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何でも見てやろう どこへでも行ってやろう

一、まえがき

生まれた時の光景、産湯を浸かる私は盥の縁に射す日の光を見ていた。

三島由紀夫はその自伝的な小説『仮面の告白』の冒頭部分でこう記している。本当にこんな生まれたばかりの記憶を三島は覚えていたのだろうか。高校1年だった僕は小説家とはどんな世界に棲んでいるのか。今、考えれば事実と虚構との橋渡しを盥の縁に投影したのだろうと言えたのかもしれないが、多感な高校生からしたら生涯で初めてとも言って良い程の挫折感を味わった記憶がある。

では僕にとっての最も古い記憶とはなんだったろう。三島のように生まれたばかりの記憶などあるわけがない。いや、たとえ虚構だったとしても書きようがない。では、と振り返った時、僕の中での一番古い記憶として思い浮かんできたのが、それは四歳になろうとしていた夏の日の事だった。

その年まで僕の家にはまだ蚊帳があった。そして蚊が家の近辺にまで現れ始める6月を迎えるとそれを吊って両親と姉達の間に挟まって寝ていた。その日も小さな敷布団の上で寝ていた僕は高みからブーンという羽根の擦れる音を聞くともなく聞いていた。と、思うや耳許に近づくにつれ、その音は更に大きくなっていく。身構える間もなく僕はパチンと自分の頬を叩いてみたが、蚊を捉えたという感覚はなかった。それから暫くは、高みから僕を目掛けて襲って来る蚊と格闘しながらも何とか寝ようともがき続けていた。

そもそもが蚊を避ける為に蚊帳を吊るのに、蚊に刺されるとは。当時の僕含め家族の誰かが出入りの際に一緒に連れて来たのだろう。こうなると蚊への効果などゼロどころか寧ろその中でじっとしている人間など蚊にとっては格好の標的となってしまう。ましてやどろっとした血液に包まれた今の僕とは明らかに別人だった、さらっとした血を体内に宿していた当時の僕の血を吸った蚊からしてみたら、

「今日は贅沢をさせて貰ったな、ご馳走様。じゃ、あばよ」

今となってはそんな記憶しか残っていないが、それならそれでもう少し、その時の蚊からは感謝されても良かったのではないか。

当時の記憶を引っ張り出しても蚊取り線香の匂いは残っていない。そもそも蚊取り線香を点けていれば蚊帳などする必要はなかっただろう。だとすると匂いの記憶がない事とも辻褄が合う。

そうして暫くの格闘の末、僕の頬と耳からの養分を吸い尽くした蚊は満足したのだろう。その後は静かになっていった。

幼かった僕は痒さに耐えながらも更に激しい睡魔に襲われるに連れ、漸く熟睡を迎える事が出来た。正真正銘の凡人であった僕の中では、既に四歳にもなろうとしていたそんな当時の記憶が朧げながらも最も古い記憶だったように思えてくるのである。

しかし、今思えば本当に良い時代だった。昨今の夏はエアコンがなければ、とてもじゃないが眠れない。そんな時代が来る事など、それこそ夢にも思わなかった。適度な暑さがあったとはいえ、扇風機すら点けずに、蚊帳という軽く密閉した中でも眠りに落ちていった当時の人間からしたら現代は夏中、悪夢の中にいるとしか思えないのではないか。

このように僕の家では畳に布団を敷いてその上に家族用の大きな蚊帳を吊るして寝入っていたが、これから記していく人はそんな幼い僕の記憶より80年以上も前の1878年、四十七歳の時に生まれ故郷のイギリスから自分専用の蚊帳を背負いながら船に乗り、横浜に到着したイザベラ・バードという旅行記作者の話である。

二、バードの回想

元々、身体が余り強くなかった私は健康を回復し、体力を付ける為に医者から効果的な療法として遠地への旅行を勧められたのです。二十代でのアメリカ、カナダへの旅に始まりオーストラリア、ニュージーランド、ハワイと世界中を飛び回った旅行家として、自分で言うのも何だけど、当時の世界では知らない人がいない程の有名人でした。

でも私は唯の旅行好きではありません。今でこそリゾート地に遊びに行こうよ。世界中の人々が様々な観光地に様々な目的を持った観光客として訪れていますが当時、私が訪れたのはいつ果てるとも分からない、道なき道を進むような未開の地です。アメリカだってニューヨークに行ったんじゃありません。向かったのはロッキー山脈です。ハワイだって今のようなリゾート地ではありません。未開の孤島でした。そんな場所ばかり好んで伺うような、そうです。私は冒険者でもあったのです。何を好き好んで、何故かしら。人はそんな私の事を因習に囚われない自由闊達な好奇心の塊のような女性と言っていたようでした。


