優れた人心掌握術で、二人の「夫」を天秤にかけ続けた「妻」
📘 このシリーズでは、『五郎さんがえらくこだわってるモネと後妻アリスの関係、👉 深掘りしてみたら… 当時のブルジョワ社会の解像度が格段に上がった!』というテーマを軸に、モネをとりまく人間関係・経済・社会構造を多角的に読み解いています。
🖼️ 第12回の今回は、アリス! 印象派という名前の由来にもなったモネの《印象、日の出》の最初のオーナー・オシュデ氏の妻でありながら、モネと暮らした彼女が、この複雑な状況の舵取りをどうしていたのかに迫ります!
優れた人心掌握術で、二人の「夫」を天秤にかけ続けた「妻」
1880年代、モネの画家としてのキャリアが好転し始めた一方で、かつて彼を支えたパトロンであったオシュデ氏は、印象派の世界から遠ざかり、ゆっくりと没落の道をたどっていました。その二人の間で、法的にはオシュデ氏の妻でありながら、実際にはモネと暮らすという微妙な立場にあったアリスは、夫とモネそれぞれに飴と鞭を使い分ける「天秤外交」を展開しながら、自身と子どもたちの生活をなんとか維持しようとしていました。
アリスがどのようにモネを惹きつけ続け、子供たちにとって円満な家庭を築き、妻としてブルジョワ社会が求める最低限の義務を果たしたのか、興味深いところです。
アリスへの依存度を高めるモネ、モネに忠誠心を植え付けるアリス
1881年冬、アリスは子供たちとともにモネに同行する形でポワシーに引越しました。しかし、道徳的な葛藤もあったのか、居心地は悪く、子供たちも病気がちでした。モネもポワシーでの制作を好まず、各地を旅行しながら制作することが増え、家を空けることが多くなります。その度にモネはアリス宛に毎日のように手紙を書くのですが、その文面からアリスの存在が彼の感情面だけでなく、芸術的な面でも次第に重要性を増していることが窺えます。

モネの手紙は依然として「親愛なるマダム」と格式張った書き出しで始まり、敬称を用い続けていました。しかし、その内容は従来のブルジョワ的な礼儀の範疇を超え、いくつかの愛の告白すら含まれるようになります。
これはモネのアリスに対する感情の高まりとも取れますが、アリス自身が愛情の確認を必要としていたとも考えられます。実際、アリスがモネの不在に不満をぶつけ、愛情表現の不足を責める手紙を送っていたことが、モネの返信から推察されます。彼の手紙には、アリスの機嫌を伺う表現が多く見られます。
例えば、モネはアリスからの手紙に「意地悪な皮肉」が書かれていたにもかかわらず、「前よりご機嫌が良いようで良かった」と安堵する様子を見せたり、「手紙が短くても気を悪くしないでください」と予防線を張ったりしています。また、「昨日は8点の習作に取り掛かった」と、一日一日を無駄にせず働いていることを繰り返し伝え、帰宅が遅れることを弁明するなど、明らかにモネのほうがアリスに気を遣っていたことが伝わります。
未遂に終わったオシュデ氏の復縁劇で試されたモネのアリスへの献身
アリスへのモネの「気遣い」は、単なる腫れ物に触るようなものではなく、むしろアリスが自分から離れてしまうことへの恐怖に裏付けられていました。一緒に暮らす時間が長くなるにつれ、モネはアリスなしでは生きられないと感じ始めていたのです。
それをよく示す「事件」が、1883年2月に起こります。オシュデ氏が突然、「妻と子供を取り戻したい」と言い出したのです。

当初、モネはアリスとオシュデ氏の再会を促す立場をとっていました。しかし、それはあくまで表向きの姿勢に過ぎず、内心では5年間共に暮らしたアリスを失うかもしれないという恐怖に苛まれていました。そして2月18日、旅先でオシュデ氏がポワシーにいると知ったモネは、激しい不安に襲われ、筆を執ることさえできなくなります。
モネが様子を探るために送った電報に対し、アリスは「私はあなたなしで生きることを学ばねばならないの?」というわずか四行の返信を寄こしました。モネはこれを読んで涙したそうです。それだけ気持ちが張り詰めていたのでしょう。
この影響で、モネは2月19日のアリスの39歳の誕生日をすっかり忘れてしまい、平謝りする羽目になりました。しかし、アリスはモネの愛と献身の言葉を確かめることができ、安心したことでしょう。
というのも、アリスはしばしば「別れる」と脅す手紙を送りつけ、モネを困らせつつもお金を無心していたからです。モネはそのたびにデュラン=リュエルに頼み込んで資金を工面してもらっていました。
たくさんの子供を抱える母の知恵か、あるいは生き抜くための戦略か──いずれにせよ、アリスは人心掌握術に長けていました。
夫の最期だけは「立派な妻」として振る舞ったアリス
破産後のオシュデ氏は、経済的に回復することはなく、やがて重度の痛風を患います。大食漢で酒豪として知られた彼のことです。度重なる社交場での飲食や単身生活ゆえの不摂生が祟ったのでしょう。

1889年末から何度かガシェ医師の治療を受けていましたが、1890年11月以降は病状が悪化し続け、ついに彼はパリのラフィット通りの部屋に移送され、寝たきりとなります。
この部屋で、アリスは、義務感からか、後悔からか、それとも世間体ゆえか、何かに突き動かされたように6日間6晩「一瞬の休みもなく」夫を看病します。そしてかつて彼女がモネの妻カミーユを看取ったときと同じように、臨終のエルネストに最後の秘跡を受け入れさせたのです。

こうしてオシュデ氏は1891年3月19日、53歳で息を引き取りました。
葬儀はモネの負担で行われましたが、通知にはモネの名前はなく、アリスの実家であるレンゴ家の名が記されていました。アリスは最後までブルジョワ階級の敬虔なカトリック教徒、そしてオシュデ氏の正妻として世間体を保ったのです。

奇しくも、オシュデ氏はモネが生まれたラフィット通りで最期を迎えました。そして、モネが半世紀前に洗礼を受けたこのノートル=ダム・ド・ロレット教会で葬儀が執り行われました。
こうしてカミーユが亡くなり、オシュデ氏も逝去した後、モネとアリスは1892年、正式に結婚することになります。
では、モネのカミーユへの懺悔の気持ちは残っていたのでしょうか? 次回は、五郎さんが「モネ『日傘をさす女』──消えた少年」の回で、モネのカミーユへの懺悔の気持ち、往生への願いが込められているのでは?と示唆されていた《日傘をさす女》の作品群について深掘りしていきます。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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