源義経 海を渡ったもののふの話 五のニ
第五章 成吉思汗の生涯とその治世
成吉思汗、クローとも称す。1155年〜1162年頃の生まれ、ニロン族、キャト村出身。バイカル湖の畔に天命を受けて降り立ったボルテ・チノ、蒼き狼を始祖とする。成吉思汗はその二十ニ代末裔だといわれている。父の名はエスガイ、母の名はホエルン・イケ、その長男として生まれテムジンと名付けられる。成吉思汗の生年は元より、この一族の揺籃期は概ね伝説に包まれ杳として知れない。そもそも成吉思汗が現れるまでモンゴルでは文字を持たず、一族といっても、その多くが三十人程度までの集団で一所に定住しない遊牧民なので小競り合いはあっても普段は至って朴訥とした民族。当時のモンゴルには国という概念すらなかったといわれている。そうした中、突如として現れた英雄である。
成吉思汗と共に世界三大征服王と謳われたギリシャのアレクサンドロス大王、フランスのナポレオン・ボナパルト。この二人には共通して当時の盤石な国家体制を背景に最先端の技術を駆使して道を切り拓いていった歴史がある。しかし成吉思汗が率いたモンゴルには唯一人の傑出した能力以外、文明の欠片すら見当たらない。それを考えただけでも、その凄まじさは桁違い。人類史上ありえない程の奇跡を世界史に残しているのである。
成吉思汗の生涯からその後のモンゴルの支配者の評伝として現在、最も広く知られている書物は『元朝秘史』 その中でテムジンと名乗っていた頃までのくだりは、殆ど幻想的な英雄譚。それに対し皇帝として歴史の表に出てきた後は、淡々とした記述に傾き、読み物としての生彩さを欠いている。事実上、テムジンが歴史の舞台に躍り出るのは1203年ケレイト族との戦いに勝利、1204年ナイマン族を破った頃からといってよい。成吉思汗はタタール族、メルキト族、ナイマン族、ケレイト族、古くから対立する各部族を混ぜ合わせ、一つの民族として作り直した。その上で1206年、大興安嶺を流れるオノン川上流の河原において九旒の白旗を掲げ、モンゴルの統一を果たした記念に各部族参加の最高決議会議、クリルタイを初めて開き、その場でモンゴル帝国の初代皇帝として、名をテムジンから成吉思汗へと改めている。以降、更に西へ西へ版図を拡げイラン、トルコ、宋からロシア、東欧までを領土に、当時の世界人口の半分以上を配下に人類史上、初めて東洋と西洋を繋ぎ世界史を現出させた国、モンゴル帝国の礎を築いている。
その国の名は『イケ・モンゴル・ウルス』とモンゴル語で表わす。イケとは成吉思汗の母の名前。女性の名を一国の国名とした歴史上、唯一の国である。
19世紀ロシアの軍事学者イワニンの著書『テムジン用兵論』に成吉思汗の性格を記した項目がある。そのいくつかを記しておく。
『己に対しては品行方正、人に対しては寛大、臣下を愛する事深く、その偉功を讃える。名声と人望故、周りの者から尊敬されている。徳義に篤く勇敢不屈、率先垂範し法令を遵守する。また号令厳粛を以て兵を編成する』
先に述べた義経と同じく高潔の人と窺い知れる。成吉思汗、1227年8月没。享年六十六歳とも六十八歳ともいわれている。
源義経が7歳から約10年を過ごした鞍馬寺では
年始めの『しめのうち詣で』から『おさめの寅』でその年を閉じるまでに有名な『鞍馬の火祭』を始めとして毎月のように公の行事が催されている。義経の妻、静御前がいつ亡くなったのか、はっきりとは分かっていないが伝説上の命日の一つとされた9月15日、この日に鞍馬寺では亡くなった静御前を偲び、義経の威光を讃える義経祭が催されている。当日は舞や武術の奉納も行われ、多くの観光客が訪れる人気の行事となっている。
鞍馬寺ではこうして人々を招き入れる行事とは別に、外に洩らす事なく一部の僧侶のみで密かに伝統を受け継いで行っているものがある。それは義経祭のちょうど一月前。寺として大切な法要が営まれている。そして、その日は海の向こうでも年に一度の大きな祭が行われている。
