源義経 海を渡ったもののふの話 五の三
第九章 テムジン
平安時代の学者、詩人、政治家として活躍した菅原道真は845年、京都で生を受けている。その卓抜した能力により藤原氏が占めていた要職の時代にあって左大臣に次ぐ上位官位、右大臣にまで上り詰めるが、その才知に嫉妬した、時の左大臣、藤原時平の讒言に遭った事が誘因となり901年、太宰府へ左遷されている。都の生活とは打って変わって、粗末な官舎での暮らしを強いられた道真は自らに課された理不尽な処遇を呪い怨む中、その2年後、失意の内に同地で没している。
すると、その直後からである。都では事件、事故が相次ぎ怨みを抱え亡くなった道真が怨霊となり人々を恐怖に陥れているに違いない。そうした風聞が貴族ばかりか市井の人々の口にまで上り始め、時の朝廷は何とかその魂を鎮めようと京都の北大路近くに北野天満宮を創建し、道真の霊を慰めている。
今では地元の人から『天神さん』と呼ばれ親しまれている北野天満宮は学問の神様として、全国津々浦々に広がり、一万二千社にもなる社の本宮として人々の信仰を集めている。
頼朝に追われた義経は自らの境遇をその道真になぞらえ天神と称した。元朝秘史によると成吉思汗が生まれた時、父、エスガイと戦っていた敵の名がテムジンで、その敵に勝った記念として息子にテムジンと名付けたとの記述があるが、自ら葬った敵将の名を自分の子の名とする事などあり得ない。この逸話を反芻するだけでも史実とは思えない。
大陸に渡ってからは、その天神という響きが地元の人の耳にはテムジンと聞こえ、それが名として定着したのではないかと思われる。
その固い材質から家の床柱や床などに加工され使用する鉄木。元朝秘史ではテムジンという名を、その字に真を合わせ鉄木真と表記している。道真を想起させるその名からは信念を胸に常に真っ直ぐに道を歩み続けた義経の心が宿っているように思えてくる。
恨み、怨み、憾み、これは三語共、うらみと読む。皆、ネガティブな場面で使われる言葉だがそれぞれ見ていくと多少ニュアンスが異なっている。この三つの中で最も強い言葉が恨みである。韓国は恨(ハン)の国ともいうが、これは地政学上の宿命として隣接する大国、中国による圧制の下で朝貢国として、古来から冊封体制に組み込まれ、漸くその呪縛から解かれたかと思う間もなく、近代は日本の属国となった経験を持つ国民の無念、悲哀と共に、そこから解放されたいという韓国国民の意志を象徴する言葉だという。この恨と同程度に怨という言葉があるが、恨との違いは、怨は例えば菅原道真の怨念というように個人的な感情を表わす時に用いている。この恨、怨のニ語に比べると憾は心のどこかに残念と思う気持ち、未練が残るという程度でその重みを比較するといくらか軽い印象を受ける。
兄、頼朝に指弾され逃げ惑い、静御前と引き裂かれた上に、その妻が生んだばかりの我が子の命まで奪われ、更に自らをも亡きものと狙われた事は義経の心に怨みとして残っているが、それでもまだ未練とも取れる言動を見ていると、少し優し過ぎるのではないか。むしろ憂慮してしまう。そんな人柄が窺えるようで、それが一層、周りの人から憐憫の情を抱かせる要因ともなっているように思えてくる。
第十章 幸運の数字
欧州にラッキー7という言葉があるように日本では古来より八百万の神々、また、字体そのものが末広がりを表すものとして八を縁起の良い数字とし、広く日本人の間に溶け込んだ数となっている。ではモンゴルでも同じような数字があるのだろうか。成吉思汗は、その即位式で九旒の白旗を掲げた事からも分かるようにモンゴルでは九が幸運をもたらす数となっている。成吉思汗の紋章を見ると真ん中にある太陽を九枚の笹と竜胆が囲んでいる。それに対してもう一つあるのが清和源氏の家紋、笹竜胆。似ている。違いといえば笹の葉の枚数くらい。その紋章を見ていると、いじらしい義経の呟きが聞こえてきそうだ。
「私の出自は日本。清和天皇の末裔、清和源氏出身の源九郎義経です」と。
笹竜胆の家紋は現在、鎌倉市の市章ともなっている。

