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源義経  海を渡ったもののふの話 五の四

第十四章  同一人説 その一

「語らば言うな。言わば語るな」

義経一行の辿った足跡は決して外に漏らさぬよう地域、地域で秘匿とされてきたものが密かに口承されていった。しかし、源頼朝そして北条氏が築き上げた鎌倉幕府が瓦解し、室町時代に入ると地域以外にも拡がりを見せ始め、義経の蝦夷への紀行が御伽草子、『御曹司島渡』として庶民の間で話題となり日本中に拡がっていった。娯楽に徹したこの物語は、だからこそ市井の人々の口を通して、その後の噂や伝承が喧伝されていった事を証左している。それを見ると、おそらく義経が亡くなったといわれた直後から人々の間では噂が噂を呼ぶ中で判官贔屓と相まって浸透していったのではないだろうか。

時代はこの後、応仁の乱を契機に戦国時代へと入っていく。義経生存説が本格的に表に出てくるのは戦の世が終わりを告げ、人々の心にもゆとりが出てくるようになった徳川時代から。しかもそれを初めて公に唱えたのは徳川家康の孫、徳川光圀。水戸黄門といった方が通りが良いかもしれない。その光圀は初代の神武天皇から第百代の後小松天皇までの歴史を記した『大日本史』を編纂する過程で奥州から蝦夷各地に残る義経伝説をまとめる為に蝦夷まで調査団を派遣した上で、衣川で義経は死んでおらず蝦夷に渡ったと発表している。それからは朱子学者、新井白石が『蝦夷誌』を出し、義経韃靼渡航説を唱え、儒学者の林羅山、鷲峰親子は幕府の命により『本朝通鑑』の中で義経は蝦夷に渡り、子孫を残したと紹介している。また探検家の間宮林蔵は実際に樺太から大陸に渡り、現地にて漢土の天子は日本人の末裔との伝承を記した文章を見つけており、土地の人からも同様の話を聞いている。日本では間宮林蔵が初めて渡ったものとして間宮海峡と冠しているが、実際にはそれより600年以上も前に弁慶そして義経が同じ海峡、韃靼海峡を渡っているのである。

日本の徳川幕府と足並みを揃えるように中国では清がその覇権を握っていた。清の宮廷の書庫には門外不出の『図書輯勘録』という国史があった。代々の皇帝が編纂に当たったこの史書の中、第六代皇帝、乾隆帝はその序文にこう記している。

『朕の姓は源、義経の末裔なり。その先は清和より出ず。故に国を清と号す』

今の中国政府はその存在の有無を明らかにしていない。たとえ分かっていたとしても、かつて
この国を治めた皇帝の血に日本人が入っていた事があるなど口が裂けても言えない。決して認める事はないだろう。

元滅亡後、成吉思汗の子孫はモンゴルや満州に逃れ、その地域で族長の娘と婚姻を結び、子孫を残していった。当時、四十万の部族を率いた女真族の長であり、後に清の初代皇帝となったヌルハチもその一人だという。

元の時代、モンゴル帝国の第五代皇帝に就いたフビライ・ハンはそれまでの首都、カラコルムから元の冬の都として大都、今の北京に都を移し、そこに宮城を築いている。

その地は元を引き継いだ明の時代に入ると紫禁城と呼ばれるようになり、今や北京のというより中国全土でも一、ニを争う一大観光地となっている。明を継いだ清の時代、その主要な建物には太和殿、太和門、保和殿、協和門、頣和園、名称に『和』という漢字が冠されている。清国の『清』を清和源氏、清和天皇から付けたように、和とはその父祖の地、日本を表わしている。

日本にゆかりがあるとした清の皇帝は国を治める象徴として中央に位置する主だった宮殿名に和の文字を組み入れる事によりその出自を標榜している。こうした宮殿名は清が滅び、次に政権を継いだ中華民国では、そこの為政者、袁世凱の指示の下、全ての名称を変更しているが中華人民共和国の代に入ると再び、その多くの建物に清の時代と同じ名称が戻って来ている。

興味を引かれるのは清国がそのルーツをモンゴル帝国ではなく更にその先、日本に求めている点だろう。大陸でも日本の天皇家は万世一系として古代より尊崇を集めていたといわれている。