世紀は二つ超えて今は21世紀のようですけど私のような女性は未だにそうは表れていないでしょう。ところであなた、ダーウィンという方をご存知。そう、あの有名な『種の起源』を発表して世界中に衝撃をもたらした人です。今となってはあの人が唱えた説が100パーセント真実だったのかどうか大分、懐疑的にはなって来ていますが、そんな彼と話をしていた時の事でした。

「前回ハワイにまで足を伸ばしたので今度はもう少し先にある南米まで行ってみようかしら」

「それは面白い」

そう答えてくれたダーウィンでしたが、その時に私の好奇心の真只中を刺激する、このような話をされたのです。日本の北部にある北海道という所には、本州に住む日本人の平べったい容貌とは全く異なった、それこそ私達と似たような顔立ちの人が元々住んでいるようなの。名前は確かアイヌ人と言ったかしら。私は急激に日本に行ってみたい。そうです。それを境に私の興味は日本に移っていったのです。

それからというもの日本に関する書物を読み漁りました。オランダの医師として江戸時代に日本に渡ったドイツ人のシーボルトという学者が記した『日本』という本も読みました。それを読むと源義経という日本の有名な武将がアイヌの人達とその昔、交流があった事。更にそこから海を渡り満州に入りその後、あの成吉思汗になったって事まで数々のエピソードとエビデンスを交えながら大真面目に書かれています。もし本当だったとしたらこんな面白い事はないでしょう。あの成吉思汗よ。そんな事を考えていたら丁度、日本にいる英国公使のハリー・パークスに誘われたんです。彼は日本政府に掛け合って当時まだ日本人以外踏み込む事が許可されていない日本の奥地への旅も政府に掛け合って承諾して頂いたのです。彼の名前も今では日本の教科書に載ってるはずだから真面目に授業を受けてる方なら知っているかもしれませんね。そんな彼からの依頼に私の心は決まりました。

1878年5月20日、横浜に上陸した私は日本での通訳や雑用をしてくれる者として伊藤鶴吉という小柄な青年を採用し、日本での基本的な生活習慣など予備知識の習得をしていきました。

そして忘れもしません。6月10日、北海道の平取に向けていよいよ出発です。何を用意したかって。まずは荷役用としての馬です。見ると本当に情け無さそうな姿で一応、頑張ってねと声掛けしてみましたが英国は通じないようで、うんともすんとも言いませんでした。

日本のこの時期は蒸し暑い上に蚊を始め害虫が出るとの事でしたので個人用の蚊帳と共に折り畳み式の簡易ベッドも用意しました。日本のような湿気の多い国では蚊ばかりではなく蚤、しらみ対策として、これらの道具は必須だと聞いていたからです。

旅の行程としては風光明媚な場所として、また前時代の創設者、徳川家康を神として祀ったと言われている日光東照宮を見てから新潟を経由して山形、秋田、青森へと北上し、本州の北端から船に乗って津軽海峡を渡り北海道に上陸します。予定としては3ヶ月程度でしょうか。

イザベラ・バード北紀行

今、さりげなく徳川家康を神と書きましたけれどキリスト教徒の而も牧師の娘でもある私からしたら日本には神様が数え切れない程いるなんて信じられる訳ないじゃないですか。日本とは何と胡散臭い国なのでしょう。でも何でも見てやろう。どこへでも行ってやろう。好奇心だけで四十七年間、生きて来た私としては、それも含めて楽しみでしかありませんでした。


そんな好奇心剥き出しの私でしたが旅立ちから何日も経たない内に既に日本を訪れた事を後悔し始めていました。それは日光へ向かう途中、カスカベという何の取り柄もなさそうな江戸時代からの宿場町に泊まった時の事でした。

宿の汚なさは覚悟してたとはいえ、そこでは日本の梅雨の恐ろしさを嫌という程、経験しました。今となって考えれば旅立った時期が悪かったんでしょうね。中でも凄まじかったのが蚤、シラミ、蚊の大群に襲われた時の事です。なんせ畳に座るとその目の間から蚤が湧き出てくるんです。私は早速、通訳の伊藤を呼びつけ蚊帳を用意し、その中で簡易ベッドを組み立てて貰いました。

結果的に先見の明があって良かった。勿論そんな自分を褒めてあげましたけど、こんな環境の中で暮らしている日本人とは何という未開人なんでしょうか。来日した当時、横浜や東京の予想以上の発展には感心しましたけど、やはり地方に一歩踏み出すとこんなもんなんですね。

