モネの財産はどのように築かれたか?
📘 このシリーズでは、
『五郎さんがえらくこだわってるモネと後妻アリスの関係、👉 深掘りしてみたら… 当時のブルジョワ社会の解像度が格段に上がった!』
というテーマを軸に、モネをとりまく人間関係・経済・社会構造を多角的に読み解いています。
🖼️ 第17回となる今回は、モネはどうやって“一代で巨額の財”を築いたのか?
残された帳簿を読み解くと、彼が芸術家であると同時に、卓越した市場戦略家でもあったことが見えてきます。
"田舎の実業家"の堅実な金銭管理術
<“田舎の実業家”の風格 : 写真と証言が語るモネ像>
今でこそ「印象派の巨匠」として広く敬愛されるクロード・モネですが、実際に彼に会ったアメリカ人実業家は、モネを「頑健で聡明な人物」と評しながらも、「画家とは思えず、むしろ都会から田舎に移った実業家のようだった」と、その印象を記しています。実際、写真に残る晩年のモネは、豊かな髭をたくわえ、パリのブルジョワとも社交界の貴族とも異なる、独特のオーラを放っています。

(右)ムリス通信社が伝えたアトリエのクロード・モネ(1926年)。
<“モネ・ルック”の背景 : 服装に見える階層意識と実用性>
豊かなウエスト部分のボタンを留めずに着ることで裾広がりのシルエットを描くジャケットに、サスペンダーで吊られたテーパード気味のボトムス ── このモネ晩年の定番スタイルは、自らの芸術で上流階級に足を踏み入れた中産階級出身のモネならではの反骨精神の表れなのか。それとも彼なりの「画家ルック」へのこだわりなのか。興味が湧くところですが、実はこの"モネ・ルック"、いつも1867年創業のパリの英国調ブランド「オールドイングランド」で揃えていたとか…。どうやらモネこだわりのオシャレだったようです。

<40年にわたってほぼコンスタントに記載された帳簿>
傍目には“田舎の実業家”に映ったモネですが、芸術家としては珍しく、1872年から1912年までの約40年間にわたり、会計帳簿をつけ続けていました(パリのマルモッタン・モネ美術館所蔵)。もっとも、帳簿にはブランクもあり、作品価格が急騰した1889年から1897年にかけては記載が途絶えています。また、1903年については絵画の売買そのものがなかった年として記録されています。それでも、これほど長期にわたって帳簿が残されている画家は非常に珍しく、当時の画家の実態や市場を知るうえでも貴重な資料であることに変わりはありません。
この帳簿を手がかりに、モネがどのように“一代で”巨額の財を築き上げたのか、その実像を実業家としての側面も交えて迫ってみましょう。
帳簿が語る、モネが築いた巨額の財
<描いた全作品数の約半数を収録>
モネが残した3冊の帳簿には、総制作数1,983点のうち、約半数弱となる936点の販売記録が残されています。本シリーズでも繰り返し触れてきたように、モネは自身の作品単価を上げることに並々ならぬ情熱を注いでおり、価格コントロールにも強いこだわりを持っていました。その執着は、作家やギャラリーが直接販売するプライマリーマーケットだけでなく、いったんコレクターに渡ったあとの転売市場たるセカンダリーマーケットにもおよびました。

(右)クロード・モネ《林間の風景、秋》(1877年、個人蔵)。
破産後のオシュデ・コレクション競売で、蒐集家のショケ氏は左作品を62フラン、右作品を95フランで購入。あまりに低すぎる価格に、モネは強い不満を隠さなかったと伝えられています。
<作品価値にこだわったモネの価格哲学>
たとえば1878年、印象派の名の由来ともなった《印象、日の出》の最初のオーナーであり、後妻アリスの元夫でもあったオシュデ氏の破産による財産売却の場で、モネ作品2点がわずか157フランで落札された際、モネはこの価格に強い不満を示しました。自作の価値は決して下がるべきではない。むしろ倍々に上がっていくべきだ ── 彼はそう信じていたのです。
この翌年からモネは、その売立で査定人を務めた画商ジョルジュ・プティと取引を開始しますが、彼に対しても「自分の作品を安く売りすぎていないか」と、厳しく問いただしています。そして1894年3月19日、同プティの画廊で美術評論家テオドール・デュレのコレクションが競売にかけられ、モネ作品の価格が高騰すると、今度はそれを「卑劣な投機だ」と非難しました。
かつて安く買われた自分の作品が、十数年後に何十倍もの価格で転売されることに、モネは強い抵抗を感じたのでしょう。