紫禁城
清国 第六代皇帝 乾隆帝

間宮林蔵が清国で見たという書物が図書輯勘録だったかどうかは分かっていない。

第十五章  同一人説 そのニ

江戸時代にはこうした義経生存説、蝦夷渡航説を時代への影響力を持った歴史上の人物がそれぞれの立場からそれぞれの視点を披歴するように語ってきた。

ここで更に一人、歴史教科書の常連と言われている人を紹介しよう。但し、この人物は日本人ではない。1823年、長崎は出島のオランダ商館医として来日したドイツ人医師にして植物学、動物学、また地理学者でもあるシーボルト。この人こそ史上初めて義経と成吉思汗を同一人物として位置付け、著した人である。この博学の天才はドイツ語に翻訳された新井白石や林羅山の本を精読し、また自身の出身地ドイツやオランダに残る、かつて、この地域にまで深く影響を及ぼしたモンゴル帝国の名残や風習を鑑みた上で西欧の科学的、合理的な判断に基づき義経即ち成吉思汗であると断定している。

この話の冒頭、オランダのフートと日本の尺の符合について記しているが、これはシーボルトが初めて指摘し述べたもの。ここでは他にも同一人説の根拠としてシーボルトが調べた内容のいくつかを記しておく。

・1206年、クリルタイの席で成吉思汗と初めて名乗った時、近くの者から呼ばれていたクローという名に因み九旒の白旗を掲げている。
・成吉思汗のハンとは義経が伊予の国司、伊予守に就いていたように日本語の守(カミ)という称号と同じ、元々日本にしかない尊称。
・十二支は古く中国を起源に興ったもの。その中の亥について中国では豚を指している。ところが当時、豚がいなかった日本では亥とは猪の事。モンゴルも同じである。

中国に渡ったシーボルトは『建靖寧寺記』と呼ばれるモンゴル語で書かれた碑文を中国人の通辞に訳して貰ったところ、

『元の太祖は元々、日本人。兄の怒りに触れ、家臣と共に蝦夷に渡り、満州から蒙古に赴き、中国を治めて帝位に登り、源氏の名を借りて国号を元と改めた』

シーボルトはその文を書き留めている。碑の側面には日本の鳥居のようなものが彫られていたという。更にその研究ではモンゴルの城壁や建物の名に至るまで日本との共通点を探せば探すだけある事から同一人説を正史として上げるよう時の政権、徳川幕府に訴えている。

義経についてばかりでなく、日本という極東に浮かんだ島国自体に興味を抱いたシーボルトは日本の植物、動物、更には日本に古くから伝わる文化に至るまで研究を重ね、1628年の帰国の際には研究の補佐とする為に日本地図をも他の資料と共に持ち出そうとしている。しかし、それは当時、鎖国体制を敷いていた徳川幕府の知る所となり、今でも日本史の教科書をめくれば『シーボルト事件』として記載され誰もが知っている程、有名な出来事となっている。そしてシーボルトの名は多くの日本人の記憶に留まり続けている。シーボルト本人は純粋に日本とはどのような国なのか、それを本国の人々に示そうとしただけなのかもしれないが、いくら島国とはいえ、そこを司っていた徳川幕府からしたら、その行為は諜報活動の一環にもなりかねない。日本を追放されたシーボルトはオランダへ戻った後、『NIPPON』と題した書物を出版、欧州各国でベストセラーを記録している。そして、その中ではモンゴル帝国の初代皇帝、成吉思汗の真実も記している。1859年、鎖国当時とは内情が変わった時点で再来日。今度は息子を伴い、蝦夷まで義経の足跡を辿ったという。

シーボルト(1796年〜1866年)

明治に入ると初代、内閣総理大臣となる伊藤博文の知遇を得てイギリスのケンブリッジ大学に留学した外交官の末松謙澄が成吉思汗は日本の英雄、源義経と同一人物であると英語による論文で発表する。末松は後年、伊藤博文の次女と結婚している。同じ頃、内田弥八という福沢諭吉の弟子が『義経再興記』を出版している。