成吉思汗が亡くなったのは1227年の8月18日といわれているが、モンゴルのラマ教寺院ではその3日前の8月15日を忌日と定め、オボー祭と呼ばれる行事を毎年、行っている。同じ日、鞍馬寺では義経忌の法要が700年程前から行われているという。歴代の管長が秘密裏に行っているが、義経が亡くなったのは1189年、旧暦だと4月30日、西暦にしても6月15日、衣川で妻子を刺した後、自刃している。なのに何故、モンゴルのオボー祭と同じ日にゆかりの寺で法要を行っているのか。これについては一応調べもしてみたが全く情報は得られなかった。秘匿とされているからには真相は出てこないと思うが、源義経と共に大陸に渡った仲間の子か孫が父祖の国、日本へ戻り、義経が生まれ育った故郷、京都の鞍馬寺にその菩提を弔うよう進言したのかもしれない。全くの推論だがそれが一番近いのではないか。義経の魂は亡くなった後、鞍馬寺に帰ったとされ遮那王尊として今も祀られている。オボー祭のオボーとは日本語の小堂、祠を由来としている。

第六章 欧州遠征
成吉思汗が亡くなり、それを継いだ三男のオゴダイは更に領土を西へ拡げていった。1235年に始まる欧州遠征はオゴダイの甥、バトゥ率いる欧州遠征軍が担当した。その数十五万。1237年ロシアに入り1240年、キエフ公国、現在のウクライナを滅ぼす。進軍は休む事なく続き、北はオーストリアのウィーンの入口、南もイタリア近辺まで到達していたが、そこでオゴダイ死去の報が入り、次期ハン選出、クリルタイ参加の為、バトゥの遠征も中止となっている。
歴史にイフを持ち出す事自体、禁じ手ではあるが、このまま進んでいればその後、3か月で欧州全体、それから1月余りで海を越え、イギリスまで征服したのではないかといわれている。
しかし、何故モンゴル軍はここまで強かったのか。それは日本の武士団と同じ十進法を基にした軍隊の編成にあったのではないかといわれている。その最小単位は十。それが十集まれば百人隊。更に十集まって千人隊というように一万人隊までの隊長を設け指揮系統を一括して行った為、上下間の伝達が早く、それぞれの長は皇帝に忠誠を誓い、それは軍隊の長であると共に行政上の長も兼ねていた。そうした組織は管轄する方としても把握が容易で、次から次へ歩みを進めるモンゴル軍の勝利をもたらすにあたり役に立っている。また報酬の面でも各地を攻略した時に得た戦利品はその二割を帝国が取り、残りの八割は各部隊のものとしている。その規則は十人隊に至るまで同じ流れで報酬を受け取る為、軍隊のモチベーションは下がらず、指揮の向上を大いに利す事ともなっていったのである。

文明を基準とすればギリシャ・ローマ以来、その先進国は欧州というイメージがあるが果たして本当にそうだったのか。
中世の欧州は長く暗く停滞した時代と言われ、決して豊かとはいえなかった。キリスト教を国の根幹に置いた諸国は11〜13世紀にかけてイスラム教徒が居座るキリスト教の聖地、エルサレムを奪回する為、7回に渡り十字軍を派遣している。膨大な資金を伴いながら続けられたこの時期、欧州の各支配地域では領主達が領民から税という税を搾り取り、それは冬を越す為に各家に蓄えられた作物にまで監視がなされ、奪われていった。

そうした時代に領土を拡げ続けたモンゴル帝国では各地域に事前に斥候を出し、地域の内情を調査した上で人々に対する懐柔に努めていった。結果、その支配下に入った領民へは安定した収入を得る為の仕事を与え、更にモンゴル軍の兵士ともなれば高給が出るばかりでなく、もしも戦死した場合には、その家族にも保障がされるので貧しい家の者達はこぞって自分達を苦しめる領主が住む城門を開け、モンゴル軍に参加、協力し新しい体制作りを進めていった。
世界史上、初めて起こった東西の相克は呆気ない程、その勝利を東軍にもたらした。人々は軍門に下りさえすれば従来の慣習、宗教に従って生きる事を認められた。もちろん使用言語の変更もしなかった。何よりも兵站を重視した成吉思汗は食料の貯蔵庫として40キロ間隔に駅を設け、その地域を行き来する兵士や商人の休息所として、その名の通り食料以外にも乗り換え用の馬を三百頭、常時用意し、中継地としていた。軍人はそこで休息を取り、馬の入れ替えを行い次の戦場へ向かっていった。そして、その場所はユーラシア大陸を東西に渡り、行き来する商人にとっても新しい産物を運ぶ際の中継地となり、その安全は軍により確保されていた。
タタールの軛という言葉がある。タタールとは地獄からやってきた民、モンゴル人を指し、くびきとは馬や牛を引く時、その二頭の首に付ける横木の事。13〜15世紀、モンゴル軍に蹂躙され怯え続けたロシアの言葉。軍の来襲時、抵抗し続けた為政者は殺され、その宮殿はことごとく破壊されたというが、実際には殆ど虐殺自体起こっていなかったものをロシアの歴史学者が、更に虚偽を上塗りし、物語化したのが実態だといわれている。
