなくもう一人の弟、範頼を暗殺。頼朝の死後、二代将軍となったその長男、頼家は叔父で頼朝の弟にあたる阿野全成にあらぬ嫌疑をかけて殺害。その後、今度は頼家本人が母、政子の実家、北条氏と頼家の育ての親、比企氏との争いの中、伊豆に幽閉され暗殺されている。三代将軍、頼朝の次男、実朝は頼家の遺児、公暁から逆恨みをされた挙げ句、鶴岡八幡宮の境内で殺害されている。ここに源氏の嫡流は途絶し京都から公家将軍を呼び、首だけをすげ替え続けたが、その職は傀儡に過ぎない。実際には将軍に継ぐ立場の執権、北条氏が実権を握り続けた。その内情を知ればどこか後ろ暗い思いを引きずって執権職に就いていたのかも知れない。
鎌倉幕府の御家人制度は御恩と奉公で成り立っている。主人の為に戦をし、勝った暁には所領を安堵された上に禄や領地を増やして貰う。しかし、元との戦いでは勝ったとしても、一坪の所領も手に入らない。領地の為に命を懸ける。一所懸命こそが武士の信条。そうした御家人達の不満が募る中、心労が重なった時宗は元寇の後、32歳という若さで亡くなっている。
終章 成吉思汗、その思い
みよしのの山の白雪踏み分けて 入りにし人の
おとずれもせぬ
この歌は古今和歌集からの一首。
俗世を逃れ み吉野の深い雪の中を踏み分けて行った人からは何の便りもない 仲の良かった友だろうか 今頃、どうしてるのか もうどれくらい会ってないだろう あの頃は楽しかった
時々ふと思いだしては またさみしい思いをする 友なのだから時など選ばず いつでも何でも良い 便りがあってもよさそうなのに
そんな感慨が浮かんでくる。
この歌にはどこかで接している。そう、静御前が鶴岡八幡宮の舞台で舞い詠った一首。しかし、読み返してみると少し違う。これを和歌の世界では本歌取という。古今和歌集に載っているような有名な歌を借り、聴き手に元々あった歌の存在を気づかせながら自分の思いや境遇を折り込んで、元歌とまた違う奥深さをかもしだし重層感を湛え、聞いた人の心へ届けていく。和歌の世界に古来より採り入れられている高等な修辞法のひとつ。それは同時に歌を聞いている者が、その素養を試されている場でもある。
吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の
跡ぞ恋しき
吉野の山の峰一面に降り積もった真っ白な雪を
踏み分けてあの人は姿を消してしまった
ああ あの人が恋しい
静御前のひたむきな恋慕の情があふれた一首となっている。
秘めた決意を詳らかにしようと静御前は鎌倉の舞台で、もう一首、舞い詠っている。そこにも義経への深い思いが隠されている。在原業平が書いた伊勢物語の中に、こうした一首が入っている。
いにしえの しづのをだまき くりかえし
昔を今に なすよしもがな
昔はしづを織る時には糸巻きを回しては糸を手繰り寄せていた そのように時間を手繰り寄せ手元に巻き取るように昔日を今に引き寄せることができないものでしょうか
おだまき(苧環)とは麻布を織る時に使う糸巻きの事。また、その形が似ていることからキンポウゲ科に苧環という名の花もある。十二単衣などでお馴染み、平安時代の貴族は、あでやかで高級な絹の織物を着ていた。それに対し麻織物は貴族と違い、貧しい者が着るもの。そうした市井の人が、あの楽しかった日々を思い返し懐かしみ、もう一度あの頃に帰りたい。その願いを声に出して呟いている。
麻で織った着物を倭文織(しずおり)と言う。このしずを漢字で表記すると賎、貧しい者が纏う当時の織物を表してもいる。このことからもこの一首が貴族とは生活を異にした人が詠った歌だということが分かる。



更に古今集には次のような詠み人知らずの歌が載っている。
いにしえのしづのをだまき卑しきを 良きも盛りはありしものなり
卑しきものも貴きものもそれなりに偉そうに しているけど、あなたは元々、流人だったでしょう それは またこれからどうなるのか分からない そういうことではありませんか
静御前が鶴岡八幡宮で舞い詠い終えた時、それを聞いていた頼朝は激怒したと吾妻鏡にあるが
鎌倉幕府の祝いの席で糾弾すべき義経を慕う歌を詠う姿は、本来ならそぐわないが離れ離れになってしまった愛しい人への思いを歌に託すのはごく自然なこと。では何故、頼朝はそこまで慷慨したのか。