この本を幼少期に読みアイヌ問題、そして義経のその後に興味を持った人物がいる。その人物、小谷部全一郎はアメリカ東部コネチカット州、ニューヘイブンに古くからある名門のエール大学に留学し、そこで学ぶ中、キリスト教に傾倒し熱心な信者となり洗礼を受けている。

信仰するキリスト教の牧師となって帰国した小谷部は北海道に渡り、アイヌの人々への布教と教育に努めている。その生活の中でアイヌ人にとっての神様、オキクルミが義経の生まれ変わりと聞くに及び、幼い頃から抱き続けた義経に対する興味がふつふつと蘇り、何とか大陸まで渡り義経の真実を探りたいと思っていたところ、陸軍の通訳官の試験がある事を知り合格。

大陸に渡った小谷部は危険を冒して満州一帯をまる1年かけて隈なく周り、そこから得られた情報を基に帰国後、『義経は成吉思汗也』を出版する。この本は大正末期から昭和初期にかけて屈指の大ベストセラーになっている。その足跡を振り返ると今まで、この話の中で記してきた事の多くが小谷部の調査から生まれてきた事が分かるだろう。

満州に滞在中、小谷部はニコリスクから内陸に向けて100キロ程、入った所で義将軍の古碑と呼ばれているものを探し出している。実際には小谷部が見たものは古碑が置かれていたという亀の形をした台座で石碑自体はそれより少し前、ソ連軍によりハバロフスクの博物館に持ち去られた後だという。それを聞いた小谷部は博物館を訪れようとしたものの、その地は既にソ連軍が管轄する地域となっており、治安にも問題がある為、陸軍に願い出て調査して貰っている。

博物館の中を調査した軍の報告によると日本式の古い甲冑の一部や笹竜胆の紋章が付いた古い経机に混じって石碑があったという事だが全体に漆喰が塗られており残念ながら具体的な字や紋章までは判別出来なかったという。

但し、これについてはもう一人、別の人物の話が残っている。それは小谷部が満州を訪れるより1年近く前。その回顧録を読むと公園の裏手にあった亀の台座の上に置かれた石碑を見たと記されている。当時、陸軍大学校を卒業して満州方面に派遣されていた陸軍の樋口季一郎である。その石碑には碑文の上部中央に源氏の家紋、笹竜胆が彫られており、その下に書かれた漢文を見ると源義経とまで読み取れたとしている。樋口は革命直前のソ連共産党が満州を我が物顔で闊歩している姿を見て、

「ここは君達の土地ではない。古くは日本の源義経という武将が地域一帯を抑えていた。この石碑こそ、その証拠だ」

その話を神妙に聞いていたように見えたソ連兵だったが数日後、再び訪れると既にそれは撤去されていたと記している。ソ連軍としてみれば古くから日本の武将が関わっていた地方と知られると今後の諜報活動にも支障が出るとして撤去したのではないかと思われる。

残念ながら小谷部本人はその碑を見る事が出来なかった。しかし、それを除いても小谷部の功績は非常に大きい。では、一部重複するかもしれないが、ここでいくつか実際に満州を訪れ調査した小谷部の実績を記しておこう。

