源義経 海を渡ったもののふの話 五の一
「特に隠す事などない。隠したつもりもない。大陸に渡った私はかつての約束を胸に、あの頃と変わる事なく信義の為に戦い、人々の暮らしを守り、そして豊かにしようと努めてきた。それだけだ」
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幼い頃から僕は歴史を学ぶ事が好きでした。僕達はどこから来てどこに向かおうとしているのか。歴史の教科書を読むと、そこにはヒントが隠されている。暗記という無味乾燥なものも、そうした事を知る手掛かりになるのではないか。一生懸命に覚えた記憶があります。しかし、歴史そのものが勝者の都合によるものと考えると、実は嘘や曖昧なものを真実として教えられてきた事も少なくなく、縄文から近代、そして現代に至るまで傷痕に残った瘡蓋が少しずつ剥がれていくように、漸く実相が見え始めてきたと感じています。これからお話しする事は戦後の自虐史観に満たされた教育の下で育った僕達、日本人からすると13世紀当時、世界最大の帝国を築き上げた首領として、こんな島国出身の武士が成れる訳がない。夢想家の戯言として指摘する人がいるかもしれません。いや様々な意見が出てくれば、それはそれで良い事だと思っています。話し出さなければ何も始まりません。
義経、チンギス・ハン同一人説。その積み重ねた蓋然性の高さを精査すれば間違いなくイコールです。客観的な結論として今の僕はそう考えていますが、いくら声高に話をしたところで一笑に付してしまう人もいます。もちろん、そこは充分承知の上で、いや、もしかしたら義経は平泉で亡くならずに大陸に渡ったのかもしれない。そう思って貰えるまで記していきたい。繰り返しになりますが、地球全体から見たらこんなちっぽけな島国から当時の世界全体に革命をもたらす程の人物が出るわけがない。でも考えてみてください。こんな小さな島国出身の武士が本当にあのチンギス・ハンになったとしたらどうでしょう。そう思っただけでも、同じ日本人としてこんなワクワクする事はないのではありませんか。僕は皆さんとそのワクワクを共有したい。更にその先にあるものを届けたい。その為に、この話を書いていきます。ですので少し長くなるかもしれません。それにはこれから何回かに分けて投稿していく事も必要でしょう。ですがその生涯を辿っていけば僕達日本人が失いかけていた大切なものを思い出し、再生するきっかけになるかもしれない。これは、その為の新しいテキストです。そう思って貰えるように努めていきます。
さて、そろそろ僕の話はこの辺りにして義経の真実を記していきましょう。
第一章 初めに長さありき
18.0、23.0、20.0、29.6、30.3、32.0、33.3
この数字の羅列は中国で生まれた寸法、尺の長さの変遷。その字の形から分かるように元々は親指の先から中指の先までの長さを18㎝としていたものを秦から漢の時代に23㎝、周で20cm。随、唐29.6㎝、元30.3㎝、明、清が32㎝、そして現在の中華人民共和国では33.3㎝というように前時代を否定する易性革命が起こる度に、その寸法も変化していった。
日本ではどうだろう。6世紀後半の政治、宗教、思想を司って以来、21世紀の今日に至るまで我々の生活に強い影響を持ち続け、日本建築学の祖とも言われている聖徳太子が尺の寸法を30.3㎝と決めてから1400年、その長さは全く変わっていない。

では日本や中国以外の国々ではどうか。世界に目を転じてみると現在の世界標準の寸法はメートルだが、欧州には古くからフィートと呼ばれる伝統的な寸法表示がある。名称の由来が欧州の人々の大きな足から付けられたそれを調べてみるとその長さは30.483㎝。日本の尺と殆ど変わらない。対して歴代、中国王朝の中で日本と同じ30.3㎝を尺の長さとして採用していたのは元を中心にキプチャク・ハン国、イル・ハン国、チャガダイ・ハン国と緩やかな連邦制を形成していたモンゴル帝国だけである。