この笹竜胆の家紋を住宅の外壁にあしらった古い写真がある。その場所は現代でいえばロシアのナホトカ、戦前でいえば満州。何故、そんな所に清和源氏を象徴する笹竜胆を外壁の意匠とした家があるのか。それについてはもう少し後にまた記していきたい。

竜胆の学術名はgentian。また成吉思汗を英語で表記するとgenghis khanとなる。竜胆の原産地は日本。笹はその棲息の北限より北のロシアやモンゴルには一本も生えていない。また白旗については今でこそ、それを掲げると降参といったイメージがあるが、これは17世紀、欧州における傭兵戦争の過程で慣習化され、その後、成立した戦時国際法にその起源がある。日本では幕末、ペリーが江戸幕府に開国を迫った折に白旗を送りつけたといわれている。
では日本でも昔からそうなのかといえばむしろ逆。紅白の水引きのように日本では古来より慶事の時にその配色が使われている。紅(赤)は喜び、祭祀的な意味合いを示し、白は最初にこの世に現れ出た色。紅白の旗の起源は平安末期、紅旗の平家、白旗の源氏がそれぞれの旗を掲げ戦った源平合戦だといわれている。平家が赤を好んだ理由は平安貴族が好む色だったとも中国の影響があったともいわれている。対して源氏は白が神聖な色であり主君への忠誠、誠を尽くす潔白を表し、武士の心意気を象徴する色である事から選んだという。紅白は拮抗するもの。高貴でめでたいものとして紅白餅や紅白歌合戦、日の丸の旗、運動会の紅白対抗など現代日本人の間でも身近なものとして浸透している。平家が滅んだ壇ノ浦の戦いの絵図には、小舟に乗った双方にそれぞれ紅白の旗が翳されている。赤が平家、白が源氏。その後、武士が掲げる旗はそれぞれの家紋を染め抜いた物へと変わっていくが、この頃は赤に対して白を翳していれば源氏と確認出来た。同じアジアにあって白を最も神聖な色としている国は日本以外だとモンゴルだけである。
モンゴルでは聖なる儀式の時に用いる白い布をハタクと呼んでいる。白は良い運気を呼び、争いを避け平和をもたらす象徴として、また浄化や祝祭を表す神聖な色としてモンゴルでは公的な場所では衣装まで含め白を着用し、身を清めた姿で、場に臨むようにしている。

第十一章 元朝秘史の成立経緯
実際には成吉思汗が亡くなった後もこの秘史は綴られていくが、特に自らをテムジンと名乗っていた頃までは成吉思汗がその成立に大きく関わっていた。いや、それどころか、むしろ自身が主導して秘史を綴っていたのではないか。そう推論したくなるような逸話が残っている。
1221年、成吉思汗は宋における道教の一派、全真教の祖ともいうべき長春真人を招聘している。4月、成吉思汗が滞在するサマルカンドの館に荷を下ろした真人はそれから半年余り、道教の教えを成吉思汗に授けると共に秘史の作成に当たり、その監修を依頼されている。
モンゴル帝国成立の2年前、1204年にモンゴル西部の大国、ナイマン王国を攻めたテムジンは
そこの事務官でウイグル文字に精通していた捕虜のタタトンガと共にモンゴル文字の創作に着手している。それは横書きのウイグル文字を参考にしつつも何故か縦書きへと変更し、アエイオウの母音に四つの日本語と、かな文字を加えた五十音の体系となっている。有史上、文字すら持たなかったモンゴルの人々へ国としての体制作りの為、文字を作成し日本の律令法に当たるヤサと呼ばれる刑法を中心とした律法を制定している。そして更には次代の子供達への教育に力を注いだ。それ程、成吉思汗にとって思い入れがあるはずのモンゴル文字ではなく、モンゴル語法でありながら帝国内の殆ど誰も読む事が出来ない漢字の音を借りた形で元朝秘史は作成されている。
では、どうして日本でいう万葉仮名のような表記をしたのか。一つには漢字文化圏の人々にはその内容が理解出来ても、なるべく自国民には示したくなかったのではないか。そもそも何故、成吉思汗は漢字が理解出来たのか。実は日本の古事記や日本書紀にあたるような神話を作りたかったのかもしれない。それには当然、漢字文化圏の日本も含まれるが、その地域や人々に向けて、それとなくプロパガンダとしての要素もあったのではないか。