「あーあ、もーうんざり。先が思いやられるわ」

こんな環境と共にそこに住んでいる人々の目にも辟易しました。何しろ薄っぺらい紙で出来た障子という引戸は指でちょっと押すと穴が開いてしまいます。それは仕方ありませんが、よく見るとその穴という穴からは日本人特有の黒い瞳がこちらを見ているではありませんか。

「ぎゃーーー」

思わず叫んでしまいました。それどころか襖まで倒されて私のしどけない寝姿まで覗かれる始末でした。確かに殆ど全ての日本人にとっては生まれてから初めてみる外国人が私でしょう。好奇心を抱くのは私も全く一緒ですので理解はしますが、我慢は出来ません。

「あたしは見せ物じゃないよ。しっしっ、あっちに行きなさい。うるさいわね。シャーラップ」

そうかと思えば夜遅くまで弦が三本しかないギターを白塗りをした若い女性が掻き鳴らし続けているし、太鼓の音は一向に止まないし、外からは私が少し前に覚えた日本語を盛んに唱え続ける人がいたりして、

「なんまいだー。なんまいだー」

「一体、何枚なのよ」

でも、それ以上に私を悩ましたのが食事の酷さでした。何しろ日本の人々は泥を溶かしたようなスープを腐った野菜と一緒に食べているのです。伊藤に聞いたところ、その野菜は漬物というそうで、その中でも最も匂う大根は沢庵としてどうやら徳川の将軍も好んで食べていたとの事でした。

それを聞いた時には思わず、それじゃ沢庵臭いかもしれないから日光東照宮も見ずに、いきなり北海道まで向かってしまおうかしら、そこまで考えた程でした。でも見て良かった。その荘厳華麗な建物からは前時代を任されていた徳川幕府が持っていた力を感じました。更にその奥に広がる、日本語でも奥日光という名を戴いた場所にはアメリカのロッキー山脈にも決して引けを取らない程の大自然が広がっていました。

こうした景色は本当に羨ましい。私の生まれ故郷のイギリスにはこんな起伏に富んだ変化の激しい光景は見当たりません。荒涼とした大地や丘が広がるばかりで特に冬場などは心の中に寒さがしんしんと降り積もるのです。私が世界を冒険しようと思い立ったのも、世界は広くてもっと色々な表情を見せてくれるはずよ。それを確かめたかったからかもしれません。

そうした日本に広がる自然の素晴らしさを一番に感じたのが山形を歩いている時でした。繰り返しになりますが私の故郷といえば何も手がつけられない程の荒涼とした場所ばかりです。勿論そうした風景も故郷ですから実は嫌いではありませんが、私が考える自然とはその中で人と、どう共生していけるのか。大切なのはそのバランスです。人間も自然の一部の筈でしょう。決して産業革命のみを考えているような人達ではないはずです。私がそこを見た時には、

「何だ、人間達よ。やれば出来るじゃん」

本当にイギリスの人にも言ってやりたい位に人間と自然の調和を見たように思えました。ここは理想郷、東洋のアルカディアです。残念ながら当時は白黒写真しか撮っていませんでしたので、現代の山形の風景をお借りしました。

私の目に入ってきた光景はこれです

三、再びの回想 平取にて

平取は美しい所でした。私は知り合いになったアイヌの少年、二人に頼んで丸太舟に乗せて貰いました。山間をたゆたうように流れるその川の両岸には喩えようもない美しさに満ちた森が広がっていました。丸太舟に乗った私はこの川の流れと同じように時も出来る限りゆっくりと過ぎていきますように、そう祈りながら曲がりくねりする川を少年の船頭に任せるまま、ゆるゆると進んでいきました‥‥

これ程までに美しく心躍る平取への到着予定の前日の事です。日本人女性と結婚し、アイヌ人とも深い交流を続けていたハインリヒ・フォン・シーボルトから平取の酋長、ペンリウクを紹介されました。そして私はペンリウクの案内に促されながら平取へと向かいました。

平取に着いた私は目にしたもの全てに興味と愛着を持ちました。そこで見たものは今まで辿って接して来た日本や日本人とは全く異なったものでした。その文化、伝統、価値観、宗教、言語に至るまで日本人との違いを見聞きした私は何でも書いてやろう。全力で取り組んできました。こうした日本人との対比を書き記す事は裏を返せば、日本人とはどういう民族なのか、その本当の姿を今回の旅を通して明らかにする事でもありました。当の日本人でも取り組めなかった事を一外国人である私が請け負っている。そうした自負と責任から生まれた使命感により記録出来るものはどんな事でもしていこう。限られた時間ではありましたが限られていたからこそ出来るものもある。その事をはっきりと私は自覚していました。