・成吉思汗は中東商人から自分の出身地を聞かれた時、ニロンのキャト村と答えているが、これは日本の京都出身ということではないか。
・成吉思汗の別名はクロー。これは九郎判官から採ったものではないか。だとすると九旒の白旗や幸運の数字としての九、日本と同様モンゴル人にとっても神聖な色である白、全てが、ここに繋がっていく。
・成吉思汗の母の名、イケ、またモンゴル帝国の正式名称、イケ・モンゴル・ウルスはどちらも義経にとっての命の恩人、池之禅尼から来ているのではないか。成吉思汗はその母親にセンシ皇后という尊称を送っている。
・国名の元とは源に通じる。
・満州には源という苗字が多い。
・両者とも背が低く、酒も全く飲めなかった。
・騎射術をヤブサメルと呼んでいる。
・平安末期から鎌倉初頭にかけて日本では源氏を始めとした当時の武将が、獲物を追い詰めて射止める巻狩と呼ばれる軍事訓練をよくしていた。同じ頃、モンゴルでも成吉思汗は巻狩を好み家臣と共に盛んに行っている。小谷部はニコラエスクの近くで芝居を鑑賞したところ、笹竜胆の紋を付けた日本流の陣羽織にこれまた日本風の兜を付けた役者が演じる巻狩の場面を見ている。
・笹竜胆の家紋を外壁の意匠とした家がある。これは義経の痕跡を探し求め、満州一帯を巡った際に小谷部がその一部に当たるナホトカを探索中、たまたま見つけ撮影したもの。実際の写真はこの話の十章に掲載している。これを見ると少なくとも近代まで、義経がこの地域にもたらした影響の大きさを証左するものの一つといえるのではなかろうか。
・ラマ教の高僧に源義経汗(ゲンギケイカン)と発音するようにお願いしたところ何度問いかけても「チンギセーハン」と繰り返し発声した。
・満州、モンゴルにはハンガン岬のように日本由来ではないかと思われる地名が数多く残っている。一例としてヘイセン(平泉)チタ(知多)ヒロタ(広田)アガ(男鹿)チバ(千葉)など。知多とは義経の父、源義朝が命を落とした場所。また更に大陸に入った所、チチハル付近には日本から来たという僧侶に因んで『サイタボウの碑』といわれる古碑が立っている。そのサイタボウとは武蔵坊西塔弁慶の事である。他にもアイヌ起源ではないかという地名まで含めるとまだまだ、ゆかりのある地名が残っている。

源頼朝 富士の巻狩
フビライ・ハン 世祖出猟図

第十六章  否定説 

小谷部の源義経、成吉思汗同一人説に反論を唱えたのは国語辞典の編纂等を通じて日本人なら一度はその名を聞いた事がある程、著名な国語学者、民族学者の金田一京助。アイヌ語の研究分野でも長じている。金田一はアイヌ語の研究をする過程で同じくアイヌ人への教育の為、北海道で牧師となっていた小谷部と交流を持っている。

「歴史論文は客観的に論述されるべきものなのに小谷部説は主観的であり、まるで信仰を訴える宗教者のようだ」

金田一は牧師の小谷部を揶揄するように批判したが具体性に欠け、むしろ金田一の方が主観的で論理が破綻している。

もう一人、歴史学者の中島利一郎は金田一よりも激しく小谷部を糾弾している。例えば小谷部は成吉思汗がその出自について日本の京都出身と推定しているがニロンは日本に通じる言葉ではなく、モンゴル語のナランが詰まったもの。またキャトとは京都ではなく岩石へと落ちる泉を意味するキャンの複数形がキャトであり京都とは全く関係ないとしている。しかし岩石に落ちる泉だと良く分かりもしない言説をよく、こんな所で持ち出したものだと中島の理屈には余計、疑念を抱いてしまうし、何より論理性に欠ける。

しかし実際にはこの言葉よりも中島が記したナランの方が気にかかった。モンゴル語のナランを日本語に訳すと〝太陽〝。偶然かもしれないが、それは日いずる国、日本を意味する言葉でもあるのに、そこには一切触れていない。当時の史学会に所属する多くの学者は本質から外れた言葉尻を捉えて口撃する事に終始し、小谷部の論説を貶めていった。

では何故、彼等はここまで強く否定したのか、それは1890年、明治23年、ある大学のある教授のある講義から始まっているのだが、それについては改めて記していきたい。

「古文書のみを信ずるのは針なき糸を垂らして魚を釣るようなものだ」

小谷部は、現地に足を運んで慎重に踏査する事もせず、文献のみに頼る当時の史学者達に向かって、こう反論している。実際に満州の地を歩き、未だに残る義経の濃厚な記憶を辿って来た小谷部からすると殻の中から叫び続ける学者の言い分など本気で叩けば呆気なく瓦解し崩落を始めそうで、それは滑稽を通り越して哀れに思えたのではないだろうか。

こうした揚げ足取りに終始した学者達の否定論は聞かされれば聞かされる程、真実から作為的に遠ざけようとする彼等の意図ばかりが目立つのみで、それこそ空論との印象を際立たせているとしか思えない。