1202年、モンゴル軍はその当時、味方となっていたケレイト部族のワンカンと共にナイマン王国を攻めた時、ナイマンの将軍ジャムカはワンカンに向かって、こう声を上げている。
「私やあなたは鳥に例えれば鴎であるが、テムジンは雁である。鴎は寒暑に関わらず北方にいるが雁は寒くなると南へ飛んで暖をとる」
ジャムカはテムジンを渡り鳥の雁に例え、暗にモンゴル部族とは別の民族だと断じている。元朝秘史について明らかに成吉思汗が関わっていたのであれば自ら異民族、いや異邦人だと告白したようなもの。
このようにジャムカはテムジンを知らない所からやって来た民族だと断定、ワンカンをそそのかしてテムジンから切り離している。結果、陣地で孤立したテムジンは窮地に立たされている。こうした裏切りに遭えば仲を取り戻すのは難しいが、その後、他部族との争いに巻き込まれ助けを求めてきたワンカンを裏切りなどなかったかのように助けている。実はこうしたワンカンの裏切りは一度だけではなかったといわれている。そしてその度にテムジンはワンカンを許している。こんな人物は大陸広しといえども他にはいないだろう。もちろん決して褒められる事ではないがテムジンが義経だとすると同じ日本人として妙に納得してしまう。縄文時代や聖徳太子を持ち出すまでもなく日本人は本来、和の精神を持った民族だといわれている。こうした逸話を目にすると、いかにも日本的なものと改めて考えさせられる。
秘史作成の作業が終わり宋へ帰国する際、長春真人には秘史について他言無用と厳命している。
第十ニ章 帝国の武器
アラジンと魔法のランプやアリババと40人の盗賊などでお馴染み、『千夜一夜物語』にはシャムシールと呼ばれる片刃の反った刀、曲刀が出てくる。地域としては中東以外でも欧州、特に東欧においては同じような形状のものが見られるが、それはどちらも13世紀、モンゴル帝国がユーラシア大陸の西まで版図を拡げる過程の中から生まれてきたもの。それまで刀といえば中華圏含め世界中どこを見渡しても両刃の直刀を指していた。
いや、そうだろうか。当時の世界には成吉思汗が現れるまで直刀以外、存在しなかったのだろうか。そんな事はない。それ以前から既に日本で刀といえば曲刀を指している。調べてみるとやはり、その源流は日本に辿り着く。日本では平安時代の中期には当時、既に勃興しつつあった武士階級を中心に武器としての優位性から曲刀への評価が急速に高まり、それ以降、日本刀といえば曲刀がその代名詞になっている。
騎馬上での一瞬の判断を助ける為に、軽い上に使い勝手が良い曲刀は無くてはならないもの。それは義経にとっての最大の武器、戦場での機動力の高さにも大いに貢献している。では直刀と曲刀、どこに違いがあるのだろう。用途を調べると直刀は主に敵を突き刺し、倒す為のもの。対して曲刀は振り下ろし、また振り抜いて使用する。直刀は一度腕を曲げ、その反動を利用して敵を突き抜くが、曲刀は軽い上に湾曲している為、鞘から造作なく抜け、そのまま敵の懐に入っていける。速さを盾とし、次から次へ敵を倒していく。それは戦場での勝負となると圧倒的な差となって結果に現れてくる。

「全身に鎧をまとい飢えた鷹のようにやって来るのは誰だ」
1204年、テムジンがナイマン王国を破った時ナイマンの王、タヤンカンは叫んだ。モンゴル一帯にはそれまで鉄の鎧も兜もなく皮で出来た鎧を着て戦っていた。そうした部族にとって全身に鉄の防具を身に着けた姿はどこか別の次元から来たとしか思えない。いや、そう思う間もなく、どこからか次々、矢が降ってくる。大陸では当時、長さが60㎝程の短い弓で敵を狙っていたが短い分、飛距離が伸びず命中率も下がる。それに対してテムジン率いる軍団は150㎝と当時の鎌倉武士と変わらぬ長さの弓を遥か遠方から放ち、その矢が描く放物線60〜70m。モンゴル軍という狼に睨まれた敵は次々と倒されていった。後年、宋の国ではモンゴルの軍団を長い弓の盗賊と称して恐れていたという。