この作品はオシュデ氏が仲介し、テオドール・デュレに売却されました。1894年の競売では7,900フラン、さらに、《七面鳥》に至っては12,000フランという高額で落札されました。
こうなるとモネ自身もこの高騰の波に乗ったように、大胆な値上げを断行します。1891年、《積み藁》連作を1点あたり2,500〜3,000フランで販売していたモネは、わずか4年後の1895年には、《ルーアン大聖堂》連作を1点あたり15,000フランでしか売らない、と強く主張したのです。画商デュラン=リュエルらの強い抵抗にも関わらず…。
<半世紀で飛躍したモネ作品の相場>
モネの平均作品単価は、彼の強気の姿勢とともに飛躍的に伸びていきます。
1870年代初頭:約300フラン
1881年:600フラン
1886年:1,200フラン
1898年:6,500フラン
1902年:12,000フラン
1909年:約14,000フラン
これはあくまで「平均価格」であり、実際の価格には幅があります。とくに特に1870年代後半の経済的困窮期には、習作やスケッチを格安で販売しており、たとえば1877年にはスケッチ5点を125フラン(1点あたり25フラン)で売ったこともありました。
一方で、1901年には、《ルーアン大聖堂、夕景》をロシアの有名コレクター、シチューキンに18,000フランで売却しています。また、モネが販売方法に強く関与した結果、展示時期が大幅に遅れた《睡蓮》シリーズの16点も、最終的には1909年、デュラン=リュエルとベルナイム=ジューヌ兄弟の画廊に233,000フラン(1作品あたり14,562.5フラン)で売却されています。モネの要求が、彼の粘り強い推しによって通った形です。

全体を通して見ると、1870年代後半の困窮期には低価格・大量販売、晩年は高価格・完成度重視の選抜販売へと方針を切り替えており、モネが作品に注いだ労力の「価値」を重んじていたことが見て取れます。
<モネの年収推移とその背景>
次に、年収の推移を見てみましょう。作品単価の上昇とおおむね連動して、モネの年間収入もまた大きく伸びています。
1872年:12,100フラン
1912年:369,000フラン
実に約30倍の増加です。
とはいえ、収入は直線的に伸びたわけではありません。帳簿が残る1888年までは、年収は概ね5万フラン未満にとどまっています。とくに第一回印象派展が行われた1874年から1880年ごろまでは、年1,000〜15,000フラン程度にすぎませんでした。その後、画商デュラン=リュエルがモネ作品の買い取りを再開した1880年代初頭から帳簿の記載が途絶える1888年までには、25,000〜45,000フランに上昇。1870年代と比較すると確かに2〜4倍近く伸びてはいるものの、桁違いに上がったわけではありません。
ところが、帳簿が再開される1898年には、年収が一気に173,500フランに跳ね上がります。以降、売買ゼロだった1903年を除けば、10万フランを下回った年はわずか3年のみ。反対に20万フランを超えた年は13年中7年にのぼります。これは1889年以前とは比べ物にならない伸びです。

このことから見えてくるのは、帳簿の空白期間である1889〜1897年のあいだに、モネの収入が劇的に伸びたという事実です。いったいこの間に、何が起きたのでしょうか?
考えられる要因は二つ。
一つは「連作」という手法の成功、もう一つは販売網の変化、すなわち画商の多様化と国際化 ── 特にアメリカ人コレクターへの販路の拡大 ── が挙げられます。
モネに学ぶ「自分の市場価値」の高め方
<モネの商才と、自らの市場形成に対する意識の高さ>
印象派はしばしば、西洋近代絵画の新たな時代を切り拓いた存在として語られますが、その革新性は絵画の様式だけにとどまりません。絵画の「売り方」においても、印象派はアートマーケットに革命的な変革をもたらしました。

1880年を境に、サロンは国家主催から民営に移行しました。
従来、芸術家が作品を発表・販売する場の中心は、国家主催の官展「サロン」でした。しかし19世紀後半、このサロンは増え続けるアーティストや多様化する購買層のニーズに応えきれず、次第に機能不全に陥っていきます。そんな中、自ら展覧会を開催し、作品を直接販売しようという新たな試みを行ったのが、印象派の画家たちでした。そして彼らの将来性をいち早く見抜き、新たな「美の担い手」として支援したのが、先見の明を持つ画商たちだったのです。
モネが比較的早い1870年に画商デュラン=リュエルと出会ったことは、大きな意味を持ちます。彼は将来有望な芸術家の作品を買い上げ、広報活動を行い、時機を見て高値で販売するという、新時代の画商像を体現する存在だったからです。

