事例#03 (ファクトチェック)海外メディア、英文記事
ヒロシマを主題とする報道には、広島と他地域という国内での地域差に加え、国内外における顕著な認識の差異が存在する。とりわけ、第二次世界大戦の戦勝国(特に原爆投下国であるアメリカ)および日本の加害の歴史と密接に関わるアジア諸国における受容の差異は、各国における「ヒロシマ」の受け止め方の問題は当然留意されねばならない。
また、石内都の〈ひろしま〉をめぐる報道および論考においては、こうした認識差を前提としつつ、日本語の「ヒロシマ」のカタカナ・ひらがな表記の曖昧性に加え、主としてジェンダーに関わる問題について、国内外で発言内容を意図的に調整していると推察される事例が複数確認される。
World Socialist Web Site
「ひろしま:日常の美しく心に響くイメージ。しかし、それだけで十分なのだろうか?」(ポール・ミッチェル)2025年9月21日
ひろしま / hiroshima: Beautiful and poignant images of the everyday, but is that enough?/Paul Mitchell
2025年にロンドンの 大和日英基金(Daiwa Foundation Japan House Gallery) で開催された、日本人女性写真家3名(石内都、藤岡亜弥、笹岡啓子)による「ヒロシマ」を主題とする展覧会に関する記事である。本稿では、イギリス人である筆者が抱いた石内の作品と発言に対する違和感と批評が簡潔に示されている。こうした批評的言説が日本国内ではほとんど見られないという事実は、日本の美術界におけるジャーナリズムの機能不全を明確に示すものである。
しかし、これらの作品には問題もあると筆者は指摘する。多くのレビューが彼女たちの「ジェンダーに根差した独自の視点」や、男性中心的ドキュメンタリーへの挑戦、「大きな物語」(マルクス主義的歴史観を指す)への抵抗を強調することに警鐘を鳴らす。
個人の遺品や日常の営みは集合的記憶を喚起する強力な手段となりうるが、恐怖を過度に「美化」することは、苦難を個人化・非政治化する危険を孕む。階級闘争や帝国主義、資本主義的疎外といった構造的要因への批判的関与から退却しかねない。
【注】多くのレビューが彼女たちの「ジェンダーに根差した独自の視点」や、男性中心的ドキュメンタリーへの挑戦、「大きな物語」への抵抗を強調することへの警鐘
【注】個人の遺品や日常の営みは集合的記憶を喚起する強力な手段となりうるが、恐怖を過度に「美化」することは、苦難を個人化・非政治化する危険を孕む。
ともに、この記事の著者による極めて正当な指摘であり作品への批評である。
だが、そこには(石内による)一つのメッセージ——男性の問題——があった。占領下の横須賀には「男とアメリカの匂い」があり、広島の歴史も「非常に男性的なテーマ」に支配されてきたという。
【注】【誤】占領下の横須賀には「男とアメリカの匂い」があり、広島の歴史も「非常に男性的なテーマ」に支配されてきたという。
広島の表現史が「男性的なテーマに支配されてきた」とする石内の主張には、写真史に沿った明確な根拠は認められない。石内の言う「男性的」という概念と、写真家の多くが男性であったという事実とは、指し示す意味内容が本質的に異なるためである。さらに、石内は2007年に集英社から広島の被爆資料撮影の依頼を受ける以前には、広島に対して一切関心を有していなかったと述べており、相対的に広島の歴史について語れるほど同地の歴史および写真表現に関する知識が十分であるとは考え難い。したがって、この発言は、石内の個人的感情ー主に男性コンプレックスと推察されるーや、例えば土門拳の作品を一瞥した程度からの印象に依拠したものと推察され、広島の表現史に関する実証的理解に基づくものではないと言える。
被爆地の表現を、特に被爆者との関わりを含めて重層的にしかも長期的に継続している写真家ー例えば東松照明や土田ヒロミらは、安直にヒロシマ・ナガサキについて断定することの難しさを熟知している。彼らはアナログからデジタル、モノクロからカラーという時代の転換期を経ながら、50年以上被爆地の撮影に関わり続けた/続けている。石内はわずか20年弱ほど主に広島の平和記念資料館に所蔵されている被爆資料を撮影したのみである。それだけの個人的で断片的な経験で「広島の歴史」について全く根拠のない断定ができることに驚かされるが、それはまさに「広島の歴史」を何も学んでいない/学ぼうともしていない者であるが故の安直な発言であると判断できる。
石内は、1950年代後半に被爆者を力強く撮影した写真家土門拳を批判した。彼は反戦・平和を強く訴えるドキュメンタリー作家であり、彼女はその写真を初めて見たとき「少し吐き気がした」と語った。
【注】石内は、写真家土門拳を批判した。彼女はその写真を初めて見たとき「少し吐き気がした」と語った。
石内の〈ひろしま〉の表現は、ヒロシマの被爆資料を題材とした個人的な自己表現である。一方で、土門の「ヒロシマ」は人道的観点および社会的影響力の両面から重要であり、石内の作品と同列に論じることは適切ではないと考えられる。石内が土門を批判する資格は本来的には存在せず、土門の名を引用することで自らを同等の(社会的)立場に置こうとする意図が推測される。また、石内は「男性」という仮想的な対立対象を想定させた上で、土門の表現に「吐き気がした」と述べることで、女性である自身の表現を相対的に優位に見せる試みを常習的に行っている可能性がある。さらに、この種の「土門拳作品に吐き気がした」といった類の発言は日本国内では確認されていないことも注記されるべきである。