一瞬、馬上から矢を射かける姿が止まったかに見えた。かと思うと周りの兵士達は天を仰ぎ見たその刹那、何が起こったか自覚する時も与えられないまま次から次へ落馬していく。その後はいきなり目の前に現れ、逃げ惑う歩兵の頭に馬上から見た事もない湾曲した刀を振り下ろしてくる。恐怖。この戦いでは、そこかしこに火を放ち、燃え盛る燎原の火に包まれたナイマン軍は大軍が押し寄せて来たと勘違いし、恐怖にすくんで身動きが取れずに右往左往する中、モンゴル軍は隙を与える事なく一気に攻めとる戦法を採っていた。これは義経が屋島の戦いで採った戦法と酷似。特にまだテムジンと名乗っていた頃の戦法は相手が思うに及ばない奇襲作戦を次々、繰り出すので敵は戦意を喪失し次々、テムジンの軍門に降っていった。
多勢に無勢。義経も数を頼りに慢心する平家に奇襲という心理作戦で意表を突き、蜘蛛の子を蹴散らすように圧倒的な数を誇る平家の力を削いでいった。

ユーラシア大陸には、それまで鉄の鎧ばかりか長い弓も片刃の刀も存在しなかった。モンゴル帝国の圧倒的な強さの秘密はこれだけでも窺い知れるが、そうした武器を最大限に活かす要素、その秘密は史上最強と恐れられた騎馬軍団の手綱捌きに隠されていた。
サラブレッドを主体とした競走馬を始め一般的な馬の走法は対角線上の脚を一組ずつ地面に着け離して走る″斜体歩″と呼ばれる走法を採っている。それに対して成吉思汗率いる騎馬軍団は左右同じ側の前脚と後脚を一組に見立て、それぞれが地面に着いたり離れたりする″側対歩″を調教する事により身に付けている。この走法は上下に激しく揺れる斜体歩と対照的に左右に多少揺れる程度の為、騎射術を重んじたモンゴル軍は、それにより弓の命中率を高めている。また人馬共、体への負担が少ないので長距離を走る上でも適した走法となっている。広大なモンゴルの草原を走り抜く、理に適った走法といえよう。
世界を見渡した時、今でもこの走法を採っている国がもう一つある。日本である。21世紀の現代では道産子など一部の地域の馬を除いては数が少なくなってきており残念だが、古墳時代に朝鮮半島を経由して入って来た日本の在来馬は農作業や荷役、また軍馬として瞬く間に日本列島の北から南まで、更に琉球へと広がっていった。速度を上げても上下動が少なく水平に進む事が出来る側対歩は馬を貴重な仲間とする日本人の生活の知恵の中から生まれてきている。そうした特徴は軍馬でも如何なく発揮され、特に正確な騎射術に大いに寄与している。
馬の能力を最大限に発揮させた義経は騎馬武者を単体ではなく、目的の為に繋がったものとする事により、機動力を伴いながら新たな戦術を生み出す騎兵部隊という組織に作り替え、それを史上初めてこの世に現出させている。源義経の名は近代戦術思想の画期的な先駆者として世界史的にも高く評価されている。そして、それはそのまま成吉思汗が採った戦法へと繋がっていくのである。
日本では6世紀頃から天下平定と五穀豊穣を祈る神事として騎手の名手が馬上から三つの的を射たのが流鏑馬の始まりとされ、鎌倉時代に入ると頼朝は武士の気風を体現する為もあり、流鏑馬を好んで行っている。対して騎射術をヤブサメルと称するモンゴルでも、その技術向上を図る目的で流鏑馬が盛んに行われ、それは現代でもモンゴルの伝統行事として残っている。



『天気晴朗なれども波高し』
1904年に始まった日露戦争時、日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を迎え撃った海軍参謀の秋山真之は勝てるという確信を持って戦え。こう打電し、全軍の指揮を鼓舞し戦い抜いた結果、バルチック艦隊を全滅させ、日本に日露戦争での勝利をもたらしている。そして、この戦争ではそれまで苦戦し続けた陸軍にあって史上最強の騎馬軍団といわれたロシアのコサック騎兵隊を打ち負かしたのが秋山好古。秋山真之の兄である。現在、コサックと聞くとロシアとイメージする人が多いだろうが、元はいえば1240年キエフ公国、今のウクライナを滅ぼしたモンゴル帝国の騎馬軍団にそのルーツがある。この時の騎馬軍団が長い年月を経て、15世紀に入ると同地で自警団のような共同体を作っていき、これをトルコ語で自由の民を意味するコサックとして歴史上、初めて登場し、その後、ロシア帝国に組み込まれていくのがコサック騎兵隊の歴史である。