私が出会ったアイヌの人々

ハインリヒ・フォン・シーボルト、彼はあのシーボルトの次男に当たる人です。その彼から是非、義経神社にも参拝してその感想も記して貰いたいと話をされていました。元よりそのつもりであった私は平取のアイヌの人々に案内されて義経神社に向かいました。そこでの聞き取りではアイヌの人々からハンガンカムイとして親しまれた日本の古い武将、源義経についての数々の伝説を聞き、彼等にとっても特別な存在となっている事をこの目で見て再確認しました。

しかし、私は意地悪なのでしょうか。そんな事はありませんよ。やはり歩んできた歴史が違うのでしょう。伝説となった義経にしても確かにアイヌの人々に親切に接し、それまで思い浮かばないような生活の知恵も教えており、だからこそ神様として今でも彼を大切に祀っているのは分かりましたが、果たしてそれだけで神になるのか、そこはどうしても理解出来ませんでした。私は牧師の娘として生を享け、イエス・キリストを唯一の神として信じるキリスト教徒です。私と共に訪問した伊藤は元々、日本には数限りない程の神がいるのだから今更一人、ハンガンカムイを神として加える事など何という事もありませんよ。そうして喜んで頭を下げていました。

だけど、どうしても私には納得する事が出来ませんでした。それはこの日本に入った時からずうっと心に刺さった小骨のように残ったままだったのです。いいえ私は差別などするつもりは毛頭ありません。ですが心まで変える訳にはいきません。そうした経験は今まで世界を旅してきて初めて自覚したものでした、

結局、私はアイヌの人々の神様にどうしても手を合わせる事が出来ませんでした。ある人からは真面目過ぎますと言われましたが、日本人やアイヌの人達が信仰する神様を裏切る事が出来ないのと一緒です。

こんな事もありましたが私の平取での日々はとても充実したものとなりました。3泊4日と限られた日数にこだわり区切ったのもかえって良かったのかも知れません。今まで平取を訪れたどんな人よりもアイヌの人々と交流し、決して長くはありませんが、だからこそ濃密な時間を共に過ごす事が出来ました。後世の人々からも、これは19世紀の民俗資料として、とても貴重なものだ。そう言って貰えるだけの貴重な史料を残せたと自負しております。

さあ、そろそろ帰る準備に取り掛かりましょうか。次は一度、横浜に戻ったら日本の西を巡ります。神戸、大阪、京都、それから多くの日本人にとって一生に一度は詣ってみたい程の大きな神の社、伊勢神宮にも行ってみましょう。ここ平取でアイヌの人達によってハンガンカムイが大切にされているように伊勢神宮には天照大神という日本人なら知らない人がいない程、有名な神様がいるようです。今回の東北から平取までの旅は『日本奥地紀行』として一冊の本に纏めていきますが、同じように西への旅も記していきたいと思っています。

その時に楽しみなのは、やはりその場その場の人々と接する事です。カスカベでの無数の目には驚きましたが話してみると日本中、それこそカスカベの人も含めて皆が皆、恥ずかしがりやなだけではありません。礼儀正しくて落ち着いた雰囲気です。これは横浜や東京、都会で暮らす人だけに限った訳ではありません。見るからに貧しそうな田舎の人達も全く一緒です。何処に行っても誰と接しても同じです。私にはそれが日本という国がその歴史と共に育んできた品格であり、国民一人一人が持ち続けてきた矜持ではないかと思いました。

あっ、そうそう、このカスカベには今、ちょっとエキセントリックで屈折しているけど、好奇心が旺盛で心根が本当に優しい幼稚園児がいると聞きました。名前は確か、しんちゃん。そうそう、クレヨンしんちゃんという子だったと思います。是非、私も会ってみたかった。会えばきっと仲良くなったでしょう。何故って、全ての事に興味津々なのが私の信条ですからね。

オラも愛してるゾ バードおばちゃん

何でも見てやろう。そうです。私にとっては好奇心こそ生きる源泉です。これがある限り私は旅を続けていきます。ではあなたにとっての旅とは何ですか。それは私のように何処かに行くという事に限りませんよ。誰の心の中にも、ですからそれは、あなたの心の中にもあります。どうかそうした目であなたの心の奥を覗いてみてください。その瞬間から、あなたも私と同じ、ちょっとエキセントリックですけど好奇心いっぱいの旅人として新たな一歩を踏み出しているのです。