「モノクロでドキュメンタリーを撮る男たちばかりだった」。
討論者の一人が「オールドボーイズ・クラブ」と評すると彼女も同意し、「男性はいらない。扱うのが本当に面倒」と結んだ。
【注】【誤】「モノクロでドキュメンタリーを撮る男たちばかりだった」(石内)
ヒロシマの写真表現は、1945年代以降2000年代に至るまで、写真家によって多様かつ異なる形態で展開されてきた。その中にはモノクロ作品もカラー作品も多く含まれていることは、改めて説明を要しない。また、ドキュメンタリーという枠組みにおいても、純粋なメディア報道的表現と、作家性を前面に出した表現という、方向性の明確に異なる二つの流れが存在する。さらに、アートとしての表現、あるいはドキュメンタリーともアートとも断定し難い表現、そして時代によって評価が変動する表現も数多く存在することが、歴史的事実として確認される。したがって、自らの表現を特別化することのみを目的として、歴史的に行われてきた多様な表現を一律に「モノクロのドキュメンタリー」と総括する根拠は一切存在しない。
【注】「オールドボーイズ・クラブ」
写真史の中で特定の傾向があったことは事実であるが、それは「ヒロシマの表現史」には直接的に関連しない。むしろ、ヒロシマの状況や日本写真史の動向を把握しにくい海外向けに、フェミニズムを悪用し巧妙にイメージを刷り込む手法であると判断される。
ヒロシマの写真表現史に登場する主要な写真家(例:土門拳、川田喜久治、石黒健治、細江英公、土田ヒロミ、大石芳野、江成常夫、笹岡啓子ら)を見ても、彼彼女らは活動時期も異なり、個々に独立して発表を行っており、師弟関係や系譜は存在しない。また、表現やコンセプトの類似性もほとんどなく、それぞれ独自の表現を展開しており、現在も活動を継続する写真家が複数いる。
このような状況にもかかわらず、特定の共通項(例:女性/フェミニズム)だけを根拠に多くの女性たちを連帯させ、史実を無視した「ヒロシマの虚偽の表現史」が量産されてきたことは、世代交代が進む現在において特に問題視されるべきである。この虚偽の表現史の特徴として、主に男性写真家の表現を貶めるデマが「女性の視点」として、史実に基づかない情緒性や勢い、雰囲気によって広められ、その結果として女性の作品の評価を高めるという効果をもたらしてきたことが挙げられる。
逆に言えば、作品や史実に基づき一次資料を検証すれば、これらの主張がデマであることは容易に判別可能である。しかし、これまで多くの記者や研究者は基本的な検証を怠り、フェミニズムの主張を乱用した勢いや雰囲気に流される形で、正当な反論が封じられてきたという歴史的事実が存在する。
【注】「男性はいらない。扱うのが本当に面倒」(石内)
これも「土門拳の作品を見て吐き気がした」や「オールド・ボーイズ・クラブ」といった発言と同様に、強硬で過激な態度を通じて先鋭的フェミニストを装う、主に海外向けの自己PR手法の一つであると考えられる。しかし、これらの威勢の良い発言には個人的感情や情緒性は認められるものの、多くは根拠に乏しく、写真史に関する事実誤認が多数含まれていることが確認される。
また、石内の写真家活動において、特に初期、多くの「男性」写真家や「男性」の協力があったという事実も忘れてはならない。
土門は「絶対非演出」を掲げ、プロパガンダや単純な教条主義を拒みつつ、生の現実を捉えた。《ヒロシマ》(1956)は、統制された原爆表象に抗う感情的かつ率直な応答であった。彼は、戦争に触れない展覧会を開く写真家たちを批判した。
(中略)
土門の作品は反核運動や人道的・社会主義的運動の視覚的刺激となった。対照的に、《ひろしま / hiroshima》が同様の役割を果たすことは想像しがたい、と筆者は結論づけている。
【注】土門の作品は反核運動や人道的・社会主義的運動の視覚的刺激となった。対照的に、石内の《ひろしま / hiroshima》が同様の役割を果たすことは想像しがたい。
著者によるこの分析は極めて妥当かつ的確である。むしろ問題となるのは、日本国内において同様の批評がほとんど提示されず、美術界および現代写真界がヒロシマ表現を「美しく心に響くイメージで十分」とする領域に留めていることである。
・展覧会について

広島は、戦争による破壊の地であると同時に平和の象徴としてのイメージが繰り返し強調され、ときに政治的な目的や特定の歴史認識を形成するために選択的に利用されてきた。その一方で、そこに暮らす人々の日常や、一人ひとりの個人的な記憶は、これまで十分に顧みられてこなかった。
【誤】そこに暮らす人々の日常や、一人ひとりの個人的な記憶は、これまで十分に顧みられてこなかった。
石内が繰り返し主張してきた「過去の男性写真家は反戦・平和や政治的な広島しか撮ってこなかった」という認識は、事実に反する。名取洋之助や長野重一は戦後間もない時期から広島の日常風景を数多く撮影しており、「反戦・平和」や「政治的ヒロシマ」という枠組みからの離脱も、1960年代にはすでに石黒健治の「ヒロシマから広島へ」という思想のもとに撮影された一連の作品発表によって早くから実践されている。また、土田は1970年代に被爆者一人一人の日常をテーマに《ヒロシマ1945-1979》で100名以上の取材をまとめており、また1982年の《ヒロシマ・コレクション》は、被爆資料の所有者一人ひとりの存在と1945年の「日常生活」に焦点を当てた作品である。したがって、2007年という時点になって石内が、自ら初めて広島のそうした側面を発見したかのように語るのであれば、それは写真史・ヒロシマ史双方に対する認識の欠如に基づく自己神話化、あるいは他者の作品のコンセプトを歪めることで自作の価値のみを過度に正当化するための誤った言説であると言わざるを得ない。