義経が創設した騎兵部隊は大陸に渡り、モンゴルの騎馬軍団として装いも新たにユーラシア大陸の奥深くまで侵攻し、豊穣な果実をまた一つ、もたらしている。その果実、コサック騎兵隊は遺伝子を確実に受け継ぎながら悠久の時を旅した果て、生まれ落ちた川に再び戻り着いた鮭のように満州の地で日本の騎兵部隊と相対峙し、結果、秋山好古率いる日本軍に完膚なきまでに叩かれ敗北している。こうした流れを見ていくと義経が作り上げた歴史のダイナミズムを見ているようで、決して文献だけではない、時という大きな潮流の中で人々が共鳴し紡いで来たもの。それを歴史というのだろう。改めてそれが思い起こされる。
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では義経はどのようにして満州まで辿り着き、成吉思汗として新たな人生を築いていったのでしょうか。次の章ではそれを明らかにしていきます。
第十三章 義経北行記
奥州の覇者、藤原秀衡はかつて仕えた源義朝の遺児、義経の才を早くから見抜き、一族の変わらぬ繁栄に向け義経を中心に据え、結束を図ったが、願い虚しく1187年10月に病没。その死を知った頼朝は秀衡の後を継いだ泰衡に朝廷からの院宣を携えた使者を送り、義経捕縛へ向けて外圧をかけている。史実でいえばその圧力に屈した泰衡が1189年4月、衣川にあった焼け落ちた持仏堂の中から見つけ出した義経の首を鎌倉まで送った事になっているが、秀衡は自身が亡くなる前に幕府軍を欺く為の衣川偽戦を義経を含めた一族に向けて遺言している。その内容は自分が死ねば必ず義経を召し取るように頼朝は言ってくるが従ってはならぬ。その使者が来た時には、まずは歓待し和睦を勧める。それでも承知しなければ切り捨てた上、義経殿を大将軍と仰ぎ白河、念珠の関を固め奥州二国の大軍を以て一致団結して必ず勝つように。更に蝦夷から大陸までの道を示し、状況によっては新たな活路をユーラシア大陸に見出すよう義経に向けて指示している。
秀衡を囲んだ一族は起請文を書き、血判を押している。秀衡の後継者、泰衡はその遺言を守った。義経の首だと偽り、酒に浸された焼け首は鎌倉まで運ばれている。早馬なら数日、徒歩でも通常13日もあれば運べるものを、その三倍以上の43日もの日数をかけている。それは水無月、今でいえば8月になろうとしていた時期。衣川で火を放ち自刃したとされた、その首を検分した御家人の和田義盛と梶原景時にしてみれば原型を全く留めていない程に焼け爛れ腐敗した首を見たところで義経かどうか分かるはずもない。いや、義盛はともかく景時にはその首が義経ではないだろう事は分かっている。義経と悉く意見が対立する仲であったとしても義経の背中を追い、共に戦い生き抜いた。そんな景時からしてみても小柄な義経と同じ程度の頭の大きさ、それ以外は分からない。その首は景時に向けて何も訴えて来ない。見る事そのものが後ろめたいのか、それとも辛いのか頼朝はそれを見ようとさえしない。誰がここで、この首が義経ではないと言えようか。景時は義経に行ってきた数々の仕打ちに今更ながら震え上がるような恐怖を覚えた。頼朝ではない。ましてや義盛でもない。事、ここに至るまでの経緯に全ての責務を負った景時にはこの首が偽物だとは口が裂けても言えなかった。事の重大性に目眩を覚えた景時は、胃の腑から思わず込み上げてくる吐瀉物を飲み込もうとした。そして自身の首筋に浮かんだうすら寒さに手を当てようとした瞬間、我慢しきれなくなった景時は体の中から逆流して来た吐瀉物を大地に向けて激しく吐き出した。
