事例#04 東京都写真美術館【ファクトチェック含む】
2021年開催「リバーシブルな未来 日本・オーストラリアの現代写真」
「リバーシブルな未来 日本・オーストラリアの現代写真」
2021年8月24日(火)—10月31日(日) 東京都写真美術館 3階展示室
関連イベント オンライン 国際シンポジウム(2021年 10月 15日(金)) Youtube:シンポジウム動画
"Reversible Destiny” International Online Symposium Program 1 「リバーシブルな未来」オンライン国際シンポジウム プログラム1
シンポジウム動画内、石内都による発言(ファクトチェック)
(12'40") 広島に行ったら、私の思っていた広島と全然違っていたの。まず、原爆ドームがちっちゃくて可愛い。「え?ドームってこんなに可愛かったの?」
【注】「私の思っていた広島と全然違っていた」
これはあくまで石内個人の主観に基づく認識である。しかし、ヒロシマの歴史に関する十分な学習や理解を欠いたまま、「ヒロシマ」をあたかも普遍的な対象であるかのように大きな主語で語っている点こそ、批判的に検討されるべきである。
【注】「原爆ドームがちっちゃくて可愛い」
この発言は無邪気さを装っているものの、ヒロシマについて主体的に知ろうとし、学ぼうとしてこなかった姿勢を端的に示している。
(12'57") あと、残された遺品たちが色がちゃんと残っている。大体モノクロの広島の遺品しか見てなかったんで、やはり暗いモノクロのイメージで、モンペとか、割と地味〜な感じの遺品のイメージだったのが、現実に見たら全然違ってたんですよ。
【誤】残された遺品たちが色がちゃんと残っている。
この発言は、あたかも被爆資料のカラー撮影が未開拓であったかのような印象を与える。しかし、石内が広島で初めて撮影を行ったのは2007年であり、それ以前から被爆資料のカラー撮影は数多く実践されていた。とりわけ、表現行為として広島の被爆資料を撮影した唯一の先行事例としては、土田ヒロミは1982年にモノクロのみならずカラー作品も制作・発表している。
石内が「モノクロの資料写真しかなかった」とする趣旨の発言を繰り返してきた点には事実認識上の問題があるが、同様に、その認識を十分な検証なく流布してきたメディアの責任も看過できない。写真史に関する基礎的な検証を欠いた大学研究者や美術館学芸員らにも同様の問題が認められるが、とりわけ本動画が写真美術館の学芸員による制作・監修のもとで公開されたとされる以上、担当学芸員には本件を含む事実関係の検証と訂正について当然の説明責任が求められる。
(13'19") 色は綺麗だし、ワンピースやスカートでも形がカッコいい。・・・原爆受ける前はみんなお洒落してたんですよ。そういう非常に日常的な広島が見えたんですよ。これなら撮れるな、と。
【誤】大体モノクロの広島の遺品しか見てなかったんで、やはり暗いモノクロのイメージで、モンペとか、割と地味〜な感じの遺品のイメージ
この発言は、被爆資料写真に関する先行実践を著しく矮小化し単純化している。とりわけ、石内に先行する土田ヒロミの「ヒロシマ・コレクション」について、「男性によるモノクロの悲惨さのみを強調したモンペや防空頭巾の写真」といった事実に反する印象を流布してきた点は指摘されねばならない。
このような理解は土田の制作コンセプトおよび実践内容と全く整合しない。むしろ、被爆資料をめぐる多様な視覚的・歴史的文脈を捨象し、先行作品を一面的なイメージへと還元する認識であるといえる。詳細については別稿で論じているため、以下に関連箇所を引用する。
1983年刊行「アサヒカメラ増刊」に掲載された土田の「ヒロシマ・コレクション」撮影全72カットのうち、モンペはわずか1点、防空頭巾は2点である。ワンピースのカットはそれを上回る3点の掲載がある。
1995年に刊行された『ヒロシマ・コレクション』(NHK出版)に収録された約120点の作品のうち、防空頭巾は3点、モンペは1点にすぎず、その他の大半はワンピース、シャツ、ジャケット、時計、弁当箱など現代においても日常的な衣類や生活用品の写真で構成されている。この点からも、同シリーズの主題が「過去」ではなく「現代(現在性)」の視点に基づいていることが明確である。土田の作品は、被爆遺物を「現在性」として捉えるというコンセプトを写真史において初めて提示し(出典:多木浩二 「あの日の悲劇と現代社会を二重写しする土田の『ヒロシマ』 /『ヒロシマ』(佼成出版社、1985)、国内外で一定の評価を受けてきた。しかしながら、後発写真家がそのコンセプトを自ら発見したものとして語り、先行する写真家のヒロシマの表現に対して「ヒロシマという既成概念に毒されていた」「モンペに防空頭巾といった決まりきったイメージのみ」「カタカナの「ヒロシマ」は男が言うこと」という誤ったイメージの流布を自ら行っていることが複数媒体で確認されている。
【注】非常に日常的な広島が見えたんですよ。これなら撮れるな、と。
この発言は、被爆資料のなかに日常性を見出したことを自身の発見であるかのように語っている。しかし、前述のとおり、1982年に開始された土田ヒロミの「ヒロシマ・コレクション」は、1945年の日常生活の痕跡と、その日常が原爆によって瞬時に断絶された事実を主題として継続的に展開されてきた、写真界のみならず美術界において国際的な評価も得ている作品である。
したがって、被爆資料を通して「日常の広島」を捉える視点は、2000年代以降に石内によって新たに提示されたものではなく、既に先行実践において重要なテーマとして探究されていた事実を十分に確認する必要がある。