『パクス・ロマーナ』 これは古代ローマ帝国支配下での安定し、平和が訪れた時代をいう。同じくモンゴル帝国の覇権により地域に安寧と発展をもたらした時代をローマ帝国の治世になぞらえ『パクス・モンゴリカ』と呼ぶ事がある。長期に渡る為政者からの抑圧や旧弊に喘いでいた中世の欧州ではモンゴル帝国の門地や出自に依らない治世が呼び水となり息を吹き返し、それはやがてギリシャ、ローマ時代への回顧と重なり、古典文化の復興と人々の再生、復権を目指すルネッサンスとして14世紀、イタリアのフィレンツェで産声を上げ、その後、欧州一帯に拡がる契機となっている。

第七章 宗教観
日本ではお正月や七五三の時は神社に参拝し、お盆は先祖の供養の為に墓参り、教会で結婚式を挙げ、ハロウィンやクリスマスを祝う。世界中、見渡してもこれだけ様々な宗教行事を意識する事なく、自然に受け入れる国はないと思うが、かといって神を否定しているわけではない。
日本人にとって神とは自然そのもの。例えば森の中を吹き渡る風、草花に落ちる朝露、海から昇る太陽、聳え立つ岩や山、稜線にたなびく雲を見ては畏敬の念を抱き、そこに人智を超えた存在、神を思う。森羅万象、全てに神が宿る。日本人程、日常に溶け込んだ中に神を見出す民族はいないのではないだろうか。
「人がどの宗教を信仰するかは宗教団体が決めるのではない。個人が選ぶものだ」
宗教指導者が信徒から布施を強要する事を禁じ、また改宗も自由だった。成吉思汗はその生涯において寺院は一つも造っていない。そして自身は天と地を信仰し、山の頂に登って祈りを捧げていたという。
日本には山岳信仰が古くからあり義経が生まれ育った京都の北部、鞍馬山も神代以前からの古神道や陰陽道、修験道等の山岳信仰を集める聖地として名を成していた。
成吉思汗が生きた時代にもラマ教というチベットを起源とした仏教、チベット密教が入って来ていたが、日本と同じく宗教による争いは全くない国であった。時代は下るが1254年、モンゴルでは第四代皇帝モンケの主催により史上初となる世界宗教者会議を当時、当時モンゴルの首都となっていたカラコルムで開いている。その目的は中立な立場に就くモンゴルの皇帝がイスラム教、キリスト教、仏教、中国の宗教指導者達を招き、話を聞くというもの。各派の代表には決して他の宗教の悪口は言わせず、それぞれの良い点を見つけ尊重するように話をしている。日本と同様、至って宗教に寛容な姿勢。但し日本と異なり、様々な民族が横断する大陸においては日本のような島国とは事情が異なり、宗教が持つ怖さも十分認識していたはず。だからこそ、その教訓を糧に様々な宗教と民族を一纏めに背負った大帝国を築き上げていけたのかも知れない。
海を持たない大陸では塩の摂取についても海に囲まれた日本とは比較にならないぐらい重要な事。その流れをスムーズにする為、硬貨より遥かに使いやすい紙を塩の交換券として使用したのが紙幣の始まりだといわれている。更に、とてつもなく広大な領土間を移動するにあたり、牌符(パイザ)と呼ばれる通行証を発行し、経済の東西交流、円滑化を測っている。現代のパスポートの元とされる、その牌符を見ると成吉思皇帝と刻印されている。

第八章 山岳信仰
旧約聖書イザヤ書には民が喜び楽しむ長寿の国として海を渡った東方の地にある島々の事が記されている。紀元前722年、北イスラエル王国がアッシリアにより滅ぼされ、同じく586年には新バビロニアにより南ユダ王国も滅亡し、エルサレムが陥落。バビロニアに捕囚されている。
北イスラエル王国の人々は『失われた十氏族』と呼ばれ、彷徨い歩く流浪の民として世界中に散じている。そして、その歴史をみると寄る辺なきユダヤ人のディアスポラ(離散)はここから本格的に始まったとされている。
彼等の多くはユダヤ人にとっての信仰の原点、日が昇る国、遠く日本を目指している。年月を経て辿り着いた彼等は、日本の豊かな自然の中に理想郷を見出し、その波は431年、原始キリスト教の一派、ネトリウス派が異端とされてからは、その信者達も日本へ渡ってきている。キリストの生誕と同じく馬小屋で生まれたとする聖徳太子の伝説からも分かるように7世紀末頃まで、かなりのユダヤ人が入植している。