その首は藤沢の海へ打ち捨てられたという。これを聞くだけでも義経ではないのは明らかだ。たとえ怨霊を恐れずとも鎌倉幕府という武士の世を日本史上初めて現出させた第一の功労者が誰か。それが分かっていればそこまで粗末に扱える訳がない。景時だけではない。あるいは皆それが分かっていたかもしれないが、それでも誰も口にしない。では供養される事もなく打ち捨てられた首は誰のものか。一説には義経の側に仕えた影武者の一人ではなかったかといわれている。
頼朝存命中、誰よりも権勢を欲しいままに振り翳した景時は鎌倉殿、源頼朝の死去に伴い、元々、そのやり口に不満を抱いていた御家人達、なんとその数、六十六人が提出した弾劾状により失脚。その後追討された景時は本人ばかりか一族の多くが殺戮されている。
では実際の義経はどこにいるのか。実はそれより1年も前の1188年4月、陰陽師を父に持つ従者の吉凶占いにより日時を決め平泉から離れている。その日は秀衡が亡くなってからちょうど半年後。陰陽道では半年という日があの世から見守ってくれる日。義経一行は、その秀衡に守られながら旅立った事になる。
当時の人数は義経の正妻、郷御前と娘、従者が十三名。その中には武蔵坊西塔弁慶、常陸坊海尊、鈴木三郎重家、義経の命により重家の義理の弟となった弓の名手、亀井重清、一の谷の戦いの際、道案内を務めた猟師の鷲尾義久、義経が鞍馬寺から出奔し平泉に向かう途中、安中板鼻で出会い、義経の一の郎党といわれた伊勢三郎義盛等、古くからの家臣も含まれている。また泰衡の弟、藤原忠衡率いる藤原氏の一団、百名。秀衡の側室の一人、アイヌ人のアサメも加わっている。その第一の目的はアサメを生まれ故郷の蝦夷のアイヌ部落に帰す事にあったが、その先、大陸に渡るまで緻密に計画を立てた旅立ちであった。平泉を出た一行は宮古を抜け、久慈そして八戸へ、正妻の郷御前はこの地で病に倒れ地元の人に養生して貰い、1205年に亡くなったとの記録が残っている。義経一行はその後、奥州藤原氏の大陸との貿易の拠点、十三湊を経て三厩から蝦夷に渡り函館、そしてアイヌ民族の中心部落がある平取でアサメを帰し、館を築いている。その道は実際には百を越える伝承の地、その多くが判官や義経、弁慶また九郎といった義経にゆかりがある名を冠している。それは辿った足跡から見てとれるように迷走する事なく一筋の道を描きながら北を目指している。義経一向が実際に足を踏み締めて歩き、時には留まり、また北へと向かった姿が目に浮かぶ。

館を築いた平取ではアイヌの人々に狩や漁、農作物の栽培方法から機織りに至るまで、日々の生活に役立つ数々の技法を授けている。そして地元の人々からは判官様を名の由来とするハンガンカムイ、ホンカイサマと尊ばれ、またその姿を見た人からはアイヌ人の創世神話に出てくる英雄として広く伝わる小柄で頭の良い神様、オキクルミの生まれ変わりではないか。そのように慕われていたといわれている。

義経は秀衡の遺言、衣川偽戦に示された教えを守り、受け入れ先の確認の為、弁慶を先遣隊として大陸に送り出している。一行は1年近く平取に留まった後、弁慶により届けられた大陸からの招聘の連絡を受け取り、いよいよ海を渡り大陸へと向かっていく。一隊の人数としては元々の部隊に新たに藤原氏の家臣として藤原氏滅亡後、我こそは義経なりと騙り、幕府軍を翻弄し続けた後、敗死した大河兼任が引き連れていた一団、更にアイヌの人々も加わり総勢三百人近くになっている。大陸に渡る前、樺太にて蝦夷のアイヌに対抗する酋長を破った後、韃靼海峡から大陸に入っている。その後、クルムセ国を流れる黒龍江を南下し1190年頃、その途上、女真族との戦いを経て海辺を下り現在のナホトカ近く、ハンガン岬と後年、呼ばれるようになる海岸から上陸。そこから東北に20キロ程、内陸に入った所に城を築いている。海を渡り逃れてきた武将がこの地で蘇った事を名の由来としたこの城、蘇城を起点に、その後10年近くを高麗始め近隣の敵との戦闘と融和に努め、城を娘に譲った後、大陸内部に攻めていったといわれている。