(13'39") もう76年前ですよね、遺品たちが遺品になってしまったのは。
【誤】76年前ですよね、遺品たちが遺品になってしまったのは。
この発言は完全な事実誤認とまではいえないものの、実際の歴史的事実とは大きく乖離したイメージに依拠している。その結果、被爆資料の所有者や被爆者たちが戦後に歩んだ多様な人生の過程を捨象し、資料を一律に「死者の遺品」として理解する視点を強化しかねない。こうした解釈は、出来事の歴史的・社会的文脈を単純化し、ヒロシマの被爆の経験を抽象化・美化する危険性を孕んでいる。
本発言からは、石内が自身の撮影対象となった資料の来歴や所有者の経歴について十分な調査を行っていないことがうかがえる。また、その内容を公開・監修する立場にあった担当学芸員についても、事実関係の確認や検証が十分であったのか検討が求められる。

(15'52") もう一つ、やはり「ヒロシマ写真」って男たちの、ね、あれなんですよ。テーマ(笑)。見たらもう「社会性」とか。その中でずっと撮られてきたけど、あたしはそうじゃなく、それをちょっと別の角度、でもないんですけど、それだけじゃないんだよ。もっと日常的に、普通に生きてる、普通にお洒落してる、と。
【誤】やはり「ヒロシマ写真」って男たちの、ね、あれなんですよ。テーマ(笑)。もう「社会性」とか。その中でずっと撮られてきた
【誤】「ヒロシマ写真とは男性たちによる『社会性』をテーマとした表現である」とする発言は、写真史およびヒロシマ表現史の実態を著しく単純化した理解に基づいている。「ヒロシマ写真」という概念自体、写真史上の確立した分類として広く共有されてきたものではなく、その妥当性については慎重な検討が必要である。
実際には、石内が広島での撮影を開始した2007年以前から、土門拳、川田喜久治、石黒健治、細江英公、土田ヒロミ、大石芳野、江成常夫、笹岡啓子ら、多様な写真家が広島を主題とした作品を発表してきた(下記リンク)。しかし、それらの表現や方法論を単一の枠組みで理解することは困難である。仮に「社会性」という観点から論じうる作品が存在するとしても、その内容や表現戦略は作家ごとに大きく異なり、共通の系譜へと還元できるものではない。むしろ、それぞれが独自のコンセプトと表現上の革新性を備えた個別の実践として理解されるべきである。また、その視点を持たない者にヒロシマの写真表現を論じる資格はない。
「社会性」を揶揄しつつ、その社会性によって自己表現の価値が担保されている点も看過できない。ヒロシマは極めて重要な社会的主題であり、その作品評価はテーマの社会的意義に大きく依拠している。したがって、主題の社会性による評価のみを享受しながら、表現はあくまで個人的なものであるとする主張には説得力を欠く。このような認識は、被爆資料を所蔵者の存在から切り離し、資料の背景にある歴史的事実を軽視した恣意的な美化や解釈、事実の矮小化、さらにはヒロシマを撮影した写真家への軽視とも受け取れる発言や、被爆資料を撮影した写真の無断高額販売といった、社会的倫理を欠く数々の行為へとつながっていると考えられる。
また、「男性たちによる表現」という説明は、大石芳野や笹岡啓子をはじめとする女性写真家の実践を視野の外に置くものであり、歴史的事実との整合性を欠いている。このような発言が、これら全員の写真家の作品を所蔵し、研究対象としてきた写真美術館の監修のもとで公開されたにもかかわらず、事実関係に関する注釈や補足が付されていない点は検討を要する。少なくとも本発言は、個々の作家の評価や自己定位の問題にとどまらず、ヒロシマをめぐる写真表現史の理解そのものに関わる論点を含んでいる。
参考として、「ヒロシマ写真」という架空の概念を用いて論じられた数々の誤認を含む論文事例については、別稿でその問題点を検討している。
【注】もっと日常的に、普通に生きてる、普通にお洒落してる
「日常的な普通の生活」や「お洒落なワンピースを着ていた女性」の存在を被爆資料から読み取る視点は、土田ヒロミが「ヒロシマ・コレクション」において既に実践していたものであり、新たな発見として位置づけることはできない。
むしろ問題となるのは、被爆以前の生活の豊かさやお洒落な日常性を強調するあまり、1945年8月6日に広島で生じた出来事と、その歴史的・社会的影響が現在に至るまで継続しているという側面が完全に後景化されることである。被爆者たちが「普通に生き、お洒落をしていた」ことは重要な事実であるが、その表象が被爆の歴史的経験そのものを情緒的な日常の記憶へと還元するならば、ヒロシマをめぐる問題の歴史的・政治的文脈を矮小化する危険性を伴い、事実そうなっていることは否定できない。
(16'38") 遺されたものは、その人たちの断片みたいなものですよ。でも、着る人がいない、ワンピース? すっごく寂しいの。ね、着る人がいないんだもん。履く人が居ない靴とかね。あ、寂しそうだね、君〜みたいなのがあって、それをあたしは何とか、「わかった、じゃあ綺麗に撮ってあげるね」と、割とそういう気持ちがあるんですよ、私。
【誤】 遺されたもの 着る人がいない 履く人がいない
この認識は、被爆資料を一律に死者の遺品として理解する前提に立っている。しかし、資料館に所蔵される被爆資料のなかには、実際にそれを使用していた被爆者本人が、自らの意思によって寄贈した事例も少なくない。