静は義経への深い思いを詠いつつ、一方ではその悲憤を頼朝の心の奥底に向けて突き付けている。歌の真意を頼朝は悟った。義経の妻から向けられた哀哭の刃に気づき憤り恐れた。そして、そのやり取りを聞いていた政子は全てを承知した上で頼朝を諌めている。この歌にそれぞれの人物名を入れ、読み解いてみよう。
静御前は義経の兄、頼朝の境遇を知っている。この歌に描かれた流人とは少年期より伊豆に流された頼朝のことを指している。
確かに今は鎌倉殿として武家社会の頂点を極めてはいますが いつまた どうなるか分からないのではないですか 院宣を受けて逃げ惑う義経様とどこが違いますか 変わらないのではないですか
本歌を借りて頼朝への非難を痛烈な皮肉に包んで向けているのである。
静は様々な思いを込めて優しく、そして力強く詠っている。
しづやしづ しづのをだまきくりかえし
昔を今になすよしもがな
静や静 しず布を織るおだまきのように優しく
あの人が繰り返し繰り返し私を呼んでくれた
あの昔がなつかしい 今があの頃であったなら
あの頃に戻って再びあの人に会いたい
寂しさや懐かしさ、愛しさが込められた歌を本歌取りして決死の覚悟で詠った静御前。この歌を義経はどう受け止めただろう。平安時代、貴族達は自分に向けて送られた歌へは必ず歌にして返すのが習わしだった。
「しかも静は命を賭して私への思いを詠ってくれた」
義経に届いたこの歌はやがて言霊となり、そして生きる力へと変わっていった。
シーボルトの段でも記したように日本語の守を基に成吉思汗は皇帝としての地位に汗を当てている。その字には守や官同様、人々を司る意味があるのか。様々な書物を漁ってみたが、どの本を覗いても、どの辞書を調べても汗(あせ)という意味しか出てこない。では何故この字を皇帝の名として選んだのか。そこから読み取れるのは成吉思汗にとって、この字を名に付す以外は考えられなかったからではないか。
ここで、もう一度見直してみよう。サンズイ、つまり水編に干す。水干。水干とは白拍子、静御前を指している。運命に翻弄され彷徨い打ちひしがれ、悲しみの底に落とされながらも義経の妻としての矜持を持ち続けた。そんな静と同様に常人では考えられない宿命を背負いながら生き抜いた義経は、その後、海を渡り成吉思汗として生まれ変わっている。
モンゴルではゲ・ギ・ジの三字は音声としての差が殆ど掴めない。「ゲンギケイ」は「ゲンギス」に、やがてそれは「ジンギス」またそれは「チンギス」へと変わっていった。大陸に渡りテムジンと名乗った時からモンゴル統一を自らの使命とし守となった暁には、その名に静御前を表す汗を当て成吉思汗と自ら名乗ると心を定めて16年。その日は命を懸けて義経への思いを歌に託し、届けてくれた静との約束を果たす日。それは静御前が舞った鎌倉の舞台と同じく大観衆を前にしたものだったが、侮蔑と冷笑の入り混じった中、舞い詠ったその舞台とは対極をなすように喝采を送る千人を遥かに超す同胞からは、
「成吉思汗!成吉思汗!成吉思汗!成吉思汗!」
モンゴル史上最高の首領を讃える声が鳴り止まなかった。
鳥は向い風に乗り高く舞い上がる。逆境という向い風の中、モンゴルという未知の大地に舞い降りた義経は時間と空間を巻き戻すかのように静へ向けた新しい名を初めて口にしている。同胞達が何度も何度も叫び讃える声の遥かその先を見つめながら、辿って来た遠い道のりを思い返している。
成吉思汗を万葉仮名として読むと、成す吉思汗
なすよしもがな
義経は静への思いの丈を大陸での新しい名に託して捧げている。
更にその名を漢文で表すと、成レ吉思レ汗
吉成りて水干を思う 吉野の誓い成就して今、静を思う
「いつまでも静のことは忘れない。いつの日か雪も溶けて春の若葉が芽生えるように私達の運も吉となろう」
『成吉思汗』 この名には静御前を慕う一途な思いが溢れている。義経は静への変わらぬ心根を自らの新しい名に刻み、義経自身が築き上げた新しい国の仲間、モンゴルの人々へ披露している。
静御前が鶴岡八幡宮の舞台から義経に向けて詠った思いは今、その返歌となってモンゴルの草原に山々に響き渡った。
苧環の花言葉は勝利への決意。また竜胆の花言葉は正義、誠実、勝利。義経が携えた一朶の竜胆は海を越え、遥かな平原を西へ西へと埋め尽くした。
成吉思汗、最期の言葉
「われ天命を受けたれば死すとも今は憾みなし ただ、故山に帰りたし」
戦い終えた義経は生まれ育ったふるさと、鞍馬の山へ帰れたろうか。
了。
←五の一
←五のニ
←五の三
←五の四
関連作品になります