オランダにおけるフートは13〜15世紀、当時の世界人口の半数以上を支配下に治めた、その帝国の影響から出てきた寸法だという。では何故、モンゴル帝国が採った寸法が日本の尺と変わらないものなのか。偶然だろうか。いや、それはないだろう。だとすると答えは一つしか浮かんで来ない。それは何らかの形で当時のモンゴル帝国には、どこかで日本が関わっていたのではないか。奇しくも西へ向かうにつれ手から足へと変換を遂げた、その寸法を追う事から考証は既に歩みを始めているが、影響をもたらした人物がいるとすれば、それは誰か。思い浮かぶのは平安末期から鎌倉時代にかけての武将、源義経、その人の名しか浮かんでこない。周りを見渡した時、残念ながら現代では都市伝説として、かろうじて残っているに過ぎない人物の事を調べれば調べる程、源義経がユーラシア大陸に渡り成吉思汗(チンギス・ハン)になったとしか思えない。その事をなるべく簡潔に、時に饒舌を交えながら記していきたい。
易性革命とは天子は天命によって決まるが天子としての徳がなくなれば天命が改まり別の姓を持った天子が選ばれる事。臣民が天子に代わり権力の座に就く事を正当化する為に、古来より中国に伝わる政治思想。
義経の書状というと、有名な腰越状や判官に任命され、その裁定の為に高野山に送ったものがよく知られているが、逆境の底から這いあがろうとする心の叫びまで聞こえてくるような書が残っている。伊予守源義経、臣武蔵坊弁慶と連署された、その文面からはどんな状況に陥ろうとも必ず守る。決して諦めるな。臣である弁慶が義経を叱咤激励する情景が見えてくる。義経にとって生涯の師であり、兄であり誰よりも信頼する友でもある弁慶の心の底から絞り上げる誠の声に自らを奮い立たせている姿が浮かんでくる。不条理な理由から全てを失った上に追討され逃げ惑う義経。そんな姿を見ても生きよと鼓舞し続ける弁慶の声に、一度は見失いそうになった誓いをその書に記している。
『生国に望みなく、以て蝦夷唐国の王たらん』
これは1187年1月、追われる身の義経が頼朝からの追捕を避ける為に山伏の姿に身をやつして吉野から北陸経由で平泉へと落ち延びる道すがら、越中の皇祖皇大神宮に立ち寄った際に書き記した願文の中にある一節。史実としては、この2年後に追い詰められた義経は自刃した事となっているが、これを読むと既に、この時点で不条理な日本を抜け出し、蝦夷唐国まで渡るだけでなく、正に覇王としての構想を持っていた事が分かる。
第ニ章 義経、その生涯と境遇
源義経、1159年京都生まれ。父、源義朝 母、常盤御前 異母兄、源頼朝。幼名は牛若、遮那王。七歳の頃、京都北部、鞍馬山の南面に位置する鞍馬寺に入り学問、武術の修行に励み十五歳で元服。義朝にとって九人目の子なので九郎義経と名乗る。その名は清和天皇に連なる清和源氏の初代、源経基と源氏の英雄、八幡太郎、源義家の名から一字ずつ貰ったものをその名の由来としている。義経は自身の名に源氏再興への思いを込めた。父、義朝は義経が生まれた翌年、平治の乱の中にあって宿敵、平清盛に敗れ、馬も失い彷徨う中、尾張の国の南、知多半島付近で命を落としている。
清盛は義経含め一族全員を殺害しようとするが清盛の乳母、池之禅尼(イケノゼンニ)の助命嘆願もあり子息全員殺害を免れ、頼朝は伊豆へ流され、義経はその多感な時期を、鬱蒼とした山の中腹に佇む鞍馬寺で過ごしている。清盛としてはこの助命が後年、平家滅亡の端緒になるとは思っていなかっただろうが時代の盟主とはいえ、年を経る毎に貴族化していた清盛なので武士としての勘が鈍ったのではないだろうか。
『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす 奢れる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし 猛き者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ』
清盛が築き上げたこの世の春は、その命が潰えるのを急かすように奈落の底へと突き進み、この世の無常を感じさせる。そしてそれは皮肉にも平家を倒した源氏、第一の功労者にも向けられる事になる。それは清盛の死から僅か4年後の事である。
清盛の乳母、池之禅尼は命を救ってくれた恩人として、幼い義経の記憶に留まり続け、いつしかそれは生涯に渡り、忘れ得ぬ母の如き存在として、胸の奥深くに刻み込まれる事になる。義朝と死に別れた常盤御前は義経が六歳の頃より離れ離れとなり、その後、清盛の側室となっている。