その背景には、高齢化に伴う保管上の困難に加え、自身の被爆体験を後世へ伝承し、同様の惨禍の再発防止に役立てたいという意思があったと考えられる。したがって、被爆資料は単なる「遺品」としてのみ存在するのではなく、生存者による記憶の継承行為や社会的実践のなかで公的な歴史資料となった側面を有している。
こうした事実を踏まえるならば、資料の来歴や寄贈者の存在を十分に考慮することなく、それらを一律に「着る人のいない遺品」として語ることには問題がある。そのような理解は、資料を託した当事者の意思や経験を不可視化し、被爆資料が有する歴史的・社会的文脈を単純化しただ「ヒロシマ」を情緒的に矮小化させることにつながりかねない。
(17'05") だから、そういう感じって今までなかったんだと思う。広島の原爆、遺品というのはやはり資料でしかなかった。私、資料として考えてないから。資料じゃなくて、まさにその時(1945年8月6日)広島にいたらあたしがきていたかもしれないという。そういうすごいリアリティがある。かっこいいんだもん、お洒落で。そういう視点が今までなかったんですよ。
【誤】広島の原爆、遺品というのはやはり資料でしかなかった。
この発言は、被爆資料およびその写真表現の歴史を踏まえるならば、極めて限定的な認識に基づくものである。少なくとも1982年に発表された土田ヒロミの「ヒロシマ・コレクション」は、被爆資料を撮影対象としながらも、単なる記録資料ではなく写真作品として提示され、国内外で高い評価を受けてきた。
また、土田が被爆資料を「資料」と呼ぶ場合、それは「遺品」という語が必ずしも全ての被爆資料の実態を反映していないことへの配慮によるものである。したがって、「資料」としての側面を有することと、「作品」や「表現」の対象となり得ることは相反する概念ではない。
この点を踏まえるならば、「資料でしかなかった」という断定は、被爆資料をめぐる先行実践や写真史的蓄積を十分に学習し考慮したものとは言い難い。実際、土田の「ヒロシマ・コレクション」は1994年に東京都写真美術館のコレクションとして収蔵されており、写真作品として制度的な評価を受けている。この事実との整合性を考えるならば、被爆資料をめぐる写真表現の歴史について、学芸員にはこの発言を発信していることの撤回及び修正が強く求められる。
さらに、本発言が写真美術館の監修のもとで公開されたにもかかわらず、その前提となる歴史認識や写真史上の位置づけについて補足や注釈が付されていない点は検討を要する。少なくとも、先行する作品群やコレクションの存在を踏まえたうえで、当該及び類似発言の妥当性について再検証が行われねばならない。
【注】その時(1945年8月6日)広島にいたらあたしが着ていたかもしれないという。そういうすごいリアリティがある。
被爆資料を過去の遺物としてではなく、自身と地続きの存在として捉える視点は、石内による新たな発想ではなく、土田ヒロミが1982年の「ヒロシマ・コレクション」以来、一貫して展開してきた表現上の理念と重なるものである。すなわち、被爆資料を歴史的事実の痕跡としてのみ扱うのではなく、現在を生きる鑑賞者との関係のなかで再解釈し、「過去」ではなく「現在」の問題として提示することは、既に先行実践において重要な主題として確立されていたというのが写真史としての事実である。
【誤】そういう視点が今までなかった
本発言で示される「現在性」の視点は、石内が2007年に広島を撮影する以前、すなわち1990年代初頭から展開されていた土田ヒロミの「ヒロシマ・コレクション」において既に提示されているものである。したがって、「従来になかった視点である」とする主張は、写真史的事実との整合性を欠いている。
仮に石内自身の認識が不十分であったとしても、日本写真史および関連コレクションに関する基本的な理解を前提とする立場にある学芸員においては、先行事例との関係性を確認し、適切な文脈付けを行うことが求められる。その点において、発言内容の提示および解釈のあり方については、撤回と修正が強く求められる。

(17'34") で、それはやはり女性の視点だと思うし、私はこれまで女ということを表に出さないできたけど、広島を撮り始めてから、あ、女にしか撮れないんだな(笑)、そういう感じもちょっと受けてる。
【誤】それはやはり女性の視点だと思うし
【誤】広島を撮り始めてから、あ、女にしか撮れないんだな(笑)
これらも上記同様、(男性である)土田が既に1982年に確立した「ヒロシマ・コレクション」と〈ひろしま〉との類似性の指摘を否定するための石内による印象操作であると判断される。
これらの論点は、土田ヒロミの〈ヒロシマ・コレクション〉(1982-)および〈ひろしま〉(2008-)における表現との類似性をめぐる解釈の問題にも関係しているが、とりわけジェンダーの視点をヒロシマ表現の解釈に導入することには少なくとも石内の発言においての妥当性には、個人的感情以外の正当な根拠が認めらず、表現史的枠組みとの関係を含めて慎重な再検証が求められる。また、これらの持論がどのような言説空間の中で受容・拡散されてきたのかについても、「フェミニズムの悪用」の可能性やメディアおよび美術館の役割を含めて分析対象となりうる。
これら裏付けのない発言を「東京都写真美術館」として公開していることの影響と責任は重大である。
参考)石内都による過去の発言まとめ
上記の発言群を総括すると、被爆表現やその歴史的解釈に関する事実認識をめぐり、数多くの誤認識が事実として混在していることが確認される。これらの発言が国際シンポジウム等の公的性格を有する場において提示され、東京都写真美術館の監修のもとで発信されている場合、その内容の検証手続きや史実との整合性確認の在り方は検証・再検討すべき課題となりうる。