四、おわりに

バードはこの後、五十歳にして結婚するが、残念ながら、その5年後に夫は病気により亡くなっている。そんなバードだったが、その後も精力的に世界各地の特に僻地と言われている所に向かっている。そして1894年に清国に入ったのを皮切りに朝鮮を踏破し、それぞれ『中国奥地紀行』『朝鮮紀行』としてイギリスを始めとした西洋の人々に未だ見た事がない、遠い異国アジアの実情を人々へ知らしめつつ、啓蒙に努めている。1901年に入るとモロッコを旅し、その後も再度、中国への旅を計画していたが1904年に亡くなっている。享年七十二歳であった。


実は源義経と成吉思汗の共通点を調べる中、シーボルトとの関係でイザベラ・バードのエピソードもnoteに記そうと思っていましたが、彼女の旅のピークを成す平取での出来事を始めとして、バードの心の中では源義経も成吉思汗も、たまたま、その時代に存在した数多の人々の中の一人という考えが強かったのではないでしょうか。バードからしたら、それよりもその後ろに控える民族の多様さや風習や慣習、埋もれてしまった歴史の方により興味があったのだと思います。その点ではシーボルトや間宮林蔵とは異なった立ち位置の探求者として、また別の機会に記してみたい。

それというのも、その歯に衣着せぬ物言いまで含め、冷静な観察眼から得られた文章はとても魅力的に思えたからです。そして彼女自身にも、とても興味を抱きました。それを考えると以前noteで記してきた『源義経 海を渡ったもののふの話』からは少し距離を置いた番外編として近い内に書き記してみたいと考えていました。

noteを始めて3ヶ月余り。特に源義経と成吉思汗の話には様々な関心を寄せて頂き、投稿した者として大変嬉しく感謝しています。

例えば成吉思汗はモンゴルの草原にあってもゲルという地元の遊牧民の住居が苦手で固定された住居になるべく住もうとしていた事は私も知っていたのですが、それだけでは、成吉思汗が日本人である根拠としては幾らか弱いと思いnoteには特に記していませんでした。そうした所、嘗てモンゴルの草原で実際に仕事をされていた方から私のnoteへコメントを頂きました。その方からは成吉思汗は何故、既に為政者として遥か四方に敵もいない盤石の体制を築いていたのに、どうして鎌倉時代の武将が住むような要塞機能を持った館と瓜二つの形状をした場所に住んでいたのか、ずうっと疑問でしたとの事でした。そうした所、僕が記したnoteに出会い長年の疑問符に解決の糸口を見つける事が出来ましたとのコメントを頂いたのです。

モンゴルの考古学者によるとその館は四方を土塁に囲まれた上に、そこを取り巻く堀は空堀であったかもしれませんが、一歩敷地内に入れば、そこには大小の住居と見られる跡地の他にも祈りを捧げる場所、土を盛った所に植林により小山のように整地された跡地や地下水を溜めて作られたような池など、まるで伝統的な日本庭園まで意識したような作りになっていたのではないかという事でした。

そういえば、僕が時々行くスーパーへの道の途中にも確かこんな敷地があったな。僕はその淵に立つ新田氏の館跡と記された案内板を思い出していました。その四方の敷地は嘗て水を湛えていたであろう堀と土塁に囲まれ、中には武家の棟梁、新田氏が住む主屋の他、武器庫や蔵、持仏堂など様々な施設がありました。そうだったのか。灯台下暗しとはこのことでした。

こうした話は残念ながら義経の話を投稿した後での事となりますが、このような話を頂けたのもnoteに記して外に出していったからこそ気付いて頂けた訳ですし僕にコメントをして下さった方々にも本当に有難いと感謝感謝です。

新田氏の館の再現図です
モンゴルの博物館にある成吉思汗の館の模型です

日本での気候とは異なり、ここでは殆ど常に風が吹いている。次は何処へ向かうべきか。その風が発する声に従うように休む間もなく西へ西へと突き進んできた私にとっても、やはり、ひと時の休息は必要だ。

どうしてだろう。ふと浮かんだ、うら寂しさに嘆息しては、池で水浴びをする鳥を見ていた。ここにいる限りは私が成吉思汗でいる、そんな必要は全くなかった。私は吹いてくる風に身を任せながら今まで進んできた道を振り返り、遥か東の空の彼方に向けて思いを馳せていた。


この下には僕が以前に投稿した『源義経 海を渡ったもののふの話』を貼っておきます。今回の投稿を読んで頂いた方からすると少し意外かもしれませんが最初から最後まで長い時間をかけて調べ、誠実に真面目に記しています。どうぞ時間がある時にでも覗いてみてください。



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