1174年、義経は年を重ねるに連れて増す自身を取り巻く平家の圧力と寺への危険が及ぶ事を避ける為、鞍馬寺から出奔。以前から義経の能力を高く評価し、連絡を送ってきていた奥州、平泉の藤原秀衡の下に身を置き、更に武芸を極め源氏の再興を目指すに至る。
1180年、頼朝、平家追討の為に挙兵。その後、黄瀬川の戦いの折、義経は頼朝と初めて対面している。
1184年 義経は一の谷の戦い、また1185年3月、屋島の戦いで平家を破る。
そして翌4月、義経は壇ノ浦の戦いにおいて平家を迎え撃っている。潮の流れを予め掴んでいた義経は潮流の変化を境に一気呵成に平家方を関門海峡へ追い詰め、滅亡させている。その後、京都に凱旋した義経は後白河法皇より左衛門尉、つまり左衛門府の判官に任命されている。しかし、それはまた幕府の許可を得ずに受けた為、頼朝の不興を買う一因となっている。
そんないきさつがあった事など何も知らない義経は京都から凱旋すべく頼朝の下へ向かったが鎌倉の手前、腰越の関に留め置かれる。なんとしても兄、頼朝との対面を望む義経は、その切々たる思いを書状にしたため訴えている。しかし、その願いは叶う事もなく、打ちひしがれた義経は傷心を引き摺った身で京都へ追い返されている。
頼朝は何故、そこまで意固地になって義経の嘆願を拒否したのか。後白河法皇から左衛門尉に任命されるより前に頼朝は義経の能力を高く評価し、当時、全国の国司の中でも播磨に次ぐ位置にあった伊予守に推挙し、義経はその職に就いている。本来、地方の役職と中央の仕事は兼務出来ないはずなのに義経は頼朝に相談する事もなく、後白河法皇からの左衛門尉への推挙を受け入れている。頼朝からすれば貴族中心の治世から武士による新しい世を実現しようと動き始めた矢先に、一番身近な弟から綻び始めては御家人達への示しがつかない。確かに頼朝はそう考えたに違いない。しかし実際には戦での天才的な能力、人気に頼朝が嫉妬し恐れを抱き、更には義経と事ある毎に対立してきた頼朝の腹心、梶原景時の讒言を信じた事が大きい。そのままでは容赦出来ない頼朝は、朝敵として後白河法皇から義経追討の院宣を出すように仕向け、その追捕を奥州の藤原秀衡に命じている。

1189年4月、秀衡の息子、泰衡の手により追い詰められた義経は奥州、平泉の近く、衣川の持仏堂で命運尽き、正室の郷御前と四歳になる娘を刺し、その後、火を放ち自刃している。
この場面は頼朝の死後80年、時の北条政権により編纂された歴史書『吾妻鏡』に記載されている。編纂者の主観により著されたこの史料を唯一の根拠として日本の史学会では衣川で義経は死亡したものと断定し、それは明治以降、今日に至るまで一歩も踏み出す事なく、日本人なら知らない人がいない程、人口に膾炙したものとなっている。
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僕が十代の頃だから遥か昔の話となりますが司馬遼太郎の『義経』という小説を読んだ事があります。義経は、その人柄の純粋さ故、世間の状況への対処の仕方に疎く、それが武将の資質として失格だと断罪する義経評に小説とはいえ不快な思いをした記憶があります。
その活躍は報われる事なく、儚く潰えた。
悲劇の武将、源義経。
以降、その名を口にする度にこの枕詞がつきまとう。もしかしたらこれが僕の中での判官贔屓の始まりだったのかもしれません。
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鎌倉幕府の中で頼朝に次ぐ実力者、大江広元の日記に義経に対しての評が載っている。
『その才能 知力 剣術また勇気 洞察力 指導力 人間性 全て凡人の及ぶ所に非ず』

判官はホウガンあるいはハンガンと読む。律令制にあって検非違使と左衛門尉、今の言葉で言えば裁判官と警察官とを兼ね備えた役職の上位階級の事。判官贔屓とは第一義としては鎌倉幕府設立の第一の功労者でありながら兄、頼朝にその軽率さを誹謗中傷された上に放逐され、坂道を転げ落ちるように落魄していった末、平泉で命を落とした義経を憐れんでの言葉。それは実力が報われない才知に惻隠の情を伴いながら、応援していきたいとする日本人の観念形態の一つとなり今も残っている。