(追記)この展覧会は、石内が笹岡と藤岡の二人に呼びかけて構成されたものだという。しかし、「女性が広島を撮ること」における「女性」という属性が必要以上に強調されている一方で、この三名に共通するものは性別以外にほとんど見出せない。
むしろ「広島をテーマとする写真家」という観点から見れば、両者の立脚点は石内とは完全に異なる。笹岡は東松照明―森山大道―北島敬三という系譜に位置づけられる写真家であり、広島の撮影も石内に先行してモノクロームとカラーで行っている。また藤岡についても、広島以前の主要シリーズにおける写真表現の指導者は土田ヒロミであった(公には語られていないものの、関係者の間では知られている事実である)。さらに、藤岡に広島を撮影することを強く勧め、広島における撮影の方向性から写真集の編集に至るまで深く関与したのも土田であった。土田の存在なくして、藤岡の「広島」は成立しなかったと言っても過言ではない。第43回木村伊兵衛賞を受賞した藤岡の『川はゆく』(2017)は、土田の『ヒロシマ2005』(2005)におけるカラーの広島風景の系譜に連なることが明白である。それにもかかわらず、本作を「これまでになかった女性の視点からの広島」と位置づける言説は、両者の連続性を認識する者にとって、著しく説得力を欠くものといわざるを得ない。
このような背景を踏まえると、石内が自らの対立項として語ってきた「男性のヒロシマ」の系譜に連なる若い世代の二人を、あたかも「女性の広島」を象徴する存在であるかのように自らの枠組みに取り込み、その文脈に沿って提示していることには大きな違和感がある。それは、二人の作品が本来持つ歴史的・表現的文脈を十分に提示することよりも、「女性」という属性を自らの主張を補強するための記号として利用することを優先したキュレーションと言わざるを得ない。
結果として、この展覧会は三者の広島の作品の本質的なコンセプトや特性を照らし出すものではなく、「女性が広島を撮る」という石内のための物語を成立させるために、石内が作家たちを恣意的に配置した企画であることを露呈している。
British Journal of Photography
「石内都は、過去の物質的遺物の中に宿る人間の気配を照らし出す」
(マリーゴールド・ワーナー)2022年8月5日
Miyako Ishiuchi illuminates the human presence in material possessions of the past / MARIGOLD WARNER
10年以上にわたり、石内は太平洋最大のアメリカ海軍基地を擁する港町・横須賀を記録した。彼女は戦後日本写真の特徴である「アレ・ブレ・ボケ」(粒子が荒く、ぶれ、ピントの合っていない)スタイルで、米軍占領の残滓を写し出した。横須賀のような軍港ではレイプやその他の暴力犯罪が横行しており、若い女性だった石内もその暴力を目の当たりにしている。「そこで負った思春期の傷跡は、私に大きな影響を与えました……横須賀が私の写真の出発点だったと言えるでしょう」と彼女は2021年、『Ocula Magazine』のインタビューで語っている。
【注】横須賀のような軍港ではレイプやその他の暴力犯罪が横行しており、若い女性だった石内もその暴力を目の当たりにしている。「そこで負った思春期の傷跡は、私に大きな影響を与えました……横須賀が私の写真の出発点だったと言えるでしょう」(石内)
2014年のハッセルブラッド国際写真賞をはじめ数々の国際的な賞を受賞しているにもかかわらず、石内は西洋においては日本の戦後写真を代表する人物の中では比較的知られていない存在である。彼女は自身の世代を「男社会」と表現する。東松照明、森山大道、荒木経惟、深瀬昌久らがその代表的存在であり、彼らは石内の同時代人だった。彼女は新宿ゴールデン街の裏通りのバーで、彼らと毎週のように飲んだという。そこはかつて芸術家や音楽家、映画作家たちの象徴的な溜まり場だった。
「もちろんセクシャルハラスメントも経験しました。彼らは昔気質の男たちでしたから」と、石内は2021年に『Aperture』のインタビューで語っている。「今となってはばかげた言い方に聞こえるかもしれませんが、当時はそういうものだったのです。」
【注】彼女は自身の世代を「男社会」と表現する。東松照明、森山大道、荒木経惟、深瀬昌久らがその代表的存在であり、彼らは石内の同時代人だった。彼女は新宿ゴールデン街の裏通りのバーで、彼らと毎週のように飲んだという。
【注】「もちろんセクシャルハラスメントも経験しました。彼らは昔気質の男たちでしたから」(石内、2021年『Aperture』インタビュー)
「今となってはばかげた言い方に聞こえるかもしれませんが、当時はそういうものだったのです。」(石内、2021年『Aperture』インタビュー)
石内の主な狙いは、当時新宿を拠点とし国際的に高い評価を得ていた東松照明や森山大道などの写真家の名を具体的に挙げることで、日本写真界の象徴的かつ画一的なイメージを構築し、その上に自身の横須賀を起点とした男性観や女性表象を重ね、さらに根拠のないヒロシマの問題を付加する点にある。すなわち、女性を「男性による被害者」と位置づけ、「加害=男性=モノクロ=ヒロシマの加害行為」「被害=女性=カラー=加害からの解放」という二項対立的構図を重層的に形成し、聞き手に刷り込む手法である。しかし、これらの主張は歴史的事実に基づかず、石内の個人的なコンプレックスや心理的拘束に由来するものであるため、その操作性の強さと派生する影響の悪質性が懸念される。