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余話 樋口季一郎

ここで本題からは少し外れますが、満州の地で実際に義経の石碑を見た樋口季一郎の事を記しておきます。ナチスの迫害からユダヤ人の命を救った日本人といいますと多くの皆さんはまず第一にリトアニアの領事館に勤務していた外交官の杉原千畝の名が浮かぶのではないでしょうか。杉原は亡命を望むユダヤ人に命のビザを発給し続け、六千人の命を救っています。その杉原と比べますと残念ながら樋口の事は一般的には余り知られていません。おそらく二人の立場が民間人と軍人との違いから、どこか作為的に、余り公にはしたくない。未だに忖度するこの国の姿勢が反映しているのかもしれません。

実際の樋口はドイツの迫害から逃れる為にシベリア鉄道に乗車し、満州まで逃げて来たユダヤ人二万人を上海経由でアメリカへ亡命させる為に策を講じて、その手助けをしています。

樋口は義経の石碑を見た頃といいますから1919年、陸軍の特務機関員として満州のウラジオストクでロシア系ユダヤ人の家に下宿していました。そこで同じ家に住むユダヤの若者達と語り合う中、ユダヤ人問題を知ったといいます。その後、公使館駐在武官として1925年から赴任したポーランドでも差別と迫害を受け続ける流浪の民、ユダヤ人の悲哀を垣間見ています。

日本は1938年、ドイツと日独防共協定を結んでいます。そうした中、ハルピン特務機関長となっていた樋口が採ったのがユダヤ人救出でした。当時の政府からはそうした樋口の姿勢に反対の声も多く、非難もされましたが人道的見地から頑として受け入れませんでした。

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し敗戦を迎えました。当時、北海道、南樺太と千島列島の北の守りを担当する札幌の第五方面軍司令官となっていた樋口は終戦の詔書が出された後の18日、大本営の停戦命令を無視して千島列島の北端まで攻め込んできたソ連軍に対して自衛戦争を指揮し、北海道上陸の水際でソ連軍の上陸部隊に大損害を負わせています。

その報を受けた大本営は既に連合国軍最高司令官として日本に来日していたマッカーサーにポツダム宣言受諾後に攻めてきたソ連軍への抗議をしています。その後、行われた東京裁判ではスターリンが樋口をA級戦犯にしようとGHQに働きかけましたが、その顛末を承知していたマッカーサーはその申し出を拒否しています。

樋口季一郎

第十七章  兄弟へのモノローグ

大陸に渡り、蘇城を起点に近隣諸国との融和に努め、幾多の歳月を費やした義経は、その地を完全に掌握し力を確信した段階で、いよいよ進路を西へ向けて舵を切り、歩みを始めている。

そこに至るまでの10年、義経が根を張り慣れ親しんだ土地、近年まで満州といわれたその地には成吉思汗の治世から16世紀頃まで東方諸王家と呼ばれる王国が点在していた。

元朝秘史によると成吉思汗の父、エスガイと母、イケの下では長男のテムジン始め四人の弟妹、また側室との間に出来た弟二人の計七人の兄弟の中でテムジンは育っている。

テムジン九歳の頃、父、エスガイが他部族との抗争に巻き込まれ毒殺されている。一族の中心となっていたその家では主人亡き後、近隣の者が昨日は五人、今日は十人と潮が引くように離れていき、とうとうテムジンの家族だけとなってしまったという。

糊口を凌ぎながら日々を送っていた家族はその日に食べる物もなく、皆が協力しながら生活していた。そうした中、テムジン始め兄弟四人で釣りに出かけた時、幼い弟が釣り上げた魚を腹違いの弟、ベクテルが奪ってしまった。テムジンからその話を聞いた母は、

「影より他に友はなく、馬より他に鞭もない。孤立した家族となってしまった今、更に仲違いすべきではない」

そう諭されたテムジンだったが、どうしても怒りの感情を抑える事が出来ず、それから間もなく弟のベクテルに向けて矢を射かけ、その命を奪っている。

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この話を初めて知ったのは僕が高校一年の頃ですので遥か昔、井上靖の『蒼き狼』を読んだ時になります。一人いなくなり六人となった兄弟は力を合わせて、降りかかる難局を次から次に乗り越えて1206年、遂にモンゴル帝国、初代皇帝として名も成吉思汗へと改め、その後も領土を拡大していきます。