腰越の関から義経が頼朝へ送った腰越状の要約を以下に記しておく。
『恐れながら申し上げます。鎌倉殿の代官に選ばれた私は勅命を受け、平家を滅ぼし、父の雪辱を果たしました。本来なら褒められるべき事なのに思わぬ讒言に遭い、兄の怒りを買い、血の涙に暮れる毎日です。核心を突いた指摘程、中々受け入れて貰えないかもしれませんが、私は心の内も話す事が出来ず、いたずらに空しく日々を過ごしております。兄弟としての情はないのでしょうか。それとも私が前世で悪い行いでもしたのでしょうか。夜は甲冑を枕に臥し、起きれば戦を生業とし一族の為、兄の為に身を粉にして働き続けました。私には野心など毛頭ありません。今まで幾度となく手紙を差し上げていますが未だにお許しを頂けておりません。私の願いは唯一つです。どうか、この腰越の関を通して頂き兄に会いたい。会ってこれまでの事、これからの事も話したい。この世で一番信頼している人に謗られる私の気持ちを少しでも察して頂けるのでしたら、どうかこの愚かな弟の願いを聞き入れて下さい。お願い申し上げます』
第三章 奥州藤原氏
藤原北家秀郷流一族。1051年から始まる蝦夷との戦い前九年の役、1083年から3年間、奥州を実効支配していた清原氏を滅ぼした後三年の役において陸奥の守として奥州征伐で武功を立てた八幡太郎、源義家に仕えた藤原清衡が奥州の支配を委ねられたのが始まり。清衡は豊かに算出する砂金を基に京文化の摂取に努め、続く基衡、秀衡の三代で平泉に荘厳華麗な文化の礎を築く。遺構としては、毛越寺、中尊寺金色堂、無量光院跡等。歴史を紐解くと1200年頃までの金算出量は、オリンピックプール換算で約2杯分。その内、日本は約1.5杯分算出している。その中には藤原氏が奥州、蝦夷及び大陸の黒龍江付近から採掘したものも多く含まれている。その財力は朝廷でも一目置かれ、北の王者、半独立国として威光を放っていた。『東方見聞録』に書かれたマルコ・ポーロの言う黄金の国、ジパングは嘘ではなかった。
実際にはこの頃より100年も前から藤原氏は現代でいえばロシアのウラジオストクを中心にユダヤや中東の商人と金の貿易をしていた。義経も平泉に住むようになってからは、そうした大陸の情報をつぶさに見聞きし、自然と頭に入ってきている。当時の馬の産地は奥州が中心。藤原氏の騎馬軍団は奥州十七万騎と呼ばれ勇名を馳せていた。
平成16年、岩手県が衣川一帯を調査したところ1189年当時、鎌倉幕府と奥州騎馬軍団との干戈の跡は見られず、館が燃えた形跡も全く無かった事が判明している。

東方見聞録を書いたマルコ・ポーロはイタリア、ヴェネツィア共和国にて1254年に生まれている。十七歳になったマルコは貿易商を営む父と共にアジアへの旅に出る。途中、エルサレムでローマ教皇、グレゴリウス十世から元の皇帝に向けた手紙を預かり陸路、元に向かっている。二十一歳の時、その首都、上都に到着。モンゴル帝国、第五代皇帝、元のフビライ・ハンに謁見し、その場で元の役人となるよう告げられている。正規に役人となったマルコはインドやビルマを始めとして東南アジア諸国を巡り各地の見聞をフビライに届け、楽しませている。日本へは渡航しなかったが、欧州に戻ったマルコは出版した東方見聞録の中で事細かく日本を描いている。それを見開くとフビライがその祖父、成吉思汗から聞いたものをマルコに話しているくだりがある。当時の日本は奥州を中心に先に記した通り、世界一の金算出量を誇り、欧州では夢の国、金の国として広く人々に認知されていた。生まれ故郷のヴェネツィアに戻ったマルコは1324年1月、六十九歳で亡くなっている。

第四章 静御前
平安時代末期から鎌倉時代にかけて流行った歌舞の一種に白拍子というものがある。その姿は烏帽子を被って水汗という装束を着て、太刀を腰に付けた男姿で今様の歌を舞い詠う。その白拍子の創始者、磯御前を母に持つ静御前は京都ばかりでなく西国、東国、更には奥州にまで、その名が知れ渡っていたといわれている。
