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連作から装飾画へ ── モネの睡蓮と革新の軌跡

📘 このシリーズは、『五郎さんがやたらこだわるモネと後妻アリスの関係、👉 深掘りしてみたら…当時のブルジョワ社会のリアルな肌ざわりが浮かび上がってきた!』というテーマを軸に、モネをとりまく人間関係・経済・社会構造を多角的に読み解いています。

🖼️ 第15回となる今回は、モネの代表作「睡蓮」に焦点を当てます。
一般には“連作”とされるこの作品群ですが、実はモネは同じモチーフを描きながら、時とともにその視点や表現を大胆に変化させていました。そこから見えてくるのは、装飾画へと至る革新の軌跡です。



睡蓮が浮かぶ「水の庭園」ができるまで

モネの後半生を象徴する「睡蓮」の連作。その舞台となったのは、ジヴェルニーの自宅敷地内に造った「水の庭園」でした。モネは1883年にこの地に移り住み、1890年に自宅を購入します。そして1893年には隣接する土地を手に入れ、ついに念願だった「水の庭園」づくりに乗り出します。連作によって築いた財が、睡蓮を描くための基盤となったのです。

しかし、池を伴う造園には行政の許可が必要な上、植栽後に植物が根付き成長するには時間がかかります。1895年頃、ようやく池が完成し、《日本の橋》が架けられた様子が描かれますが、池にはまだ睡蓮が見られません。睡蓮が根を張り、モネがこのモチーフを繰り返し描くようになるのは、そのために新たに建てられた第二のアトリエが完成した1897年になってからのことです。

クロード・モネ《日本の橋》(1885、 フィラデルフィア美術館)。

実は描かれた時期によって性質が全く異なる「睡蓮」作品

モネは後半生、没年(1926年)に至るまで、断続的に睡蓮を描き続けました。その作品数は約250点に及びますが、これらの膨大な「睡蓮」の連作群は、実は描かれた時期によって性質が大きく異なっています。

前半(1897〜1908年)に制作された作品は、積み藁やルーアン大聖堂の連作のように「連作の手法」を用いて、シリーズでありながら個別に販売することを前提に制作されたものです

一方、後半(1914〜1926年)に描かれた作品の多くは、フランス国家への寄贈を念頭に描かれたものなので、目的も規模も異なります。もっとも、これらの作品の中には、設置場所の変更などで最終的に寄贈対象とならなかったものや、無数の試作・習作的な作品も含まれており、個別に売却された例も少なくありません。

「睡蓮」は作品数が多いだけでなく、関連する情報も膨大です。そこで今回はまず、モネの晩年の大作であるオランジュリー美術館の「睡蓮」の大装飾画に至る前に、「連作の手法」で描かれた前半期の作品に焦点を当てていきます。

(左)クロード・モネ《睡蓮》(1897年、マルモッタン美術館)、
(右)クロード・モネ《睡蓮》(1897-1899年、鹿児島市立美術館)。

連作の手法で描かれた睡蓮 ー 庭園の拡張とともに変化する画風

「連作の手法」で描かれた作品は、大きく二つに分類されます。モネが1893年に購入した土地に造成した最初の「水の庭園」で描かれた第一連作と、1901年にさらに隣接する土地を買い足し、面積を3倍に拡張した庭園で描かれた第二連作です。どちらも《睡蓮の池》を描いたものですが、庭園の拡張とともに、モネの関心も変化していることが作品からわかります。

<第一連作の特徴 : 写実的描写から始まった作品群>
第一連作は、1897〜1899年に描かれた、水面と睡蓮のみをクローズアップした8点の作品に始まり、続く1899〜1900年には、「日本の橋」を中心に、池の水面や睡蓮、岸辺の植物、その水面への映り込みを描いた18点の作品が制作されました。視点は、水面と睡蓮に焦点を当てたミクロ的なものから、より風景画的なマクロの視点へと移行しています。これは、庭園がまだ造成中で、植物が十分に育っていなかったことや、小規模だったためにアングルによっては鉄道が見えてしまうといった事情も影響していたと考えられます。いずれにせよ、第一連作は「水の庭園」の詳細な写実的描写から始まった作品群でした。