先程、テムジンをエスガイとイケの間に生まれた長男と記しましたが、実際には他の部族に嫁いでいたイケをエスガイが強奪し、その後、テムジンが生まれているのです。日本で生まれ育った僕からすると他家に嫁いだ人を奪い、自分の嫁にする行為自体、考えられない。それは罪を犯したって事ではないか。読みながら少し頭が混乱していました。しかし、話はこれだけではありませんでした。実は成長しボルテという娘と結婚したテムジンの身にも、それは起こっています。

他部族からの急襲を受けたテムジン率いる一族はあろうことか妻のボルテを奪われてしまったのです。妻の奪還と敵への復讐を誓ったテムジンは近隣の有力氏族の力を借りて敵を奇襲し、その部族を殲滅すると共に妻を奪い返しています。しかしボルテの様相は以前と少し変わっていました。そのお腹には命が宿っていたのです。それから暫く、二人にとって初めての子が生まれています。テムジンは生まれた男の子にジュチと名付けました。それはモンゴル語で『客人』という意味を持っていました。

この小説を読んだ当時、モンゴルでは日本と違い文明や文化といわれるものをその歴史上、殆ど経験したことがない。それどころか、かすりもしていない。これ程に様々な面で遅れた地域からよくもユーラシア大陸の多くを席巻する程の人物が出てきたものだ。そう感心すればする程、これは本当にあった事なのだろうか。人物記とはいえ現実の世界とはいささか乖離した夢物語を読んだ時のような読後感だけが強く印象として記憶に残っていました。

そうした中、今回義経、成吉思汗同一人説に興味を持った僕はその人物像を理解する為に初めて元朝秘史にも目を通しました。するとそこには井上靖が紡いだものを彷彿とさせる、正確にいえばその逆ですが、そうした世界がありました。井上靖はこの秘史を熟読し、そこに小説家としての想像力を駆使して新たな物語へと昇華させたのです。

元朝秘史を読んだ僕は、長年に渡り心の底の更に片隅にあった澱が漸く溶け出したような感覚に襲われました。と言いたいところですが実際には殆ど忘れていたので思い出したといった方が良いかもしれませんが。

テムジンに殺された腹違いの弟、ベクテルは頼朝に追討され、衣川で殺されたとされる腹違いの弟、義経本人を連想させます。またテムジンとその息子、ジュチ、奇しくも親子二代に渡り共通して訪れた逸話もモンゴルという未知の大陸の客人となった義経がどうすれば蒼き狼の末裔として認めて貰えるだろうか。苦悶し咆哮する姿を寓意に満ちた表現で読者である僕達に向けているのではないか。そうだとすると元朝秘史という英雄譚の真の姿が浮かび上がってくるように思えてきます。

それでは他の兄弟についてはどうでしょうか。実はこれについては蒼き狼を読んだ当時から少し違和感がありました。モンゴル統一まではあれ程、兄弟達の奮戦記として表に出て共に戦っていた弟達が統一以降、つまり成吉思汗と名を変えてからは、まるで役目を終えた役者のように登場人物としての出番が殆ど無くなってしまったのです。あるいはみんな年を取るのですから、その息子達の話でも良いのに、それも出てきません。戦闘に参加しているはずでしょうがそうした話もありません。

モンゴルと日本をそのまま比較する事は出来ませんが、頼朝と義経の確執に限らず室町幕府を開いた足利尊氏はその右腕として共に戦い、政権を築き統治した弟の足利直義を観応の擾乱の中、討っています。また父の葬儀の際、その位牌に向けて抹香を投げつける程、苛烈な気質を持ち合わせた織田信長は実の母、土田御前からも疎まれ、そうしたコンプレックスがやがて母が溺愛する弟、信行への妬みや怨みとも重なり暗殺。甲斐の武田信玄は悪政を敷いた父、武田信虎を他国に追放しています。更に甥の秀次に地位を継がせようとしていた豊臣秀吉は息子の秀頼が生まれた事により邪魔になった秀次を出家させたばかりかその眷属、秀吉と血が繋がった者まで含め一族皆殺しにしています。このように戦国時代は確かに精神的にも均衡が取れず、家族としての紐帯そのものが細くなっていった時期だったようにも思えますが、実際には今とは比較にならない程、御家大事を標榜していた時代でもありました。