1879年のサロンでルノワールが成功したことを受けて、モネも久々に1880年のサロンに応募します。2点中、本作1点のみが入選しました。しかし翌1881年にはデュラン=リュエルと取引を再開したことで、以降はサロンへの出品を完全にやめました。
この新しい仕組みが定着するには時間を要しましたが、1880年代初頭にデュラン=リュエルとの取引が本格的に再開されると、モネはサロンへの応募を完全にやめ、市場に直接価値を訴える戦略へと切り替えます。芸術家の価値や趣味の指標を生み出すのは市場であり、その市場を動かすキーマンは画商。であれば、有力な画商と同盟を結び、自らの市場価値を築いていくほうが賢明 ── モネは、19世紀フランス美術界の構造的変化と作品の「売り方」の変容をいち早く読み取る才覚を備えていたと言えるでしょう。それは彼の経済的キャリアに決定的な影響を与えました。
<画商に買い叩かれるのではなく、自分が画商を使いこなす才覚>
とはいえ、モネはデュラン=リュエルの庇護に甘んじることはありませんでした。むしろ、商機があると見れば他の画商とも積極的に取引を進め、画商同士の競争をうまく利用して、自身の作品価格を引き上げていきます。

その結果、モネはジョルジュ・プティ画廊をはじめ、グーピル社の後継である「ブッソー&ヴァラドン」、さらにはベルナイム=ジューヌ兄弟など、少なくとも11の画商と取引を行いました。
中でも興味深いのは、ブッソー&ヴァラドンのフランス支社で働いていたテオ・ファン・ゴッホ(フィンセント・ファン・ゴッホの弟)との交渉です。モネは、作品代金に加えて転売益の50%を自身にも還元するという、非常に有利な契約を取り付けていました。
さらに、ベルネーム=ジューヌ兄弟はアメリカに加え、ロシアや東欧などの新市場も開拓。デュラン=リュエルの競合として頭角を現していきます。
このような状況に対し、初期からモネを支援してきたデュラン=リュエルは、他の画商との取引をちらつかせてより好条件を引き出そうとするモネの姿勢に、しばしば不満を抱いたといいます。しかし、モネの作品が商業的に成立している以上、画商たちはその条件を受け入れるしかなかったのです。

《睡蓮》第二連作のように価格が極端に高額になるケースでは、画商たちが共同で作品を購入し、展覧会を実現させるといった柔軟な対応を見せることもありました。
<批評家・メディアを味方につける賢明さ>
展覧会を成功させるには、当然ながらメディアの協力も不可欠です。モネはここでも、影響力のある批評家を味方につける力を発揮しました。
モネの有力な支援者としてまずあげられるのは、人気作家で新聞記者でもあったオクターヴ・ミルボーです。彼との面会を取り持ったのも、デュラン=リュエルでした。ミルボーは保守的な読者層を持つ新聞『ラ・フランス』で「芸術に関する覚書」という連載を執筆し、1884年11月にモネを紹介します。画家に直接取材したその記事は、印象派に懐疑的ながらも敵対的ではなくなりつつあったブルジョワ層にまで広く届き、大きな影響を与えました。以降、モネ作品に対する評価は大きく好転していきます。

ジェフロワは1886年、ブルターニュ沿岸の島ベル=イル=アン=メールで偶然モネに出会ったとされています。モネは絵画制作のためにこの島に来ており、オクターヴ・ミルボーの訪問も受けていました。
続く有力な支援者となったのが、美術批評家ギュスターヴ・ジェフロワです。彼は1887年、『ラ・ジュスティス』紙でサロン以外で活躍するアーティストを紹介するコラムを立ち上げ、モネを大きく取り上げました。彼は、「人々の評価が変わったのは、モネの作風が変化したからではなく、“観衆の目が開かれた”のだ」と述べ、1884年のミルボーの記事以降の変化を的確に分析しています。
さらに彼は、モネが「連作」を制作する現場に足を運び、「この田舎風の錬金術師(=モネ)」が「同じ構図の習作を一午後に10点も描き始める」様子を生き生きと描写しました。このように制作現場をリアルに伝えることで、モネ自身の個性が前面に押し出され、画家のブランドイメージ確立に大いに貢献したのです。