一の谷の戦いの後、京都へ凱旋した義経は雨乞いの為に舞う静御前の姿を一目見て恋に落ち、後白河法皇の仲介の下、義経の側室となり共に行動している。壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経はその後、頼朝からいわれなき謀反の嫌疑をかけられ、それはやがて糾弾されるに至る。終われる身となった義経は静を伴い京落ちし、九州へ向かったが、乗った船は嵐に遭い難破。一行は吉野から北陸、そして平泉を目指している。しかし身重となっていた静は雪深い吉野の山を越える事が出来ない為、義経は手引きの者に路銀を渡し、磯御前と共に京都に戻るよう送ったが途中、その者達は路銀を盗んで遁走。逃げ惑う二人はその後、幕府方の僧兵に捕えられ、鎌倉へと連行されている。
1186年4月8日、満開の桜の下、平家を滅ぼし、その実権を源氏の手に取り戻した頼朝は、戦勝を祝し、鶴岡八幡宮に参拝し、その際に磯御前と静御前親子に向けて、舞を奉納するよう命じている。
「今の幕府があるのは本来、夫である義経様のお陰であるにも関わらず理不尽にも逆賊の汚名を着せられ、その上、興味本位な衆人の前で舞う姿を見せる事など夫の事とも鑑み、これ程の屈辱はありません」
静は頼朝の正妻、政子に向かって切々と、その心情を吐露している。それを聞いた政子は逡巡するような表情を浮かべながら、
「その通りだとは私も思います。しかし、今日は源氏の戦勝を八幡大菩薩に伝える大切な日。そして、あなたは、その神様に仕える巫女でもあるのではないですか。しかも天下に名高い舞の名手。その姿を見せられないとなれば、これ程、残念な事はありません」
政子の言葉に心を定めた静はある決意を秘め、鶴岡八幡宮の舞台に立ち、千人を超える御家人達の冷やかしと嘲笑の中、この場にいない唯一人を見つめるように舞い始めた。義経への思いを乗せた絶唱に、その場を埋め尽くした御家人達は、皆一様に息を呑み静まり返った。
吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の
跡ぞ恋しき
しづやしづ しづのをだまき くりかえし
昔を今に なすよしもがな
義経を慕う歌を聞いた鎌倉殿、頼朝は激怒するが、
「私が静御前の立場であっても、あのように詠うでしょう」
政子は慕う人を思う気持ちは一緒ですと頼朝を諫めたとの記録が吾妻鏡に残っている。
静御前が子を宿してる事を知った頼朝は生まれてくる子が女子なら生かしもするが、男子なら殺すよう命じている。7月、静御前は男子を生んだ。
頼朝の指図の下、雑色の安達清経はその子を受け取ろうとするが静御前は泣き叫び、決して離さなかった。暫く経ち疲れ果て、うとうとした時、側にいた磯御前が祈るような表情を浮かべ、その子を渡している。生まれたばかりの赤子は由比ヶ浜にしずめられたという。
後日、その報を聞いた義経はどうであったか。胸が引き裂かれる程の思いの中、慟哭する義経に従者達も哀悼の情、禁じ得ず共に嘆き悲しむ事しか出来なかったという。
9月、静御前と磯御前は京都に帰された。別れの際、その境遇を憐れんだ政子と娘の大姫は多くの財宝を持たせたという。その後の消息は史実では掴めていないが義経の跡を追い、関東から東北にかけてその足跡が残っている。義経との再会は叶わなかった。伝説となったそれを調べると義経の衣川での死を知って失意と絶望の淵から程なく亡くなったのではないかと思われる。静御前、享年二十ニ歳といわれている。

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史実とはどこまで解明されればそう言えるのか判然としませんが、いわゆる世間一般が認める程度までと考えますと時代の要請で書かれた正史より人々の口から口へ伝えられた口承の中にこそ真実が宿る事があります。これから記す事は一部の人達にしか認知されていなくても伝説と規定するところ以外は確固とした物的証拠に欠ける程度と捉えて貰えれば良いと思っています。状況証拠については全てとはいきませんが、なるべく記していきます。では五の一はこの辺りにして次回、五のニでは成吉思汗の真実を彼が築き上げたモンゴル帝国と共に記していきたいと思います。どこか似ている。そこからは彼の佇まいや生活信条が僕達日本人とどこか通底しているものを感じて貰えると思います。
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