しかし、別のインタビューにおいて石内は深瀬昌久について異なる見解を示しており、その内容は上記の発言と明らかに矛盾している。
“彼(深瀬)はぜんぜん喋らないんです、ほとんど。お酒を飲めば話しますけど。いつも酔っ払うんです。それから酔うとおかしくなっていました。キャラクターが変わってしまった。でも私と飲んでいるときはそんなことなかった。だから、彼と飲んでいやな経験をしたことはなかったですよ。” (石内都)
さらに重要なのは、ヒロシマの被爆資料表現における石内の唯一の比較対象とされる土田ヒロミが、当時新宿を拠点とした男性写真家の集団とは全く接点を持たない点である。
例えば、東松照明と森山大道の間には作品への影響を含む密接な関係が存在し、その周囲に荒木や深瀬らがいたが、「ヒロシマを撮影した男性写真家」たちはその系譜に一切関与していない。石内自身は新宿を拠点とする写真家たちと行動を共にし、写真展開催などの個人的支援も受けていたため、当時の状況を十分に認識していたと考えられる。それにもかかわらず、石内は「ヒロシマを撮影してきた男性写真家」という枠組みに、当時の男性写真家による家父長的・加害者的イメージを敢えて重ね合わせ、主に海外メディアで印象操作を行っている点が指摘される。海外のイベントやインタビューにおいて、聞き手が日本の写真状況やヒロシマ問題に不案内であることを利用し、ジェンダーを用いた効果的かつ巧妙な印象操作を行なっていることは大きな問題である。また、著名写真家の具体的な名前を挙げることで発言に強いインパクトと説得力を付与しているが、ハラスメントの有無や定義を検証する以前に、石内が日本国内ではこのような発言をしていない事実と、その意図・動機に着目する必要がある。
土田ヒロミは写真教育者・批評家の重森弘淹(1926–92)に師事した。重森は1958年東京フォトスクール・1960年(改称)東京綜合写真専門学校を創設し、写真家育成に尽力した。同校は横浜・日吉に所在し、新宿周辺で活動していた写真家集団とは明確に距離を置き、時には対立的な存在として認識されることもあった。土田に先行して広島を撮影し、1965年に「ヒロシマから広島へ」という概念を提示した石黒健治も同校と重森との関係が深かったが、石黒と土田の間には同郷や学校組織という枠組みを除く共通点はなく、両者の写真家としての系譜や関係性はほとんど認められない(ただし土田は石黒の表現を重要なヒロシマ表現として認識している)。当時の写真家に共通する特徴として、同一の教育機関やグループに属していた場合でも、各作家は独立した主体として活動し、それぞれ固有の表現を展開していた点が重要である。
石内は、表現や時代背景の異なる男性写真家群に対し、英語でいう「オールド・ボーイズ・クラブ」のような画一的イメージを付与し、ヒロシマ表現に性差の視点を強引に接続している。その主眼は、被爆資料を作品化した先行事例であり、現在も活動を続ける土田ヒロミの〈ヒロシマ〉を過去の旧来的なモノクロ表現へと矮小化する点にある。また、自身の〈ひろしま〉の構図や提唱するコンセプトが土田の〈ヒロシマ・コレクション〉に類似している事実から注意を逸らす意図も指摘される。さらに、土田は1982年に確立したコンセプトを一貫して〈ヒロシマ・コレクション〉の撮影・発表を継続し、国内外で「普遍性・現代性・記録性」を備えた表現として高く評価され続けているが、それらは、石内やその支持者にとっては「不都合な事実」である。この不都合な事実を隠蔽するための、「土田のヒロシマの表現を矮小化させる」ための枠組みは、フェミニズムを盾に石内を擁護する一部研究者・学芸員・新聞記者の言説において共有・拡散され、報道や論文・論考の基盤となっていることが多数の事例から確認されている。
女性写真家として差別を経験したかと問われると、石内は笑う。「もちろんありました。でも私はそれに向き合いませんでした」と語り、男性編集者と寝ていると噂された出来事を振り返る。こうした経験を軽やかに語る一方で、日本におけるフェミニズムについて話すとき、彼女の口調は真剣になる。(中略)
「もちろん私はフェミニストです。フェミニズムはすべての基盤です」と彼女は断言する。
【注】女性写真家として差別を経験したかと問われると、石内は笑う。「もちろんありました。でも私はそれに向き合いませんでした」
【注】「もちろん私はフェミニストです。フェミニズムはすべての基盤です」(石内)と彼女は断言する。
ジョアンナ・バーク JOANNA BOURKE 2025年1月12日
石内はまた、「ひろしま/hiroshima」写真を、原爆以後の広島を描いてきた長い芸術的伝統に対置するかたちで意識的に位置づけていた。2007年以前、広島の写真表象は、モノクロで描かれた凄惨な被害のイメージが支配的であった。今日でもその傾向は続いている。
【注】【誤】石内は「ひろしま/hiroshima」写真を、原爆以後の広島を描いてきた長い芸術的伝統に対置するかたちで意識的に位置づけていた。
