見出し画像

中断された《睡蓮》連作の背景 ── モネ家を立て続けに襲った不幸の嵐

📘 このシリーズでは、『五郎さんがやたらこだわるモネと後妻アリスの関係、👉 深掘りしてみたら…当時のブルジョワ社会のリアルな肌ざわりが浮かび上がってきた!』というテーマのもと、モネの私生活や人間関係を美術史とは少し違う角度から読み解いています。

🖼️ 第16回となる今回は、制作が一時中断された1900年代末から1910年代初頭にかけて、モネを立て続けに襲った試練の数々を振り返ります。
家族関係をひとつずつ見直し、それぞれの立場からこれまでの出来事を読み解くことで、新たな視点が見えてくるはずです。



ペピニエール事件 ─ 上流ブルジョワ社会の闇とアリスが受けた悔辱

<“粋人”の死とモネの意外な葬儀参列>
1908年6月12日、パリのサン=トーギュスタン教会には、6日前に自宅で暗殺されたオーギュスト・レミ氏の葬儀に、多くの著名人が集まっていました。彼は元株式仲買人で、19世紀パリ社交界を体現する、数少ない“最後の粋人”のひとりとして知られていた人物です。

その葬儀を取材した『ル・ジル・ブラス』紙の記者は、参列者の中に、他とは毛並みの異なる堂々たる体格の人物 ── 画家クロード・モネの姿があったと伝えています。絵を売る目的以外では、社交界とあまり関わってこなかったモネが、いったいなぜこの場に姿を現したのでしょうか?

オスマン大通とマレゼルブ大通が交差する、ひときわ目を引く場所にそびえるサン=トーギュスタン教会。人口が急増していた第二帝政期(1860〜1871年)に建設されたこの教会は、当時の人々にとっては“比較的新しい”存在でした。

<義兄レミ氏とアリスの過去>
実は、モネは「遺族」の一員として参列していました。レミ氏は、モネの妻アリスの義兄にあたる人物だったのです。アリスの5歳年下の妹セシルは、20歳を過ぎた頃に自身の年齢の倍近いレミ氏と結婚し、サン=トーギュスタン教会のほど近くにあるペピニエール通りの壮麗な邸宅に住んでいました。

ジヴェルニーの自宅でモネから訃報を聞いたアリスは、特に悲しんだ様子もなく、むしろ感慨深げに、過去を静かに回想していました。というのも彼女は、夫エルネスト・オシュデ氏の破産により経済的に窮地に立たされていた際、裕福なレミ氏に援助を求めたことがあったのです。

しかし、彼女が受けたのは、ほんのわずかな援助と、多くの厳しい忠告、さらには辛辣な叱責の言葉の数々でした。その中には、既婚者でありながらモネと同居していることに対する非難も含まれていました。こうした屈辱的な扱いは、長い間続いたのです。

<モネの成功とレンゴ一族の態度の変化>
ところが、モネの絵が高値で売れるようになり、画家としての経済的成功が目に見えるようになると、事態は一変します。セシルをはじめとするレンゴ家の姉妹たちはこぞってジヴェルニーのモネ夫妻を訪れるようになりました。

そのセシルの夫が、突如として世間を騒がす暗殺事件の被害者となり、新聞はもとよりゴシップ誌の表紙まで飾る騒ぎとなったのです。

レミ氏の暗殺事件を報じたゴシップ誌『警察の眼』(1908年・第29号)の表紙。19世紀末から20世紀初頭のフランスでは、カラーイラストを多用した視覚的に訴える大衆向け新聞雑誌が数多く出回っていました。

<事件の核心 : 沈黙のブルジョワ社会>
名門ブルジョワ家庭にとって極めて体裁の悪いこの事件の真相が明るみに出たのは、葬儀の後でした。

捜査と報道により浮かび上がってきたのは、同性愛や風紀をめぐるスキャンダラスな内容でした。セシルの希望によりレミ氏邸に住んでいた思春期の甥レオン・ランゴが、少年愛傾向を持つ執事から性的な“イニシエーション”を受けていたことが、無記名の手紙により密告されていたのです。