写真表現史の解釈は、作家の主観的見解と歴史的事実との関係をどのように整理するかという問題を含むため、発言の採用・編集・公開に際しては一定の検証プロセスが必要とされる。とりわけ、美術館が公的文化機関としての性格を有する以上、情報発信における編集責任および説明責任の所在については、改めて整理されるべきである。
また、1990年代までの同館においては、被爆地ヒロシマ・ナガサキの写真表現を対象とした調査・展示が体系的に行われてきたことが指摘される。例えば、故・金子隆一学芸員による企画展は、原爆投下直後から1995年前後に至るまでの写真表現を広く対象とし、歴史的文脈の整理を試みたものとして位置づけられる。こうした先行する調査・展示実践との比較において、現在の発信内容の位置づけを検討する必要がある。
「核-半減期 The Half-Life of Awareness: Photographs of Hiroshima and Nagasaki」1995年09月21日〜11月10日
今回問題が指摘されている該当動画内でのインタビュー及び動画制作監修は、同館・山田裕里学芸員であると考えられる。同学芸員は、笠原美智子元事業企画課長の系譜に連なる立場として、フェミニズムに関わる企画や執筆にも携わってきた経歴を有している。
山田は、2021年に急逝した金子の写真界における長年の業績について、以下のような論考を執筆している(2021年)。
金子隆一氏年譜 東京都写真美術館での活動(東京都写真美術館紀要)
https://topmuseum.jp/contents/images/info/journal/kiyou_21/02.pdf
一方で、山田による金子隆一の業績に関する論考(2021年)は、主として展覧会歴や企画実績の整理にとどまるものであり、その分析的検討の深度については別途検証の余地がある。特に、個別の展覧会の列挙とそれらの理論的背景の整理との関係については、ほとんど及んでいないと判断される。1995年の上記展覧会で金子が紹介した広島を撮影した写真家たちの作品を真剣に調査研究することも敬意を払うことさえせず、上澄だけを掬い取り「金子の実績に敬意を」といったポーズを取ることは、ある意味欺瞞ではないだろうか。
前出、1995年の展覧会「核―半減期 The Half-Life of Awareness: Photographs of Hiroshima and Nagasaki」などの先行研究・展示記録を参照すれば、被爆地表現に関する議論が当時すでに金子によって体系的に蓄積されていたことは明らかである。したがって、これらの既存の蓄積との関係性を十分に踏まえないまま現行の解釈が提示されていると判断され、学芸員の理解・研究不足から今回の事態に至ったと判断できる。
さらに、写真美術館における被爆地表現の取り扱いは、単なるイメージの提示にとどまらず、歴史的文脈の検証と解釈の責任を伴うものである。現在の同館における現状は、被爆地ヒロシマ・ナガサキに関する歴史認識についての美術館のモラルさえも問われる、イメージ先行のこの上なく危険な兆候であると言える。

広島平和記念資料館の規定に反した撮影写真の利用
・撮影した資料の写真は被爆の実相を伝えるという目的のみに使用すること
・被爆の実相を伝えるのではなく個人の利益を追求し、収益のみを挙げる事を目的とした行為は認めていない
これは、広島平和記念資料館が、被爆資料を撮影する撮影者に対して提示している基本的な撮影条件である。
上記画像は動画内に挿入された展示風景だが、被爆資料の持ち主の名前も一切なく、また、寄贈者の名前はアルファベットのみで小さく記されている。さらには資料の原型を止めていないほどのトリミングは、資料館の提示する撮影規定・撮影写真の使用条件に違反している。これは「単なる被爆資料を利用した自己表現」であり、「被爆の実相を伝える」ことにはほとんどつながっていないと判断されるからである。
「遺品」ではないものを「遺品」と美化する行為
さらには「被爆の実相」を伝えていないどころか、事実に反する誤った解釈を作家自ら行い、その誤った内容が「事実」として、美術館学芸員や広報、報道によって広められていることを問題視せねばならない。
【誤】ここに写る4点の作品は、すべて石内の言う「(76年前の)遺品」には該当しない。一点の来歴不明資料を除き、他3点はすべて、被爆し生存した持ち主本人が自らの意思で自ら資料館に寄贈したものであり、「遺品」ではない。

(左)〈ひろしま #131 donor:Masaki, S〉2020
ワンピース 寄贈日:1973/06/21 寄贈者:正木サチエ(本人)
正木サチエさん(当時27歳)は的場町の勤労奉仕作業現場で被爆した。左後方から熱線を浴 び、一瞬にして左肩、足、腕に火傷を負っていた。自宅に残してきた当時6歳と3歳の子どもの 身を案じ、必死で自宅に戻ると、家は爆風で傾き、ガラスが散乱、子どもたちは怪我をしてい た。サチエさんはしばらく高熱が続き、火傷を負った背中からは膿が出続けた。家族の懸命の 看病により一命は取りとめたが、腕にはケロイドが残った。
(左から二番目)〈ひろしま #125〉2020
ブラウス 持ち主、寄贈者、寄贈日いずれも不明。
「持ち主が死亡した」という根拠はない。
(右上)〈ひろしま #45 donor:Takase, F.〉2007
ワンピース 寄贈日:2005/11/5 寄贈者:高瀬二葉(本人)