当時のユダヤ人は朝廷にも地歩を築き、その技術を活かして治水工事、水田の整備、機織りの指導、鉱山の開発から温泉の掘削、古墳の造営に至るまで日本におけるテクノクラートとしての地位を確立。その後、時を経て日本人に同化していった。
日本は縄文時代というから今から15000年程前には既に自然信仰、アニミズムが盛んだったが、特に高い山々に神の姿を見た古代ユダヤ人は、その裾野に古来からの自然信仰と融合した祈りの場として神社を設け、日本独自の宗教、神道の礎を日本人と共に創っていった。他の東洋諸国と比べた時、日本は唯一の文化圏といわれているが、こうした日本観の寄与に古代ユダヤ人が関わっていた事はまだ一部の人にしか知られていない。794年、桓武天皇が長岡京から平安京に遷都するより前から京都はユダヤ人の有力氏族、秦氏が地盤を固めている。ユダヤ人の始祖の地、エルサレムを日本語に訳すと平安の都、平安京。秦氏は自らの起源、思慕の先にある故郷を天皇家と共に日本の地、京都に作り上げている。
そして、その京都における山岳信仰の霊山、鞍馬山の南面に創建された鞍馬寺も秦氏の力を得て開かれている。修験道の盛んなその山に入った幼き日の義経、牛若は昼は仏教を始めとした学問、夜は鞍馬天狗と呼ばれた山伏の僧正坊から兵法や武術の修行を受けている。天狗とは魁偉な体に高い鼻、赤顔。日本に同化したとはいえ、その容姿にアラブ系特有の形質を残した渡来系の修験者だったのではないかといわれている。こうした修験者、山伏は神道、仏教、道教、宗派を超え真理を追究する。
時代としては特に明治に入るまでは日本中、至る所で多くの修験者が山伏として修行を続けていた。義経と同じく山を信仰の場とした成吉思汗は何を祈り続けたろうか。


ユダヤ人の修験者が吹いているのは羊の角笛。羊がいない日本ではそれに替えてほら貝を山伏は吹いている。山伏が頭に付けているものは頭巾(ときん)。それに対してユダヤ人の修験者が付けているものはtefillinと呼ばれている。
普段、日本の人々は遥か昔に同化したユダヤ人の事など全く意識する事なく生活しているが、お祭りでの神輿や神事ばかりでなく毎日の生活、日常で私達が使っている話言葉にもその影響は色濃く残っている。いくつか例を出してみるとスム住む、ネムイ眠い、エライ偉い、カク書く、スワル座る、トル取る、ハカル測る、コトバ文章、カルイ軽い、アリガト有難う、ニホヒ匂い、ワラッベン子供、サア出発、ドケ突き出す、アンタあなた、コール凍る、ヤッホー神様、ほんの一例を上げてみた。ここから窺える事は日本人が日常生活の場で話している言葉の中にいかに多くの古代ユダヤ語、つまりヘブライ語が入っているか。研究者によると約3000ものヘブライ語を起源とした言葉が今も日本語として使われているという。
旧約聖書の原語でもあるヘブライ語は公的には歴史上、死語となっていたものを19世紀末に復活させ、現代ではイスラエルの公用語として話されている。聖書に記され、当地では一度、その歴史から消え去った原語を日本人はその昔から連綿と受け継ぎ、今に至るまで毎日の暮らしの中で話していると考えるとそのままユダヤ人の父祖、アブラハムやモーセ、イエス・キリストとも繋がる流れの中に日本そして日本人も溶け込んでいったものとも考えられ大変興味深い。
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ヘブライ語にはこんなのもあります。ドスコイ異教徒をやっつけろ、ドッコイショ救い主よ、どうかこの苦しみから私を救ってください。学生時代、山屋として山野を駆け巡っていた僕は山の頂に辿り着いては神様と叫び、年を取った現在は毎日、神様に祈りを捧げている。どうやら僕に限らず、日本人は年を経る毎に自然と信心深くなっているようです。
さて、次回からはいよいよ義経、成吉思汗同一人説の考証に入っていきます。そのエビデンスの羅列を目にすると目眩がする程かもしれませんが、その一つ一つが持つ歴史を思うと、その重さが分かると思います。そして、それは今回の同一人説に限らず今まで定説とされてきたものが実はその逆だったりする。これから益々そうした話は増えていくのではないでしょうか。では五の三に続きます。
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