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『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』
江戸時代の元禄文化期、みちのくを旅した俳人の松尾芭蕉は、その紀行文『奥の細道』の中で草深く荒れ果てた平泉の地に立った時、かつての栄華とその後、もののふ達の身に突如として降りかかった不条理な落日に思いを致し、滂沱の涙に暮れる中、長い時間そこから離れる事が出来なかったと記しています。
幕府に義経の首を差し出したとされた泰衡でしたが、元々生かすつもりもない頼朝は義経を一時的にせよ匿った罪により泰衡を追討し、藤原氏を滅亡へと追い詰めています。1051年に始まった前九年の役から140年、清衡、基衡、秀衡の三代に渡り栄華を誇った奥州藤原氏はその後の活躍を義経と共に大陸に渡った泰衡の弟、忠衡に託し、奥州での歴史に幕を下ろしました。
夏草や兵どもが夢の跡
松尾芭蕉

義経一行が大陸の東端に築き上げたとされる城の造りはモンゴル人が多く住む南側を大きな濠とし、逆に北側がなだらかな造りになっている。この人物を若い頃の成吉思汗、つまりテムジンだとすれば何故、味方であるはずの南面に深い濠を設けたのか。元朝秘史には1190年、モンゴル高原で十三翼の戦いを起こしたとの記述がある。しかし、それとは別に仏教の歴史と共にモンゴルの人々の口承をまとめた書物『蒙古ラマ教史』を開くと、その戦いと同じ1190年頃、テムジンが女真族と黒龍江の河口近くで戦ったとの記述が残っている。普通に考えればモンゴル高原生まれとされるテムジンが十三翼の戦いと同時期、まだモンゴル高原を平定出来てもいないのにわざわざ、東に2000キロ以上離れた大陸の東端、そこは当時のテムジンにとって殆ど関わりがないはずの土地でもあるが、そこまで遠征する事など考えられない。しかし義経の行動だとすると大陸に渡ってきた頃の女真族との戦いと正に符合する。

地元の人々に今も残っている話として、この武将の名はイーポンから来たキンウチイと言われていたという。また周りの者からはクローとも呼ばれていたと大正時代、この地を渉猟した日本人が著した書物に残っている。この後も義経ではないかという逸話は残っているが、テムジンと名乗った義経は1206年、大興安嶺にて初代モンゴル皇帝、成吉思汗と名を改め、初めて世界史にその姿を現している。
その席、クリルタイでは成吉思汗の辿った道の中で一番の功労者としてムカリ国王を皆に紹介している。同一人説ではこのムカリが藤原忠衡ではないかといわれている。他にも成吉思汗に一番近い幹部にサイタウ、シウべ、イサといった将軍の名が見える。サイタウが武蔵坊西塔弁慶、シウべが鷲尾義久、イサが伊勢三郎義盛。ムカリの孫、バアトルはモンゴル帝国、第五代皇帝、フビライ・ハンの義兄弟といわれるなどモンゴル帝国にあって皇帝一族に次ぐ貴族として人々の尊崇を集めていたといわれている。
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次回は同一人説を検証した人々が何故、そう主張したのか。残念ながら今でこそ社会の片隅に押しやられてしまった感がありますが、名前を聞けば誰でも知っている。そんな歴史上のオールスターが関わっていた事を知るだけでも当時の社会では国家的なプロジェクトとして解明しようとした姿勢が見てとれます。
偶然‥‥もしかしたら、たまたま同じだったり似ていたり。それははよくある事さ。ですが、実は僕自身がいささか食傷気味になるくらいにそんな偶然あるか!を記していく事になりそうです。
There's no smoke without fire.
火のない所に煙は立ちません。では五の四に続きます。
←五の一
←五のニ
五の四→
五の五→
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