激怒したレミ氏は、事件当日の数時間前、食事の席でレオンを祖母の元へ戻すと宣言します。これに対しセシルは猛反発。夫婦は対立し、彼女は夫に何も告げずにそのまま別荘へと旅立ち、事件当日は不在でした。

なお、彼女の寝室からは総額5万フラン相当の宝飾品が盗まれており、これは強盗か、それともそれを装った殺人かと、事件の謎をさらに深めました。

<裁判と不可解な動機>
裁判では、遺族の名誉を守ろうとする家庭医たちが、「鬱血による自然死」あるいは「自殺」の可能性を提示しようと試みますが、ほとんど意味をなさず終わります。

結局、レオンが邸宅に娼婦を連れ込んだこと、その代金を払えず執事が後始末をしたことが“イニシエーション”の端緒だったこと。そして、盗品を所持していた別の使用人がいたこと、さらにその使用人と執事との間にも同性愛的な関係があったことが明るみに出て、最終的に2人の使用人が殺人罪で有罪となりました。

ただし、「なぜ主人を殺すに至ったのか」という動機は、最後まではっきりしないままでした。

一部の文献では、レミ氏本人にも同性愛的傾向があった可能性が指摘されていますが、それを裏づける資料は存在せず、あるいは名門ブルジョワ社会が“語ることを許されない真実”を巧みに封じ込めたのかもしれません。

レミ氏の暗殺は、彼の邸宅があったペピニエール通りにちなんで「ペピニエール事件」と呼ばれました。1966年には、『レミ氏の死の秘密』という題名で映像作品化もされています。

<名門家族との確執とモネの視点>
この「レミ事件」(当時は邸宅の所在する通りにちなみ「ペピニエール事件」と呼ばれました)は、モネがアリスと再婚することで関わることとなった大ブルジョワ階級の意外な一面をあぶり出したといえるでしょう。

かつてこの一族は、モネを場違いな存在と見なしており、アリスとの結婚は彼の「社会的昇進」だと捉えていました。しかし、モネの成功がいかなる縁故によるものでもなく、彼自身の才能と粘り強い努力の賜物であることは、これまでのさまざまなエピソードからも明らかです。

こうしたアリスの実家との関係を振り返ってみると、モネが画商やコレクターとの交渉においてしばしば見せた、金の亡者のような執念や攻撃性も、また違った光のもとで理解できるように思えてきます。

アリスが生きた二つの結婚生活 ─ 実家レンゴ家との関係

<支配的な女帝? : アリスの「格上婚」とオシュデ家の不安>
本シリーズ第10回「ワルツの指揮者は女帝アリス?」では、オシュデ氏の母親が、息子の結婚前から「アリスの支配的な性格」に不安を抱いていた可能性に触れました。これは、両家がともにブルジョワ階級に属していたとはいえ、その立場に少なからぬ格差があったことを踏まえた懸念だったと考えられます。

これまでの経緯をたどると、オシュデ氏はアリスの家柄に見合う生活水準を保つため、かなり無理をしていたのではないか ── そんな印象が色濃く残ります。たとえば、モネがアリスと親しくなったシャトー・ロッテンブールは、アリスが父から相続した遺産でした。

モネは、アリスが相続したこのシャトー・ロッテンブールの大広間の装飾画を、オシュデ氏から依頼されて制作しました。この長期滞在を通じて、アリスと親密な関係になったとされています。

<シャトー・ロッテンブールと「ズレた贅沢」>
このシャトーを階級に見合うように装飾しようとしたオシュデ氏は、当時はまだ評価の定まらなかった印象派の画家たちに装飾を依頼します。その姿勢には、時代の最先端を行く美意識が感じられる一方で、誰もが価値を認めている芸術家の作品で飾るといった当時の一般的なブルジョワ的価値観とはややズレており、今となってはどこか微笑ましさすら漂います。もっとも、その結末は悲劇的なものとなってしまいますが……。

