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ワルツの指揮者は女帝アリス?

📘 このシリーズでは、『五郎さんがえらくこだわってるモネと後妻アリスの関係、👉 深掘りしてみたら… 当時のブルジョワ社会の解像度が格段に上がった!』というテーマを軸に、モネをとりまく人間関係・経済・社会構造を多角的に読み解いています。

🖼️ 第10回の今回は、アリスの人物像に迫ります。モネ家と、その破産したパトロン・オシュデ家の共同生活が始まって以来、両家の家族構成は大きく変貌します。モネの妻カミーユを最期まで看病し、計8人の子育てを担うことになったアリスは、この特異な生活環境にどう適応し、舵を取っていったのでしょうか?



歪みあう夫婦、険悪化するモネと元パトロンの関係

モネの後妻となるオシュデ氏の妻、アリスとはどのような人物だったのでしょうか? それを知る手掛かりとして、オシュデ氏の母親が息子の結婚2カ月前に日記に書き残した興味深い一説があります。

ああ!エルネスト、エルネスト!なんという運命があなたを待ち受けていることでしょう!」「この若い女性には機知と豊かな知性があり、意志の強さも持っているようです。会話は自然で、ただ声が少し大きいと感じました。写真よりも繊細で美しい女性だと思いました。」

クロード・モネ《庭のアリス・オシュデ》(1881年、個人蔵)

オシュデ氏の両親は、息子がアリスと結婚することに反対でした。結婚式に合わせて旅行に出かけ、欠席したことからもその意向がうかがえます。アリスの家系は名門であり、ブルジョワ同士とはいえ「格差婚」であったのは事実です。オシュデ家の方が結婚に消極的だったのは、アリスの支配的な性格に、母親が不安を抱いていたからかもしれません。

強い「指導力」を持つ女性

アリスは、強い意志で物事を動かす女性でした。例えば、夫が多忙で不在がちであることに不満を抱きながらも、自ら相続した郊外のシャトー・ロッテンブールを一家のメインレジデンスとするよう主導しました。また、カミーユ・モネの死に際し、彼女がカトリック教徒として亡くなることを望み、モネ夫妻に宗教婚の承認を受けさせ、終油の秘跡を施しました。モネ自身は宗教に無関心でしたが、アリスの強い意向に従った形でした。

カミーユの死後、モネは主に室内で制作し、未完成の絵を仕上げたり、キャンバスの余白が多すぎて展示を拒否された作品を修正したり、果物や花の静物画を描いていました。3カ月後の12月初旬になっても、地元の芸術愛好家コクレ氏の招待を断るほど、『狩猟の静物画』の制作に没頭していたといいます。その静物画の一つが、この《雉とミヤコドリの静物(別名「雉とタゲリ」)》(1879年、ミネアポリス美術館)です。

夫への厳しさと、現実への適応力

アリスは、夫オシュデ氏に対して非常に厳しく、不満を率直にぶつける性格でもありました。1880年のイースターに、オシュデ氏がモネとの対面を避けるために帰宅しなかった際、彼女は「私たちのどちらが狂っているのかしら……もう二度とあなたが来ることを期待したり、予告したりしないわ!」と強い語調で手紙を書き送っています。

一方で、彼女は非常に我慢強く、家庭を支える努力も惜しみませんでした。病床のカミーユを熱心に看病し、借金取りが頻繁に訪れるほど経済的に逼迫したモネとの田舎暮らしでも、家事をこなし、必要なら薪割りまでしていました。

モネとオシュデ両家が約3年間暮らしたヴェトゥイユの北西端にあるこの家には、当時としては贅沢な水栓トイレが備えられ、庭には食卓を支えるウサギ小屋や鶏小屋、さらに果樹園もありました。モネはこの庭の風景をテーマに、《ヴェトゥイユのモネの庭》(1881年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)を含む、ほぼ同じ構図の4作品を描いています。

ポワシーへの移住 — モネとの関係を正当化する策略

1881年、モネはヴェトゥイユの家賃を滞納し続け、契約終了に伴い新たな住まいを探す必要に迫られました。一方で、これを好機とみたオシュデ氏は、妻アリスに復縁を迫っていました。しかしアリスは、自らを「家族を養えない夫の犠牲者」と位置づけ、モネについていく正当性を作り上げていきます

彼女は夫に対し、「私は10月にパリへ戻ると決めています。あなたが見つけた家を借りて、引っ越しの準備をしてください。」と復縁を示唆しつつ、実現が困難な要求を突きつけました。さらに、「あなたの不在が長くなったのは誰のせい?」と問いかけ、夫に罪悪感を抱かせる戦略を取りました。

モネとオシュデ氏の関係悪化

この頃、モネとオシュデ氏の関係は完全に険悪になっていました。例えば、1881年4月18日の長女マルトの17歳の誕生日に、オシュデ氏はヴェトゥイユを訪れませんでした。彼女は父親の不在を悲しみながらも、アリスとモネの関係にも疑念を抱き始めていました。彼女は弟や妹たちのようにモネを「パパ・モネ」と呼ぶことを拒んでいました

同年8月28日、長男ジャック・オシュデの聖体拝領式の際には、今度はモネの方がオシュデ氏の訪問を避け、ノルマンディーへ旅立ちました。こうして、二人の男性はお互いを避け合いながら、アリスの意向に振り回される状況に陥っていきます。

1881年8月末、オシュデ氏を避けるようにヴェトゥイユを去ったモネは、ノルマンディー海岸へ向かい、幼少期を過ごしたトゥルーヴィルとサント=アドレスを訪れました。その際に描かれた作品の一つが、この《トゥルーヴィルの海岸にて》(1881年、ボストン美術館)です。

アリスの決断 — モネとの生活の確立

アリスは、1881年11月18日にモネの次男ミシェルに洗礼を受けさせることで、彼の宗教教育を確実なものにし、モネに影響を及ぼす存在となっていきます。その後、オシュデ氏に対して借金返済を迫ることで、夫婦関係の修復を阻む一方で、モネとの生活を常態化させていきました。

こうして1881年12月中旬、アリスは子供たちを連れてヴェトゥイユを離れ、モネと共にポワシーへと移り住みます。そこはパリから西へ約20キロの小さな町でした。モネの長男ジャンとオシュデ家の長男ジャックは村の学校へ、娘たちは寄宿制の宗教学校へと通いました。

この移住によって、アリスは正式に離婚することなく、モネとその息子たちを育てる「道義」を作り上げ、モネとの生活を確立することに成功したのです。

モネとアリスの関係が両家の子供たちにどのような影響を及ぼしていたのかは興味深いところですが、オシュデ家の長女を除けば、モネを慕っていた可能性は高いと考えられます。モネの長男ジャン・モネ(左、1878〜79年、マルモッタン・モネ美術館)は、後にオシュデ家の次女ブランシュ・オシュデ(右、1880年、ルーアン美術館)と結婚しました。


次回は、1880年代から好転していくモネのキャリアと、印象派の支持者から離れていくオシュデ氏の軌跡をたどります。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


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