(左)クロード・モネ《睡蓮の池》(1899年、ポーラ美術館)、
(右)クロード・モネ《睡蓮の池、ピンクのハーモニー》(1900年、オルセー美術館)。

<第二連作の変容 : 光を映す水面が織りなす幽玄な世界へ>
ところが、第二連作では「日本の橋」は完全に姿を消し、水面とそこに浮かぶ睡蓮、それらの反射が繰り返し描写されるようになります。もちろん、庭園の拡張によって橋が消失したわけではありません。むしろ、池の水面は大幅に広がり、曲線的に設計され直されました。また、新たな睡蓮が植えられ、水辺には多様な植物や低木が配置されました。こうして水平線は曖昧になり、やがて姿を消していきます。さらには、睡蓮そのものも水と光の広がりの中に溶け込んでいくような、幽玄な空間が生み出されました。

(左)クロード・モネ《睡蓮》(1903年、アーティゾン美術館)、
(右)クロード・モネ《睡蓮》(1906年、大原美術館)。

<無数の花で覆われた水の庭園をモネはどう「記録」したか>
この頃、モネの制作を観察した、農園と城を特集する雑誌『フェルム・エ・シャトー』の植物学担当記者は、次のように記しています。

「絡み合う緑の葉の中に、睡蓮が丸い葉を広げ、赤、ピンク、黄色、白と、無数の花で水面を彩っています。巨匠はしばしばここに来ます。池の岸辺は分厚いアイリスの群生で縁取られています。彼は筆に鮮やかな色彩をのせ、時間に応じて場所を移動しながら素早く短い筆致を刻んでいきます。」
「クロード・モネ氏は、風景だけでなく『その瞬間』も描くのです。」
「朝に見たキャンバスと、午後に彼が取り組んでいるキャンバスは同じではありません。朝は花が咲く様子を記録し、花が閉じると水そのものの魅力と揺れる反映に戻るのです。眠るように、葉の下で震えるような暗い水を描写します。」

<写実から装飾へ : あくなき実験過程>
つまり、モネは自然を観察しながら描くという印象派的手法を用いつつも、作品からは従来の風景画に見られる幾何学的な遠近感が次第に薄れ、装飾的な要素が強まっていったのです。

クロード・モネ《睡蓮》(1908年、東京富士美術館)。

実は、モネは1897年の時点で、円形の空間を装飾的なフリーズ(帯状の連続絵画)で埋める構想を練っていました。当時、それが実現した形跡はありませんが、境界も奥行きもない無限の空間を演出する《大装飾画》への道を模索していたことは確かです。写実から装飾への移行は、まさにこの睡蓮の連作を通じて、ゆっくりと醸成されていったと考えられます。第二連作の作品群こそ、その変化を象徴しているのではないでしょうか。

なかなか理解されなかったモネの新しい方向性

<展覧会開催までの紆余曲折>
モネの新しい方向性は、なかなか周囲に理解されませんでした。印象派が世に認められなかった時代からモネを支えてきた画商デュラン=リュエルでさえ、水の庭園での探求の重要性を理解するするには至りませんでした。このため、第二連作の展覧会が実現するまでにはかなりの紆余曲折がありました。

1909年の展覧会で展示された作品の中で、唯一「風景を思わせる」とされたモネの《睡蓮の池、橋》(1905年、個人蔵)。

<デュラン=リュエルとの対立>
第一連作《睡蓮の池》の12点は、1900年11〜12月に、これまでの「連作」展示と同様、デュラン=リュエル画廊で「クロード・モネ最近の作品展」の一環として展示されていました。しかし、第二連作の展覧会に際して、モネは「ありふれたものにはしたくない」と考え、これまで以上に厳しい要求をデュラン=リュエルに突きつけました。

まず、展示作品リストから、伝統的な風景を思わせる作品を排除しました。例外的に1905年の《日本風橋》の景色は残しましたが、この作品に描かれた橋は、ほとんど周囲の柳と一体化し、存在感を主張していません。また、展示作品数は全48点に及びましたが、そのうち14点が1907年の縦長の作品群で構成されていました。どうやら、この大胆な縦構図の作品群が、デュラン=リュエルを慎重にさせたようです。

<モネの要求と画商たちの消極的な反応>
モネは、自ら選んだこれら48点の多くを画商に一括購入するよう求めました。しかし、モネの新作にこれまでのような感銘を受けなかったデュラン=リュエルは難色を示します。そこで、リスクを分散させるため、同業の競争相手でもあるベルンハイム兄弟と手を組むことにしました。しかし、彼らもまたモネの新作の大量購入には消極的でした。このため、モネと画商たちの間にはこれまでになかったほどの緊張が生じ、怒ったモネは一切の妥協を拒否。結果として、展覧会は延期せざるを得なくなりました。