この著者が日本写真史や「ヒロシマ・ナガサキ」の写真表現史についてどれほど研究・調査しているかは疑問である。延々と述べられる美化や称賛から判断すると、美学的知識はともかく、日本写真史、特にヒロシマの歴史に関しては表層的な理解に留まると推察される。石内のいう「原爆以後の広島を描いてきた長い芸術的伝統」という概念は、歴史的事実に基づかない架空の虚言である。石内が2007年にヒロシマ表現に取り組んだ際、自身の作品価値を高める過程で、過去の写真家の多くが「男性」であったこと、時代的に「モノクローム」の割合が多かったことを根拠に、「男性=モノクロ=古い悲惨なヒロシマ表現」といったステレオタイプなレッテルを貼った。しかしこれは、過去の写真家や作品に対する正確な説明とは乖離しており、石内の個人的な憎悪やコンプレックスの表出に過ぎない。しかしながら、上記に述べてきたような経緯で、石内による根拠のない虚偽の主張は、写真史の知識に乏しいジャーナリストや学芸員によって拡散され続けているのである。
【注】【誤】2007年以前、広島の写真表象は、モノクロで描かれた凄惨な被害のイメージが支配的であった。今日でもその傾向は続いている。
当然ながら、石内の主張に基づく著者の記述は誤りであり、先述の動機に基づく印象操作である。ヒロシマの写真表現は報道と表現が混同されがちであるが、写真家としての表現に限定すると、その出発点は1950年代の土門拳による〈ヒロシマ〉である。確かにそこには「モノクロの凄惨な被害イメージ」が存在したが、その後の被爆地表現は土門とは全く異なる形で展開した。例えば、東松照明や川田喜久治は長崎・広島の表現を私的美意識と社会的テーマを複合的かつ重層的に構成し、石黒健治は既に1960年代に「ヒロシマから広島へ」という概念を提示、ヒロシマという大状況を個人的な感覚と嗅覚で映しとるという、21世紀に主流となった被爆地広島の表現の起点とも言える新境地を切り拓いた。土田ヒロミは1970年代以降「ヒロシマ三部作」において人・風景・物を構造的かつ記録的に撮影し続けている。これらの作家たちは早期からモノクロとカラーを併用し、2000年代以降の被爆地撮影ではデジタル/カラーが主流となっている。この時点で、石内のいう「カラー撮影の新規性」は根拠を欠き、支配的イメージや傾向の継続といった主張も事実に反する。
石内のこうした歴史的裏付けのない主張は、石黒の「ヒロシマから広島へ」と石内の「ヒロシマからひろしまへ」の概念的類似、及び土田が1980年代に〈ヒロシマ・コレクション〉で実践した「被爆資料の現代性」のコンセプトや俯瞰の構図との類似を覆い隠す意図によるものである。石黒や土田の革新的表現が「古い男性表現」の枠に押し込められた背景には、石黒・土田と石内の撮影の間には40年および25年ものブランクが存在し、石内の〈ひろしま〉が最初に発表された2008年時点に初めて「被爆資料の写真表現」に着目した美術界関係者が、写真史や技法の素地がない故に写真技法やモノクロ表現の差異や美的価値を理解できなかったこと、そして石内の創作ナラティブに情緒的に同調した一部フェミニスト研究者や作家らが基本的な事実確認を怠ったことなどがある。特に土田は現在も1982年確立のコンセプトを変えずに〈ヒロシマ・コレクション〉を撮影し続けており、石内や評価者による主張が史実に沿わないことを明確に示している。
それに対し石内は、原爆投下以前の広島の活気――色鮮やかな衣服、洗練された装い、にぎやかな交流――に目を向けてほしいと望む。
「平和を!」「ヒロシマを繰り返すな!」といったスローガンの視覚化は、彼女にとっては相容れないものである。「ひろしま/hiroshima」の写真にはキャプションすら付されていない。彼女は「私は訴えない。あなた自身の目で見て、あなた自身の言葉で感じてほしいから、キャプションは付けない」と言う。彼女の目的は「記録」ではなく、1945年8月6日午前8時15分直前の数分間を生きていた人々の「美」を「よみがえらせる」ことだった。
前述から、この著者が「ヒロシマ」の写真表現史に関する体系的で正確な知識を欠いていることは明らかである。さらに言えば、石内は〈ひろしま〉において、ヒロシマの歴史そのものに真正面から対峙しているとは言い難い。被爆資料をモチーフとすることで、カタカナ表記の「ヒロシマ」が有する象徴的影響力およびそれに付随する評価を最大限に活用しつつ、カタカナ「ヒロシマ」の意味や平和運動の意義を否定あるいは揶揄し、全面的な自己表現へと収斂させていると解釈できる。
その結果、作品においては、本来被爆資料が伝達すべき個々の所有者や寄贈者の記憶や切実な願いが、アイデンティティとともに捨象されているように見受けられる。「美しさや賑わいに目を向けるべきである」との主張だが、被爆資料およびその所有者が置かれた歴史的・ヒロシマの惨状に対する十分な理解を欠いたまま、「悲惨さの想起」や「反戦・平和の訴え」を無力化させようとする姿勢は、作品が単なるヒロシマの美化にとどまる危険性を孕む。したがって、当該作品はヒロシマの表現としてではなく、美化された自己表現、あるいは自己陶酔的実践として、ヒロシマ表象とは切り離された文脈において評価される必要がある。
「ひろしま/hiroshima」写真がこれほど力強いのは、そのためである。一部の批評家は、石内が被爆者の沈黙化に加担している、あるいは個別の人生史から切り離すことで暴力の経験を普遍化していると批判する。しかし私が《#71》の前に立ったとき、その幽玄な美しさは、死者との思慮深く敬意に満ちた対話のように感じられた。
彼女は手持ちの35ミリカメラ、自然光、そしてライトボックスを用いることを決めた。明るい白い背景は、原爆の爆発が放った強烈で澄みきった光を想起させる。「浮遊」する効果は、これらの衣服を身に着けていた女性、男性、子どもたちについて観る者が思索することを促すためのものであった。彼らにとって何が大切だったのか。あの運命の日、どのような気持ちでいたのか。彼らに何が起きたのか。これらは石内自身が問いかけた問いでもあった。