髙瀬(旧姓 三戸)二葉さんは、母節子さん(当時38歳)と妹かすみさん(当時15歳)とともに7月26日、東京から広島の親せき宅へ疎開してきたばかりでした。大手町にあった疎開先で三人とも被爆。母親の節子さんは足にけがを負いながらも、二人の娘を倒壊した家の中から助け出しました。二葉さんんとかすみさんは、節子さんを両側から支え、火の海となった街から避難しました。節子さんは9月1日に敗血症で亡くなり、二葉さんとかすみさんも原爆症を発症しましたが、その後回復しました。これは、二葉さんが当日着ていたワンピースとです。
本人手記より
このワンピースは母の手作りでしたので、形見と思って大事にして、結婚する時も荷物の底に入れて持参しました。 多くの方に核兵器の恐ろしさや戦争のむなしさ、醜さ、苦しみを知って頂いて、良識を持って核の無い平和であり続ける幸せを目標にして頂きたいと願っています。

「母の形見/本人の持ち物」であるはずのワンピースが石内によって勝手に「遺品」とされた上に、ワンピースの原型がわからないほどのトリミングが施されたこの写真で、高瀬さんが望んだ「多くの方に核兵器の恐ろしさや戦争のむなしさ、醜さ、苦しみを知って頂いて」という思いは果たして伝わるだろうか、との懸念しかない。
(右下)〈ひろしま #79 donor:Kanbe, M.〉2008
建物疎開作業現場で発見したくし 寄贈日:2005/09/09 寄贈者:神戸美和子
1945(昭和20)年8月初め、寄贈者の神戸美和子さん(当時7歳)は、母親に連れられ、福屋百貨店近くの建物疎開作業現場へ行った。そのとき、引き倒された建物のがれきの下からこのくしを見つけ、持ち帰った。神戸さんは、数日後東雲町の自宅で被爆した。その後、このくしをいつか持ち主のもとに返したいと、ずっと大事にもっていた。
この資料に至っては「寄贈者や親族の持ち物」でさえなく、当然「遺品」などと安易に断定できるものではない。原爆投下後、市内で見つけ「いつか持ち主に」との思いで保管していたものである。そして、そのような資料寄贈のケースが数多くあるのである。当然、本来の持ち主が生存しているのか、亡くなったのかさえも不明である。
うち3点の資料は、生存した被爆者自身によって寄贈されたものであり、少なくとも寄贈時点において「遺品」という概念で一括することは適切ではない。にもかかわらず、これらを一律に「遺品」として分類する言説は、個別の来歴や所有主体の差異を捨象し、被爆資料を象徴的・情緒的なイメージへと還元する危険性を含んでいる。
「情緒的で感動的・象徴的なヒロシマ」の上澄イメージだけを抽出し、「ヒロシマをわかったような気にさせる」ためには有効な手段であるが、事実とは乖離している。
ヒロシマの被爆資料に関する資料の意味内容を正確に把握するためには、各資料の来歴や寄贈経緯に関する基礎的調査が不可欠である。しかし現状の石内都〈ひろしま〉の展示に関わる言説や提示のあり方においては、そのような個別的検証が十分に行われていない可能性があり、資料分類の妥当性および解釈の前提について検証・再検討が求められる。
資料の原型を損なうほどのトリミング行為(規定違反)
数々の規定を遵守しないトリミングも資料館の撮影規定に明確に違反している。資料の持ち主や寄贈者のみならず、ヒロシマそして被爆者に対する冒涜行為であるとの指摘が数々の市民団体や資料館への寄贈者の遺族からも複数挙がっていることが確認されている。

規定に反した「個人利益を追求」に該当するキャプション(ギャラリー名の表記)
さらに展示のキャプションや印刷物のクレジットに着目すると、所蔵先の「広島平和記念資料館」というクレジットも一切なく、代わりに大きく記されているのが石内の所属ギャラリー「The Third Gallery Aya」の名前である。この作品が紛れもなくギャラリーの商品であり売買の対象であることを明確に提示しているが、これもまた資料館の禁止する「個人の利益を追求し、収益のみを挙げる事を目的とした行為」に十分該当する。
公的な美術館において、(個人利益の追求が本来認められていない)被爆資料とヒロシマという名の絶大な影響力を最大限に利用した作品において、私設のギャラリーが絶大なPR効果とともに実質的な利益を得ることについて、東京都はその判断と決定プロセスを説明する必要があると考えられる。
さらに、美術館における評価が市場における作品価値形成に影響を及ぼしうる点を踏まえると、展示決定や運用プロセスの妥当性、ならびに利益相反の可能性については、制度的観点から整理される必要がある。これらの点は、文化機関における倫理規範および運営の透明性という観点から継続的な検討課題となる(他館にて指摘されている石内による学芸員の高額接待及び展示における過度な優遇事例問題など、公務員倫理規定に反する行為がなかったか、改めて検証されねばならない事案である)。
・東京都による〈ひろしま〉作品購入実績
この展覧会のために複数の〈ひろしま〉の作品が東京都によって購入された記録がある。購入先は前出のThe Third Gallery Ayaである(購入金額は各作品推定100万円程度)。被爆者の遺品などの被爆資料、つまり「ヒロシマを売買する」ということに関しては、以前から撮影者のモラルの問題が指摘されているが、この作品の購入を働きかけた担当学芸員がこういった売買に関して、資料館の規定や倫理の問題を確認したり疑問を呈したという記録は一切ない。
(また、現時点で、平和記念資料館はこの売買についての事実を把握していないことも確認されている。)

・令和2年度東京都写真美術館資料収蔵委員会議事録
・令和3年度東京都写真美術館資料収蔵委員会議事録