クロード・モネ《睡蓮》(1907年、アーティゾン美術館)。
モネは、本作をはじめとする、水面に映る空の像を縦に流れる光の筋として表現することに集中した一連の作品群を、ジヴェルニーにデュラン=リュエルを招いて披露したといいます。「まだ模索の段階ではあるが、自分の最高の努力の一つだと思う」とモネは語ったそうです。しかし、睡蓮の浮島がほぼ同じ構成で描かれているこれらの作品の斬新さに、画商はついていけず、商機に疑問を持ったようです。

<モネの健康問題と情熱の維持>
この頃のモネは、視力の問題を含む身体的不調に悩まされ、意気消沈する日々を送っていました。また、自身の作品に対する目はますます厳しくなり、何度も制作を中断せざるを得ませんでした。しかし、それでも彼の絵画制作への情熱や、表現への飽くなき探求心は衰えませんでした。

「この水面と反映の風景が、私を取り憑かれたように離さない。老体には堪えるが、それでもなお私が感じるものを表現しようとしている。破棄し…また描き直し…この努力の果てに何かが生まれることを願っているのだ…」

<長い延期の末、ようやく実現した展覧会>
美術批評家ギュスターヴ・ジェフロワ宛の手紙にこう綴ったモネは、結局1908年まで睡蓮を描き続け、そしてついに1909年5月6日から6月12日にかけて、デュラン=リュエル画廊での展覧会を実現させます。

クロード・モネ《睡蓮》(1907年、サンテティエンヌ美術工業博物館)。
第二連作の《睡蓮》には、縦長構図のほか、円形構図の作品も含まれます。

革新的展覧会 ー オランジュリー美術館の大装飾画への道

<新しい方向性のマニフェスト>
モネは1909年の展覧会で新たな方向性を追求しました。その革新性はどこにあったのか、展覧会のテーマと展示方法から紐解いていきましょう。

まず、モネは展覧会のタイトル選びに慎重を期し、『睡蓮、水の風景シリーズ』と名付けました。展示される作品群が、従来の風景画とは一線を画す、水面が画面を支配する革新的な表現であることを強調するためです。そして、展覧会全体を一つの統一体として構成するため、各作品が独立して販売できる従来の連作の販売方法を採りつつも、個々の作品には特定の題名をつけませんでした。

<水面と睡蓮で埋め尽くされた展示空間>
没入感の演出は、すでに過去の「連作」の展覧会場での一斉展示を通じて経験していました。しかし、従来の風景画とは異なる睡蓮の第二連作が一堂に会したこの展覧会では、展示空間が水面と睡蓮で埋め尽くされ壮大な装飾的絵画のような効果を生み出しました。そして、この装飾的な効果こそが、モネが追求しようとしていた新たな方向性だったのです。

1909年、デュラン=リュエル画廊で開催された『睡蓮、水の風景シリーズ』展に出品されたすべての《睡蓮》作品(1)。

<大成功に終わった展覧会の功績>
展覧会は、パリの社交界の人々がこぞってデュラン=リュエル画廊に押しかけたと言われるほど、大成功を収めました。もちろん、開幕直後に新聞の一面でモネに関する記事を掲載するなど、巧みに仕組まれた宣伝効果に依るところもありました。

しかし、この展覧会の最大の成果は、モネが表現したかった光の多様な効果が、同時代の人々に深く認識されたことです。批評家たちは、夜明けの「サフラン色の輝き」から夕暮れの「透き通る影」に至るまでのさまざまな「瞬間」を読み取り、天候や季節の違いまでも見分けられる色彩の微妙なニュアンスに注目しました。

1909年、デュラン=リュエル画廊で開催された『睡蓮、水の風景シリーズ』展に出品されたすべての《睡蓮》作品(2)。

<モネの光の探求が結実した壮大な装飾画の構想へ>
「一つのモチーフをあらゆる条件下で描くことに注ぐ熱烈で排他的な注意力」を使い切ったモネは、この探求をフランス国家に捧げる一連の大装飾画へと昇華させていきます。

しかし、その制作に取り掛かるまでの数年間、モネは家族のさまざまなドラマに立ち会い、自身の健康、特に視力の問題に苦しむこととなります。

次回は、この制作中断期間に起こったドラマの数々をご紹介します。このシリーズのサブタイトルにもあるように、当時のブルジョワ社会の姿がより鮮明に浮かび上がるエピソードも満載ですので、お楽しみに。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


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