『I’m So Happy You Are Here: Japanese Women Photographers from the 1950s to Now』(Aperture、2024)
ポーリーヌ・ヴェルマーレ「I’m So Happy You Are Here」
Pauline Vermare, I’m So Happy You Are Here
日本語は、複雑で関係性に基づく言語である。話し手が誰であり、誰に向かって話しているのかによって、異なる代名詞や文法、あるいはイントネーションを使い分けなければならない。日本語はまた、英語やフランス語以上に、きわめて性別化された言語でもある。男性は「男性らしく」、女性は「女性らしく」話すことが期待されており、つまり語彙や話し方、文の結び方などが異なるのである。日本の女性は一般的に、やわらかく間接的な話し方をし、しばしばより高い声の調子で話すことが求められる。
長島有里枝が指摘するように、こうしたイントネーションや語尾は、男女がどのように聞こえるかに影響を与える。「女性の話し方は十分に強くは聞こえない。それは勝つために設計されたものではない。父や夫、あるいは息子といったあらゆる男性像という“所有者”に譲るための言語なのだ。
これは書き言葉の日本語にも同様に当てはまる。たとえば、石内が強い印象を残す作品「ひろしま/hiroshima」(2007年〜)を制作した際――原爆で亡くなった人々の衣服の残骸、すなわち残された唯一のものに焦点を当てたシリーズであるが――彼女は、三つある日本語の表記体系の一つであり、歴史的に女性によって用いられてきたひらがなを用いることで、この作品が女性の視点から制作されたものであることを強調した。
このような言語的側面は、異なるレベルの視覚表現を用いる女性写真家たちの作品にも見て取れると言えるだろう。ある意味で、カラーは彼女たち独自の視覚言語の一側面と見なすこともできる。
【注】日本語の話し言葉における「男性性/女性性」の差異や「強さ/弱さ」という一元的図式を、ヒロシマ表象の「男性性/女性性」に安直に接続する議論は、方法論的妥当性を欠き、恣意的である。すでに指摘してきたように、石内都が自身の〈ひろしま〉表現に女性性を結びつけ性差を強調するのは、唯一の先行例である 土田ヒロミの〈ヒロシマ・コレクション〉に家父長的な「男性性」のイメージを付与し、1982年時点で土田が提示していた被爆資料の〈日常性〉および〈現代性〉を「旧態依然の男性的表現」として矮小化したうえで、それらの現在性の発見・実践者を自己に帰属させるためのレトリックと解される。
しかしながら、石内が重視する「ひろしま」のひらがな表記は、作品流通の中心である国外では、石内自身が忌避するカタカナ表記「ヒロシマ」と同様に “Hiroshima” と表記される場合が多い。とりわけ、作家の管理を離れたオークション等のセカンドマーケットにおいて、その傾向は顕著である。なお、平和記念資料館、寄贈者、遺族のいずれも十分に把握していない、長年にわたる「ヒロシマ」の個人利用・商業利用の実態とその問題については、別項で論じる。

オークション関連で、2024年に「広島原爆時刻指す腕時計 370万円で落札」というニュースに対して、広島県被団協とICANの代表者が以下のようなコメントを寄せている。被爆資料を「売る」という行為に対する至極正当な反論である。
広島県被団協の箕牧(みまき)智之理事長(81)は「被爆の惨状が利益を得る道具にされているようで許せない」と批判。非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN(アイキャン))は20日、競売の取り下げを求めるメリッサ・パーク事務局長名の書簡を送っていた。
一部類似性が指摘される土田の「ヒロシマ・コレクション」に、石内が旧態然とした男性性のイメージを意図的に擦り込んできたという問題に戻ろう。まず、土田ヒロミ の〈ヒロシマ・コレクション〉(1982–)は、「作家性の消去」を基本前提としており、初期の撮影段階においてすでに性差のみならず作者の存在自体が不可視化されている。加えて、「土田ヒロミ」という名前は一般に女性名として受容されうるが、鑑賞者が〈ヒロシマ・コレクション〉の作者を女性と認識した場合でも作品理解に本質的な支障は生じない。すなわち、同作において「性差」が与える影響は皆無であると言える。むしろ土田の作品表現において重要なのは、自身が双子であるという事実に根ざす自己と他者の関係性、および自己の希薄性や仮構性に関する思考であり、これが「作家性の排除」という方法論に結びついていると論じることが正しい。したがって、土田の作品傾向と作家性についての所在と背景といった文脈を踏まえずに同作を「男性性」の枠組みに還元しようとする論法は、写真史・写真技法についての基本的な学習不足に過ぎない。土田のヒロシマの表現に「男性性」というレッテルを貼りその恣意的解釈の枠組みで論じることができるのは「土田が男性である」ことを知る者に他ならないのである。
さらに土田の重要な特徴は、作家性の確立よりも、カメラの記録性を最大限に活用して常に「時代」を表現してきた点にある。そのため、時代や社会状況に応じて使用するメディアおよび方法論を的確に柔軟に選択してきた。そこには、モノクロ/カラー、アナログ/デジタルといった選択も含まれる。写真家としての土田の作品の変遷、日本写真史の全体図、写真技術の変遷とメディア環境の変化といった写真史の基本知識があれば、土田のヒロシマの表現を「モノクロに固執した古い表現」の枠組みに入れることなど到底不可能なのである。