<モネとオシュデ氏 : 支援から背信へ>
そんな中に現れたのが、若き日のモネでした。画家として経済的に困窮していた初期のモネを支援したのは、他ならぬオシュデ氏でした。けれど皮肉にもモネは、その妻と子供たちとともに暮らすようになり、苦しい生活のなかでも、画家としての道を貫いていきます。少なくとも1880年代初頭までは、モネはたびたびカイユボットやマネといった裕福な画家仲間、あるいは画商ポール・デュラン=リュエルや収集家たちからの借金に頼っていました。サロンでは受け入れられず、展覧会では嘲笑され、モネはブルジョワ階級からの冷遇や蔑視を何度も味わってきたに違いありません。

<ブルジョワ社会からの蔑視と画家の反骨>
そんな苦い経験を幾度となく重ねた末、ようやく自分の作品がブルジョワ層にも認められるようになったとしたら ── どうでしょう。誰だって「高値で売って見返してやりたい」と思うのではないでしょうか。ずっと支えてくれたアリスのためにも。そう考えると、印象派が次第に評価されるなかで、売買交渉において強気の姿勢を貫き、安売りを拒むようになったモネの態度も、むしろ自然なものに思えてきます。大ブルジョワたちと対等に渡り合うためには、まず自分自身(そして作品)を高く評価することが必要だ ── モネは、ある時からそう確信するようになったのかもしれません。

<アリスが背負った二重の屈辱>
アリスの立場から見てみましょう。彼女はオシュデ氏の破産によって社会的に転落するという、耐え難い屈辱を味わいました。もしかすると、実家から「一家の恥」として見なされていた可能性も否定できません。そして、結婚に「失敗」したうえ、夫がいるにもかかわらず、モネのような「信用ならないボヘミアンの画家」と暮らし始めたのですから、世間のみならず、レンゴ家からも相当な圧力を受けていたのではないでしょうか?

ジョン・シンガー・サージェント《森のはずれで絵を描くクロード・モネ》(1885年、テート・ブリテン)。
上流社交界の肖像で知られるアメリカ人画家サージェントは、ジヴェルニーを訪れ、制作中のモネと、その傍らで静かに見守るアリスの姿を描きました。

<モネの強さと証明欲 : 成功とその代償>
それでも彼女は、モネの息子たちを含む8人もの子どもを育て、芸術に理解を示し、画家として家を空けがちなモネを支え続けました。そんなアリスに対して、モネは「自分が彼女にふさわしいだけの生活を与えられる存在である」と証明したかったのではないでしょうか。それが彼に、「財を成し、社会的尊敬を勝ち取る」という強い意志を抱かせた ── そう捉えることもできるはずです。

<格差のしっぺ返し : 最後に訪れた不条理>
皮肉なことに、モネがようやくそれらをすべて達成した頃、モネ家には次々と不幸が襲いかかります。その中でも最大の悲しみは、アリスの死でした。そして、彼女の死に際してすら、モネはブルジョワ社会における「格差」の現実を、改めて突きつけられることになるのです。

画家としての成功と引き換えに ― 家長モネが直面した試練

<再び訪れた喪失 : シュザンヌの死とアリスの崩壊>
1879年に妻カミーユを亡くして以降、「家族の死」は(アリスを通じて関わった1891年のオシュデ氏の死を除けば)、モネにとってしばらく縁遠いものでした。
しかし、20世紀を目前にした1899年2月、まだ寒さの厳しいある日、その静けさは突如として破られます。モネにとって特別な存在であり、《日傘をさす女》のリメイク版でもモデルを務めた義理の娘シュザンヌが、亡くなったのです。印象派の仲間、アルフレッド・シスレーの葬儀から、わずか5日後のことでした。

クロード・モネ《船遊び》(1887年、国立西洋美術館) 。
本作に描かれている2人の女性のモデルは、アリスの娘たち――左がシュザンヌ、右がブランシュです。のちに画家となったブランシュは、アリス亡き後のモネを献身的に支えることになります。