今後、当会は東京都生活文化スポーツ局及び、東京都写真美術館上記展覧会企画担当の山田学芸員にこれら作品の売買に関する公開質問状を送付する予定である。
2025年開催「作家の現在 これまでとこれから」
総合開館30周年記念 作家の現在 これまでとこれから
2025.10.15 (水) — 2026.1.25 (日)東京都写真美術館2F展示室
2021年の展覧会で展示された内容とほぼ同じである。同じ作家の同じ作品の展示を、同じ場所でこれほど期間を空けることなく行う点については、公立美術館としての客観性や公平性を欠いているように判断されるが、学芸課内での展覧会決議プロセス、学芸員と作家及びギャラリー間の何らかの利益相反関係等の有無を確認する必要性から、当会では2021年と2025年の該当展覧会の契約内容と契約先・金額について、2026年3月15日に情報サービスに開示請求を行った。
回答は以下
ご要望の情報は指定管理者である公益財団法人東京都歴史文化財団が保有する情報になり、東京都からは回答ができませんので、東京都歴史文化財団に直接お問い合わせいただくようお願い申し上げます。
2025年の展覧会の契約について、東京都からの案内通り公益財団法人東京都歴史文化財団に問い合わせたが、回答は得られていない。
2025年に開催された本展覧会についても、複数の課題が指摘される。担当学芸員は公表されていないが、プレスプレビューやインタビュー内容から、事業企画課長・丹羽晴美氏である可能性が高いと考えられる。丹羽氏は笠原元課長の方針を継承し、歴史よりもアートおよびフェミニズムを重視する傾向が認められ、関連イベントにおいて笠原氏を複数回招聘するなど、両者の関係性は密接であると推察される。
また、笠原から丹羽・山田へと継承された石内都作品の扱いにおいては過度な優遇が見られ、その一環として、過去の広島・長崎の写真表現史を十分に踏まえない広報資料や作品解説が作成・配布されている事例が確認された。さらに、写真美術館におけるヒロシマ・ナガサキ関連展示の解釈や確認体制には不備が見られ、プレスリリース等においても写真史および広島の写真表現史と整合しない記述が散見される。

「被爆者の遺品」という雑な一括り

今回の展示の一壁面であるが、これらも全て「遺品」と説明されているが、実際にはほとんどが遺品ではない被爆資料である。
(左)不明 ※トリミングにより資料の原型が完全に失われており、これが一体何なのか、調査する手掛かりさえも失われている。
(左から二番目)ブラウス 寄贈日:1999/08/06 寄贈者:安部初子(本人)
寄贈者の安部初子さんは白島九軒町の自宅で被爆。生後1ヵ月の娘博子さんを抱いて、つぶれた家の下から夢中で這い出した。夫の勝茂さんは自宅を出てすぐ、電停近くで被爆し、大火傷を負った。
避難場所として定められていた神田橋下の川原で再会、親子3人で祇園まで逃げた。その時着ていた衣服。初子さんのブラウスはその日おろしたてだった。のちに、実家のある福岡へ帰ったが、9月17日頃から娘の博子さんが体調を崩し、9月24日朝亡くなった。医師には、原爆症と病名をつけられた。
このブラウスは安倍さんの「遺品」ではない、本人の持ち物である。安倍さん自身は生き残ったが、生後2ヶ月の幼い娘を亡くしている。
(左から三番目)(前出)くし
(右から三番目)(前出)ワンピース
(右から二番目)看護婦の制服 寄贈日:1999/09/11 寄贈者:大井松恵(本人)
大井松恵さん(当時26才)は、当時基町の広島第二陸軍病院第10号病棟で看護婦をしていた。8月5日が夜勤だったため病院に泊まり、朝の仕事をしている時原爆にあい、建物の下敷きになった。自力で這って脱出したもののひどい打撲を負っていた(火傷は負わなかった)。既に建物には火がまわっており、危ないところだった。避難しようと思ったが、木谷病院長が背中が割れたまま救護にあたっており、「皆も救護にあたるように」と指示した為、1週間ほど食事もとれないほど体調が悪い中、救護作業に従事した。その際、身につけていたもの(被爆時も着用)で多数のしみがついている。
※この「看護師の制服」に至っては、女性誌などでこれらを「看護師の制服」とは知らず「ギャザーの入ったお洒落なデザインのワンピース」として石内が認識している記事が確認されており、ギャラリートークなどで学芸員もまたそのような解説をしていることが確認されている。著しく事実が美化され歪められていることを端的に示す事例である。

(右)下駄 寄贈日:2022/09/06 寄贈者:松本幸子(本人)
松本幸子さんが、細工町の丸米履物店で母親に買ってもらったもの。下駄の先には雨の日のための泥除けがついている。
幸子さんの父・喜代吉五郎さんは、猿楽町で「相互金融広島不動会」という会社を経営しており、幸子さんは店舗兼自宅だった家からこの下駄を履いて、元安川東詰めの細工町にあった和裁と洋裁の教室に通った。
被爆時には、一家は広島駅近くの二葉の里に引越し、この下駄もそこで被爆した。幸子さん自身は、結婚して神奈川県に住んでいたが、空襲による被害を避けるため、1945年(昭和20年)2月頃に実家に戻っていた。庭で被爆した幸子さんは、爆風で吹き飛ばされ、顔やひじにやけどを負い、足にはガラス片が突き刺さった。その後、自宅には近所の人たちが避難してきたため、幸子さんは傷ついた人に包帯を巻くなどした。
この問題に対し、土田ヒロミは自身のX(旧ツイッター)で以下のようにコメントしている。