石内にとって、「ひろしま/hiroshima」をカラーで撮影するという選択は、自身の意図のこの側面を強調するもう一つの方法でもあった。彼女自身が述べているように、「これらのイメージが、戦後に広まった広島のイメージを、白黒からカラーへ、公的なものから私的なものへ、そして『抽象的な男性のまなざし』から『具体的な女性のまなざし』へと変えることができればと願っていた。
【注】石内にとって、「ひろしま/hiroshima」をカラーで撮影するという選択は、自身の意図のこの側面を強調するもう一つの方法でもあった。
被爆資料のカラー撮影は、石内以前に土田ヒロミ、東松照明らによって既に行われており、石内が初めてカラーを採用したという主張は誤りである。さらに、石黒や土田の撮影と石内の〈ひろしま〉撮影(2007年)との間には30年以上のタイムラグがあり、2000年以降はもはや被爆地撮影におけるカラー使用は標準的手法であった。石内は自身の評価を高めるため、過去の被爆資料撮影を「男性によるモノクロ表現で旧態的」と印象操作してきたが、発言を検証すると、ヒロシマの歴史や写真史を無視した明確な事実誤認や個人的感情や印象に基づく虚偽の発言であり、そこには「男性/女性」「モノクロ/カラー」という二項対立を用いて自身の作品を革新的と位置付けようとする意図が認められる。学芸員や新聞記者らが事実検証を怠りその発言を鵜呑みにした結果、石内は美術界での評価を獲得していったのである。
【注】【誤】「これらの写真が、戦後の 広島の一般的なイメージを白黒からカラーへ、公的なものから私的なものへ、『抽象的な男性の視線』 から『具体的な女性の視線』へと変えることができれば」(石内)
石内の主張は、「男性/女性」「モノクロ/カラー」「古い/新しい」といったステレオタイプ的な印象操作に基づくものであり、写真史における表現の多様性やメディア変遷、社会状況、受容環境を無視している。1960年代以降、多くの写真家がカラーで被爆地を表現しており、石内の「ヒロシマからひろしまへ」というコンセプトは、1960年代に石黒健治が提示した「ヒロシマから広島へ」の焼き直しである。また、被爆資料を「自分がこのワンピースを着ていたかもしれない」と観客に示唆する方法論や、資料を過去ではなく「現在形」として提示し俯瞰構図で記号化する手法も1982年に土田ヒロミによってモノクロ・カラー両方で確立されていたものであり、石内による新たな手法の提示ではない。1982年に発表された土田ヒロミの〈ヒロシマ・コレクション〉は石内が必死で当てはめようとしている「抽象的な男性の視線」といった枠組みには全く該当しない表現である。
こうした先行事例の先見性の事実や、石内が意図的/無意識に為された剽窃の可能性を隠すため、石内は過去のヒロシマ表現を「男の古い悲惨なヒロシマ」と一括りにし、また同時に、大石芳野や笹岡啓子といった女性写真家の存在を都合よく排除している。
いくつかの事例に示されるように、石内の主張および作品評価は、「他者との比較」に依拠して構成される点に大きな特徴がある。さらに、その比較は、歴史的実在性を欠く恣意的に構成された「架空の比較対象」に基づいて行われてきたと指摘できる。
被爆地を撮影してきた多くの写真家は、依頼を契機とする場合であっても、自らの意思とコンセプトに基づいて表現を展開しており、他者比較の論理が介入する余地は限定的である。過去の写真家や表現からの影響は認められるものの、最終的には各自の内在的動機に基づき方法論とコンセプトが形成されている。
しかし石内の場合、まず「過去の否定」「他の写真家の否定」「ヒロシマ表象の否定」といった言説を通じて、自らの先駆性や革新性を強調する傾向が見られる。だが、ヒロシマの歴史や先行する表現に関する理解の不足により、これらの否定は十分な根拠を欠き、主観的認識に依拠したものとなっている。また、彼女が主張する表現上の革新性についても、既に先行する写真家によって実践されている事例が歴史的に確認される。
以上を踏まえると、主体的動機に基づく方法論の構築が十分でなかったことが、「歴史および他者の否定」に依拠した評価枠組みを生じさせた可能性がある。さらに問題となるのは、ジャーナリスト、評論家、学芸員、研究者といった多くの専門家が、このような「歴史の改竄および他者否定」の論理を前提として作品評価を行ってきた点である。基本的な事実確認や一次資料の精査を欠いたまま、作家の言説を踏襲し、それを記事や論文に反映してきた状況については、改めて検証が求められる。
さらに、時流に便乗した暴力的なフェミニズムの濫用と、根拠に乏しい安易な評価付けを行ってきた専門家たちによる写真史およびヒロシマの歴史に対する軽視と無知は、結果として、正当なフェミニズムの展開にとって阻害的な実績を形成したのみならず、石内の〈ひろしま〉を男女という性差やカラー/モノクロという二項対立だけの問題に還元して理解する傾向を助長し、作品の深層に対する精緻な分析や批評の機会をも喪失させたのである。結果として、こういった安直な傾向はアートにおける写真の評価基準にも負の影響を及ぼしたといえる。