それを考えますと兄弟は他人の始まりという諺があるように、その血が濃ければ濃い程、こうした利害関係や価値観の違いが浮き彫りになり確執も生じるようになる。骨肉の争い。決して良い事ではありませんが、それが人の性、本性でもあります。

では当時のモンゴルは日本と異なり、そうした問題が一切なかったのでしょうか。いや、そんな事はありません。むしろ日本より更に激しく苛烈な時代を迎えていたのではないでしょうか。

元朝秘史の作成には成吉思汗、特に一族の黎明期の記述をみていくと彼自身が関わっている。それが、ここまで読み進めてきた僕の結論です。より正確に言えば原作、成吉思汗、脚色、長春真人。そう思って見ていきますと、このエピソードの真の姿が見えてきます。義経に例えたテムジンの腹違いの弟、ベクテルは殺されてません。いや、そもそも存在しません。他の弟達もいません。いたのは大陸への道を拓いて義経を招聘し、10年の月日を共に戦い、手助けをしてくれた地元の有力者達です。

生まれ変わった者として大陸に渡った義経にとって一緒に戦い、心身共に盾となってくれた真の仲間達。そうした彼等に恩義を感じ心を重ね、自らの兄弟として遇した。それはこれまで見てきた彼の信条、性格を読み解けば何の不思議もありません。

話は少し遡りますが1180年、奥州にいた義経が平家打倒に向けて挙兵した際、藤原秀衡は自らの側近、佐藤継信、忠信兄弟を義経の伴として付け、鎌倉の地に送り出しています。そんな二人の活躍は目覚ましく、義経としても心強い弟達と思い、その二人を遇したといわれています。1185年3月、屋島の戦いにおいても二人の活躍は凄まじかったのですが、平家方が義経を狙った矢を継信が身代わりとなって受け止め、亡くなってしまいます。自分の盾となり亡くなった継信の死を嘆き悲しんだ義経は僧侶を呼んで、継信の菩提を弔っています。そして危険を顧みず戦場にまで足を運んでくれた僧侶にも、その労をねぎらう為に自身が乗っていた名馬の大夫黒を与えたといわれています。それ程、自身の為に尽くしてくれた人には感謝を惜しまない。そんな義経の優しさが垣間見える逸話の一つとなっています。

では弟の忠信はどうなったのでしょうか。頼朝から追討された後も義経と同行していた忠信は
義経が静御前と別れた吉野山を過ぎた辺りで頼朝方と遭遇します。激闘を繰り広げる追手から逃げ切れないと覚悟を決めた義経の身代わりとなった忠信は追手を振払いながら京都まで落ち延び、生き残った一人の郎党と潜伏していましたが頼朝方に囲まれ命を落としたといわれています。

屋島の戦い 継信を悼む義経の姿が見える

当時の大陸の風習を調べる過程で気づいた事があります。それは従いたいと思える程の器量があれば民族は関係なく人々は臣下として共に働き戦ったといわれています。そう考えますと海を渡った義経は既にその時点から、世界という新たな歴史に招かれていったのではないでしょうか。

義経が大陸の東の要として王位を授けた東方諸王家はやがてその一つ、オッチギン王国に吸収され、清の太祖ヌルハチが治める1500年後半に入ると旗と呼ばれる清の軍事、行政組織の中の一つとして組み込まれていきました。

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僕は義経の悲しさ、そしてそれをも包み込む優しさに惹かれ導かれるように、ここまで記してきました。もちろん彼の魅力はこれだけではありません。逆境に陥っても目標を失う事なく完遂していく、そんな力強さも持ち合わせています。僕はそうした義経の本当の姿を皆さんにも伝えたくて最終章では更に深い、その思いを記していきます。そうする事で皆さんと新たな義経観を共有出来る。そう信じて最終章へと向かいます。真実は一つです。

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