ベル=イル=アン=メールでの作品群は「連作」としては分類されていませんが、類似の構図による作品が多数存在します。
ジェフロワはまた、モネを生涯の友となる政治家ジョルジュ・クレマンソーと引き合わせた人物でもありました。『ラ・ジュスティス』紙の創設者でもあるクレマンソーは、1895年のモネのルーアン大聖堂連作の展覧会に際し、ジャーナリストとして熱烈な称賛の記事を執筆します。その後は政治家として、モネに睡蓮の大装飾画を描くよう叱咤激励し、完成した作品が国に寄贈されると、オランジュリー美術館への設置と展示がモネの意向どおりに実現されるよう尽力しました。
<モネ・ブランドの確立と国際市場への進出>
こうして画商と批評家を味方につけたモネは、売れ筋を意識したテーマや画風を巧みに取り入れ、高い成果をあげていきます。
たとえば、幼少期を過ごしたノルマンディーをはじめ、ブルターニュ、コート・ダジュール、さらにはロンドンやヴェネツィアといった国外まで出向いて描いた風景画シリーズの背景には、観光地として人気を集める地域の風景への需要の高まりがありました。
また、《セーヌの朝》や《ベヌクールの氷塊》のような川辺の風景画は、1890年代にコローの霧に包まれた作品が高値で取引されていたことと、無関係ではないかもしれません。

1890年代以降、モネの関心は題材を問わず、光と、それを反射する水面の描写に集中していったように見受けられます。
さらに、「連作」という手法は、モネ・ブランドを国内外に広く認知させるうえで極めて効果的であり、売上面でも成功を支える中核的な役割を果たしました。帳簿の残っていない1889年〜1897年のあいだに、モネの年収は急激に伸びていますが、いくつかの記録からその様子が窺えます。
たとえば、《積みわら》連作が展示された1891年の売上は、ブッソー社およびデュラン=リュエル画廊の記録によれば約97,000フラン。《ポプラ並木》連作が発表された翌1892年の年収も、10万フランを大きく超えていたことが分かっています。ちなみに、帳簿で確認できる直近の1888年の年収は約28,000フラン。連作がいかに大きな経済的効果をもたらしたかがよく分かります。

この作品は2019年、サザビーズのオークションで、印象派絵画として初めて1億ドル超の価格(110,747,000 USD、当時のレートで約121億円)で落札されました。ちなみに1986年、ニューヨークのクリスティーズで250万ドルで購入されたもので、33年で44倍に高騰した計算になります。モネの連作が、現代でも「金のなる木」であることが証明された形です。
そして《ルーアン大聖堂》連作が発表される1895年頃には、モネの市場はすでに国際的な広がりを見せていました。2019年、印象派絵画として史上初めて1億ドルを超える価格で落札され話題となった《積みわら》(1890年、バルベリーニ美術館蔵)も、1891年7月にデュラン=リュエルがモネから購入し、その年の暮れにはアメリカの実業家に売却された作品です。
モネは1898年から1905年にかけて、《ウォータールー橋》《朝》《水の風景》などのシリーズ作品を、アメリカ人の画商やコレクターに直接販売しており、この動きはデュラン=リュエルとの摩擦を引き起こすことにもなりました。デュラン=リュエルは「アメリカの個人コレクターだけで、300点以上のモネ作品が存在する」と述べています。
アメリカ以外にも、モネは画廊ネットワークを通じて、ロシア、ドイツなど各国で多数の展覧会に出品し、作品を販売しています。そして1920年以降には、日本人コレクターたちもモネ作品を手にするようになります ── しかも、他の誰よりも遥かに高額で!
このように、市場の動向を読み、交渉の主導権を握り、メディアを味方につけ、自らの作風をブランド化する ── そうした戦略的行動の積み重ねによって、モネは20世紀初頭にはパナール・ルヴァッソールの自動車に乗り、6人の庭師を雇い、広大なジヴェルニーの邸宅と美術コレクションを所有する裕福な画家として認知されるようになったのです。
では、モネが成功を収める前、たとえばオシュデ家と共同生活を送っていた1870年代、彼の生活水準はどれほどのものだったのでしょうか?
また、モネの作品価格が数十倍に高騰したとはいえ、それは同時代の他の画家たちと比較して、どれほどの水準だったのでしょうか?
次回は、モネの生活水準や彼が置かれていた社会的基盤を、当時の階層構造や所得事情と照らし合わせながら相対的に捉えていきます。
モネの「市場価値」の実像 ── すなわち、他の芸術家たちと比べて、モネの絵は本当に高かったのか?安かったのか?── という問いに、より具体的に踏み込んでいくプロセスとなるはずです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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