その年(1996年)、写真批評家の飯沢耕太郎は『シャッター&ラヴ:ガールズ・アー・ダンシン・オン・イン・トーキョー』と題する書籍を刊行し、その中で蜷川や長島(図22)を含む同世代の若い女性写真家16名の作品について論じている。彼はあるエッセイの中で次のように述べている。「劇的な変化が起きている。私の感覚では、女性写真家の数が増えているだけでなく、それは見た目以上に大きな、地殻変動のような転換の表れにすぎない。」
この時期の日本写真は「女の子写真」、すなわち「ガーリーフォト」として知られるようになった。当時は非常に人気があり、現在でも日本写真におけるきわめて重要な転換点の一つと見なされているが、このいわゆるガーリーフォトの潮流は、その後、日本の歴史家や写真家の一部から厳しい批判を受けることになる。というのも、このラベルが女性作家にとって新たな罠となり、彼女たちの作品をステレオタイプ化し、安易に切り捨てる手段になってしまったと指摘されたからである。
この問題について最も声高に発言してきた長島有里枝は、この言葉と時代について「多くの矛盾に満ち、同時に偏見や性差別、ミソジニーが渦巻いていた」と捉えている。2020年にこの主題について彼女が著したマニフェストの中で、このラベルが女性写真家たちにとって有害であり還元主義的であったと説明している。というのも、それは彼女たちを規定してしまう一方で、技術やビジョンの欠如を暗に示唆するものでもあったからである。さらに彼女は、この概念が当時の男性批評家たちによって求められていた、セクシーで無造作な「ガーリー」なスタイルに当てはまらない同時代の他の女性写真家たちの仕事を、結果的に覆い隠してしまった点についても、残念であると付け加えている。
彼女らの「『女の子写真』というレッテルを貼られることへの批判」は、そのまま、石内をはじめとする「自称フェミニスト」たちが率先して行なってきた「ヒロシマの表現に関する男性写真家へのレッテル貼り」に類似する。しかしながら、少なくとも前者は、時代としてはほぼ同時代の出来事であり、写真家それぞれの差異や個性は置いておいた上で、ひとつの時代における現象やムーブメントとしてある側面では肯定的に語ることができている。さらに、それらは結果的に彼女らの知名度や作品の認知向上に大きく寄与したことも事実である。しかし、後者においては非常にたちが悪く、石内らの主張する「男たちのヒロシマ写真」とは、1950年代の土門拳から2000年代以降も活動を継続している土田ヒロミや江成常夫に至る50〜70年間以上のヒロシマ写真表現を一括りにし、時代・技術・社会状況・被爆者の問題・メディア環境などの多様性を無視した粗雑極まりない印象操作なのである。
石内は、自身の〈ひろしま〉の私的表現に(カタカナ)ヒロシマで為される評価や市場価値の恩恵を多大に享受しながら、(カタカナ)ヒロシマや反戦平和の社会的意味を否定するという二重基準を示している。ヒロシマの表現史や先行事例、ヒロシマの問題をほとんど学習せず、自らを特別視して歴史的系譜に位置付けようとする姿勢は、明らかに誤りであり、これを容認してきた一部の研究者・学芸員・ジャーナリストの態度や為されてきた言動、報道についても再検証されるべきである。
さらに、『ガーリー・フォト』は、 HIROMIX、長島、蜷川というまったく 異なるアーティストを、文字通りひとまとめにしてしまったという問題があった。というのも、2000年にこの3人は木村伊兵衛賞を共同受賞するよう求められたからだ。
【注】『ガーリー・フォト』は、 HIROMIX、長島、蜷川というまったく 異なるアーティストを、文字通りひとまとめにしてしまったという問題があった。
「ガーリーフォト」という一括分類は、「男性のヒロシマ写真」という類型化と本質的に同種である。特定の立場による恣意的ラベリングに対しては、「ガーリーフォト」への抵抗を叫ぶ女性写真家らが、自己に関する被害性には敏感である一方、他者(特に男性)に対する加害性への自覚は乏しい傾向が指摘できる。また、フェミニズムを根拠に男性からの正当な反論や批判を抑制し、性別を理由に作品評価を正当化しようとする態度は、批評言説の健全性を損なう可能性がある。したがって、「ガーリーフォト」の是非を検証する者たちは、フェミニズムを振りかざす女性を中心に無批判に支持されてきた「(男性の)ヒロシマ写真」というラベリングの適否も同時に検討すべきである。
本書に代表されるように、性差に基づく分類を評価や分析の基準とする方法は、時代的なトレンドや社会的視点の提示として一定の効果を持つが、解釈の歪みや過度の単純化を招きやすく、議論の整合性を損なう危険性を内在する点に十分留意する必要がある。
本書には、東京都写真美術館に所属した元学芸課長および現役学芸員の2名が寄稿している。それにもかかわらず、本書における日本写真史や戦後の被爆地写真表現の史実に沿わない(石内評価に都合の悪い)基本的な誤りに対して指摘がなされていないことは問題である。両者はいずれも女性であり、石内都およびそのギャラリーとの関係が深い。なかでも笠原美智子はフェミニズムの立場を自認し、石内作品の国際的評価の形成に大きく寄与した人物である。2000年以降、これらの専門家を含む一部の関係者によって、従来同館が構築してきた日本写真史の枠組みを尊重することなく、写真をアートとして位置づける方向へと大きく転換させた。写真のアート化は写真の市場価値の上昇をもたらし、作家評価の向上が学芸員の地位向上とも連動する構造となる。さらに、アートの市場原理の浸透に伴い人間関係や利益相反がさらに重視され、学芸員においては専門性や公平性、写真史的視点が軽視され、自ら評価する作家に不都合な事実を看過する傾向が継続していると指摘できる。