この出来事はアリスに深い衝撃を与え、精神的に著しく荒廃し、深刻な抑うつ状態に陥ります。モネは彼女の気晴らしのために旅行に連れ出したり、車で遠出をしたりとあらゆる手を尽くしますが、それもむなしく、やがてアリスは骨髄性白血病を患い、闘病の末、1911年5月19日、帰らぬ人となりました。

<アリスの死と、埋もれた“格差”の痕跡>
大量に送られた訃報状には、モネ家からはクロードとその息子2人の名しか記されていなかった一方で、アリスの実家である名門レンゴ家の欄には、長々と多くの親族の名前が連ねられていたといいます。
葬儀は5月22日、ジヴェルニーの教会で執り行われ、アリスの遺体は、かつての夫エルネスト・オシュデ氏、そして娘シュザンヌが眠る墓所に埋葬されました。

参列者の中には、パリからはるばる駆けつけた「ほとんど盲目の」巨匠エドガー・ドガの姿もありました。彼の存在は、かつての画家仲間を代表する象徴的なものであり、アリスへの深い同情の表れでもありました。

1915年にアルベール・バルトロメが撮影した、エドガー・ドガのポートレートを配した「レ・ザール」誌の表紙。この特集号は、ドガが亡くなった翌年の1918年に発行されました。

<重ねられる喪失 : 長男ジャンの死>
アリスの病状が進行していた頃から、モネの友人たちは彼が受けるであろう「恐るべき打撃」を案じていました。実際、モネはこの時期、絵筆を遠ざけており、多くの人々が「もう彼は描かないのではないか」と思っていたのです。

けれどもモネの試練は、ここで終わりません。1914年初頭、自身が重いインフルエンザにかかり、ようやく快方に向かいはじめた矢先、今度は実の息子、長男ジャン・モネの死に直面することになります。ジャンは長年、治療法のない病を抱えており、父のアトリエを訪れた際に倒れ、そのまま2月9日の夜9時、息を引き取りました。

しかし、モネのこのときの悲しみは、アリスの死に対するそれには及ばなかったといいます。むしろ、息子がようやく苦しみから解放されたことに、どこか安堵すら感じていたのかもしれません。あまりにも多くの別れを経験してきたモネは、すでに「悲しみ」に慣れてしまっていたのかもしれません。

クロード・モネ《ゆりかごの中のジャン・モネ》(1867年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)。
ジャン・モネが生まれた当時、モネとカミーユはまだ正式に結婚していませんでした。 本作は、ジャンが生後およそ4カ月の頃に描かれたとされ、赤ん坊を見守る女性は、カミーユ・ピサロのパートナーであったジュリー・ヴェレイと考えられています。 ジャンはその後、治療法のない病を患い、長い闘病生活の末、46歳で亡くなります。

<それでも絵筆を取った : 《睡蓮》の奇跡>
そんな老境のモネが、同じ年、まるで天啓に導かれるように、《睡蓮》の大装飾画に着手します ── にわかには信じがたい話かもしれません。
けれども事実、わずか数年のうちに3人の家族を喪ったにもかかわらず、モネはその直後から猛烈な勢いで制作に取り組み始めました。このプロジェクトが、後に12年にも及ぶ大仕事になるとは、モネ自身も予期していなかったはずです。

<帳簿の沈黙が語る、晩年の変化>
おそらくこの頃のモネにとって、「どの作品がいくらで売れた」「今年の収入はいくらだった」といった金銭的なことは、もはやどうでもよくなっていたのかもしれません。というのも、彼が長年つけていた会計帳簿は、1912年を最後に記録が途絶えているのです。

「会計帳簿? 画家が? 会計士でもあるまいし!」 ── そう思われるかもしれません。
でも実はモネ、画家にしては珍しく、長年きちんと帳簿をつけていたのです。

<次回予告 : 帳簿をひもといて、“巨匠モネ”の財産形成を探る>
というわけで、《睡蓮》の大装飾画に本格的に取り組む前に、次回はこの帳簿を手がかりに、モネがどのようにして“巨匠”にふさわしい財産を築き上げていったのかを、振り返ってみたいと思います。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。



いいなと思ったら応援しよう!

プチゴロ よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!