広島平和記念資料館の所蔵資料には被爆者の遺品もたくさんありますが、遺品ではなく生存した本人が寄贈したもの、持ち主が誰かに託したもの、被爆していないもの、拾われたもの、何もデータがない不明なものなど、それぞれに全く異なる一つ一つの物語があります。その多様さにこそ資料館の意味と意義があるのです。多彩な表現のあり方を否定はしませんが、自己表現のために被爆資料の所有者個々の存在を消去し、ひとまとめに「遺品」という言葉で象徴性と情緒性を付加した虚像に共感や感動を促すことは少々欺瞞的に思えます。
作品イメージが評価されれば良しという歴史軽視の姿勢が、資料の持ち主や物語の存在を希薄にさせ、資料の写真を高額取引することに誰も疑問さえ抱かない現状につながるのでしょうか。ヒロシマを取り巻く様々な状況や被爆者・寄贈者など人々の心情に本当の意味で想いを馳せるならば、ヒロシマを私物化しそれを売買するような行為に及ぶことなどできないのではないかと。
https://x.com/hiromi_tsuchida/status/1999790124520153366
歴史軽視/コンセプト盗用疑惑
「戦時中の女性たちはもんぺの下にお洒落でちゃんとしたものを大事に着ていた」
【誤】お洒落でちゃんとしたもの
当該記述における「お洒落でちゃんとしたもの」「女性が」といった表現は、女性全体を一括りにするものであり、一般化として不適切である。また「ちゃんとしたもの」という表現がモンペ以外の衣服を指すと解される場合、モンペを相対的に低位に置く価値判断を含む可能性があり、そのような表現を公的配布物に採用した根拠は明確ではない。
さらに、本解説は石内都による新規の発見であるかのような叙述となっているが、「モンペの下にワンピースを着用していた女性」の存在は、既に1982年の土田ヒロミ《ヒロシマ・コレクション》において提示されており、先行する写真表現との関係整理が不十分であるといえる。

ワンピース (土田ヒロミ〈ヒロシマ・コレクション〉1982)
寄贈:1974年1月30日/寄贈者:小川リツ(小川節子さんの母親)/570×820mm 小川節子さん(当時21歳)は第五師団司令部(爆心地から790m)で朝の体操中に被爆。縮景園に逃げたが、火の勢いを避け京橋川に浸っているところを兵隊に助けられ、師団司令部に収容された。9日、似島に転送されたが、11日に死亡。この絹のワンピースは、上着とモンペの下に着けていたもの。
なお、本作を含む土田ヒロミ《ヒロシマ・コレクション》は同館の所蔵作品であり、同シリーズは23点が1994年に収蔵されている(収蔵形態は「購入額0円」=「寄贈」被爆資料の写真は販売しないという土田の基本方針による)。
しかしながら、担当学芸員が自館コレクションの基礎的事項を十分に把握していない可能性が指摘されるほか、被爆地ヒロシマ・ナガサキを対象とした写真表現史、とりわけ広島の被爆資料を撮影した先行事例に対する参照が不十分である点も課題として挙げられる。

(承前)持ち主の小川節子さんがこのワンピースをモンペの下に着ていたという物語があり、1982年に発表した作品中にそれを明記しています。 複数の方が指摘していますが、25年後の2007年に被爆資料を撮影した女性写真家がこの「モンペの下にワンピース」といったフレーズをコピーのように使用しているとのこと。その人物による「以前はモンペと防空頭巾のモノクロ写真しかなかった、被爆遺品の現在を撮ったのは自分が最初」といった発言も散見されるようです。 私は1982年の時点で、被爆資料を現在(コンテンポラリー)として撮影しており、そのほとんどはワンピースやスカート、シャツなど現代に通じる日常の衣類や日用品。100点ほどの写真の中でモンペや防空頭巾はわずか2〜3点しかありません。 後発写真家が自身の評価を上げるために先行事例を否定し、虚偽発言を重ねることはさておき(被爆資料の写真を高額販売する行為と同様、これも写真家としてのモラルの問題です)、根拠のない発言を鵜呑みにし、歴史や前例を調べることもなく解説をしてしまう学芸員や専門職の資質こそが問われるべきでしょう。写真美術館という名を有する美術館なのであれば、学芸員は最低限の写真史くらいは学んでいただきたいものです。
東京都写真美術館広報課宛の公開質問
2026年1月3日付で当会は、東京都写真美術館広報課宛に文書にて、以下の項目について回答を求める文書を送付した。

つきましては、事実確認のための質問内容を別紙にてお送りいたします。該当学芸員及び広報担当者に 内容ご確認いただき、【質問1】へのご回答及び【誤1】〜【誤5】に対するご見解を 1月16日(金)までに メールにてお戻しいただけるようお願いいたします。

【質問1】担当学芸員と広報担当として、以下の事実誤認やミスリードが想定される内容を含む作家解説を配布することは、写真を専門とする機関として適切であると思われますか。
【誤1】 資料すべてを「被爆者の遺品」と一括りにしているが、実際には被爆者で はない人のもの、生存した本人が寄贈したもの、寄贈者も不明で遺品であるか の判断ができない記録が残っていないものなど様々な背景が存在する。 ポスターの下駄も「遺品」ではなく本人寄贈の資料である。
【誤2】 「もんぺの下にワンピースを着ていた」という事実は、土田ヒロミが1982年 に発表した〈ヒロシマ・コレクション〉の代表作品である《ワンピース(寄贈者:小川 リツ)》(1982)においてすでに言及されている。被爆資料の背景にあった人々の 日常生活と現代を結びつけるコンセプトについても土田が1982年に確立した方 法論であり、それらを「石内が初めて見出した」かのようなミスリードを促すこの解 説文は、写真史の文脈において適切ではない(石内が土田のコンセプトを歪曲 解釈している数々の発言については、複数の文献で確認されている)。 また「ちゃんとした」という記述は特定の衣類を差別する意識が示唆されており 適切ではない。
【誤3】 ここで作家の言う”ひろしま”は概念としての”ヒロシマ”であり、作品評価に おいてもカタカナのヒロシマの持つ意味と影響力に多くを依っている。にも関わ らず「カタカナのヒロシマは男が言うこと」といったフェミニズムを乱用した誤った 主張で先人の仕事を否定し貶める発言を繰り返してきた作家の歪曲したヒロシ マの認識については、改めて問われる必要があるだろう。
【誤4】戦勝国と敗戦国の違い、日本の戦争加害についての歴史観の差異と いった当然の事実を特筆する理由が不明。「外国」という分類も、「遺品」「被爆 者」「男性/女性」という事実に沿わない大きな主語、雑な分類で共感性や情緒性を煽り、持論を押し通してきた作家の長年の行為と同類の印象を受ける。
しかしながら回答締切前日である1月15日に同館広報課からメールにて送付された回答は以下の通りである。
ヒロシマ写真表現史検証会御中
このたびは、当館へご意見・お問い合わせをお寄せいただき、誠にありがとうございました。内容は館内で共有させていただき、今後の業務の参考とさせていただきます。今後とも当館の活動へご理解を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
東京都写真美術館
こういった誤情報拡散の可能性を孕む指摘にも、対応するつもりはないという同館の方針姿勢を示している内容であった。つまり、写真史としてもヒロシマの歴史的事実としても明らかに誤った内容の印刷物が配布されることに対して、館としてそれを認めることも修正することもしないということであるが、公的な研究機関としてそういった姿勢は許されることであるか、美術館の対応判断についての是非を問う必要がある。
生存した人それぞれの人生を完全に無視し、勝手に「死者」として祀りあげ、架空のストーリーとともに広島のイメージを矮小化し美化することは欺瞞と自己満足でしかない。それに賛同した者も同じである。個人的な自己表現の範疇であれば許されるが、絶対的な「ヒロシマ」の事実を背景にし、さらにはその事実の存在を自らの作品評価にて享受している以上、過去の出来事を「(表現の)自由」といった免罪符を振り翳し勝手に解釈することは許されないことである。専門家として最低限のデータ確認や検証さえも怠り、ヒロシマという今もなお続く出来事の現実から目を逸らし、架空の仮想敵に対抗するフェミニズムという名の連帯と心地よいナラティブに酔いしれ、誤った歴史改竄に加担しようとしている学芸員たちが今最低限行うべきは、自らの行為を振り返り、ヒロシマの歴史と表現史に関する誤りを認め、修正及び説明、再発防止に努めることしかないであろう。
東京都写真美術館 元事業企画課長笠原美智子と石内都との関係
笠原はヒロシマの写真表現に関する発言については、史実との整合性に配慮し、自らの言説において慎重な姿勢を取っていたと考えられる。一方で、ヒロシマの表現をめぐり、石内や関係者らの写真史に関する十分な知識を欠いた言説に対して、明示的な修正や訂正が行われていない状況も見受けられる。写真美術館という日本で数少ない写真専門の美術館の主要ポストにありながら、ヒロシマの写真表現史に関わる事実誤認だらけの石内の言動を修正することもせず、自らはそれに一切言及しないことで 批判の矛先が向く可能性を避けるというスタンスを貫いていたと考えられる。
2016年の同館リニューアル時に「アート」に重点を置き、写真史を軽視する方向性に舵を切ったと思われるが、その弊害として、学芸員の世代交代などに伴い、ほとんど写真史や写真技法の知識を持たない学芸員が 人事異動や新規採用で写真専門の美術館に就任し、歴史的な知識のないまま「アート性」「フェミニズム」に著しく偏った展覧会を企画しているという現状がある。都の同じ財団下に東京都現代美術館があり、そこで扱われている写真作品との明確な線引きを見出すことは困難であり、写真美術館が引き続き現状の歴史軽視の姿勢を貫くのであれば、写真美術館の存在価値・意義は今後ほとんど見出せないであろう。
参考)第51回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展(2005年)
コミッショナー:笠原美智子(東京都写真美術館学芸員)
上記の凱旋展が2006年に笠原によって東京都写真美術館で開催され、展覧会を見た集英社の編集者が石内に広島の被爆資料の撮影を依頼するということに繋がったとの記録がある。
追記しておきたいのは、上記で浮上しているのは石内による土田のコンセプトの「盗用疑惑」であるが、この「mother's」について詳細を検証することで、土田の構図についてもその一部が、石内によって「剽窃」された可能性についても見えてくる。改めて別項で検証する。
石内都:mother's(マザーズ)2006.9.23(土・祝)—11.5(日)
フェミニストを声高に自称する笠原が、2000年以降のフェミニズムのブームと、学芸員自らが積極的に推そうとする作家のみを正当化するあまり、同館における歴史認識を大きく歪め、広島の写真表現の歴史についての同館の認識が、根拠もなく「男性」の表現を貶め、モノクロ写真への偏見を形成するような歴史改竄に等しい状態にまで陥っていることは甚だ遺憾である。
(参考)記事最下段「I'm so happy you are here 」(執筆参加 山田、笠原)
